熱狂的な歓声が響いた。それは事実だ。そして最後まで執拗に呼び出す何時もの人たちがいた。私たち数寄者である。四回の公演を顧みての喝采である訳だが、やはり最後は予想以上に纏めてきていた。その一つは、ブリュンヒルデを歌ったニナ・シュテムメだろう。初夏の「パルシファル」での登場もあるので、「ジークフリート」までの出来では期待が高まらなかった。少なくとも私自身は、彼女の歌唱を生で聞いて、幾つかの不満点が残った。聴衆はもう一つの成果を求めた。そのような塩梅だろうか。あれほどの名歌手になっていても、最終的には会場を唸らし喝采を浴びなければ駄目な世界なんだろう。
この落日二日目は、一回目の上演でキャンセルをしようとしていたのに登場して大向こうを唸らせており、それを新聞も扱っていたので、「言い訳無し」の大一番であったことは知れた。少なくとも序幕の愛の二重唱からの歌唱に、こちらは我を忘れて仕舞った。声も素直に出て明晰な高音を発声するのである。こんな音楽劇場体験として経験したことが無い高揚感のある歌唱で、本当に生で響いたのかのどうか不思議な気持ちにすらなった。すると不思議なことに洟がぽたぽたと垂れてくるのである。どうも交感神経が緩んでしまったようである。頻繁に日本のクラオタさん達のなかでは直ぐに泣く話が出るが、洟が出る話はあまり知らない。どうしたのかと思って、幕が終わると洟をぐずぐずさしているのが前列中央方向から聞こえた。あれはあっけにとられたというか、全く涙どころではない場面であり、そうした感情とはこれは関係ないのだ。要するにショックとか何かそういうものに近い。それはどうもこの楽劇の全体の枠組みにも関係するようである。
そして、その直前のノルンの三重唱の音楽の網の目を透かすかのような精密と同時に気配のある響きと歌唱も素晴らしかったが ― 一日目の新聞評にもあるように、断言できるのは2015年の暮れの上演ではなせていなかった精度であり、まさに指揮棒から赤い糸が張り巡らされている様だった ―、なんといっても続く夜明けの音楽には度肝を抜かれたのだ。このように正しく演奏されれば完全にドビュッシーの「海」の日の出に匹敵する創作だと分かったからである。これはバイロイトの奈落でも難しく、2015年ミュンヘンでの演奏でもそこまでは至らなかったものだ。管楽器、弦楽器、發弦楽器、打楽器群が有機的に各々が音を選んで演奏しないことには生じない響きである。その効果が生じているのは全編であって、そこだけでは決してないのだが、各々の楽器奏法の所謂ノウハウが集結されている。超一流交響楽団が当然の如くしていることなのだが、劇場ではいつもの効果音程度のこと以上はしないものだと一般的に思われているところである。
その具体例としてアーティキュレーションがある。一番音色との関係で分かり易いのが木管群であるが、それらがレガートなのかノンレガートなのか、更にどのようなリードで吹くかで、ソロでなくとも音色が変わる。それらがいつも完璧に成功しているかどうかは判定不可能でも大変留意されてていることは明らかなのである。同様に低音楽器がスタッカートに刻むかヴィヴラートで響かすかで全く音響が変わる。そうした備えがあってこそ、しっかりと指揮することで愁いを以ってもしくは鋭く響くサウンドが最初から最後まで鳴り響いたのだ。
こうして小さな動機を通して振り返って見ていくと、そうしたアーティキュレーション上の特徴が、ファフナーの動機やもしくは鍛冶の動機若しくは隠れ兜や契約の動機、またラインの波に角笛の動機など何を挙げても構わず見て取れる。それらはレガート系やノンレガート系など大きな区分けも出来て、その中でも気になっているのは巨人の動機が再び最後に出て来ることである。
二幕で問題となっていたアルベリヒの木管などは音量的にバランスを取るというよりも正確に吹かせるようにしっかり振っていたのだろうと思う。つまりそのシンコペーションの基本リズムを精査することでバイロイトの奈落の時の様に突出してしまうということが無くなるということであろう。全く違和感が無かったどころか、寧ろそうしたが故意にぞんざいそうに吹くその響きへと余計に注意を促すのであった。そのように楽匠が書いているのである。当日はまた別のオーボエソリストが入っており、第二コンツェルトマイスタリンは何時ものおばさんだった。
そうした細部から一体に何が明らかになるかというと、要するにそのように夫々の楽節がそうあるべきに響くことで、そこに時間の経過と言うか、変容が示されていることに気が付くのである。例えばノルンの運命の糸はそのもの時の継続と断絶であり非連続な破局を予告する。そして暁となり、河の流れとなり、または平地から森、岩山、暗闇から光、炎、金から指輪などとなる。これらが一挙に終局へと向かって流れるのがこの第三夜である。(続く)
参照:
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
この落日二日目は、一回目の上演でキャンセルをしようとしていたのに登場して大向こうを唸らせており、それを新聞も扱っていたので、「言い訳無し」の大一番であったことは知れた。少なくとも序幕の愛の二重唱からの歌唱に、こちらは我を忘れて仕舞った。声も素直に出て明晰な高音を発声するのである。こんな音楽劇場体験として経験したことが無い高揚感のある歌唱で、本当に生で響いたのかのどうか不思議な気持ちにすらなった。すると不思議なことに洟がぽたぽたと垂れてくるのである。どうも交感神経が緩んでしまったようである。頻繁に日本のクラオタさん達のなかでは直ぐに泣く話が出るが、洟が出る話はあまり知らない。どうしたのかと思って、幕が終わると洟をぐずぐずさしているのが前列中央方向から聞こえた。あれはあっけにとられたというか、全く涙どころではない場面であり、そうした感情とはこれは関係ないのだ。要するにショックとか何かそういうものに近い。それはどうもこの楽劇の全体の枠組みにも関係するようである。
そして、その直前のノルンの三重唱の音楽の網の目を透かすかのような精密と同時に気配のある響きと歌唱も素晴らしかったが ― 一日目の新聞評にもあるように、断言できるのは2015年の暮れの上演ではなせていなかった精度であり、まさに指揮棒から赤い糸が張り巡らされている様だった ―、なんといっても続く夜明けの音楽には度肝を抜かれたのだ。このように正しく演奏されれば完全にドビュッシーの「海」の日の出に匹敵する創作だと分かったからである。これはバイロイトの奈落でも難しく、2015年ミュンヘンでの演奏でもそこまでは至らなかったものだ。管楽器、弦楽器、發弦楽器、打楽器群が有機的に各々が音を選んで演奏しないことには生じない響きである。その効果が生じているのは全編であって、そこだけでは決してないのだが、各々の楽器奏法の所謂ノウハウが集結されている。超一流交響楽団が当然の如くしていることなのだが、劇場ではいつもの効果音程度のこと以上はしないものだと一般的に思われているところである。
その具体例としてアーティキュレーションがある。一番音色との関係で分かり易いのが木管群であるが、それらがレガートなのかノンレガートなのか、更にどのようなリードで吹くかで、ソロでなくとも音色が変わる。それらがいつも完璧に成功しているかどうかは判定不可能でも大変留意されてていることは明らかなのである。同様に低音楽器がスタッカートに刻むかヴィヴラートで響かすかで全く音響が変わる。そうした備えがあってこそ、しっかりと指揮することで愁いを以ってもしくは鋭く響くサウンドが最初から最後まで鳴り響いたのだ。
こうして小さな動機を通して振り返って見ていくと、そうしたアーティキュレーション上の特徴が、ファフナーの動機やもしくは鍛冶の動機若しくは隠れ兜や契約の動機、またラインの波に角笛の動機など何を挙げても構わず見て取れる。それらはレガート系やノンレガート系など大きな区分けも出来て、その中でも気になっているのは巨人の動機が再び最後に出て来ることである。
二幕で問題となっていたアルベリヒの木管などは音量的にバランスを取るというよりも正確に吹かせるようにしっかり振っていたのだろうと思う。つまりそのシンコペーションの基本リズムを精査することでバイロイトの奈落の時の様に突出してしまうということが無くなるということであろう。全く違和感が無かったどころか、寧ろそうしたが故意にぞんざいそうに吹くその響きへと余計に注意を促すのであった。そのように楽匠が書いているのである。当日はまた別のオーボエソリストが入っており、第二コンツェルトマイスタリンは何時ものおばさんだった。
そうした細部から一体に何が明らかになるかというと、要するにそのように夫々の楽節がそうあるべきに響くことで、そこに時間の経過と言うか、変容が示されていることに気が付くのである。例えばノルンの運命の糸はそのもの時の継続と断絶であり非連続な破局を予告する。そして暁となり、河の流れとなり、または平地から森、岩山、暗闇から光、炎、金から指輪などとなる。これらが一挙に終局へと向かって流れるのがこの第三夜である。(続く)
参照:
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音