(承前)バーデンバーデンでのラフマニノフ祭は復活祭に続いて評価されるかもしれない。理由は生誕百五十年の作曲家と最も関係の深いフィラデルフィア管弦楽団で少なくとも三つの交響曲と、そこで1927年に初演された最後のピアノ協奏曲、そして1934年の「パガニーニの主題によるラプソディ」など四曲などが三日間で演奏された意義は大きい。
1936年の交響曲三番や1941年初演の交響的舞曲やオーマンディ指揮の楽曲は特に後者はコロナ中止前にフランクフルトでベルリナーフィルハーモニカー演奏で聴いていたのでその必要もなかった。
ストコフスキー指揮で初演されたそのフィラデルフィアサウンドは一貫して想像することも可能で、特にアンサムブルの在り方はラフマニノフの創作に影響を与えていることも、その木管陣の扱いからなどに見て取ることが出来る。
交響曲一番やエルベの畔で創作された1907年に交響曲二番においては必ずしもではないのだが、それでも木管と弦との合わせ方や音色の出し方は、まさしく当時求められていた作曲であったのだろう。1909年に初の合衆国演奏旅行でニューヨークで指揮したマーラーとの共演に相応しく、そこで第三協奏曲を初演している。
今回ピアニストのトリフォノフによって最も好きな曲として演奏された第四協奏曲は、その意味から弦よりも金管へとよりその比重も移されていて、七年後の「ラプソディ」にてその管楽の扱いがより明白になっている。
初日での第四協奏曲においては指揮の力量もあって、管弦楽がピアノに影のように寄り添ってということにはならずに、音量的にもマスキングされる部分も多く残念であった。指揮で要求されなければ大管弦楽団がそのような絶妙のダイナミックスを取り得る訳もなく仕方なかったのだが、その配慮は二日目の「ラプソディ」でもあまり変わらなかった。しかし個人的に最も音楽的にも相違があったのは下手側の鍵盤が見える所に陣取ったお陰だった。
ピアノのリサイタル等で必ずしも音響の優れない下手側が売れて最後に上手側の客席側が余る。その効用については全く合点がいかなかったのだが、聴覚的に聴き取り難い音でも鍵盤を走る指の動きの視覚的な助けを得て聴こえるというのを今回初めて認識した。
抑々ピアノ協奏曲を聴いた経験はそれ程多くはなく、古くはカラヤン指揮ヴァイセンベルクとか記憶に残るものはとても限られている。それゆえにか今回の様に被ってくる経験もそれほど多くはなかった。お目当てのトリフォノフのピアノを聴きに行くことからすれば心外なのであるが、「ラプソディ」では用が足りた面もあった。
勿論初日のアンコールの「ヴォカリーゼ」は二日目の管弦楽演奏とは比較に為らない色彩の多様さをタクトごとのタッチの変化で見事に描き切っていた。二日目のラフマニノフ編曲「パルティータのガヴォット」とジャズ風曲はそこ迄の妙味はなかったのだが、本プログラムの「ラプソディ」はこれだけのものは今後聴けないであろう。年末年始の中継録画放送が楽しみである。(続く)
Rachmaninoff: Vocalise, Op. 34, No. 14 (Arr. Trifonov for Piano) (Long Version)
参照:
付け合わせザウワーボーネン 2023-10-26 | 料理
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音
1936年の交響曲三番や1941年初演の交響的舞曲やオーマンディ指揮の楽曲は特に後者はコロナ中止前にフランクフルトでベルリナーフィルハーモニカー演奏で聴いていたのでその必要もなかった。
ストコフスキー指揮で初演されたそのフィラデルフィアサウンドは一貫して想像することも可能で、特にアンサムブルの在り方はラフマニノフの創作に影響を与えていることも、その木管陣の扱いからなどに見て取ることが出来る。
交響曲一番やエルベの畔で創作された1907年に交響曲二番においては必ずしもではないのだが、それでも木管と弦との合わせ方や音色の出し方は、まさしく当時求められていた作曲であったのだろう。1909年に初の合衆国演奏旅行でニューヨークで指揮したマーラーとの共演に相応しく、そこで第三協奏曲を初演している。
今回ピアニストのトリフォノフによって最も好きな曲として演奏された第四協奏曲は、その意味から弦よりも金管へとよりその比重も移されていて、七年後の「ラプソディ」にてその管楽の扱いがより明白になっている。
初日での第四協奏曲においては指揮の力量もあって、管弦楽がピアノに影のように寄り添ってということにはならずに、音量的にもマスキングされる部分も多く残念であった。指揮で要求されなければ大管弦楽団がそのような絶妙のダイナミックスを取り得る訳もなく仕方なかったのだが、その配慮は二日目の「ラプソディ」でもあまり変わらなかった。しかし個人的に最も音楽的にも相違があったのは下手側の鍵盤が見える所に陣取ったお陰だった。
ピアノのリサイタル等で必ずしも音響の優れない下手側が売れて最後に上手側の客席側が余る。その効用については全く合点がいかなかったのだが、聴覚的に聴き取り難い音でも鍵盤を走る指の動きの視覚的な助けを得て聴こえるというのを今回初めて認識した。
抑々ピアノ協奏曲を聴いた経験はそれ程多くはなく、古くはカラヤン指揮ヴァイセンベルクとか記憶に残るものはとても限られている。それゆえにか今回の様に被ってくる経験もそれほど多くはなかった。お目当てのトリフォノフのピアノを聴きに行くことからすれば心外なのであるが、「ラプソディ」では用が足りた面もあった。
勿論初日のアンコールの「ヴォカリーゼ」は二日目の管弦楽演奏とは比較に為らない色彩の多様さをタクトごとのタッチの変化で見事に描き切っていた。二日目のラフマニノフ編曲「パルティータのガヴォット」とジャズ風曲はそこ迄の妙味はなかったのだが、本プログラムの「ラプソディ」はこれだけのものは今後聴けないであろう。年末年始の中継録画放送が楽しみである。(続く)
Rachmaninoff: Vocalise, Op. 34, No. 14 (Arr. Trifonov for Piano) (Long Version)
参照:
付け合わせザウワーボーネン 2023-10-26 | 料理
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音