新聞をまともに読む余裕がない。それでもヘッセン州長ローラント・コッホの独第二放送ZDF攻撃がどうしても気になる。
この人気のない再選したCDU政治家は、ZDFの評議委員会の副理事に市民代表として君臨している事から、八年目の改選期を向かえた局長のブレンダー氏の再選を阻むべく一気呵成に攻撃に出たとされる。しかし、その実は詳しく公表されていない。
外から見ていると実際良く分からない。分かっているのは局の幹部の共同署名による連帯が示されて、こうした圧力に対抗している事と、FAZのインタヴューに答えた州長は「個人的な人事問題なので議論を公開しない」としながら、幾つかの局長再選への問題点を具体的に挙げている。
特に大きく掲げられているのは、視聴率の低下の問題として、ゴールデンタイムに流されるニュース枠の「ホイテ」が2002年から26%減らして、夜10時枠で日本にも早朝同時中継されている「ホイテ・ユルナール」も10%減らしていること、さらに海外取材番組「アウスラント・ユルナール」が56%、各地からのニュースが16%を減らして低迷していることである。
特にホイテが第一放送局ARDのターゲスシャウばかりか、民放のRTLアクチュアルにも抜かれていると叱責する。しかし、この問題はここでも既に扱ったが、所詮TVニュース番組などは女性の胸元の魅せる谷の深さに大きく拘ることで、民放には勝てまい。ARDなどは短い時間に流すだけのニュースでラジオがあれば観る必要もなく尚更新聞やネットほど十分な情報が伝わらない。それ故にこれだけを観ていれば世の中の流れが分かると思っている定年退職者らがこれに齧り付く。それだけである。それに対抗して、番組の顔であるペトラ・ゲルシュターやシュテファン・ザイベルトに魅力がないと言われてもそれは違うであろう。基本的にこうした形態のTV報道番組に今後とも意味があるのかどうか疑わしい。
ホイテ・ユルナールは、深夜の時間枠に相当してゆったり感がある印象がある。この辺りの感覚になると、映像が更に意味を持つことになるだろう。マリエッタ・スロムカがエキゾティックな目をもったポーランド系だとか、ブロンディーヌのグンドラ・ガウゼが流石に十五年前の初々しさがなくなったとかの問題でもなかろう。
フランクフルターアルゲマイネとの間で、第二放送ZDFの偏向振りが話題になったこともあるが、州長は、「望んでいるのは党派的な変更」ではないと明白に語る。「自由に議論できる編集局の体制にない」とか、「お友達放送局ではいけない」とか、理屈は捏ねているが、しかし「市民の代表」として一体何を企てているのだろうか?
そもそも広告収入によって運営されている訳でなく聴視料によって公共の役目を担っているメディアに対して聴視率を言い出すと、嘗て日本放送協会でも起ったような映画監督鈴木清順の弟アナウンサーがつまらぬ市場論理を持ち出して喝采を浴びた事を苦々しく思い出す人も少なくはないであろう。「合理性の掛け声の下に視点をずらして行なわれる改革」こそその背後になにがあるかをじっくりと見極めなければいけない。
ベルルスコーニ化やサルコジ化などを見逃すことは出来ぬ。そのような事よりも役目を終えた従来のTV放送に対して新たな公共放送の意味合いを論議して行くべきであろう。
参照:
投資家の手に落ちる報道 2007-06-01 | マスメディア批評
ジャーナリストの本懐 2005-12-05 | マスメディア批評
嫌悪されている女 2006-01-08 | 女
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
廉く簡易な公共放送 2005-12-22 | マスメディア批評
掛け値無しのLA大舞台 2008-02-26 | マスメディア批評
この人気のない再選したCDU政治家は、ZDFの評議委員会の副理事に市民代表として君臨している事から、八年目の改選期を向かえた局長のブレンダー氏の再選を阻むべく一気呵成に攻撃に出たとされる。しかし、その実は詳しく公表されていない。
外から見ていると実際良く分からない。分かっているのは局の幹部の共同署名による連帯が示されて、こうした圧力に対抗している事と、FAZのインタヴューに答えた州長は「個人的な人事問題なので議論を公開しない」としながら、幾つかの局長再選への問題点を具体的に挙げている。
特に大きく掲げられているのは、視聴率の低下の問題として、ゴールデンタイムに流されるニュース枠の「ホイテ」が2002年から26%減らして、夜10時枠で日本にも早朝同時中継されている「ホイテ・ユルナール」も10%減らしていること、さらに海外取材番組「アウスラント・ユルナール」が56%、各地からのニュースが16%を減らして低迷していることである。
特にホイテが第一放送局ARDのターゲスシャウばかりか、民放のRTLアクチュアルにも抜かれていると叱責する。しかし、この問題はここでも既に扱ったが、所詮TVニュース番組などは女性の胸元の魅せる谷の深さに大きく拘ることで、民放には勝てまい。ARDなどは短い時間に流すだけのニュースでラジオがあれば観る必要もなく尚更新聞やネットほど十分な情報が伝わらない。それ故にこれだけを観ていれば世の中の流れが分かると思っている定年退職者らがこれに齧り付く。それだけである。それに対抗して、番組の顔であるペトラ・ゲルシュターやシュテファン・ザイベルトに魅力がないと言われてもそれは違うであろう。基本的にこうした形態のTV報道番組に今後とも意味があるのかどうか疑わしい。
ホイテ・ユルナールは、深夜の時間枠に相当してゆったり感がある印象がある。この辺りの感覚になると、映像が更に意味を持つことになるだろう。マリエッタ・スロムカがエキゾティックな目をもったポーランド系だとか、ブロンディーヌのグンドラ・ガウゼが流石に十五年前の初々しさがなくなったとかの問題でもなかろう。
フランクフルターアルゲマイネとの間で、第二放送ZDFの偏向振りが話題になったこともあるが、州長は、「望んでいるのは党派的な変更」ではないと明白に語る。「自由に議論できる編集局の体制にない」とか、「お友達放送局ではいけない」とか、理屈は捏ねているが、しかし「市民の代表」として一体何を企てているのだろうか?
そもそも広告収入によって運営されている訳でなく聴視料によって公共の役目を担っているメディアに対して聴視率を言い出すと、嘗て日本放送協会でも起ったような映画監督鈴木清順の弟アナウンサーがつまらぬ市場論理を持ち出して喝采を浴びた事を苦々しく思い出す人も少なくはないであろう。「合理性の掛け声の下に視点をずらして行なわれる改革」こそその背後になにがあるかをじっくりと見極めなければいけない。
ベルルスコーニ化やサルコジ化などを見逃すことは出来ぬ。そのような事よりも役目を終えた従来のTV放送に対して新たな公共放送の意味合いを論議して行くべきであろう。
参照:
投資家の手に落ちる報道 2007-06-01 | マスメディア批評
ジャーナリストの本懐 2005-12-05 | マスメディア批評
嫌悪されている女 2006-01-08 | 女
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
廉く簡易な公共放送 2005-12-22 | マスメディア批評
掛け値無しのLA大舞台 2008-02-26 | マスメディア批評