Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

拍手喝采する意義

2023-11-22 | 文化一般
川崎での関東圏初の表プログラムAが演奏された。SNSでの反響からベルリンの初日から七回目のブラームスが漸くものになってきた印象を得た。特に二楽章に数人の人たちが言及している。これはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーツアー演奏会で起こる進化で、一番最後に交響曲の一楽章が完成する。東京のサントリーホールで更に二回演奏して、再演は復活祭となる。

東京の聴衆であるから、傷とか揃う揃わないとかの視点が出て来て、そして流石にマーネージメントのあり方として、合意の下での演奏と指揮者の関係とかどちらも殆ど音楽とは関係ないことが呟かれる。

それでもブラームスの第二主題に期待したところでそれよりも「遥かに想定を超えた音」が聴こえたとか、「完全に放出しきらずに統制された二楽章が絶美」だとか、異なる人からその演奏を髣髴させる様な指摘があった。これらが何よりも喜ばしい。いい聴衆の集う音楽会場でこうした言葉をそこいらで耳にする時はとても上手くいっている。

まさしくそれは楽譜が正しく音楽として演奏された証明であるからだ。こうした音楽は皆が共通して聴いていて、誰にとっても素晴らしいのである。勿論作曲家はそれを書き留めたつもりである。そして演奏家も上手く行った自信がある。こういうことを伝えるためになら楽屋を訪ねてもいいのである ― CDの半券などはなんの足しになろう。

そしてペトレンコ指揮でこうした曲が演奏を重ねて完成を迎える時にはそうした順序を踏まえていく。そうした工程ではベルリンの定期で三夜続けて演奏される時よりも遥かに量子的な跳躍を聴かせる。ベルリンの定期会員ではなかなか経験できない名演となる。因みにオペラにおいても一幕は最後となる。効率がよく、成功に導きやすいからである。

それもこれも最終的には管弦楽のバランスによって為されるもので、舞台の奥などでは真面な響きは得られない。音楽はそこでは判断できない。齧り付きで舞台の上が見えなくても音楽が分かるのは余程音響が優れているか総譜を暗譜しているぐらいでないと難しい。もはや職人的な分野である。

また日本で一番の交響楽団の人気奏者が聴きに来ていて、「(自分達も)頑張っているなと思う所」という呟きをしていて、はたと思った。恐らく揃う揃わないとかアマテユアー音楽家の様なことを指しているのだろう。一体和声がどの様な音の運びになっているのか、それがどのようなリズム構造の中で運ばれているのだろうかとか音楽的なことには一切関心がないのだろうか?その楽団の程度が知れよう。

同様な指摘は前日の演奏会からレーガーの中々揃え難い各システムで繰り返されるフーガの入りの不揃いと共に「合わせるために音楽性を犠牲にするのもよくない」との指摘があって、上の疑問の回答ともなっている。

上記したような音その音楽こそが聴衆の求めるべきでものであって、こうしたことこそを音楽ジャーナリズムは話題にしていかないと聴衆は育たないのである。当然のことながら真面な聴衆がいなければ、演奏家も育たない。我々がブー出しする以上にいいものをいいと差異を明白にして拍手喝采する意義はそこにある。



参照:
歴史の波に沈む島国 2023-11-21 | 文化一般
パロディーの様なもの 2023-11-19 | 文化一般
コメント (2)
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