Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

初めてで破れたリュック

2015-10-16 | アウトドーア・環境
十月の初めての金曜日に石切り場に行った。車も殆ど止まっていなかった。知り合いも居なかった。皆は室内に移っており、天気が良くても北壁は寒いからだろう。一人で登る用意はしていたが、もう一つの目的は六月に入手したリュックサックを下ろすことでもあった。

一人で登るのは、十分な準備が出来ていないので、簡単なところをザイルを引き出しながら登った。そして懸垂下降で降りて、トップロープにして登る。ザイルの下には下ろしたてのリュックサックをぶら下げて、重しとした。ダブルロープなので登りと同じようにペッツェルのシャントを使った。

とても使い易く登り易かったが、ザイルが真っ直ぐ上から伸びていないと、特にオヴァーハング気味の下では不安になる。シャントの欠陥も頭に浮かぶからである。そこで、左に逃げて、簡単な方を登った。それが結構斜めに登るので怖かった。

登りきって、今度はザイルの流れを変えながら降りてきて、今度は真っ直ぐに登れるようにした。上手く登れたが核心部の上に出た。それでもリードして登るときよりも不安が大きい。

降りてきて、リュックサックを見ると、壁に擦れていた部分から金具が飛び出している。まさかと思った。金具は楔外しのフックしかないのだが、シュタイクアイゼンやアイスクライミング道具とは異なりそれほどとがったものではない。フックが突き刺さるとは思わなかった。

理由は簡単である。生地が薄すぎるのだ。そのお陰で最も軽いリュックサックとなっているのだが、ネットなどでは同じような苦情が載っていたのを思い出した。そのときはアイスクライミング道具ならば当然と考えたのだが、まさかフックで破れるとは。通常ならば、リュックサックの内側の壁に押し返されて、そのフック部分は内側に逃げる筈なのだ。それが突き抜けている。要するに最初の圧力だけで突き抜けてしまうのである。

ある程度の弱さは想定外だったが、初めての使用で破れるとは考えてもみなかった。穴は内側から継ぎ当てをして塞ぐことが出来る、しかしスキーツアーなどの使用にも少し不安になった。スキーのエッジで破れることと、スキーアイゼンも注意して収納しないといけないからだ。

クライミングの時に岩角で破れることもあるだろうが、固いものは外に出ているので、それほど心配は要らないが、穴が開くのは良いとしても、亀裂が入るとこれは一大事である。先ずは、もう使わないショーツを切って、ボンドで貼っておいた。二つの穴は塞がった。もう少し使ってみないと、最終的な評価は出来ない。



参照:
フェアートレードなあじ 2015-05-28 | 雑感
グラマラスなリュックサックの腰 2011-07-15 | 雑感
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スキャンダラスでないお話し

2015-10-15 | マスメディア批評
月曜日の夜から暖房を入れた。就寝時に体が解れないと感じたからだ。昨年より一月ぐらい早く寒くなった。葡萄地所も葉が色着き出した。十一月の末ぐらいになることもあるのだが、今年は早い。葡萄も摘み取りが完全に終わっていた。ドイツで一番高価な葡萄地所キルヘンシュトックに残されている葡萄を摘むとなかなか美味だった。遅れて実をつけたものに拘わらず綺麗に熟していた。摘み取られた葡萄が健康だったならば可也の質になるだろう。果実風味豊かでミネラルも効いていそうだ。

フランクフルトへ向かうために満タンにしたが、リットルE10で127セントぐらいだったのでよかった。ミュンヘンに行くときにもう一度満タンにすればよい。途上のラディオが難民問題の日向の話を流していた。

公共放送ARDが難民にインタヴューする番組を始めたこと、そしてその実情を皆が知ることができること、そしてこの初雪が訪れようとするときにテントで暮らさなければいけない難民、そして十二歳の男の子が綺麗な英語で実情を訴える。これを聞けば、なにをしなければいけないかが明らかだ。

そこで、ラインラント・プファルツ州は、市民の知恵や技量を使って、木材のプレハブを発注することにしたようだ。これならば大手の企業に発注することなく、地元の技術と材料で早急に作れて、難民が出て行った後も浮浪者や材料としてこれが使えることが紹介されていた。勿論我々地元の税金が地元の産業を潤すことになる。これは素晴らしいと思った。兎に角、地方自治は下からのボトムアップとその市民の運動によってこそ成り立つのである。

神保哲生の番組で、安倍首相の馬鹿さ加減が証明されていたが、ネットニュースでそのチンプンカンプンな応答を読んでも驚かなかったのは、国会でもそのような厚顔無恥ぶりがこの政治家の特徴と思っていたからだ。しかし、どうも実際はそれ以上に社会的な指導者としての適正に欠ける人物であり、メディア操作でしか生き残れない政治家であることが明らかにされた。この場合は、難民と移民が差異が全く分かっていなかったことが本人の口から明らかにされたが、まさしくメルケル首相はこの点を峻別することで本人の政治的な最大の危機を乗り切れることが可能となる事例なのだ。

その首相は、水曜日にお披露目となったボッシュ社の中央研究所で挨拶をした。欧州のシリコンヴァリーと呼ばれるほどの良い環境での研究成果が目指される大掛かりな研究所である。BASFの科学者カール・ボッシュの親の企業で働き、そこから開発・企業へとなりゆくのだが、その労働者のための企業は今でも変わらない。そして民生技術において、ディーゼル分野だけでなく今でも世界を率先している企業環境は変わっていない。車企業の下請け納入部品企業などとはもともと成り立ちが異なるのである。そのことから、VWのソフトがボッシュ社のソフトの土台を提供したとあったが、能動的に不正に関わる筈がないと直感的に感じたのは、そうした企業精神の違いがあるからである。

そして、そうしたボトムアップの精神や決断の受け入れ、コミュニティーの対応と助力があってこそ危機を乗り越えることが出来るのである。地方自治を叫びながら、トップダウンの政治などありえないのである。



参照:
保守系経済高級新聞から 2015-10-06 | マスメディア批評
血祭りに上げられるVW 2015-09-22 | 生活
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ルツェルンからのお知らせ

2015-10-14 | 雑感
ルツェルンからメールが入っていた。福島で開かれるアーク・ノヴァ2015年のお知らせである。昨年も開かれていたようだが知らなかった。梶本音楽事務所とルツェルン祝祭が協力して開いているらしい。詳しくは分からないが、今連邦共和国内で最もコンサートを頻繁に行っているトラムペット奏者ラインホールト・フリードリッヒがリサイタルをするようだ。

このトラムペット奏者を初めて聞いたのは、マンハイム・ハイデルベルク音楽大学の発表会出のことだったと記憶する。確かバロックトラムペットの小さな楽器を鳴らしていた。膝元で聞いていたような印象があるが、雑音成分の苦にならない高い音を鳴らしていたのを記憶する。生のトラムペットはモーリス・アンドレのルツェルンのヴァークナーの住居トリプヒヘンでのリハーサルなどを聞いている。

それにしても年間百回以上は演奏会を開いているのではないかと思われるのだが、ソロとラムペット奏者としては稀有ではないかと思う。余程借金返済でもあるのかどうか分からないが、兎に角まめにコンサートを開いているようだ。

ペッファーリンゲン入りのミニザウマーゲンがあったので、プファルツのリースリングをあけた。適当なものを蔵で探す。持ちの悪いレープホルツ醸造所のガンツホルンを点検すると、2010年物から2014年物まであった。特に2012年物が三本もあったのでそれを開けようかと思って、その下位のフォムブントザントシュタインがあるのに気がついた。それならば飲み干してしまおうと考えた。

過去の記録を見ると五月に開けて感動している。そして今度は飲み頃を過ぎたのを感じた。独特の味の強さは健在だが、糖が薄く、酸はぎすぎすしているのだが、苦味も同時に感じた。瓶詰めに二年が限界だったこを改めて思い知らされた。要するに上位のガンツホルンが飲み頃になってきたということだ。クリスマス時期に開けてみたい。



参照:
良し悪し判定の水先案内 2015-05-04 | 生活
ドーパミンを補うように 2015-10-13 | アウトドーア・環境
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ドーパミンを補うように

2015-10-13 | アウトドーア・環境
今ひとつ体がしゃっきりとしない。ドーパミン障害のようなものだ。待ちかねた晴れ間にボールダーに行った。陽射しのあるところを三箇所ほど試したが、思ったよりも気温が低くて、指先がもげそうになり、小さな靴の足辺りが悪く、辛い思いをした。一箇所だけ今までひっかから無かった足場に、つま先を外に向けて押し付けると乗れることが分かった。これが最大の成果だった。これ以上頑張ると肩が逝かすと感じたので断念した。

予定通りその足でスーパーに寄り買い物を済ませて、翌朝のためにパン屋に立ち寄る。床屋に行くとなると走る時間が無くなるからだ。ロッゲンの箱パン ― ルフトハンザなどで提供されるあのぱさぱさの酸味のあるパンの原型である ― を購入して、欲求不満解消にいつもの森に向かう。

車が結構停まっていて栗拾いでもしているのだろう。時計も何も用意しておらず、パンツも適当なものを履いていないので、ショーツ一枚で走る。最も短い森の坂道である。それでも降りてくるころになると薄っすらと汗ばむ。

この時期にしては不思議な感じである。やはり寒いのだ。まだ十月だが。月末には歩いて二三分ほどの教会でベルリナーフィルハーモニカーのオーボエストのクリスティアン・マイヤーの慈善リサイタルがあるらしい。気が向けば顔を出してみるが、そういえば入団する前にこの人のには街で出会ったことがある。

昨晩はベットに入るときに寒かった。暖房が必要かどうか微妙なところであるが、他の生活も考えて考えなければいけない。遅くとも冬時間になると一気に暖房を入れてしまうことになりそうだが、まだ二週間ある。もう一度暖かい日が戻ってこないのだろうか?

そろそろ冬の見繕いなども準備しておかなければいけないだろう。ネット天気予報を見ると、春に過ごしたフランケンのユラなどは氷点下3度になっていた。ワイン街道でも摂氏2度だったから当然かもしれない。



参照:
更年期を乗り越える認知年齢 2015-03-20 | 雑感
ネゴシェーションの政治力 2015-09-19 | 歴史・時事
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落ち葉踏まずに落穂拾い

2015-10-12 | 生活
日曜日の朝の森は摂氏七度しかなかった。峠にゆっくりと駆け上がる。この時期は、毎年かもしれないが、がたんと速度が落ちる。長袖長ズボンで、汗をかいて満足といった感じである。これを変えるには余程の動機付けが必要だ。今年は早くも葉が色着き出したが、足元は昨年のそれが片付いていて比較的足場が確りしている。森の美しい時期でもある。

いよいよ本年最後のCD落穂拾いである。四千枚近いCDを見たが、あまりこれといったものは見つからなかった。完全に市場が崩壊している。何とか息を繋いで貰いたい。ヒット商品には通常のディスカウント品以上に陳腐な商品が並んでいて、CD二ユーロまでの商品が多い。日本で有名なグルリットさんのゴヤ交響曲などゲテモノが並ぶ。

そこでディスカウント商品を丹念に探すと掘り出し物が見つかる。二枚組みのオペラ「アイーダ」は、パバロティーが歌っているロリン・マゼール盤を購入していたので、見過ごしていたクラウディオ・アバド指揮のものを試聴した。そして調べると、なんと「マクベス」や「ボッカネグラ」の名盤と同シリーズで、同じスタジオでただしこれはアナログではなくデジタル録音したものではないか。これは知らなかった。落穂拾いしているアナログからデジタル録音へと移り変わるところの制作で、買い逃しているものの一つである。

興味深くネットでの反応を読むと、プラシード・ドミンゴの歌うラダメスなどの配役の問題とは別に、あのデットなスタジオでの録音が災いしているような印象を受けた。それゆえに大成功したヴェルディ初期の名作と比較して後期の作品群ではどうもあまり強い賛辞を受けなかったようだ。そして試聴してみるとこれがとても面白い。明らかに特別な効果を狙っているのが分かる制作録音である。お陰で廉価版二枚組み9ユーロで入手可能だ。

そして何故か沢山ある一枚8ユーロ未満のオファーの中からリヒャルト・シュトラウス作曲「家庭交響曲」を選択してしまった。試聴するとヴィーナーフィルハーモニカーのサウンドが見事だったことが決めてとなったが、この曲は生で一度体験したことがあると記憶するが、手元に録音が無いのである。全く重要な曲ではないからなのだが、マゼール指揮の演奏で可也その管弦楽書法が手に取るように分かりそうなので興味を持った。

あとは六ユーロのCDで、エド・デワールト指揮サンフランシスコ交響楽団がつけたピアニストのコチッシュが弾くラフマニノフの協奏曲全集から二番と三番で、後者の録音を持っていないのでこれも資料にはなる。そして1984年の録音はこれまた興味深い時期なのである。

そしてもう一つの目玉は、レナード・バーンスタイン指揮のアイヴスの交響曲二番である。この曲はLPで持っているのだが、ズビン・メータ指揮ロスアンジェルス管弦楽団の演奏がもう一つなので、試聴してみると評判どおりよさそうだ。思いがけないほどニューヨークの管弦楽団との緻密な録音をしているようである。録音技術的にもこれまたクリアーなようで、嘗てのニューヨーク録音のがさがさした印象がない。

実際に手にとって鳴らしてみなければ分からないが、このご時世での落穂の質としてはまずまずではなかろうか。〆て自動車クラブの割引6ユーロを使って、デジタル制作録音CD五枚で25ユーロならば文句は無かろう。



参照:
音の鳴らし方、緊張と緩和 2012-05-03 | 音
二十世紀隠遁の美学の環境 2012-11-11 | 音
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鉛筆への文化的な熱い想い

2015-10-11 | 文化一般
シナ人の今年最後の大規模な爆買ツアーが話題になった。聞くところによると、株価暴落などがあっても既に現在までに昨年の二倍ものシナ人が日本を体験したようだ。来年は今年の二倍にはならないかもしれないが、もはやこの波はシナの繁栄の象徴として止まらないであろう。

あれだけ共産党の反日宣伝が執拗に続けられていても、寧ろそれゆえにシナ人の日本への憧れとシナの繁栄を映し出す鏡として、その共産党一党支配ゆえに自己確認として、日本にその理想を求める姿には圧倒されるものがある。

シナの中産階級の子供たちは、お土産に貰った三菱の鉛筆 ― 先月軍事産業三菱グループの不買運動として国会前で名指しした学者がいたが、この会社は全くグループ企業ではないので大きな間違いである ― を学校に持って行って得意げに自慢するのである。まさしくこれがブランドイメージであり、民需の貿易や経済活動こそが自由主義社会の世界の基盤である証なのだ。

そもそも中共やその社会の自由へや民主化への道程は、中華思想とは直接関連しないのであり、その目指す社会がまともであればなんら問題が無いのである。同じように中共の逸早い平和的な崩壊とその民主化のためには、更なるシナ人が日本を体験することと、その日本自体が市民運動によって立憲民主主義の手本を示すことが最も手っ取り早い方法であることは間違いなさそうである。こうした環境が、シナのこれからも増大する中産階級への広範な文化的影響として計り知れないことは自明である。

満州生まれの小澤征爾の話題から、偶々シナ制作の2007年訪問時のTV番組らしき断片を観た。興味深かった。なによりもボストン饗を引き連れてのシナツアーや七回の訪問の長い繋がりである。それどころか満州植民地政策に深くかかわった父親の開作まで遡ると、文化歴史的な意味合いも無視できない。最初の訪問時だったかは、TVマンユニオンの制作したTV番組を観た記憶がある。最初の時は毛沢東の死と重なり合っていたことは気がつかなかった。記憶にあるのは当時の文革の疲弊から抜け切れていなかったシナの姿だった。要するに中共も小平体制へと大きく変動する時期と、天安門事件を経ての現在の繁栄へと繋がる道程の時期に符合するのである。

同時に、今回初めて知ったのは、既に白髪頭で残念ながらもはや全盛期を越していたようだったが、ヴィーンの歌劇場を連れてシナの大都市で引越し公演をしていることである。そしてこちらでの最後のキャンセルがバーデン・バーデンでのヴィーナーフィルハーモニカー公演や2010年のベルリナーフィルハーモニカー公演であったように、もう二三年欧州で活動していたならば、その業績は歴史的に全く変ったものになっていたことを実感する。特にフォン・カラヤン財団との関係で、復活祝祭でも欠かせない存在となっていたのでは無いだろうか。

そしてなによりも、小澤のシナにおける名声やその親近感は、りんりんランランなどよりも欧州市場においても重要視される要素であって ― 当然のことながら西欧近代文化の受容と需要の一つとして ―、欧州各地での一通りの成功を収めた後での商業的な価値が全く異なっていたであろうと思うととても惜しいのだ。責めてあと二三シーズン、つまり2013年ぐらい迄は活躍して欲しかった。

小澤指揮の名録音を流している。フランスの管弦楽団との演奏では、ミッシェル・ベロフとパリ管とのストラヴィンスキーや放送管とのビゼー作品の録音なども評価すべきでとても素晴らしい。それでも、やはりコンサートホールで聴衆を魅了するほどの定評とならなかったことも事実だったろう。



参照:
小泽征尔-中国缘 (YOUTUBE)
火曜の夜の乱痴気 2007-02-21 | 暦
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
零八憲章刺す天叢雲剣 2008-12-24 | 歴史・時事
「コンサートは始まる」を20数年ぶりに再読 (日々雑録 または 魔法の竪琴)
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まるで鉛のような鈍腕さ

2015-10-10 | 
どうも起床しても体が重い。鉛のように重いという表現を思い出して、ネットを見ると、うつ病の奔りだと書いてある、そして何か思い辺りが無いかと。それは無いことは無いかもしれないが、なにも今に始まったことではない筈だ。そしてこの秋は今までに無い早さで冬にまっしぐらである。通常は「死の月」11月のような気配が既に訪れていて、この先どうなるのかと不安になるぐらいだ。

なるほど肩を中心に上腕や、背中から腰、下腹から太ももへとそこらじゅうが張っていて気持ち悪く、更に午前中は頭がふらふらして、偏頭痛まである。このようなことも珍しいが、低血圧症状というか、足元が定まらない。天気がよければ走るのだが、その回数も天候とともに少なくなる。流石に走ると頭に血が上って汗を掻いて調子が良くなるが、午後になると結局は戻ってしまうのだ。そして翌朝の目覚めは相変わらず悪い。

ミュンヘン訪問のためのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を調べている。作曲過程などその幾つかの版の相違なども興味深いが、どうしてもその時代背景などにも思いが巡る。二十世紀最初の十年ほどのことだからである。

そして最近気がついたのはこの作曲家の作品への著作権が切れていることで、安く上演できるようになってきていることだ。ブージーアンドホークス出版社が日本でのこのオペラの上演で集金しようとしたようだが、それが敗訴して為せなかった事件は知らなかった。

ザルツブルクの音楽祭などは、常掛の劇場のような一括精算が出来ないために、費用が掛かり過ぎるのだった。そうした状況が変って来て、楽譜なども容易にDL出来るようになったのを確認したのはつい先ごろだった。一昨年の記念年では、そうした事情もあってか、各地で演奏、上演されることが多かったリヒャルト・シュトラウスの作品であった。

今回のパリでの公演は人気の歌手ヨーナス・ホフマンの出演になっているが - 因みにパリではキリル・ペトレンコはベルリンフィルハーモニーの新指揮者と態々書き添えられている。しかしミュンヘンでは再演だったので、あまり話題になっていなかったのかティケットも残っていたのだが、流石に公演が迫ると楽譜鑑賞席まで売れ切れた。

ミュンヘンではこのオペラは重要なレパートリーだろうから、過去にも作曲家を含めて多くの名演奏が行われていたのだろう。それでも過去の録音やVIDEOなどを見ると実際に確りと音化されている例は少ないようである。プロローグにもオペラにもなかなか手強い場面があるようで、音楽的に十分に再現されている例を知らない。

リヒャルト・シュトラウス作曲の手の込んだ詰まった織物のような、そして一つの長いフレーズの中で確かな拍子を与えないと、どうしても冗長で杜撰な印象しか与えない。なるほど、演奏家が口走るように、指揮の打拍の視覚的な正確さとキメが、このような場合の正確な演奏に繋がる意味が良く理解できる。シュトラウスの交響詩だけでなくオペラでも、それが正確なアンサムブルでは無く本来の音楽的な意味を語っていたとは正直これまでは気がつかなかった。アインザッツやアウフタクトを正確に打拍するだけでは駄目なのは考えてみれば当然なのだが、それが音楽的な演奏実践と認識させるような指揮者がいなかっただけなのである。



参照:
ミュンヘンからのお便り 2015-10-07 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
Ariadne auf Naxos Böhm Janowitz
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行ってみようよTTIP DEMO

2015-10-09 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ新聞がTTIPについてひっそりと伝えている。ネットで見つけて、朝刊を見たが見つからない。土曜日にベルリンで予定されている大掛かりな反対運動への情報である。

そこには、所謂推進派の政治家などの言論が紹介されているが、その本人自体が殆ど情報を得ていないことなどを書いていて、ネット署名やその他の反対派は情報音痴であるとの経済政治家の批判を打破している。

この新聞は、TTIPに関しては慎重に扱ってきていて、それは今までのATTACなどのグローバリズム反対派への言及などとは一線を画していた。つまり、経済界やその他の動向を慎重に見極めるとともに、同じく情報を持ち合わせていないということでしかないのだろう。

実際に交渉当事者EUの資料も連邦政府から二十名ほどの人がアナログで二時間の限定で資料を観覧できるだけで、全く情報が開示されていないことを伝えると同時に、WIKILEAKSのクラウドファンディングの状況を報じる。そしてノーベル経済賞のスティグリッツなどの反論を載せる。

日本のマスメディアが騒いでいるらしいTTP大筋可決と、クリントン候補の態度表明が風向きを大きく変えたようだ。我々世界統一市場実現を目指すコスモポリターンなグローバリストからしてみても、ここで声を上げるのは当然の市民の義務であるように感じてもおかしくないことなのである。

シナに続く輸出大国のドイツの輸出はここに来て落ち込んでいるらしいが、貿易大国ではあっても大きな市場がさらされる日本でなぜこれほどに市民のTTP支持が大きいか?その原因を考えると、貿易立国として我々が習ってきたように日本が嘗ての高度成長のころの輸出と、その後の貿易の構造の変換が国民に十分に認知されていないことも大きな要因だろう。

そもそもアベノミクスやらの考え方が現実とはかけ離れた経済政策で、それにも騙される国民がいるから支持率が上がるというような珍現象が生じるに違いない。宣伝報道の日本のマスメディアに比較するまでも無く、まだまだ連邦共和国のメディアは健全であることを改めて思い知る。

土曜日の運動のHPをみた。とても上手に出来ていて、VIDEOもとても気が利いている。これをみれば、日本の国会前に行くよりうも遠距離から足を運ばなければいけない連邦共和国市民も、個人で気軽にどの列車で行って帰ってこればよいかが一目瞭然だ。そしてなによりも、そこへ行く意義を瞬時に理解できるようになっている。今後日本の市民が大規模な運動をしようとするならばとても参考になると思われる。



参照:
Verhandlungen im Geheimdienst-Milieu, FAZ vom 10.10.2015
TTIP & CETA stoppen!
血祭りに上げられるVW 2015-09-22 | 生活
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今明かされる保管金の総量

2015-10-08 | 歴史・時事
週明けから天候が安定せず、日曜日以来始めて駆ける。時計の充電がなくなっていたので、以前使っていた万歩計を携行する。ぼちぼち行って、途中から少し調子が戻ったが、ジョギングテムポでしかない。最近は二キロ12分ぐらいのスピードしか出なくなっている。

まだ暗いうちにパン屋に行って、そこから森の中を走るのだが、体調が今一つなのだ。運動不足気味で腰から下が強張っていて、持病のように腸がもぞもぞする感じはあまりよくない。そこで走るとしこりは和らぐのだが、最近の傾向として血の巡りが悪い。

熟睡している筈なのだが、朝の目覚めが悪く、いくらかの倦怠感が肩を中心に訪れてきて、清々しい朝を迎えることが少ないばかりか、パン屋に行ってもまだ眠っているのである。考えられるのは、通常ならば十一月の訪れるような陽が少なくなることからの神経の問題である。今年の九月から十月への天候は異常だった、そして今もさわやかな秋らしさを感じることが殆ど無いのだ。来週辺りから気持ちのよい日が続いてくれることを期待している。

新聞に連邦共和国連邦銀行ブンデスバンクが所持している金の明細が発表されたとある。ここ数年、その海外に預けてある金を取り戻す話題が出ていたが、その全貌は明確ではなかった。目標は全量の半分を国内に戻すことである。金本位でもなく、戦時経済を考える訳ではないが、普通の国つまり本格的に戦後レジームを終結させるためには当然の処置である。

全量で3384T保持しており、時価一千億ユーロとなり、ドイツ貨幣全準備金の三分の二に当たり、世界で合衆国に続いての金保有量となる。問題となっていたのは、海外に殆どが保存されていたことで、そのニューヨークにある量が合衆国の保険機構に委ねられていたのではっきりしなかったとある。そしてその内容についても抜き打ち検査しか出来なかったのである。1447Tとされた量である。

2020年までに英国やパリにあるものを含めて、半数をフランクフルトに取り返す。そもそもなぜにこれだけの量がニューヨークに預けられているかは、五十年代六十年代のブレトン・ウッズ機構で、貿易の収支をこれで補っていたからである。同じようにオランダなども預けてあったのだが、その122Tは既に取り返したとある。自国に持ち帰ると、その金の質や量などを厳密に管理することになる。

同日の記事に、TTPI反対の中小零細企業のKMUと称する団体の運動について小さく触れてある。ビールの原料供給の業者が遺伝子工学材料に対して危惧したり、民主主義の下のEUのスタンダードの豊かさが失われること、そして秘密主義の交渉やその調停・裁定器官の問題と言い尽くされていることであるが、世界に羽ばたく競争力の強いドイツ中小企業が多い中で、また一方こうした企業が数限りあることも忘れてはいけないだろう。



参照:
国際政治の担保金塊 2013-01-18 | 歴史・時事
保守系経済高級新聞から 2015-10-06 | マスメディア批評
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ミュンヘンからのお便り

2015-10-07 | 生活
昨晩はミュンヘンからの生放送を聞いた。劇場の響きは、ソリストのユリア・フィッシャーが答えるように生では良いのかもしれないが、管弦楽団をマイクで拾うにはあまり適さない。演奏もああしたところでやっている限りは本格的な管弦楽のアンサムブルは身につかないのだろう。話題のミュンヘンの新しいホールはバイエルンの放送交響楽団の問題であって、座付き管弦楽団の問題ではないが、入れ物も大切なよい証明である。エルガーの協奏曲ではやはりソリストと指揮者の間でテムポなどの妥協が必要になったということで興味深い。両方とも音符の音価を自信をもって維持できる音楽家なので可也の歩み寄りが必要になったのだろう。

ミュンヘンから発注していた入場券が届いた。昨年に続きクリスマス前の公演のもので、年末年始のオペレッタ「こうもり」公演の前のもので、ミュンヘンでの楽劇「指輪」サイクルの最後の公演である。これまでそのサイクルには行かなかったように、特に興味が無かったのだが、バイロイトの「神々の黄昏」の録音などを詳しく聞いているうちに、ミュンヘンでも聞いてみてもよいと思った。

面白いことに、十一月からあるそのサイクルの「ヴァルキューレ」の方は、指揮者がペトレンコから女流のヤングに変っている。歌手との個人的な関係が問題になったのかどうかは大衆新聞に任せておくとしても、あれだけ集中的に指揮をしていていれば、よほどの関心が無いと熱中できないだろうと思う。

実際私自身もあれだけ詳しくこれらの楽曲に夏以降付き合ってきて、それでもまだ食い足りないと思う楽劇が「神々の黄昏」であり、近代音楽の歴史においてもこの楽劇の意味合いを改めて考え直すに至ったのである。

そして、ミュンヘンの公演は、2013年までのバイロイト祝祭上演と同じくレーンス・ライアンがジークフリートを歌う。ミュンヘンでは「ジークフリート」でしか歌っていないようなので、これまた楽しみである。グンターを歌うマルコス・アイヒや大阪音大出身の中村恵理などは来週のパリ公演とミュンヘンでR・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」でも歌う。

「アリアドネ」は永く接していないが、室内楽的な管弦楽の扱いも音楽的に興味深く、あれほど定評のあったカール・ベーム指揮のLP録音なども予想外に杜撰なことになっているので、今回はいくらか期待できるのだ。

ただし今回もミュンヘン方面での用事のついでにと言った感じで、立見席を安く入手するに至った。特にアリアドネの方はパリでの上演は気がついていたが、ミュンヘンでの上演は知らなかったので、九月に入ってからネットで発注したに過ぎない。地元に住んでいるのとは違って、普段の上演やその情報などもなかなか気がつかないことが多い。アリアドネの二時間半はなんでもないが、黄昏の五時間半はもう一度十分に音楽を勉強しておかないと立っているのが辛くなってくるだろう。



参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
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保守系経済高級新聞から

2015-10-06 | マスメディア批評
火曜日の朝刊には、TPP交渉合意が第一面に出て、社説まで載っている。それによると、一年以内の議会での承認がどうなるか分からないとなっている。トラムプ候補だけでなく共和党の保守勢力にはグローバル化反対の声が沸きあがっていることから、難しいというのだ。当然であろう。

先週の同じフランクフルター・アルゲマイネ新聞のVWの記事を読んだ。排ガス規制に引っ掛からないように、駆動輪ともう二つのタイヤとの回転速度の差異を受けるESPをセンサーとすることで、排ガスも調整していたとある。なるほど試験の時は駆動輪を空回りさせるだけなので、その差異から容易に制御可能となる。反対に、その試験台から下ろして通常に動かすときの制御はどのようになっているのか分からないようだ。

以前ならば総力を挙げて自動車クラブがレポートする筈だが、そのクラブの試験自体の信用性がなくなってしまったので、小さな記事しか載せていない。新聞は、当時の事情について書き続ける。VWが2005年に合衆国の新基準を達成できないで販売を取り止めた背景には、フェルディナンド、ポルシェではなくてピィエッヒ(ポルシェ博士の外孫)の方だが、当時脚光を浴びていてAUDIすら六基筒に載せたコモンレールシステムを使わずに、ダイレクト噴射に拘ったことでの技術的な遅れがあったようだ。

画期的なボッシュの技術を避けたのかもしれないが、結局は皮肉なことに今回もボッシュ社のソフトが土台となっていて、コンチネンタル社のそれは合衆国では使われていない。そして自らが南アフリカでアドブルーと称するアンモニアを使ったシステムを試しているとある。技術陣が重なるポルシェへの影響も避けられないようだが、オーナー兼責任最高幹部の逮捕も避けられないかもしれない。



参照:
血祭りに上げられるVW 2015-09-22 | 生活
まるで白昼夢のような感覚 2015-07-13 | アウトドーア・環境
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短くも長い時の流れ

2015-10-05 | 文化一般
歯医者からの計算書が届いた。予想どおりだったが、やはり予定外の出費なので痛い。今回の治療に関しては、自分自身も放って置いて悪くなった訳でもなく、十年前の詰め物が磨り減ったといって文句も言えない。これから十年先の治療などを考えれば、仕方ないかと思う。この間、親知らずの抜歯があったので、またかと思うのだが、件の炎症さえ治まれば、上手くいけば最低限の清掃だけで十年は凌げる筈だ。十年前が、約二十年ぶりぐらいだったことを考えれば、そのような按配だろう。

電話が掛かってきて、冬タイヤへの交換の日程も決まった。十一月中旬のことだからまだ先のことだ。それでもこの秋の冷え方からすると、初雪にも備えなければいけないかもしれない。南仏での洪水もそれを暗示する。

明日は、ミュンヘンからの生放送がある。キリル・ペトレンコ指揮座付き管弦楽団の演奏会であるからあまり期待はしないが、ユリア・フィッシャーとのエルガーの協奏曲は興味ある。

久しぶりに古いエアーチェックのカセットテープなどを流している。1979年、1980年のザルツブルク音楽祭の放送録音である。詳しくは改めてにするが、この三十年ほどで知らぬ間に多くのことが変ってしまっているのを感じた。その歴史的な流れはある程度把握していても、ヴィーンの座付き管弦楽団のアンサムブルの質などが、カセットテープのドルビーBの音響テクニック以上に、現在の水準との差があるのには驚愕した。当時はあれでも近代化していて、カール・ベーム博士などが振るときはまともな演奏をすると言われていたのだ。

一言で言えば、やはり西洋音楽の世界もインターナショナル化して、技術的に格段に上手になっている。二十世紀の後半でも、まだ欧州の管弦楽団は米国の交響楽団などに比べるとそのアンサムブルの差は顕著であったのだが、大分その差が縮まってきているのかもしれない。原因はインターナショナルな多様化であって、そうした傾向は変りようが無い。



参照:
抜糸省いて最後の抜歯 2013-04-16 | 生活
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
女手で披露する音楽文化 2013-05-18 | 女
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シュプレッヒコールの響き

2015-10-04 | 
フランクフルトでは夜遅くベートーヴェンの合唱が大きな音で響いていた。あのブランデンブルク門でのそれを意識してのことだろう。当時暮れに態々ブランデンブルクまで駆けつけた人が多くいたが、私は興味が無かった。そしてその暮れはシュヴァルツヴァルトの友人の旅館で過ごしたのだった。再統一を祝う気持ちなどは無く、今でもその気持ちは少し違う。

合唱がEUの賛歌として、そしてこうして使われることにも若干抵抗がある。あまりにもポピュラー化してしまった自由への賛歌であるが、その全曲はそうした名曲化には合わないように考えるからだ。実際に、今まで千夜は越えないかもしれないが生演奏の数々を体験していても、この交響曲を生で体験したことは無いのである。来年の復活祭音楽祭で初体験することになるがそうした交響曲であることは間違いないと思う。

合唱で思い出したが、「シュプレッヒコール」という言葉があり、それは今も良く使われている。まさしく、この合唱のコールとこのコールは同じもので、声を合わせて大きな声にすることが目的だ。同じように先日日比谷で開かれた会にもドラムと旗振りなどがあったが、ここでも初めて近代西洋音楽の原点が漸く日本でも開花しようとしているのが聞こえる。

もちろんそこにも軍楽として西洋近代音楽やスポーツを取り入れていった明治維新政府の政策があったのだが、それは同時に既に大きな意味を持っていた市民革命のそれの衣装が剥されて輸入されたのであった。恐らく日本で第九交響曲が、公会館の制限などを受けることも無く、頻繁にパシフィズムの聖歌として演奏されて、受け入れられている背景がそこにあるのだろう。

楽器などを嗜む者は、やはりそうした原点を忘れては、とっても西洋近代音楽などは演奏できない。兎に角、音を合わせて大きな音を出してアピールすることが目的である。そこが血肉にならないと、繊細な表現なども活きないのだ。日本の西洋文化輸入は、学術を含めて、そうしたところが歪だった事を皆が自覚すべき時が来ている。

YOUTUBEで祐児三輪動画シリーズを観ていると左翼らしき人たちが集まって会議を開いている。特に面白かったのは、1960年代から2000年代までが消滅したようだという考えかたで、その間の管理教育も分析されている。それによると押さえつけられながらも、高度成長から成長が続いていたので、先ずは学校をドロップアウトしようがなにをしようが生きていける時代だったのが、ここに来て幾ら社会に合わせていても生活できなくなってきているという社会事情があるというのだ。すると今までいい子でいれば済んだのが、もはやどうせ駄目ならば言いたいことを言うという状況に変ってきたのだというのである。これはとても興味深い。要するに保守的とされる社会が壊滅したということだろう。

ザールのリースリングを空けた。今度は「ザールリースリング」で、六月に試飲して購入した最後の瓶である。試飲の時から、上位の「アルテレーベン」との差は明らかだった。二年ほど前までは、残糖があまり感じられなかった下位のものにもむしろ肯定的だったが、今は買い付け葡萄で12%とアルコールも高くVDPのグーツリースリングの枠組みに近づいてきている。価格の12ユーロは他の醸造所と比較すると割高だろう。折角手摘みしているのだからもう少し深みが欲しい。



参照:
ドイツ統一に集うところ 2015-10-03 | 暦
星屑の詰め合わせを追加 2015-10-02 | ワイン
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ドイツ統一に集うところ

2015-10-03 | 
ドイツ統一二十五周年である。本日は、大統領、首相らがドイツ最初の議会地フランクフルトに結集する。市民革命を受けたパウルス教会でのドイツ最初の議会だったが、明治維新政府はその事象を敢えて無視したことから、日本ではまだ市民革命が成就していない。それを経て初めて「普通の国」になれるのだ。そしてそれが漸く今期待されている。

普通の国になって初めて、軍事力をその社会にも取り込むことが可能となる。それは警察力でも同じである。連邦共和国では、警察に市民が銃殺される事象が頻繁に起きている。先日もテロリスト容疑者がベルリンで無差別テロの行為最中に銃撃され、自傷も含めて死亡している。しかし、合衆国の警察の黒人への発砲のようには事件にもならない。それはなぜなのか?

私自身、地元の連邦警察官に銃口を向けられることがあったが射殺されることもなく、それほどの危険は感じることもなく、それを撮影することも出来た。YOUTUBEに上げれば恐らく話題になるだろう。しかしその背景には社会の中での信頼関係があることも無視できない。

なるほどシュトュツガルトでの駅開発に伴う反対運動では、過剰警備で失明などの事件が起きて、その事件が今検証されているが、投石などがあって、高圧放水が為されたのは当然の処置であったかもしれない。完全に防御されていれば投石でも大事に至らないかもしれないが、やはり投石は暴力行為に違いない。その映像が残っているらしい。

そのような事件があって、またフクシマ禍があって、初めての緑の党の州政府が誕生した。これも経過であり成果である。メルケル首相が「私たちはやれる」と豪語して、難民の受け入れに尽力したことで、その母体政党CDUの支持率は2%低下したようである。国民の51%が難民の尋常なら無い数に不安を感じているからである。これも経過である。

祝日前ということで、買い物をした。朝早くパン屋に行き、走ってから肉屋に向かった。そして夕方は、八百屋に行って、帰りに石切り場に登りに行った。この三日間晴れ間を使って、動き回ったので可也疲れた。一杯飲んで、食事をしたら、我慢できずに寝床へと向かった。



参照:
押し競饅頭押されて泣くな! 2015-09-16 | 音
地域性・新教・通俗性 2006-12-18 | 音
コメント (3)
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星屑の詰め合わせを追加

2015-10-02 | ワイン
朝の冷えは霜までは降りなかった。森は摂氏五度だった。星屑散らばる夜だったのだろう。流石にフリースもパンツも履いたままにゆっくりと短く走った。前日のしこりをほぐすようにである。前日、前々日とボールダーで固まってしまったからである。

九月の最後に乾いた、やっとボールダーに行けた。雨で仕方なかったのだが、あまり肩を休めていると筋力が落ちてしまわないかと心配だったのだ。折から、屋根瓦などの検査があったので、仕事にならないので何とか思い切れた。

気温は20℃からは遠いが陽射しが気持ちよく、半袖にもなれた。目的の場所に行くと先客のアベックが居たが、丁度帰るところだったようだ。そのチョークの後を見ると、私が目指しているものは完登していなかったようだ。

私にとっては課題が二つある。一つは足のフックを確実に使うことと、もう一つは小さな手掛かりを上手に使えるかどうかである。どちらとも腰から腹にかけての抑えの力が欠かせない。

勿論肩にも負担が掛かるが、試してみると体が重い割には月初めの前回よりも手掛かりを使えた。そして足のフックの抑えはかなり確実に利かせる技術が身についてきた。

翌日はもう一つの課題に挑んだ。前日の疲れが残っていたが、新しい靴になってから出来ていないモーションを最初に試すと初めて出来た。それもタイミングを合わすような方法が出来たので、その前の繋げ方との可能性が広がった。そしてそこへ繋がる部分を試したが、可也良い線へといったが、結局腕力も足りなくなった。もう少し繰り返さないと筋力もつかない。印象としてはこの一二年の肩の故障を何とか克服できそうだ。

ザールから届いたファン・フォルクセム醸造所のリースリング「アルテレーベン」を開けた。樽試飲として六月に試したものだ。番号は11なので最初の樽だろう。香りは腐敗土の様な感じもあるビオワインらしいもので、これをしてそれがどういうものであるかを知る思いだ。しかし、同時に鉱物的な感じで、鉱山の見学に感じるようなそれもあって、必ずしも醸造上の問題というよりも土壌の特徴でもあるのかもしれない。その代わり、酵母的でも硫化物的でもないのが利点である。

実際口にしてみるとチェリー風味やらで、ヴァッヘンハイマーなどにも近く、そのスレート臭さとはまた違うはじけ感もある。同時にとても落ち着いたリースリングであるところは、ギュンター・ヤウフのところのマックスにも似ていて、土壌の近似性を感じる。強いて言えば乳酸の影響は感じる。これを防ぐためには、ビュルクリン・ヴォルフ醸造所のような方法を採るしかないのである。

しかし、その出来が違う。これだけの天然を意識しながら同時に可也の洗練化が出来ていて、そのニュアンスの豊かさは散りばる星のように輝いていて見事である。これだけでも二年間ほどその瓶熟成のあり方と、その星が膨張していくのを観察したくなった。その繊細からしても、2014年の16ユーロ前後のドイツのリースリングのトップテンに入るのではないだろうか。

急いで追加発注した。試飲の時にも一言加えて保留していたのだが、間違いなかった。そのときと比べると落ち着いては来ているが、その酸の量感ともども十分に熟成すると思われる。これ以外のシャルツホーフベルクなどもここに来て、その土壌の真価が見直されるようになるのではなかろうか。



参照:
ロハスのスタイルとは一体 2015-06-10 | 文化一般
財政破綻などどこ吹く風 2015-06-05 | 試飲百景
神の膝元のリースリング 2015-06-02 | 試飲百景
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