Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

旧大陸での人権の保障

2007-02-13 | マスメディア批評
前記事のコメントで「日刊ゲンダイにFAZ発の情報として、北朝鮮製の偽ドル札はCIAの自作自演か」と掲載されているがと、質問を受けた。依拠は正しくは、FAZ日曜版の一月八日付けの記事である。だから、平日版とは異なるので読んでいない。英語の記事として引用され、ネットにも紹介されている。

本文は、偽札特集としてネットにも載っており上記リンクで読む事が出来る。主な内容は紹介記事の通りで、偽札Gメンの推測として、CIA陰謀説が存在する。イラク戦争でのでっち上げや作戦上CIAが潜入国の偽札を製造している実態からすると、特に疑問に思われない。さらに、スーパー偽ドル札は米国内の検査機を通らないとすると、偽札による大きな混乱は避けられる事になる。

安全な偽札を作る事が出来るのはその政府機関であるには違いないであろう。同時に、この記事では朝鮮内の旧式のヴュルツブルク産の印刷機では手に追えないことから、中国内国境でスーパー偽ドル札が製造されている可能性が強いとしている。

また、東京やソウルで朝鮮からの偽札が最近見つかっていないことから、ブッシュ政権の仕業とする見解が補強されている。

EU内においては、米諜報機関の非合法活動に留まらず、イラク戦争捕虜やテロリストへの事件で発覚したような非人道的扱いは、彼らのアジトが発覚した旧大陸ではそれを許さずとした意見が湧き起こり、ベルリン政府だけでなくEU全体として、米国政府との間の大西洋を別ける大きな政治課題となっている。

つまり、この偽札問題はより大きな政治問題の氷山の一角である。米軍基地内や在外公館の治外法権で関与できない事象にも関心を持つようになって来たのである。人権問題は、日本国内における非核原則のようである。

CIAとブッシュ家の繋がりは周知であるが、その活動が次期政権ではより地下に潜るのであろうか。米国大統領が暗殺される毎に諜報機関の関与が囁かれるが、嘗て一度もその責任が十分に問われることが無かったような気がする。EUが如何に外交ルートからその毅然とした姿勢を示しても、次期ホワイトハウスが組織を掌握出来るか、その活動をコントロール出来るかの内政の問題であると分かっているのである。
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海底に沈むU-864の悲哀

2007-02-12 | マスメディア批評
2007年制作の独第二放送、BBC、ノルウェイ放送局のドキュメンタリーフィルムを垣間見る。2003年にノルウェー海軍によって発見された、キールから日本へと向かった独海軍潜水艦U-864の話である。

原爆開発への重水素の搬送と同様、戦争末期の1944年12月5日に最新式の世界最速の潜水艦は、最新式のジェットエンジンやミサイルなどの部品を日本へと運ぶ作戦名「カエサル」の名の下に日本の研究者を載せて、途中ベルゲンに寄港する。

経験の無い船長による腹擦り事故のために、思いがけない1945年1月5日の上陸となった機関士の一人はプファルツの許婚に、最期の手紙を送る。

改めて希望岬へと向かうが、間も無くディーゼルエンジンの故障によって帰港を余儀なくされる。暗号解読機エニグマを使う英王室海軍は、この動きを逸早く追って、北海のフェディエ島付近で撃沈する。

そして乗組員72名と共に、輸送していた無機水銀が海の底150メートルに眠る事となる。引き上げ調査をすると70トンの水銀の積み荷が発覚して、容器の酸化状態から汚染危険性が高いとして、即刻周辺海域での漁業はノルウェー当局によって禁止された。

引上げ作業は困難として、コンクリートで固めて二つに破壊された潜水艦ごと、シールドしようとしている。

共同制作だけあって、英国海軍の海の仲間としての同情や当時の島の水柱の目撃者、そして八十二歳になる許婚の悲哀を通して描かれる。

結局重水素の輸送も失敗に終わり、Junkers, Walter, BMW, ME262の部品が揃っていても、大日本帝国は一体何が出来たのだろうか?

失われたかけがえの無い人々は、初めから無駄死にであったに違いない。例え、恩給などが支払われていようとも、どうしても美化などは出来ない。
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秘密の無い安全神話

2007-02-11 | 雑感
ドイツ連邦内務大臣ショイブレ博士を筆頭として繰り広げられた、対テロリスト法への憲法判断の結果が出た。

ネットにおける秘密裏の捜査は、法的調査の根拠を満たさないと、カールスルーへの連邦裁判所は憲法判断を下した。つまり、コンピューターをネットにて秘密裏に調査するのは、家宅捜査や証拠押収の法的処置に値しないした。

またこれを、厳格な法的根拠を必要とする極秘裏の住居の監視や電話の盗聴などの捜査と比較する。そうした前提条件は、ネット監視には不適合との見解を示した。

特別な事情を考慮した捜査が必要との主張に対して、連邦裁判所は、様々な要因の前提を組み合わせているとして、許容出来ないとした。同時にそのような事情の範囲を定義する事を求めている。

基本的には、行政の暴走を許すような法的根拠を与えないことが大切であるが、同様に個人のプライヴァシーを守る事に重きが置かれるとしてこの判断を歓迎する向きもある。また、共謀罪と言われる様なものに対して、情報を受けてからそれへの自己判断こそが重要とする意見でもある。

これはまさに盗聴・密告社会であったドイツ人民共和国や第三帝国におけるゲシュタポなどの暗躍を許さない強い意志が示されるところであろう。

さらに、ネットにおける安全性を一体誰が信じているかと訝る声もあり、増大するアンチヴィールス産業やネットの商業利用を揶揄している。
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遠のくルミーさんの想い出

2007-02-10 | 
昨夏噂した、子供時代に神戸に育った女性が、それから一月程して亡くなっていたのを知った。自宅近くで運転中の車が大型トラックに正面衝突して命を落したらしい。その春には手術をして体調を崩していたと言うので、意識喪失などの原因が考えられるが、事故死である。

8月25日に書きとめた様に、偶然彼女の事を思い出す機会があって、その事を話したいと思っていたのだが、適わぬ想いとなってしまった。数回も顔を合わせていないので親しかった訳でもなく、結局具体的に戦時中の日本滞在については聞く機会は無かった。

もちろん、その父親の任務は別にして、彼女が語っていたように、当時子供でありあまり具体的には覚えていなかったには違いない。享年七十歳を越えていたと言うから、谷崎潤一郎の「細雪」の蒔岡家の隣に住むシュトルツ家の娘ローズマリーの弟フリッツよりぐらいであろうか。

ルミーさんことローズマリーが実在していたら、現在七十歳後半である。その芦屋の隣人であるドイツ人家族は、半年ほどでハンブルクへと帰国する設定となっているが、この家族との子供を通じた交流はこの作品の重要な柱となっている。

特にシュトルツ家を倣ってペットとして兎を飼う部分が良い。その兎の耳を立てようとして、兎の耳を足袋の指で挟んで、その一部始終を子供の作文に書かれる。それを添削する嫁入り前の雪子の姿とその添削理由を聞いてキョトンとする子供のエッコさんこと悦子の逸話は素晴らしい。

阪神大水害の後、1938年9月にシュトルツ家が離日する最期の夜の風景も子供の興奮として大変良く描かれている。ドイツ語交じりの子供の会話などがこれも上手で違和感が無くて感心する。

ドイツ語が幾つか交えられた日本文学は少なく無いだろうが、自然な使い方としては群を抜いているのではないだろうか。ただ、面白いのが子供達が歌う「ドイッチュラント、ユーベル、アルレス」は何の曲だか分からなかった。

そこで、Deutschland übel. allesとして調べてみると、以下のように面白いものがヒットした。

Und wenn ein Japanel eingedeutscht wild, und del dann schleibt: «Deutschland, Deutschland übel alles», dann hat del auch velschissen. ...

つまりRをLと発音する日本人がドイツ人になると「世界に君臨するドイツ」は「ドイツは何もかも酷い」と綴られて、嫌がられると。

良くある例で、これも笑い話のネタに出来そうである。子供達が合唱するその曲は、ドイツ人民共和国でも使われた第三帝国の国歌であった。そして、シュトルツ夫人であるヘルダには、マニラからの礼状として次のように書かせている。

「…如何なる国民も戦争は好みませんから、結局戦争にはならないでせう。チェッコ問題はヒットラーが処理してくれることと、私は確信してをります。」

この作品のドイツ語訳は、「Die Schwestern Makioka」となっており英語訳「The Makioka Sisters」のドイツ語訳なのだろう。何れにせよ、大日本帝国の憲兵に「公論」への連載を中止され、自費出版も禁止されたと言うこの文学は、もう少しドイツで読まれるべきと思われる。現在は絶版の様で甚だ遺憾である。



参照:
川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
八月の雪のカオス [ その他アルコール ] / 2006-08-22
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我が言葉を聞き給え

2007-02-09 | 
「処女マリアのための夕べの祈り」について、何かを書くのは容易ではない。ルネッサンスからバロックへの移行を果たした大作曲家モンテヴェルディを、オペラの歴史のなかでそれを位置付けるよりも難しい。

この曲は1610年、時の法王庁に提出されて、出版後の1613年にヴェニスのサンマルコ寺院音楽長への採用試験で上演された。それからも判るように宗教的とはしながらも、当時の現代的なモードが存分に取り込まれているのは、現在ではビートルズのサウンドがゴスペロに取り込まれているようなものであろうか。

ミサのように聖体拝領を伴わない礼拝である「夕べの祈り」のために、「賛歌」が交唱やレスポンスされる当時のカトリックの式次第がこの楽曲の基本にある。しかしグレゴリア聖歌に源を求めて、またはルネッサンスの多声音楽として、または器楽を通奏低音としてそして装飾としてのバロック盛期への橋渡しの音楽として捉えても片手落ちとなる。

そうした様式の混合から、この大曲を分析的に演奏再現してその真価を聴衆に知らしめようと試みても、その極一部が理解される事になるだけに違いない。

グラーツの教会で録画された指揮者アーノンクールの演奏実践などはその最たるもので、一方では痛く感心するものである。そこでは、楽譜に示されているように交唱が楽曲を挟むようにして取り交わされる。しかし、なぜかその演奏にはあまりに立派過ぎる歌手陣が美声を聞かせ、些か場違いな感じがする。それでも、演奏実践へと臨む見識の確かさと抜群な効果は認めなければいけない。

モンテヴェルディーの解釈は、オペラにおいてもベルギーのカウンターテノール出身の指揮者ルネ・ヤコブスが、現代における評価を上の指揮者と分け合っている。今回、ヤコブス指揮のこの大曲の演奏実践に接して、上記したような作曲の驚くばかりの多様さに圧倒されがちな過ちを認める事が出来た。

それは、やはりこの両者が張り合ったオペラ「ポッペアの戴冠」などでの後者の演奏実践の印象と変わらないかもしれない。特筆すべきは、演奏会場の音響も手伝ってか、言葉が明確に発声されて聞きとれる事で、これはややもするとサンマルコ教会のヴェネチア楽派の二重合唱や掛け合いなどの面白味を追及するばかりにいつも疎かにされて失われているものである。

例えば、やはりお馴染みのエコー効果などは、客席と反対側を向いてヤッホーと手を当てる事でその音響効果を模倣していた。こうした面白味は、モンテヴェルディーにおいては、明らかにパロディー精神に基づいて行われたと思わせる数多の箇所の一つであって、決してこの大家がそれらの技法を正面切って問うという趣とは違うのである。

有名なサンタマリアの合唱は、子供ではなく女性のソプラノにして歌われたが、その楽器や合唱の配置や位置選択の視覚的効果は、そのもの新ヴィーン学派の音色旋律に引き継がれるものであったり、二十世紀の群の概念を活かしたストックハウゼンなどの音楽に引き継がれているそのものなのである。

つまり、ここでは多声音楽の対位法にせよ、器楽の通奏低音技法にせよ、自家薬籠中のものとして、そこから初めて表現へと踏み込んでいるのである。それを、現代の演奏実践の中で、「賛歌」とその変容を薄っすらと聴衆に提示しながら、その妙味を楽しませる方法が採用されるのである。

馴染みのその「賛歌」が活かされている印象は、決してイタリア風の晴れやかで明るい音色ではない今回の演奏から、例えばチロル地方の祝日の漆黒に浮かび上がる墓地の蝋燭の光を思い出させるような思わぬ効果が表れていた。それは、この作曲の文化的背景が決して南国イタリアのそれではないことを想像させるのである。

さらに言及すれば、オーストリアの交響文化へとそれから二百五十年ほど伏流として流れて、ローマンカソリックの音楽文化が体位法の教授で交響曲作家のアントン・ブルックナーに突如として表れたような現象を思い起こさせる。それは決して、その不協和音の強調やぶつかり、装飾進行などの部分に表れるだけでなくして、本質的な表現意志としても表れているのである。こうした観点は、同じくモンテヴェルディーで名を馳せた、なぜかいつも思い違いの激しいケンブリッジの音楽学部出身の英国人指揮者の演奏解釈からは到底得られない。

折りからの雪交じりの水曜日の晩の天候故か、大きく六割を越えた程度の悪い入りであったが、その人数比からするとフランクフルトのアルテオパーの大ホールでこれほどに強い歓声を受ける指揮者は珍しい。ベルリンからの合唱も管弦楽もまたソリストも可も不可も無しのレヴェルであるに拘らず、一身に評価を受けたその解釈が、何を隠そう、この曲の真価を示したと言うことなのであろう。

作曲技巧の粋を尽して、尚且つ現場の流行を取り込み、これほどマニエリスムに距離を置いた楽曲を、その内容である「賛歌」を当時の政治社会における文化芸術とした所に、この作曲の偉大さがある。

エコーの技巧を使って、次のように遊ぶこの作曲家は、まるで安物の芸術を揶揄したような所さえある。

Audi coelum, verba mea,
plana desiderio et perfusa g-a-u-d-i-o, 

Eco: Audio!

天よ、我が言葉を聞き給え
切望と喜びに満ちた。

エコー:聞いておる!

-こうして全員一致で推挙されて、採用試験に合格した。
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権力ある者をその座から

2007-02-08 | 雑感
車のラジオで、ヘッセン第二放送を聞いた。イタリアのセリエAの人身事故を一時間の特集としてプログラムを組んでいた。サポーターの暴動で警官が不幸にも命を落した。それに対して大臣は、「サッカーは産業でありこの犠牲もその一つである」と語った。その激しく響く生の声を、ラジオは再三に渡って流した。

工業先進国の国民は、これを聞いて「真実」とは思いながら、虚を衝かれる思いがするに違いない。社会学者は言う。これはサッカーとは無関係の事件であり、それは社会的な現象であると。つまり、サッカー自体がこうした社会不満の捌け口としてのヴェンチレーター機能を果たしているので、その意味から社会的機能を認める事は出来るが、サッカー興行にはマフィアや政治家の繋がりがあって、それを含めての評価に言及した。

イタリア最古の新聞のベテラン記者は、イタリアにおけるサッカーのサポーターは激しく党派性をもっており、ムッソリーニの残党から極左までが其々の贔屓チームをもって対決しているので、セリエAのサポーターは政治性が高いと言う。

ターゲスツァイトングのイタリア特派員は、「ドイツでもケムニッツのサポーターなどは失業者が主体で、その状況は問題が多いが、サポーターに対してその応援を企画する行政の援助などが成果を挙げていて、実力では負けているがブンデスリーガーの方がセリエAよりも状況は良い」と報告した。

またプリミエリーグは、入場料を上げる事によって失業者をスタジオから〆出して、 健 全 な家族連れへと顧客層をシフトさせ、また三千人に上るフーリガンを旅行禁止として国内に封印したことで成果が出たとしている。

しかし、社会不満のヴェンチレーターとして機能しない、もしくは興奮の無いサッカーの応援などは有り得ないとする意見からすれば、上の大臣の発言は正論である。今後、どのような形で、リーグの試合が再開するか注目されている。

確かに、以前は日本のプロ野球阪神タイガースの試合なども野次がとばされ、物が投げ込まれた無法者の発散の場所となっていたが、お行儀が良く飼いならされたスポーツ興行は結局は人気が落ちて行くのである。商業的な利潤が優先されるとき、社会的な機能が脱落して行くのは当然だからである。つまり、社会的な不満は、それを発散させる重要なヴェンチレーターを失い、弱者へと向けられて、より陰湿で大きな社会問題や不安へと転換して行くのである。

モンテヴェルディーの「処女マリアのための夕べの祈り」をフランクフルトで聞いて来た。作曲家が1613年ヴェニスのサンマルコ寺院の音楽長応募の試験に出した曲である。この曲の終曲「マグニフィカト」は、新約聖書ルカスによる福音1.46-55「マリアの賛歌」によっている。

主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い人を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富めるものを空腹のまま追い返されます。

Fecit potentiam in brachio suo:
Disperisit superbos mente cordis sui.

Deposuit potentes de sade: et exaltavit humiles,
Esurientes implevit bonis:
Et divites dimisit inanes.

これはイデオロギーでもなんでもない。世の摂理なのであろう。
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風邪ひきの時の滋養

2007-02-07 | 料理
ここ十日程、喉から甲状腺の辺りが具合悪かった。暖かいからかと思っていたが、寝汗を掻いていたのは微熱があったからだろう。気温の変化に体が馴染めなかった。喉が腫れて飲み物も通り難くなったので薬を飲んだ。

先の金曜日はクラブの例会があってワイン農共のレストランで食事を摂った。いつもならば最も廉価な腎臓の切り身の焼いたものを楽しむ。しかし、過日隣の者が摂っていた七面鳥の細切り焼きが乗っているサラダとした。あいつは何でも食べるが、今日はどうしたのかと言われながら、それを楽しんだ。

それから三日後に、腎臓を食するとは思っていなかった。それもソラマメ状の丸侭を初めて食した。他の頬などの部分と居並んで煮豚として売っていたのである。一つで86セントであった。

煮汁も無いので結局は、ザウワークラウトの上に載せて暖める。こりこりした食感は焼き腎臓でも同じであるが、切り口がそのまま解剖図のようで驚く。さらに部分的に小水臭い部分があり、あまり味わいたくないと思いながら楽しむが、特別珍味ではないが、食べ難い事もない。しかし、繊細さでは頬の肉の方が優れている。

こうした薄味の淡白な食事は風邪の時に有り難い。
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時間当りの変化量の問題

2007-02-06 | アウトドーア・環境
パリでの地球温暖会議に因んで幾つかの新聞記事を読んだ。環境問題に関心は強いが、地球温暖化問題には実は素朴な疑問を以前からもっている。それをこれらの記事は回答せずして、解いてくれる。

一つ目は、今回の報告書の作成者で気象学者ペーター・レムケが文化欄に書いた物である。そこでは、数字を挙げてのシミュレーションが示されて、ミクロの視点から世界気象の変化を捉えている。お馴染みの学術的報告である。

二つ目は、米国の学者がハリケーンの異常気象を軸として、京都議定書の基本となるような学術的報告書に揺さぶりを掛けて、骨抜きにしようとしているとする観測である。これも既に馴染みのある事象であるが、米国を筆頭とするパシフィック地域の諸国は如何に自由競争力を是として解決策を探ろうが、こうした学術的な撹乱作戦ほど性質の悪いものはない。

そこで三つ目は、マクロな視点を啓いて貰うこととなる。先ず何よりも一万二千年以前の氷河期の終わりから次の氷河期への橋渡しとして考える。つまり、現在の温暖化はその中での経過的一現象である。当然ながら中世から近世への社会経済的変化を齎した小氷河期への考察もここに含まれる。

その当時、現在の多くの主要都市の土壌は厚い氷に覆われて、水平線が七十メートル以上低かった、多くの半島は広く、黄金橋の掛かるサンフランシスコ湾は歩いて渡れ、ベーリング海峡が繋がっていた頃の状況とその後のホモサピエンスの発達へと、気象の大変動の齎すものを考える。

こうした文字通り長期的な展望において、慢性的な温暖化の問題を考察する場合と、我々が直面している短期的な気象変動とは別けて考える合理性を示している。

つまり、急激な温暖化現象は短期的な現実問題として、対処策を即刻履行しなければいけないと京都議案書は語っている。そして、その問題は、そもそも期間的に該当する産業革命以後(それは小氷河期の終焉にも当たる)の「近代」の見直しに違いない。そこでは時間あたりの変化量に注目して、社会が対応出来無い、人為的な急激な環境の変化である「発展」が全ての元凶となっているのである。これは地球全体の量のマクロの問題では無いと理解できる。

嘗て無いほどの急激な変化を近代工業化社会が齎したには相違なく、だから現在の状況が新たな未成熟な環境技術の投入という対処法では防げないのは明白である。要するに、この問題はミクロな気象学的な問題でなくて、実は世界観の問題なのである。それも長期的な展望に立ったそれではなくて、短期的な解決策が要求されているそれなのである。

それ故に、新世界の古色蒼然とした近代イデオロギーが、どのような世界像を目指しているのかを訝る。そのイデオロギーの成果が、南北問題と貧困を解決して、工業先進国の生活の質が上昇するなど、いまや誰も信じていないのではなかろうか?仮に新技術の早急な開発によって目標値に近づけることがあったにせよ、エントロピーの更なる急激な増大は避けられない。

エネルギー排出の多い大都会は、灼熱化してエアーコンディショナー無しでは生活出来なくなり、避暑へと航空機で旅行して、さらなるエネルギーと時間を消費するとき、そしてその生活の一方的に低下する質を吟味するとき、上のイデオロギーには価値が全く無い事を知る。

人生哲学と大げさな事を言う必要は無い、一人一人のライフスタイルの問題なのである。分かっているのは、現在の消費社会の存続は不可能で、それが齎す地球環境の急激な変化の前に崩壊の危機にあることである。
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チェルヴィニアからの光景

2007-02-05 | アウトドーア・環境
昨年のカレンダー「ルネッサンス画集」を壁から外して眺めるうちに視線が釘付けとなる。そこに開かれている名画は、1421年ローレンツォ・モナコの作とされる「博士の謁見」である。このエピファニーに纏わる題材は、数多の巨匠の手に掛かっている。

この度の発見は、その背景に描かれている岩山で、その形状がマッターホルンを南側のチェルビニア(ライヴカム)から望んだものと確信したことである。モナコ自身は、14世紀のフィレンツェ派を代表するベネディクト会の画家であるが、その自然主義に対抗するシエナ派のミスティックなビザンチン風の影響を受けているとされる。

またこの作品には、コシモ・ロッセーリの名が入っていて所有者のウフィツィ美術館のホームペ-ジには、その預言者と告知は15世紀後半に書き加えられたとある。つまり、上部の預言者と天使を指すのであろう。

ロッセーリの画風は詳細に渡りリアリティーに富んでいる事から、上の作品に手を入れるときに、そのロケ地についても知ったに違いない。そして、ロッセーリより一世代若いレオナルド・ダ・ヴィンチは、こうした精緻で科学的な描写を行っている。

さてオリジナルとされる背景は、チェルヴィニアの村から眺めるマッターホルンの南璧やさらに左へと延びる裾野の尾根まで具体的に描かれているが、その上下に雲や岩塊上の構造を誂えて、そこに天使や羊飼いがコラージュ風にはめ込まんでいるのを見ると驚くに値する。さらに岩塊に色違いの神殿を埋め込んだりしているのは、宗教的な象徴ともリアリズムとも異なる画風となっている。ルカスによる福音の第二章「羊飼いと天使」の内容にあたる部分である。

このカレンダーから学んだのは、アルプスを描いたものとして、またその世界観から瞠目すべき作品である。



参照:仰ぐよりも見下ろす視点 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-03-14
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旧メディアのカレンダー

2007-02-04 | 雑感
二年前にカレンダーの安売りについて書留めた。ますます興味ある図案は見つからなくなってしまった。本年はドイツ企業が海外のお得意さんに配るようなレヴェルの物しか手に入らなかった。

絵画は、これまたお馴染みの印象画や現代画も殆ど残っておらず、そうした高価な物は仕入れを控えているようである。天使画集の中版のものを購入したが、嘗て壁を飾った画像と何枚ぐらい重なっているだろうかと思う。それでも一月分マネリスムのロッソ・フィオレンティーノのリュートを掻き毟るや二月分メロッツォ・ダ・フォルリの「ヴィオラを弾く天使」、アレクサンドレ・カバーネルの「ヴィーナスの誕生」以外はそれほど覚えが無い。

もう一つは、良く知らない山の姿をその情報と共に学びたいと言う気持ちで、アルペン協会のものとシュタットラー出版の物が売られていたが、後者を購入した。これも確か昔はバイエル社が使っていたようなカレンダーであるが、二週間捲りになっているので、情報量は多い。

誰もが知る大岩壁も巨峰が主に扱われているわけでは無いからこそ、役に立つ情報なのである。こうした山や谷は、スキー場の近くにあるとかでしか印象に残らず、ここでスキーツアーや登山の推薦コースが示されて、その山容が映し出されてこそ、その山域を習えるのである。

例えば、1月29日から2月11日つまり第五週第六週の掲載分は、オーバーバイエルンのアルプシュピッツェの北壁が載っており、その推薦ルートと共にスキーを担いでの冬の岩稜や氷壁登山をイメージさせる。標高2600メートルであるからスキー場外れの山には違いないが、こうしたところでも遊べる可能性があるのは確かである。

決して調べる事の無い、どこかで役に立つ情報が身近に転がしておくのが良い。新聞の定期購読などが、ネット配信とは異なる情報の源となるように、旧メディアにも新メディアには無い利点がある。
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キャリートレードを牽制

2007-02-03 | 雑感
キャリートレードが嘗て無いほどの規模で行われているらしい。低金利国で資金を準備して、高金利国で投資すれば、大変効率が良いのは誰にでも理解できる。所謂ヘッジフォンドがこれで大きく稼いでいると言う。その最も大きな片棒を担っているのが、日本円でありその金利政策であると言う。

円が売られて、ユーロやドルが変われると、円安が進む。来週にエッセンで開かれるG7会議では、EUはこれを見逃せないとして、それを既に日本政府や日本銀行にそれとなく伝えてあり、圧力をかけているようである。

興味深いのは、欧州中央銀行の権限である利子政策に対して政治的圧力は掛けられないながらも、外国為替レートに関しては共同発言権があると契約書にあるらしい。つまりEUとしては、行き過ぎた円安を、グローバルに不平衡な金融政策の結果として、中央銀行と非公式な話し合いで意見交換を行う。

二月に0.5%へと倍に利上げされても、キャリートレードに与える影響は皆無と言われていて、本格的な円高は日本経済の底力が確認されてからの事となるとしている。

フランスを中心としたユーロ高懸念は、欧州中央銀行に対しても、EUが協調して向き合う事が重要で効果があるとして、「抜け駆けを許さない」体制を目指す。
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あぶら汗掻く暖かい午後

2007-02-02 | 生活
地下駐車場に車を停める。車を下りて、コートを羽織ると、一目散に出口へと向かう。地上階へと登り、駐車場の支払い窓口を探すが、見当たらない。「いづれは無くなる清算機、カードを使おう」とアピールする自動清算機を通り過ぎて階段を上下する。

財布を忘れて、25KM以上も離れた町で、駐車場の中を右往左往しなければいけなかった。財布が無いと気がついた。燃料も帰り道に給油してと思っていたが、これで一挙に厳しい状態に置かれた。二月一日のカレンダーの安売りに出かけてきたことがとんだ事になった。隣の連結されている駐車場の有人清算所を、通りがかりのおじさんに、思い起させて貰う。何処かで見かけた顔であるが、何処の誰であったか思い出せない。

駐車場出口横の管理のオヤジは、「これは、ここから動けないな」とニヤリとして一銭も持ち合わせていない男を脅かす。そして「出口で呼び鈴を、押して」と。

1229番に停めてある車に戻り、先ずは省エネ走行をイメージする。ボードコンピューターが示す残りの燃料3リットルから割り出した、現在の燃費に準じた走行可能距離は20KMを割っていた。市街地走行を抜けると真っ直ぐなアウトバーンであるので、当然距離は伸びる。しかし往路にて考えていた帰路での給油場所はライン川向こうの隣町であった。

中速を守りながら隣町を過ぎる頃、走行可能距離は相変わらず15KMを下回っている。そして本日の総走行距離は既に38KMを越えている。そのころから、途中の町へと下りて、無料で給油出来るような馴染みのあるもしくは親切そうな給油所を頭に思い浮かべる。残り燃料が1リットルを指す頃には、寄り道をも諦めた。自宅へと少しでも近づくのが最善の方法である。

進行方向直線上に給油所があるのでそこまでなんとか惰性で車を転がして、無料の給油を頼み込む事を具体的に考えた。そこへと二百メートルに迫る場所で、思い切って左折して、出来るだけ速度を落さずにバイパスへのランプへと乗り上げる。

こうなれば、自宅から歩ける距離にある親しい給油所をなんとしても目指すのである。バイパスから再びランプをエンジンを高回転させて登るが、回転数が思いの外上昇する。軽くなっている車両が横へと振られる。

ここまでこれば、腹が据わる。なんとか慣性力を殺さずに隣町まで転がせれば良いのである。そこに至れば、給油しても、歩いて自宅へ戻って財布を取りに行っても良い。そして、とうとう町へと入った、思わず給油所を通り過ぎる。信号待ちをして、自宅へと最期の舵を切った。そして何事も無く自宅へと到達した。

急いで自宅に見つけた財布を掴んで車へと戻る。エンジンは掛かる、給油所まで強引に車を走らせる、到着した。少々高めの燃料を必要なだけ給油した。再び、先ほどの駐車場へと向かった。
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顔のある人命と匿名

2007-02-01 | 歴史・時事
国連の国際組織犯罪防止条約に関連して、旅客機の撃墜処置の違法性が話題となる。内務大臣のショイブレ博士が、記者会見していたのをラジオで聞いた。

旅客機がテロリストにハイジャックされて原子力発電所に向かっていても撃墜は難しいかもしれない。なぜならば、戦闘活動に市民が直面していて、国内が戦争状態ではないからとあり、市民が攻撃を受けている戦闘状態とは異なることを強調していた。これらを憲法に照らして判断を仰ぐことは間違いではないが、結局は防衛を目的とした戦争の定義となるのであろうか?自国の人命や財産を守るための犠牲である。

技術的な対策として、ハイジャック等の場合は飛行を強制的に自動操縦に固定するなどして強制的にコントロールして航路上に維持する方法が検討されても良いのではなかろうか。

同様にテロリスト対策目的から、ネットにおける当局のコントロール強化を目指している。テロリストがネットを利用して、そこでテロリストが養成されているとの見解のようだが、その匿名性が問題となっている。当局による直接の介入は、社会の安全を高めるかも知れないが、権力の悪用や誤用は避けられない。

現状においても違法性があれば、裁判所がその都度情報の公開と強制捜査を許可する事が出来る。ネットどころか電話の盗聴も許可される。そうした三権分立のシステムの下に法治国家は成り立っている。過大な権力を行政に許可する事は、社会のためにならないことが分かっているからである。

なによりもその社会自体が、実は匿名性によって民主的社会集団として存在している事を忘れてはならない。かつて、無記名投票行為を、奇しくも「共謀罪の件」で揶揄した。社会を構成してそれを形成するのは顔の無い大衆であるとすると、その顔のある個人の匿名性は、普通選挙、つまり民主主義の根幹にある。

問題は、テロリストのアピールではなくて決して少なくないテロリストの存在なのである。ドイツ国内法では、ネオナチ的な内容はネットからも削除の命令が下り、発言者は訴追されるが、ネットにおいては国境が無く米国発信のそれなどは防ぎようが無い。

余談ながら、同様に児童ポルノが禁止される理由は何よりも、そのために児童虐待行為が実際に存在する事であって、それによる社会的影響は二の次である。そこには、表現や発言の権利などは存在しない。エロ・グロ・アニメやゲームソフトなどの教育的悪影響は、別途議論されるべき問題である。

さてここで気がつくのは、撃墜や犠牲を要求する権力は大衆が形成する社会のそれであり、その場合必ず「死を脅し」として命令は履行される。これはノーベル文学賞受賞者エリアス・カネッティーの定義つけと変わらない。またそれによると人間は非社会的な特性を持つとされるが、非社会的な個人は現実には存在出来ない。それは、ネットの仮想空間においても同様で、そこではそれら各々個人がインターアクティヴな関係を持つ大衆となる。つまり、ネットにおける大衆の形成は、その匿名性*において初めて、無記名選挙により民主的に選ばれた為政者の正統性を揺るがすことになるのである。

次世代の社会構造や正統性を考慮する時に、これらは参考になる事象であるに違いない。必ずしも従来のように危うい権威をもって大衆を導く必然性がここには生じないことは十分に予想出来る。


*この匿名性は必ずしもプロフィールの有無とかを指すものでは無い。あくまでもインターアクティヴな立場を貫き、構造的に固定された立場からの静的評価を退ける事にある。WIKIの編集方針などがこれに当たる。



参照:
BLOG 対 旧マスメディア [ 歴史・時事 ] / 2005-06-07
無料情報の客観主義 [ 文化一般 ] / 2005-08-10
雪山をナメてませんか!? [ BLOG研究 ] / 2007-01-24
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