明日火曜日からベルリナーフィルハーモニカー日本公演が始まるらしい。先ずは高松で表プログラムのブラームスらしいが、木曜日の裏プログラムの名古屋公演に向けても、纏めておきたい。夏のツアープログラムとしてルツェルンで聴いたのだが、先週フランクフルトでの壮行演奏会があったので敢えて言及せずにいた。
特に前半のレーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」はこの作者の演奏史としても重要で、20世紀前半の音楽の重要なマイルストーンであったことを示した演奏会だったことは既に言及した。
そして後半の「英雄の生涯」に関しては創意からすればとても喰い合わせの悪い、つまりレーガー自身が明らかに嫌悪している世紀末の音楽とのカップリングとなっている。そうした二極化によって描かれるものは。これだけで画期的なのだが、それに表のプログラムがまた非対称となっている。
やはりどうしてもカラヤン指揮の日本公演のプログラミングと比較してしまう。先ずプログラムを二種に限定して、そこでの集中化と、日本ツアー中での進化が想定されている。だからと言ってなにも初日よりも最終日が遥かに優れている訳ではないが、変化が予期されているのは楽団側からも「英雄の生涯」の演奏が毎回進化しているとコメントがあったばかりであるので分かるだろう。
勿論毎回が超名演になるなんて言うこともあり得ないが、必ずそれだけに遥かに水準から高いところで光るところがあるのはペトレンコ体制で始めから聴いてきた証言である ― それはラトル体制の最後には酷い演奏が為されていたのとは大きく異なる。
今回の公演では、裏プログラムの二曲は完全に完成された演奏となって、今後とも日本だけではなく演奏史上で越えることがないものとなるだろう。表プログラムは、少なくともブラームス交響曲四番においては来年の復活祭で再演されるのでそこ迄は進化し続ける。ベルク作品に関しては、今後のシェ―ンベルクの作品演奏でも活かされることになる。ペトレンコ指揮のプログラミングは、必ずしも聴者を教育するだけのものではなくて、楽員を含めての教育プランの中に位置づけられている。
ここまで事象を挙げれば、最初に日本公演の日程が発表された時に、その東京公演の数からツィクルスと称して名曲連続演奏会を予想していた日本の音楽愛好家は既に感覚が半世紀以上遅れている。実際上のレパートリー熟成の企画面からもツアーでそのような演奏会を為せるのは十年以上も常任指揮者として君臨しているとか、または制作の為にメディア産業が十分に練習時間を支払うしか儘ならず、そのような経済構造への期待も前世紀の遺物でしかない。
文化芸術は、その創造面において、実社会や世界を洞察して将来を観て先行するものでなければ少なくともオピニオンリーダーとも為らないので、そうした企画をする者がいれば間抜けでしかない。そのような人物や団体はたとえそれが演奏家でしかなかったとしても相手に出来ないのである。個人的にも馬鹿とは付き合ってはいられないというのはそこである。
参照:
暗い井戸の中をじっと覗く 2023-11-03 | マスメディア批評
透明なモーゼルワインを 2023-11-09 | 文化一般
特に前半のレーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」はこの作者の演奏史としても重要で、20世紀前半の音楽の重要なマイルストーンであったことを示した演奏会だったことは既に言及した。
そして後半の「英雄の生涯」に関しては創意からすればとても喰い合わせの悪い、つまりレーガー自身が明らかに嫌悪している世紀末の音楽とのカップリングとなっている。そうした二極化によって描かれるものは。これだけで画期的なのだが、それに表のプログラムがまた非対称となっている。
やはりどうしてもカラヤン指揮の日本公演のプログラミングと比較してしまう。先ずプログラムを二種に限定して、そこでの集中化と、日本ツアー中での進化が想定されている。だからと言ってなにも初日よりも最終日が遥かに優れている訳ではないが、変化が予期されているのは楽団側からも「英雄の生涯」の演奏が毎回進化しているとコメントがあったばかりであるので分かるだろう。
勿論毎回が超名演になるなんて言うこともあり得ないが、必ずそれだけに遥かに水準から高いところで光るところがあるのはペトレンコ体制で始めから聴いてきた証言である ― それはラトル体制の最後には酷い演奏が為されていたのとは大きく異なる。
今回の公演では、裏プログラムの二曲は完全に完成された演奏となって、今後とも日本だけではなく演奏史上で越えることがないものとなるだろう。表プログラムは、少なくともブラームス交響曲四番においては来年の復活祭で再演されるのでそこ迄は進化し続ける。ベルク作品に関しては、今後のシェ―ンベルクの作品演奏でも活かされることになる。ペトレンコ指揮のプログラミングは、必ずしも聴者を教育するだけのものではなくて、楽員を含めての教育プランの中に位置づけられている。
ここまで事象を挙げれば、最初に日本公演の日程が発表された時に、その東京公演の数からツィクルスと称して名曲連続演奏会を予想していた日本の音楽愛好家は既に感覚が半世紀以上遅れている。実際上のレパートリー熟成の企画面からもツアーでそのような演奏会を為せるのは十年以上も常任指揮者として君臨しているとか、または制作の為にメディア産業が十分に練習時間を支払うしか儘ならず、そのような経済構造への期待も前世紀の遺物でしかない。
文化芸術は、その創造面において、実社会や世界を洞察して将来を観て先行するものでなければ少なくともオピニオンリーダーとも為らないので、そうした企画をする者がいれば間抜けでしかない。そのような人物や団体はたとえそれが演奏家でしかなかったとしても相手に出来ないのである。個人的にも馬鹿とは付き合ってはいられないというのはそこである。
参照:
暗い井戸の中をじっと覗く 2023-11-03 | マスメディア批評
透明なモーゼルワインを 2023-11-09 | 文化一般