Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

細部から明らかになる

2018-02-14 | 
熱狂的な歓声が響いた。それは事実だ。そして最後まで執拗に呼び出す何時もの人たちがいた。私たち数寄者である。四回の公演を顧みての喝采である訳だが、やはり最後は予想以上に纏めてきていた。その一つは、ブリュンヒルデを歌ったニナ・シュテムメだろう。初夏の「パルシファル」での登場もあるので、「ジークフリート」までの出来では期待が高まらなかった。少なくとも私自身は、彼女の歌唱を生で聞いて、幾つかの不満点が残った。聴衆はもう一つの成果を求めた。そのような塩梅だろうか。あれほどの名歌手になっていても、最終的には会場を唸らし喝采を浴びなければ駄目な世界なんだろう。

この落日二日目は、一回目の上演でキャンセルをしようとしていたのに登場して大向こうを唸らせており、それを新聞も扱っていたので、「言い訳無し」の大一番であったことは知れた。少なくとも序幕の愛の二重唱からの歌唱に、こちらは我を忘れて仕舞った。声も素直に出て明晰な高音を発声するのである。こんな音楽劇場体験として経験したことが無い高揚感のある歌唱で、本当に生で響いたのかのどうか不思議な気持ちにすらなった。すると不思議なことに洟がぽたぽたと垂れてくるのである。どうも交感神経が緩んでしまったようである。頻繁に日本のクラオタさん達のなかでは直ぐに泣く話が出るが、洟が出る話はあまり知らない。どうしたのかと思って、幕が終わると洟をぐずぐずさしているのが前列中央方向から聞こえた。あれはあっけにとられたというか、全く涙どころではない場面であり、そうした感情とはこれは関係ないのだ。要するにショックとか何かそういうものに近い。それはどうもこの楽劇の全体の枠組みにも関係するようである。

そして、その直前のノルンの三重唱の音楽の網の目を透かすかのような精密と同時に気配のある響きと歌唱も素晴らしかったが ― 一日目の新聞評にもあるように、断言できるのは2015年の暮れの上演ではなせていなかった精度であり、まさに指揮棒から赤い糸が張り巡らされている様だった ―、なんといっても続く夜明けの音楽には度肝を抜かれたのだ。このように正しく演奏されれば完全にドビュッシーの「海」の日の出に匹敵する創作だと分かったからである。これはバイロイトの奈落でも難しく、2015年ミュンヘンでの演奏でもそこまでは至らなかったものだ。管楽器、弦楽器、發弦楽器、打楽器群が有機的に各々が音を選んで演奏しないことには生じない響きである。その効果が生じているのは全編であって、そこだけでは決してないのだが、各々の楽器奏法の所謂ノウハウが集結されている。超一流交響楽団が当然の如くしていることなのだが、劇場ではいつもの効果音程度のこと以上はしないものだと一般的に思われているところである。

その具体例としてアーティキュレーションがある。一番音色との関係で分かり易いのが木管群であるが、それらがレガートなのかノンレガートなのか、更にどのようなリードで吹くかで、ソロでなくとも音色が変わる。それらがいつも完璧に成功しているかどうかは判定不可能でも大変留意されてていることは明らかなのである。同様に低音楽器がスタッカートに刻むかヴィヴラートで響かすかで全く音響が変わる。そうした備えがあってこそ、しっかりと指揮することで愁いを以ってもしくは鋭く響くサウンドが最初から最後まで鳴り響いたのだ。

こうして小さな動機を通して振り返って見ていくと、そうしたアーティキュレーション上の特徴が、ファフナーの動機やもしくは鍛冶の動機若しくは隠れ兜や契約の動機、またラインの波に角笛の動機など何を挙げても構わず見て取れる。それらはレガート系やノンレガート系など大きな区分けも出来て、その中でも気になっているのは巨人の動機が再び最後に出て来ることである。

二幕で問題となっていたアルベリヒの木管などは音量的にバランスを取るというよりも正確に吹かせるようにしっかり振っていたのだろうと思う。つまりそのシンコペーションの基本リズムを精査することでバイロイトの奈落の時の様に突出してしまうということが無くなるということであろう。全く違和感が無かったどころか、寧ろそうしたが故意にぞんざいそうに吹くその響きへと余計に注意を促すのであった。そのように楽匠が書いているのである。当日はまた別のオーボエソリストが入っており、第二コンツェルトマイスタリンは何時ものおばさんだった。

そうした細部から一体に何が明らかになるかというと、要するにそのように夫々の楽節がそうあるべきに響くことで、そこに時間の経過と言うか、変容が示されていることに気が付くのである。例えばノルンの運命の糸はそのもの時の継続と断絶であり非連続な破局を予告する。そして暁となり、河の流れとなり、または平地から森、岩山、暗闇から光、炎、金から指輪などとなる。これらが一挙に終局へと向かって流れるのがこの第三夜である。(続く



参照:
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
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山場を越えた安堵感

2018-02-13 | 雑感
ミュンヘンから無事帰宅した。安堵感と同時に充実感もある。四部作「ニーベルンゲンの指輪」のツィクスルAから精々二回ほど出かけるつもりで、一回当たり13ユーロの52ユーロの件を購入した。ネット販売システムの以前のアルゴリズムの時で、最初で最後の裏技購入であった。そして目当ての「ヴァルキューレ」の翌日の特別発売も購入の目的の一つだった。だからツィクルスで4回の往復する心算は無かった。しかし、前夜祭に行くとその熱気と特別な出来にもはや休めなくなった。

それでも700㎞を四回、冬場に車を走らせるとなると、とても計算が出来なかった。結局スキーを兼ねることは無かったが、二回宿泊して、一回ピナコテークデアモデルンに出かけた。外食は、四回ぐらいだろうか。

最後の一回も降雪が予想されたので、美術館訪問も兼ねるとその強行軍は割に合わないと思い宿泊にした。日曜日から月曜だったので39ユーロの部屋があり、先に手配しておいたので全く問題が無かった。川の写真がネットにあったのだが、空が白ばんで、窓の外を覗いて驚いた。窓の外に川が流れていた。静かだったので気が付かなかった。数十メートル先に小さなダムがあるのでその下は少し騒がしそうだ。その分堰き止められた上流は静かに流れていた。まるで黒沢映画「夢」の最終章のようだ。

往路は予想以上に乾いていて、ミュンヘンの街に入って初めて路面が濡れていたぐらいで、陽射しが射していた。これならば全く問題が無かったのだ。それどころか美術館に出かけるにも靴を履き替える必要が無かった。時折小雪が舞っていたが、比較的穏やかなミュンヘンだった。

しかし、期待していたピナコテークの駐車場は一般には閉鎖されていて使えなかったので、駐車場を見つけるのに大分周りを走った。そもそもピナコテークを見つけるのに時間が掛かった。ミュンヘンの旧市街周辺はやはり複雑だ。それでも歩いて数分のところの駐車場に入れた。

そこまで、朝7時41分に車を動かしてから、途中いつものところで車を止めてピクニックをして、ホテルのレセプションに立ち寄って、美術館に入ったのが12時15分ほどで、食事をして、駐車場から車を出したのが14時30分過ぎだった。燃費は可成り良く、市街に入るまでは半分以上残っていたのだが、駐車場を探すまでにある程度消耗していた。

劇場の駐車場に15時過ぎに入れて、食事をしてから23時過ぎに車を出すときにも小雪が舞っていた。路面も融雪が重かったので、翌朝を心配したのだが、陽が昇ると青空が出てきて、路面も前夜よりも乾いていたので走行に問題の無いことが分かった。案の定、明るい陽射しの反射が眩しい中をゆっくりと走らせたので、無給油で帰宅可能となった。燃費も復路としては大分よかった。復路は高地ドイツからライン平野へと下りになるのだが、いつもは夜道を吹かすので燃費が悪い。その分お得だった。

なによりも前の晩の市街地でも雪がフロントガラスに当たって乱反射して見え難かったので、宿泊無しの帰宅は堪えたと思う。劇場をはけたのが22時過ぎであるから、帰宅していても未明1時半は過ぎていた。ベットに入るのは明け方だったろう。なによりもかなり疲れていたと思う。朝5時半に起きて、よく明け方までの一日は長過ぎる。

車の番号札のライトの一つが切れたが、これは警察に指摘されない限り問題ではない。自分では球を替え難いようなので、次のインスペクションまでもう少し時間稼ぎする心算だ。復活祭前後になるだろうか。それ以外はエンジンオイルを消費して、また路上駐車するので洗浄液に氷化防止剤を入れたぐらいで、どこかでスピード違反とかしていないならばその点では損失はあまりなかった筈だ。兎に角、車が動かなくなったり、積雪で交通がマヒしたりすると、近くならばなんとか都合がつくがミュンヘンまでとなると、やはり覚束なくなるのである。その距離はやはり大きい。

次のミュンヘン詣では6月の「パルシファル」の予定で、今回の四回を入れると、回数からして残りはもう少なくなったかもしれない。個人的にも大きな山場を越えたという感が強い。



参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
引けてから一直線 2018-01-16 | 雑感
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論評できない異次元

2018-02-12 | マスメディア批評
承前)オペラの世界に引導を渡す天才指揮者と、何かを更に繰り返していこうとする愚鈍二流オペラ指揮者との世界を同次元で論評することは不可能だ。こうした高級一般紙が紙面を割いて伝える場合は同じジャンルの話しと見做されてしまうのが具合が悪い。

なるほど高級紙として、楽匠が考えていたような開かれた世界が911以降に変わったと書くが ― ティーレマン指揮をベルリン時代から何度も聞いてきたと言い ―、この指揮者が変わったなんてことはあり得ない。その後のPEGIDAへの参加など以前に、この新聞紙などと挙って我々は彼を攻撃している訳だから、そんなものではない。

しかし先の南ドイツ新聞の内容と、FAZの内容を一方の批評に充ててもそれほどおかしくはないのである。例えば今まで気が付かなかった管弦楽団のラインをとか、歌声と一体になった管弦楽とか、プッチーニなどベルカントと違わない感情的な音楽などであるとかである。最後のは例えばそれをドイツ的感情とすればアンナ・カムペ示したジークリンデの歌唱そのものだ。しかし、「嘗ての戦車仕立てとは違って傷つきやすいメランコリーと柔らかく流れる音楽を奏でる」と評されるオペラ劇場指揮者と、天才指揮者のそれを入れ替えようがない。「全ては総譜である」としても、結局はシュターツカペレの専売特許に乗っかっているという風にも読み取れる。要するにこの書き手は音楽を知らないクラオタのようなジャーナリストに違いない。そもそも、よりによって、「ヴァルキューレ」の死の予告の前の所謂「運命の動機」に纏わるところを挙げて、そこはヴァルキューレの騎行や森の囁きやラインへの旅のような管弦楽の目立つところではないなどとぬけぬけと書ける程度の音楽教養しか示していない。

なるほど、その場面を楽譜以上に強調する可能性はオペラ劇場ではあっても決しておかしくはない。そこが問題なのである。名曲をそれらしく鳴らしたり、大衆の期待に沿うように響かせることは罪ではないのだが、議論はまたそこにある。つまり最高品質の娯楽を提供するような指揮者ムーティなどがセンス良く響かすものへの許容と賛辞との大きな差異、またソニーレーベルの才能あるカラヤン二世が非音楽的に響かせることへの拒絶以上に否定し容易いものでもないことが、まさしくAfDなどの修正主義紛いの政治主張を否定することの難しさと相似なのである。

それでもバイロイト初代音楽監督の四部作を聴き通した感想として、宇宙の一部となり、漏らすことなく全てに合一化されるという感覚はキリル・ペトレンコのそれからは生じないだろう。ミュンヘンの方はドレスデンとは違って、場合によれば、上手く行けば行くほど醒めていく感覚も無きにしも非ずで ― 誰かが東京公演に接して漏らしていた感想でもある ―、必ずしも熱狂渦巻くということではありえない。コンサートの純音楽的な興奮とオペラ劇場のそれは違うということである。

宜しい、高級紙にも拘らずシュターツカペレから昨年は16人の弦楽奏者と3人の木管奏者がバイロイトの奈落に入っていたとか、どうでもよいことで貴重な紙面を汚しているのだから、それ以上には期待できない。しかし、なにも市場としてのオペラ劇場だとか、社会的な音楽劇場だとかの考察とは別にして、この人たちつまり少なくないこうした演奏行為を支持する人々の存在こそが書くべきことなのである。それは政治的に言えばやはりAfDとかの支持層に重なるものであり、要するにその人達の文化的感性であり、好意的に見ればライフスタイルの問題なのである。

なるほどそこで書かれていることの幾つかはなるほどオペラ劇場が音楽文化として伝えてきたもののひとつであることも間違いなく、それが19世紀のビーダ―マイヤー風であったとしても一概に否定されるべきものではないであろう。しかし、そこには社会の病理がある。なるほど、キリル・ペトレンコが今回ミュンヘンで示したことは、ある意味終焉してしまっているオペラ文化の発掘作業に近いものかもしれない。そしてそのような素晴らしいシステムが存在したなんて誰も信じてはいない。その一方その連中のやっていることは、「美しいxx」とか、まるで嘗て存在したかのようなことを言明して、それを実現化しようとしている妄想であることとの差が大きい。

それはもしかするとクリーゲンブルク演出のフクシマ禍であり、「文殊」のような永久システムの将来と過去をパラレルワールドとして境界を接して繋ぐものかもしれない。最終日を待たずにこうして結論までを書くのもポストモダーンの批評態度かも知れない。高級新聞は書いている、「ハンディ」電話の世界は違うと。



参照:
Geborgen in einem Kokon aus Klang, GERALD FELBER, FAZ vom 7.2.2018
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
MTBには負けないぞ! 2016-08-29 | アウトドーア・環境
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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なにが黄昏れたのか

2018-02-11 | 
承前)「神々の黄昏」を一通り目を通した。食事をしてからタブレットをつけると、立ち上がらない。週初めにタイルに落としてから動作が不安定だった。ハードの損傷は分からない。再び時間を掛けて修復を試みないといけないかもしれないが、ハードに問題があるとソフトの設定も覚束ないかもしれない。GPS腕時計もファームウェア―を入れてから安定していたが、峠を攻めて帰ってくると、再び充電が上がっていて、全てが蒸発していた。充電池を見ると入れ替えは難しそうだった。これもタブレットも同じような時の購入なので両方とも駄目になるかもしれない。旅行にタブレットを携行する心算だったが、潔く断念した。ミュンヘンから帰宅したら少し時間が出来る。

先日来楽譜があるのでタブレットを携行していたが、タブレットで頁を捲って行くのには問題なくとも、流して見るにはPDFの動きも悪くてPCのようにはいかない。時間があればやはり先に見ておく方が為になるだろう。後はメモを取るしか記憶に残す方法はない。公演一日目木曜日の短報が載っていて、その聴衆の反応のようなものは少なくとも伝わった。「何十年も心に残る公演」らしい。空間を揺るがした「ジークフリートの葬送行進曲」でのクライマックスも変わらなかったようだ。

その三場を調べると、音楽的な強調としてのそれは楽譜にはそこまで指示されていない。2015年の印象はその通りだったが、その時はブリュンヒルデの歌手があまりにも弱かったので当然の帰結だと思ったが、今回はニナ・シュテムメである。彼女は、ネットで話題になっていたように、キャンセルをも考えていたようだが、それを忍て歌っても、「カラスのメディア」ではないかと絶賛されている。もしそうならば是非お誕生日会にはしっかり合せてきて欲しい。要するに「葬送行進曲」と「自己犠牲」のバランスが、評にあるように「理想的な、ペトレンコ版の最高に素晴らしいジークフリート」を歌ったシュテファン・フィンケのそれの上に輝く筈なのだ。

しかし今回調べてみて、やはり前奏曲から一場の前夜祭「ラインの黄金」の始まりの始まりとの座標軸を見据えるかのような音楽構成に気が付いた。そもそもこの四部作では、冒頭の変ホの中抜けの和音を基準点にしてしまうのだが、結局はハ長調へと絶えず空間を開いている。葬送行進曲と三場への流れや同短調の扱いが、当然ながら設計図には予定調和的に指し示されているのだろうが、その意味からも二場における音楽はもう少し調べてみたい。要するにあまりにも単純な構図がそこに描かれているとすれば、そもそも偉大な芸術にはならない。この二場にしても回想から終結への感とするとまるでTV「太陽に吠えろ」の殉職場ではないか。実際そこはバイロイトのカストルフ演出では前夜「ジークフリート」からの続きとして、裏寂れた印象のチープを演出していたのだがクリーゲンブルク演出は違う。上の評にも従来の演出評の延長としての扱いがあったが、大きな音学的な構造をこうやって押さえていくと演出は最後まで全くずれていないことを確信し始めている。密かに今回その真価を体験出来るのではないかとも期待しているのである。つまり、管弦楽の、歌手の絶対的な演奏は想定内である。しかし、音楽的な細部の演奏実践を通して、この四部作がどのような感覚を齎すかは、たとえその演出を知っていても全く想像がつかない。

新聞には、もう一半シーズンしか専属でしかない音楽監督ペトレンコとのお別れの喪章が毎晩毎晩付けられていると、聴衆の気持ちを代弁して書いている。しかし「それほど素晴らしかった」からであるというのは間違いだ。何度も繰り返しているように、引導を渡し、何を残すのかを区分けしている作業がそこにあるだけなのだ。南ドイツ新聞にはそこまで高度なことは求められない。しかしフランクフルターアルゲマニネ新聞が、未知の書き手にクリスティアン・ティーレマン指揮のドレスデンでの成果を大きな紙面を割いて書かせているのには呆れた。勿論そこに驚かされたように響いたと表現された「ヴァルキューレ」での「死の宣告」の数分前のイングリッシュホルンやその色彩などと評することにどのような意味があるのかは議論の為所だろう。(続く)



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
槍先の鋭さで一刀両断 2015-09-26 | 音
秘義とはこれ如何に 2015-09-09 | マスメディア批評
事実認証とその意味の認識 2015-09-07 | 音
プロローグにカタリシス想起 2015-09-03 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
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パラレルワールドの構造

2018-02-10 | 
承前)一幕一場は、以前は弟のグンターに纏わる動機群の方が耳についたのだが、全体の流れでハーゲン関連への認知が強くなった。やはり前夜祭から動機群を細かく見てきたからだと思う。同時に今回の演奏で執拗に分析的な音を刷り込まれている影響が無視出来なくなった。つまり以前ならば、次から次へと指輪の指示動機やらが鳴ると、殆どその関連を求めて煩わしさえ感じたのだが、これがもう一つ細かな動機群として刷り込まれることで、殆どマーラーか何かの交響楽的なそれとしてあるいはエピソードとして響くことになる。

それは劇作設定上においても、ハーゲン・グンター兄弟、グートルーネなどが、アルベリヒ・ミーメ、ファーゾルト・ファーフナー、ヴォータン、フリッカ、フライヤなどとの並行宇宙が音楽的に展開することになって、漸く解説書などにある神話物語の設定と創作の芸術的な構造の繋がりが明らかにされる。

するとである、今まではあまり注意していなかった三場などでも、指示動機云々よりもさらに小さな動機が気になってくる。今回改めてヴァルトラウテの歌の重要性に気づき、それはヴォータンを肩代わりするとされているが、猶更そうなると大変な役となる。今更と思うが、そもそもヴァルキューレの数が多過ぎて、性格付けが難しい。兎に角、序幕、一幕だけで巨大で、楽匠が目した音楽劇場の宇宙は既にここでその並行宇宙として認識されるのではなかろうか。このように考えると、今までこの舞台祝祭劇の構図が充分に見えていなかったことになる。

そしてジークフリートによるブリュンヒルデの汚辱が、隠れ蓑によって人物設定が二重構造になりより内容を複雑化させるのだが、この解決も音楽的なその意味付けに求めるとなると、まさしく膨れ上がった楽譜のシステムがどのように響くかに回答を求めるしかないのである。

二幕前奏曲から一場は、バイロイトでも話題になった夢枕に立つアルベリヒと息子ハーゲンの情景で、そこで使われている動機の響かせ方に批判があったのだ。これに関してはもはやはっきりしていて、実際の演奏実践上の問題であるよりも、どこまでそうした細かな音型を意識するかだけの話しである。ある意味、そうした音楽捉え方の相違がこの第三夜「神々の黄昏」解釈へのキーポイントであるかもしれない。

それに続く二場でも所謂指示動機を如何に展開するかという創作上の妙となり、そして三場になって初めて合唱が表れてスぺクタルな展開へと同時に現代の我々からするととても鳴る音楽になるのだが、それ故に細かな動機に意識が及ばないと、とてものっぺりした「神々の黄昏」管弦楽曲メドレーのようになってしまうのである。最も劇的な四場から激しい五場へと進むのだが、もう一度調べてみなければいけない和声的な流れ以上に、もはや間髪を入れない動機進行などが意味を持つことになっている筈なので、益々そこを確認しておかなければいけない。

場面数は第一夜「ヴァルキューレ」の様に増えているのだが、とても手際よく進行することになっていて、まさしくその音楽的な構造に準拠しているということだろう。続けて三幕を見ていくのだが、既にここで2015年当時には分かっていなかった大構造が見えてきていて、ツィクルス上演のお陰となっている。もう一息だ。(続く

街道筋のアーモンドの木に白い花が青空の下に広がっていた。写真を写そうと思ったら冬空になってしまった。週末は広く降雪が予想されている。1ミリ2ミリ程度の降雪のようだが積雪状況によっては除雪作業などが済んだ頃を見計らってミュンヘンに到着したい。早めに出て美術館による予定なのだが、道路状況で敵わないなら仕方がないだろう。先週同様好転してくれると嬉しいが、少なくとも気温は零下9度の予想である。路面が乾いてくれれば助かる。



参照:
再びヴァルキューレ二幕 2018-01-20 | 音
雪渋滞に備えよう 2018-02-02 | 生活
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
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ARD真夜中の音楽会

2018-02-09 | 
1時半まで夜更かしした。ARD夜のコンサートでNDRからの放送を聞くためだ。当番の局は勿論自主制作の録音を出してくる。どの放送局でもアーカイヴの棚卸のようなところがある。それでも夜中の時間とあってそれ程意欲的なものは流れない。SWRチェリビダッケ指揮などや古いシューリヒト指揮などもあまりない。そこで流れたのは2007年にライスハーレでNDR交響楽団をキリル・ペトレンコが指揮して、ムスオーネンというピアニストが弾いたベートーヴェンのハ短調である。同じようなプログラムをベルリンで振っているのだが、ピアニストも違い管弦楽団も違う。しかしどちらも客演で条件はそれほど変わらない。

なによりも興味深かったのは、ソリストがどのように弾きたがろうが、それに極力合わせながら、曲を壊さないような最大限の配慮が見えるところだろうか。ベルリンのフィルハーモニカーになるとどのような客演指揮者が振ろうが、ソリストが弾こうが、枠を壊さないぞと言わんばかりに頑なに演奏してくるので、実際アーカイヴされているペトレンコ指揮のそれでも遣らせてる感が強いが、このハムブルクでの演奏はその分余計に参考になる。

まるで歌手に寄り添うかのような合わせ方が、明らかに当時まだ35歳のこの天才指揮者の技量と経験を見せつけているようで、恐れ入る。同じ年齢でこれだけ出来た伴奏をする人がいるだろうか?ベルリンのそれでは気が付かなかったような音楽をつけていて、楽譜を確かめてみなければいけないようなところが次から次へと出て来る。ピアニストのコンセプトは冒頭からはっきりしているが、それを活かしていて、ベルリンでのそれよりも遥かに成功している。名演と言ってもよいのではなかろうか。こういうのを聞けば、この指揮者がオペラ劇場指揮者ではなくて、コンサート指揮者でしかないことが分かるだろう。

日本公演の際に現地に乗り込んで新聞評を書いていたマルコ・フライのキリル・ペトレンコに関するPDF記事が劇場のネットにあって、その内容は当時の新聞の内容を残すものとして更に纏めてある。新聞での人格的なことに代わってここでは、その仕事ぶりについて焦点が当てられていて、上記の面を特に歌手との関係でいつものホルニストのレフラーが語っている。「一緒に呼吸をしてとことん合わせてくれるものだから、歌手陣はとても気持ちよく、尊重されていると感じるんだ、そして彼が思い描いたことはなんでも出来てしまうんだね、彼が上手く纏められなかった点なんてなかったな。」と、歌手陣でなくても器楽奏者にとっても、一緒に呼吸してくれて、一緒に仕事してくれる指揮者はあまりいないと、基本的には歌心があるという評価だ。

同時にその練習の厳しさが語られていて、「15時から22時まで時間を無駄無く、オペラを更って、弦楽器奏者なんて限界域に来るんだ。」と12年間の業界生活で無かったことだといい、「その反対にコンサートでは、簡単に追い込むということは無い。」と漏らす。

歌手を代表してヨーナス・カウフマンが語る。「ペトレンコは、完璧主義者だけどペーダントではない。彼は、とても正確で、開演五分前であろうともう一度細部に還って遣り直そうっていう人だ。その意味からすると、全然落ち着いていられない人だね。」、「彼は、その晩の舞台の出来に満足しているが、頭には一物あって、機械的に完璧であるべきでも、それはライヴということでやっているんだ」、「そして彼は、正確に聞いて、見て、感じ取っているように、とても注意深い。」、「彼は、首を上げて全て正確に観察しているよ、比較できるような指揮者は個人的にあまり知らない。」と賛辞する。

ここまで書いてあることは、注意深い聞き手や業界人には当然のように思えることで、それはライヴだけでなくても前記の録音などからでも十分に分かることである。しかし、先のレフラーは、「演奏家として彼を前から観れて、有り難いよ、彼の仕草やその姿がそのもの楽譜を表しているんだ。信じられないよ。」そして、2019年からベルリンに行ってオペラ界が懐かしくならないだろうかと語りかけると、「そう思うよ、彼は複雑が同時進行するほど気持ちよく感じる人だからね」と答えている。

勿論、これはいつもの話し、つまりオペラ指揮者かコンサート指揮者かの話しになって行くのだが、私に言わせると全く馬鹿げている。彼の音楽をしっかり理解している限り、このような戯言は出てこない筈だ。なぜ、オペラ上演で例えば「ジークフリート三幕」のようになるか、また「コンサートではまた違う」となるかは、明らかで、我々と違って彼は、何をミュンヘンに残していくか、オペラ業界に何を貢献出来るかだけを考えている。制限のある中でなにが出来るかを絶えずそのキャリアの中で熟慮してきた人で、天才は我々とは違って将来をしっかり見定めていて、その達成可能なところをしっかりと押さえている。それにしてもミュンヘンの劇場演奏家たちはとても幸運である。業界人であろうとレッスンを受けようと思えば授業料を払わなければいけない。自由時間も使わなければいけない。それが日々のお勤めの中でお金を貰い乍ら音楽を高度に学べるのである。音楽劇場界に与えるその影響は大きい。



参照:
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
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尽きそうな節電の可能性

2018-02-08 | 生活
2017年度の電気代の清算所が届いた。一年前に書いている、初めての試算で更に25%圧縮が目標と。残念ながらそれどころか微増になった。11月の同じ頃の検針の積算で、その点に関しては誤差程度しかないだろう。暖房などは関係なく、あり得るとすればオーヴンの使い方ぐらいであろう。洗濯を増やすことも無かった。

増えていたことは残念だが、それ以上に今後の節電の可能性が尽きたように思うのが辛いのだ。初夏からもう一つスタンバイを落としたので、その効果は若干出るかもしれないが、プラスになったところを気をつけないとまた増えてしまう。終わり無い、節電努力が必要である。それ以外は、冷蔵庫とキッチンのオーヴン等を買い替えなければ駄目だ。これで、1774kWhが1845kWhに増えて、追加に13.30ユーロ支払い、月毎54ユーロだったのが、55ユーロと値上がりした。

増えたのは、DACとキャストを長時間点けっ放しにしていることだろう。それでも微量増なので、差し引きと言うことなのだろう。少なくともDAC等の消費増は今後は無いと思うので、もう少し無駄を抑える方法を点検したい。今後はドッキングステーション用にモニターをもう一つ購入する予定なので、それも消費増となるか。

GPS時計の充電池が駄目になった。フル充電は出来るのだけどGPSを使い始めると直ぐに上がってしまう。やはり駄目になっているのだろう。一度分解して取り出せるものかどうか試してみたい。購入してから2015年5月であるから三年弱だ。三年として、充電を月二回としても72回しか充電していない。500回の充電可と書いてあるのにやはりおかしい。

雪は消えて、陽射しが気持ち良かったが、午前中は零下だった。それでも週初めとは違って乾燥しているので、空気が軽かった。



参照:
フクシマ前消費の半分へ 2017-01-29 | アウトドーア・環境
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
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腰が張る今日この頃

2018-02-07 | 文化一般
雪が残っていて、外出は億劫である。なによりも走るとなると足元が悪い。柔らか過ぎても、硬過ぎても、腰に負担が掛かる。怠けているかと言うと、先週も沢往復と峠攻めが出来ているので、それほどサボっていない。週末に出かけるとなると、三回走るのが時間的になかなか厳しいだけだ。

それでも急に空が明るくなった。日が射すとかなり眩しい。その分放射冷却で冷える。左の腰に張りがあるた。スキーをしていないでもこうなる。車に座って、劇場で同じ姿勢を取り続けたからだろうか。そして寒いところで走ったからだろう。酷くならないようにしたい。入浴して温めてみよう。そう言えばローティーンの時に山の本などを読んでいる時に炬燵に入っていたのか、とんでもないぎっくり腰になった記憶が鮮明だ。やはり寒さが直接影響するらしい。

教えて貰ったニューヨークのメットからの中継を録音した。丁度夜中になるのでPCを動かし続けた。どうも完璧に録音されたようだが、その音質は何とも判断がつかない。そもそも劇場の響きを生は当然のこと録音でもあまり知らない。ストリーミング中継はある程度の情報量はあると思ったが、如何にも劇場的な丸まった音である。暗雑音も高音が出ていないような籠った感じである。WDRでも中継があるらしいから比較してみよう。

第一印象は、管弦楽団は流石に上手いと思ったが、典型的な座付き管弦楽団で、指揮者も技術は高いのだろうが、そのアンサムブルを変えるようなところまでは行っていない。ストリーミング技術的な音質の影響もあるかもしれないが、やはりかったるい。テムポを数えてみないと分からないが結構早いにも拘らず弛緩している感じで、バイロイトの「指輪」でも成果を上げた指揮者アダム・フィッシャーがこの曲では引きづってしまって評判の悪かったことを思い出す。また一昨年かのバイロイトでのヘンヒェン指揮のそれに比べるとやはり腕が違うのも確かである。リズムとテムポの維持が難しいのだろう。だからピエール・ブーレーズが得意としていて、今回もその一回目のバイロイト出演と二回目のシュリンゲンジーフ演出時の録音が、ハンス・クナパーッツブッシュ指揮の名盤などと共にレフェレンス録音として音資料になるに違いない。これに関してもキリル・ペトレンコの独壇場だが、サイモン・ラトルがどのように纏めて来るかが興味深いところである。要するにこの曲ほど下手に指揮すると禅のように退屈する曲もないだろうということで、メルケル首相も来ていたケント・ナガノ指揮のバーデンバーデンでの公演もその域を出なかった。バーデンバーデンで今回歌うことになっていたヘルツィウスが歌っていることにも興味があった。
R. Wagner - Parsifal - P. Boulez (Bayreuther Festspiele, 2004)

Parsifal in Festspielhaus


合わせるのが難しいまたは容易ということでは、「神々の黄昏」の序幕を調べたが、やはり「ジークフリート」などよりは容易に感じた。そもそも曲自体が材料が手元に出揃っていて、あとはそれを組み立てて、少し新しいものを入れてといった感じだから、未完のものを弟子が完成したような風合いがこの第三夜にある。要するにそれほどの創作上の飛躍はあまりないとしても間違いではないのではなかろうか?(写真:2015年12月19日「神々の黄昏」)
Bayerische Staatsoper - Schlussapplaus Kirill Petrenko "Götterdämmerung" (19.12.2015)


どうでもよいことだが新聞にマンハイムの演奏会評が載っていた。指揮者はベルリンのフィルハーモニカーのソロオーボイスト、マイヤーである。地元のプファルツ管弦楽団のレジデンス音楽家になっているようだ。所謂地元の劇場などを回って演奏をしたり時々コンサートを開く楽団で、連邦共和国では放送局の交響楽団と並んで公的な州立管弦楽団である。但し対岸のマンハイムのような歴史的な市立オペラ劇場ではないので、何件かの劇場を回って演奏をする。本拠地はルートヴィッヒスハーフェンのプファルツバウであったが、州都マインツの劇場との合弁で今後動くのだろう。それでも以前は日本でも有名だったクレーとか、髭のセーゲルシュタムとかエシェンバッハ、知らなかったがグシュルバウワーとかスイトナーとかコンヴィチニーとかが音楽監督を務めているからN饗クラスか?マイヤーはラインガウフェストにも出るようで、奥さんがプファルツの人なのかどうかは知らないが、後任のソリストにはどのような人が入るのだろうか興味深い。まだ辞めるという話しは出ていないようだが、時間の問題のような感じで、ペトレンコが就任する2019年以降のシーズンには居ないと想像している。
Staatsphilharmonie Rheinland - Pfalz

ModernTimes - Bernd Alois Zimmermann / Luigi Dallapiccola

Florent Schmitt: Rêves op.65 (1913)

Leif Segerstam: Symphony No.253 (2011)

なんとチェリビダッケの客演、読響か!?
Rogoff-Celibidache-Mozart Concerto in A Major: Rehearsal followed by Full Performance


参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
カーネギーホールなど 2018-01-27 | 雑感
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ごついのはこれからじゃ

2018-02-06 | 文化一般
承前)第二夜「ジークフリート」一日目の公演の評が載っていた。歌手の調子もあって、二日目とはフィンケへの評価は控え目なようだが、管弦楽へのつまりキリル・ペトレンコへの賞賛と、アンドレアス・クリーゲンブルク演出の効果に関しては正しい。

但しそこでは、その陰影に富んだ響きやプリズムを通されたような音色、瞬時の色変化をして、額縁に収まったようなワーグネリアンの幾らかが喜ぶようなルーティンな喧しくフェットな音がこの偉大な国立管弦楽団からは一切響かないと評する。それは、その劇内容に想起され、コメントし、対照化される殆ど実験音楽である素材をペトレンコは示しているということになる。

その一つとしての森の囁きであり、一幕での弦のクラスターと同じように、上の言及の具体例とされてもよいだろう。二場ではそこに旋律が乗ってくる訳だが、ソロヴァイオリンのオブリガートから管楽器間での鳥の囀りの呼応があって、フライヤの動機由来の三連符など出て来る。それが丁度その前のミーメとジークフリートとのディアローグに対応する形となって、その歌における受け渡しの秀逸さが、ここに改めて楽器間の受け渡しとして呼応してくる。恐らくここは楽匠が書いた最も美しい場面であると思うが、正しいテムポをしっかりと刻んで、そこに各々の奏者が制御されたソロを披露しないとこの場面が活きてこない。一幕では一番のホルンにはいつもと違うおじさんが座っていたので訝ると、二幕からはいつものデングラーが座った。舞台裏での吹奏での移動なのだろう。勿論ここでのソロなどは、注意して目指す響きを出すだけなのだが、やはり声に寄り添うような響きは格別であり、交響楽団の響きではこうした効果は出ないと改めて思う。今回は第二夜までは目立つ音外しは「ラインの黄金」のフィナーレのトラムペットぐらいでその他は万全に進んでいる。

一場におけるファーフナーの登場も演出上とても目立つ舞台仕掛けなのだが、信頼のおける舞台職人であるアンドレアス・クリーゲンブルクが、敢えてバスのファーフナーを上から歌わせたことを聞き逃してはならないだろう。これを、新聞にあるように効果とみるか、四部作創作の核心へと迫るかの評価の仕方で大きな違いだろう。なるほどポストモダーン的な舞台解決とするのは正しいかもしれないが、そこで思考を停止してしまうとこの作品への理解は特に音楽的には深まらないと思う。蛇足乍ら新制作としてこれを指揮したケント・ナガノの音楽ではそこまでは深まらないことは確かで、殆どファンでもあるだけに、天才というものが存在する世界ではあれだけの超一流オペラ指揮者が哀れにさえ見えるのである。

三場におけるミーメ、アルベリヒ、ジークフリートの絡みとの並行関係が管楽器におけるそれにも表れていて、ペトレンコ指揮の技術的な秀逸がそのアゴーギクとリズムの組み合わせにも明らかだ。チェロが柔らかな音色でカンタービレで歌いと、カラヤン指揮の抒情的なベルリンのフィルハーモニカーのスタディオ録音でも到底出来なかった細かで豊富なニュアンスで、そして一際ダイナミックを下げながら終えるフィナーレまでの流れは神業であった。

それゆえに、三幕での演奏が、到底座付き管弦楽団ではとても実現不可能な次元である限界を改めて認識させたと述べておこう。なによりも不満が大きかったのは例のハイライトへと繋がる山なりの一節がクリーゲンブルクの演出のフォイルの漣の雑音にマスキングされてしまったことで、これは看過できなかった。ペトレンコは、少なくとも再演として、それを受け入れた訳だ。もし舞台一杯に広がる透明フォイルを他の材料で調達しようとしたら可成りの費用が予想されたのでもあろうが、音楽的にこれを受け入れたことも留意しておく。いかんせん、この三楽章の大変奏曲のような音楽はベルリンのフィルハーモニカーとのバーデンバーデン公演を待つしかない。バイロイトでも独占的に行わなければ難しく、これだけの精度を要求するとなると殆ど演奏不可能な感じさえする楽譜である。何時かの楽しみに仕舞っておくべき三幕である。

まさしく、南ドイツ新聞の見出しにあるように、そこで「ごっついフィナーレはまだこれからじゃ」となる。このように恐るべき舞台祝祭劇の上演となって来ている。木曜日に第一日目となるが、その第三夜に関してはお勉強を始めると同時に、2015年の印象を下ろしてきて夢想することになる。その時のダイナミックの頂点は「ジークフリートの死」にあった訳だが、それは今回も変わらないだろう。それを思い出すだけで胸の動機が高まる思いだが、楽譜を最初から最後まで見てそのダイナミックの音楽的な根拠が読み取れるだろうか。少なくとも最初の「三人のノルン」や「ラインへの旅」のそれは分かっている心算だ。

当日の観客の反響は、第一夜「ヴァルキューレ」に比較して、より多くの人が数回後のカーテンコールでも残っていた ― 平土間前半の人々がそこまで熱心に喝采するのは珍しい。同じ回数で第一夜には二ケタだったのが、第二夜には三桁以上の人が残っていて、それも300人を軽く超えていたかもしれない。その後いつものように二回続いたのだが、私は前夜祭と同じく最後の最後は駐車場に急ぐべくロージュまで降りていた。



参照:
Das dicke Ende kommt noch, Harald Eggebrecht, SZ vom 1.2.2018
生という運動の環境 2018-02-03 | アウトドーア・環境
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
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ジークフリートの鞴

2018-02-05 | 
舞台祝祭劇「ニーベルンゲンの指輪」第二夜「ジークフリート」である。この作品を生で最初に観たのは2014年バイロイト第一クールでの上演であった。録音ではローティンの頃から馴染んでいたが、この作品が一番良いと確信するようになったのは、カラヤン指揮のLPを購入してからかもしれない。勿論ベーム指揮の実況録音も、フツトヴェングラー指揮の録音も聞いていたのだが、細かくはよく分からなかった。その後に、デジタル録音のヤノフスキー指揮の安売りCD「ジークフリート」をカールツルーヘで物色して購入したのだった。

古い録音ではよく理解できなく、二流の指揮者の演奏では確認できなかったものが、バイロイトの上演ではっきりして、カラヤン指揮の演奏では楽譜が充分に音化されていないことを知れば、如何にフォンカラヤンと言う指揮者が創作を冒涜しているか分かる筈だ ― カラヤン指揮を否定出来ない者はしっかり楽譜と照らし合わせてみれば議論の余地のないことを知るだろう。

だから今回も今回の演出で舞台を一度観た「神々の黄昏」同様にこの作品を体験するにはそれなりの心の構えが必要であった。それどころかミーメ役があまりよくなかった2015年バイロイトでのフィンケの絶賛された歌唱でさえあまり受け付けなかった。それが今回はミーメ役のアプリンガーシュペルハッケの歌唱特にそのドイツ語のアーティキュレーションにも技術にも満足した。そして肝心のタイトルロールのフィンケの歌唱も演出は異なり蓋の有無が大きいとしてもその声楽的な進化に満足した。なによりも弱音を活かせるような方向に向かっていて、そもそもの疲れ知らずの声に技術が加われば第一人者になることは間違いなかった。中々ドイツ語をしっかり歌える歌手がおらず、この夜でも、北欧勢と上の二人とフォンデアダメロウを比較すれば明らかだった。

歌手の精査についてはいつも無駄と諦めているのだが、キリル・ペトレンコが振ると余計にその正しさが際立ってくることが分かって来たのだ。テキストを正しく歌うことで音楽が流れだす好例以外にも、上手く行かなかった例としてニーナ・シュテムメの歌の子音がハッキリせずに残念にもその音の粒立ちが丸まってしまうことがある。今回は三幕三場になって初めて登場するので、声には余裕があっていつものヴィヴラートも抑制されていてよかったと思ったのだが、残念ながら何を歌っているのかわからない。スェーデン語はなるほど深い母音が特徴だと思うが、子音が大分違うようだ。

一幕だけに限っても、これが歌だけの課題でないことが明らかだ。幕開けからして、ミーメが金床を打っているのだが、その軽い響きからして面白いのだが、楽譜を見ての答え合わせは出来ていない乍らも、ファゴットからクラリネット、オーボエ、フルートなどの木管や各々の音色を活かしての受け渡しとその弦や管との混合、前打音のような連桁、それとファーフナー動機のようなスラーで伸ばされた符との並立した関係が、同時に上下の空間認識の中でも生きている。楽匠がどのような楽想のスケッチブックを使っていたのかは知らないが、とても気が利いている。

同時にそのリズムが司る構造を考えるとやはりどうしてもベートーヴェンの第七交響曲へと思いを馳せてしまうのだ。そうした交響楽的な演奏実践を考えても、座付き管弦楽団が例えば管楽器だけを挙げてもこれほどコントロールされているのを知らない。弦楽器のトレモロのクラスタートーンも含めて再び二幕でどうしても耳を傾けざるを得ない演奏実践となっている。このように楽劇を演奏した座付き管弦楽が今まで歴史的にも存在したことがあるだろうか?

上の軽いハムマーの音は、三場においては演出的にもミーメの包丁を叩く俎板の音に引き継がれている訳だが、演出的にもとかく評判の悪かったクリーゲンブルクのこれは、少なくとも一幕から二幕へと大きな世界観を示しており、先日に書いたような俯瞰的であったりのその視座こそがこの四部作の核心であり、マスゲームのように使われるバレー団の動きはコンセプト的に大成功している。特に三場のジークフリートがふいごを吹かすシーンでの人間ポムプなどはこの楽劇の本質を舞台化する演出方法の一つに違いない。(続く



参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
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「舞台祝祭劇」の疲れ

2018-02-04 | 生活
疲れた。幸い乍ら往路は雪の影響をほとんど受けず乾いたところを走れたが、帰路は零時半過ぎに北シュヴァルツヴァルトのプォルツハイムからライン平地へと下りフランスとプファルツとの三角地帯になるカールツルーヘへと坂のところで可成りの降雪となり、少し遅れていたら再び前回のようなホワイトアウトでとても怖い思いをしていた。最後の数キロの坂道がそれでも雪がついて怖かった。あの後事故が起こっていたかもしれない。

往路は思いがけないほど燃費良く走れ、100㎞8リットルと冬タイヤでは記録的だったので、ミュンヘンに着く頃には復路の残り燃料も充分だった。そのお陰で帰りも飛ばしたが、まだ8リットル燃料が残っている。次回は日曜日なので金曜日ぐらいの給油になるだろうか。

休憩の無い前夜祭「ラインの黄金」は早く引けたが、第一夜、第二夜と上演時間が長くなってくる。第三夜が一番長い。「ヴァルキューレ」は宿泊したので分からなかったが、「ジークフリート」となると日帰りは結構辛かった。帰宅時間が午前一時半になるとやはり眠い。カフェインで眠気は騙しても、上演時間が長いとその集中力だけで疲れる。

残すところ第三夜「神々の黄昏」のみとなった。舞台は2015年に観ていて、フィナーレもYOUTUBEに上がっている。歌手に関わりなく素晴らしい公演で、正直のところここまでの続きとしてあまり繋がらない。この辺りも、メモを読み起こしながら、疲れた身体で、一日掛けて纏めて行かなければ、来週のための更なるお勉強が始められない。とても不安な強迫観念がある。それほど重く受け止めていて、そもそも一音たりとも疎かにせずに聞いてやろうというこちらの根性も殆ど病気である。

その不安の背景には、ここにして初めて理解してきた「舞台祝祭劇」と称するものの所謂蓋付きのバイロイトの劇場と蓋無しの通常の劇場での上演、またその楽譜に書かれていることの演奏実践などを考えていくと、知っている筈の第三夜との繋がりが分からなくなってきたからである。それ以上のことは改めよう。

確かバイロイトの時は一週間に二度のブロックに別けて往復したと思うが、今回は一回は「パルシファル」入場券取得のために宿泊以外は日帰りになっている。次回も当夜泊ならば翌月曜日には美術館が開いていない。前夜泊は宿がなかなか空いていない。当日泊ならば昨夜土曜日に宿泊して日曜日に美術館もあり得たのだが、この天候からすればそれはそれで帰路が辛いことになっていたようだ。

午前1時半帰宅してもやはり列車での5時過ぎの帰宅とは違う。ベットに入ったのが3時過ぎでも、朝はそれなりに目が覚めた。次回は更に遅くなるので帰宅は2時頃だろう。最後の小さなセレモニーまであると、更に遅くなる可能性もある。

朝一番で出かけて、美術館に午前中に入るには、7時出発である。帰りはきつい。その日に宿泊するとなると、街外れのホテルに先に鍵だけを取りに行けないか?すると大分楽である。それならば宿泊する方が楽かもしれない。先ずは、39ユーロの部屋を予約してみて、尋ねてみる。



参照:
生という運動の環境 2018-02-03 | アウトドーア・環境
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
引けてから一直線 2018-01-16 | 雑感
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生という運動の環境

2018-02-03 | アウトドーア・環境
予報天気が好転している。予想されたような降雪量も降雪時間もないようだ。それどころか午後には太陽も拝めそうで、気温も低いので足元は悪くないかもしれない。上手く行けば、アウトバーンでも雪が飛んでしまって、路面状況は良いかもしれない。そうなればそれほど余分な走行時間を逆算しないでも良くなる。燃費も悪くはならない。燃料だけはさらに安くなっていて、ほぼ2.5ユーロほどは高くついたかもしれない。

実は金曜日から土曜日の安い39ユーロの最後の投げ売りの部屋を見つけて、予約直前までしたのだが、当然ながらキャンセルが効かないので断念していた。金曜日にチェックインしてもある程度早めに出て行かなければ、遅くなって、夕飯にまた困るだろうと思っていた。チェックアウトは12時なので、そこまで休んで、直接昼飯に出かければよいと思っていた。それにしても、積雪があって足元が悪いと不都合なことも多く、前回のことを考えるとげっそりしていた。オペラやコンサートに旅行で移動しながら訪れる数寄者も多いが、そのようなことを考えると大変だなといつも思っている。

小雪ならということで、前回も使ったティロル帽子を毛糸石鹸で手洗いして、車に積んでおくことにした。面白かったのは他所の街ではそれほど注目されないのだが、ミュンヘンでは目立たないかと予想していたが逆に人の目を引いてしまった。その関心の眼差しを見ると想像していたものとは全く違った。

勿論私の帽子には羽もついていないし、特に目立つものでもない訳だが、ミュンヘンの男たちはどうしても見る目が発達していて、あれはどこで買ったやつなのだろうと、すれ違いながら品定めするのである。そのような視線を幾つも確認した。これは完全に想定外だった。そこで今度はしっかりと手洗いをして、天気が良くても街を歩くときには被ろうと思ったのだ。流石に夏ではないのでレーダーホーゼの男は見かけないが、やはりミュンヘンは特殊なところだと今更ながら感じた。何処で購入したかは記憶に定かでは無いが、ネットで調べるとドイツの老舗大手らしく、各地で購入可能だ。山登りのために購入したので、オーストリアで購入したかシュヴァルツヴァルトだと思う。手洗いしても型崩れしなかったので、流石と思った。

承前)再び8月31日モードである。楽劇「ジークフリート」三幕三場を残すだけで、一幕、二幕と再び通して、今度は音資料として2014年バイロイト祝祭のあまり音質の良くない録音を流す。2015年の優秀録音を流したことはあるが、自身が会場にいた2014年をつぶさに聞いたのも初めてである。思っていたよりもアンサムブルは2015年とは落ちる分、録画が予定されていた2015年の三幕などでは綻びも逆によく目立ったが、なによりもミーメ役の歌が違った。録音を聞くと技術的にも声的にも2015年の若い人の方が優れているようだが、アーティクレーションがなっていなかった。だからその歌では楽曲の真意がなかなか読み取れないと思う。二幕においては一幕ほどに中心にはおらず、三場のアルベリヒとの掛け合いと、死に至るジークフリートとの場面、その前の二場でのジークフリートを唆す場面となるだけである。しかしミーメが音楽的に要になっていることが、一幕の歌の重要さで分かる。

二幕一場のさすらい人とアルベリヒのディアローグが、これまたこの楽劇の特徴で、その入れ替わりと対話の仕方が、他の場面におけるディアローグ例えばエルダとのそれとは大分異なり、間髪を入れない受け渡しとなっていて、それが劇的な緊張感を意図したというだけではなく、音楽的な構造になっているようだ。ようだというのも、最終的には歌が先が音楽が先かという問いにここでも出合うことで、要するに適当な通奏低音をつけたテクストではないのが楽劇だから当然である。そして自身が書いたテキストとその作曲の過程を考えると興味が尽きない。例えばこのアルベリヒとの対話自体が、「ラインの黄金」や「ヴァルキューレ」でのフリッカとヴォータンとのディアローグなどよりも如何に当時の作曲家のある意味社会的な姿が剥き出しに出ているのではないかと思う。なるほど当時楽匠の書いたものなどを読むと、ある意味そうした自身の環境を自己観察しているようで、まるで小説家の様な塩梅だった。そうした観察力と洞察力が、まさしくミュンヘンの劇場が今掲げている「愛されて、憎まれて」の愛憎世界を芸術としているところだろう。

一幕一場におけるもしくは全編を通しての管弦楽法の低音と高音領域のしばしば中抜きをしたその音響構造自体がここでは高低の空間認識と結びついていて、勿論調性的にもであるが、当然の如く三幕三場で高みへと至る構造になっている。ニーベルンゲン族自体が下であることや指輪による世界支配というような鳥瞰的な視野との対照となっているのみならず、小鳥などがこれまた重要な歌を歌っていることと必ずしも無関係ではないであろう。二幕なども下手をするととても漫画的になりやすい舞台と音楽となっているのだが、触れたようにディアローグの精妙さ味噌であろう。こうした音楽劇場においてのディローグはモノローグで無ければ「定常状態」であるのだが、そのように注目させるのは全てその音楽的な秀逸さでしかない。それほど霊感に満ちた、まさしく舞台祭典劇を書いている。

山なり旋律のその重要性は通常の分析でも説明可能な訳だが、宇宙人へのメッセージにこの四部作の楽譜とCDを託したかどうかは知らないが、少なくとも宇宙人はこれを見て地球には重力があって、まるでそれに逆らうかのような運動があって、そこに生と言うものが存在することまでは認識可能ではないかと思う。



参照:
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
高みからの眺望 2005-03-09 | 文学・思想
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雪渋滞に備えよう

2018-02-02 | 生活
週末にかけて降雪が予想されている。前回のミュンヘン行では帰路9時間掛かった。土曜日の夜だったので、除雪作業が間に合わずに、アウトバーンで三時間ほど立ち往生した。これを逆算すると16時に始まるとなると、早朝6時には出かけなければいけない。流石に現実的ではない。予想されていて、夜半から午前中の降雪が予想されているので予め準備はしているだろうが、交通規制無しには難しい。通常ならば9時に出れば昼食をして、買い物をしてと充分な時間である。

そこで代替策を考えた。列車旅行である。金曜日の夜にスキー場に前乗りは宿が無かった、忙しくてとてもそこまで気が回らなかった。例えばマンハイム発でミュンヘン往復ならば、往復40ユーロである。驚いたのは夜行が走っていて、ミュンヘンを零時過ぎ発なので、劇場が終わってからビールをたらふく飲んでから乗車可能だ。但しマンハイム到着が4時半で四時間もかかる。帰宅してベットに入ろうと思えば6時である。たとえ車中でタブレットを弄っていても、ビールを飲んでいても、辛いと思う。なるほど往路は楽譜を見ていけるのだが、復路となるとメモしたものと楽譜を合わせるだけの作業になる ― ペトレンコ組の試験の答え合わせである。そして冬ならば古い頑強なコートを羽織っていかなければいけなく、積雪があれば足元も悪く、靴まで替えなければいけない。更に手荷物も限られるので、とても面倒なのだ。一等料金も10ユーロ増しなのだが、人に聞くとそれほど良くないらしい。空調フィルターが効いている自分の車とは比較にならないようだ。

駐車料金は中央駅地下駐車場に停めても30ユーロほどなので、まだガソリン代80ユーロに比較すると余裕がある。劇場の駐車料金を20ユーロとして、その他では飲み食いの金子が必要となる。車ならピクニックで充分だ。これが日曜日ならば美術館も安く入れるので無駄が出なかったが、土曜日は数ユーロする。差額は益々縮まる。出来れば車で往復したいが、状況によっては途上の最寄りの駅で高額の切符を買って列車に乗り換えることなども考えておかなければいけないかもしれない。いずれにしても今回は8時ごろには出発しなければ確実でないかもしれない。帰宅は道が開いていれば未明1時には帰宅出来るだろうか。雪雲レーダーと交通情報から目が離せない。

承前)その楽劇「ジークフリート」三幕である。前奏曲の中身は逆戻りしてもう一度見なければいけないが、先ずは一場のヴァンダラーとエルダの絡みだ、二人の前夜祭でのそれよりもここでは第一夜の二幕二場のヴォータンとブリュンヒルデとの絡みの場面をどうしても対照化してしまう。ここでは和声の絡みの境界を超えてしまっているのだが、同時にエルダとの対比などが付けられていて、管弦楽法的にも興味が尽きない。二場のヴァンダラーとジークフリートの絡みにおいても二つほど動機の扱いがとても気になってきた。三場は何度も触れているがまさしくルツェルンのトリプヒェンの風景であり、氷河を仰ぎ見る音楽としてこれほどのものが書かれたためしはないが、やはりハ調で締めてきて、そうした山なりの旋律構造はこの四部作でここぞというところに出てきている。とりわけ面白いのは、ここでいうヴァンダラーとか、その歌詞がどうしても独墺ロマンティックの様相つまり一方における自然賛美などに傾きつつ、そのホッホロマンティックとは可成り離れた工業社会との対比を描くブルックナーなどの相似性が顕著となるのである。もう少し時間を掛けて見てみないと、まだ十分な把握が出来ていないで、少々混乱している。要するに楽匠がそこでどうしてそのような楽譜を書き込んでいったかの思考過程が、感興が分かってこないと幾らアナリーゼを進めても意味が無い。これだけ素晴らしく密に書き込まれているだけに、一音たりとも疎かにしたくないというのは、指揮のキリル・ペトレンコの気持ちと変わらないのではなかろうか。あまり時間が残されていないが、どうなることか?



参照:
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
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素人に分らない世界

2018-02-01 | 文化一般
ミュンヘンで購入してきたヴェ―レヴルストの写真である。名物の白ソーセージの中身である。これが通常の焼きソーセージならばブレートと称する。これはここでも二回触れている。その肉自体がメットと呼ばれるもので、それを焼くからブラーテンするブレートである。プファルツはバイエルン王室の一つの親元にもあたるが、行政的には属領であったり、フランス領であったりした。そして白ソーセージの食の歴史は伝わっていない。同じようにザウマーゲンはバイエルンには無い。

だから、この白ソーセージの中身は知らなかった。ビアホールで食したことがあるかどうかも記憶にないが、白ソーセージだけでなくこれをお土産にするだけでも、一寸変化が出る。白ソ-セージはヴィーナーと同じように焼かないのに対して、これは通常の焼きソーセージのように焼くからである。いつも食するとなるとつまらないかも知れないが、時々食すると旨い。

これも白ソーセージと同じように蜂蜜入りの辛子が合うのかもしれないが、油が混じっているだけにあまり拘らない。付け合わせには作ってあったザワークラウトを、残りの黄色のピーマンを一緒に炒めて、とても上手く行った。また次回も買いたいと思った。

2016年産ゲリュンペルを開けた。これは試飲無しで特別に六本だけ譲って貰ったもので、初めて試すものだ。先に開けた2014年産の二年経過後の出来とその最初の時点を思い起こすと、どうしてもまだまだ若いことが分かっていながらも勉強のために開けておきたかったのだ。

一言でいうと、酸は十分に鋭く、まだまだ寝かさないといけないが、ザールなどのワインと同じように2016年産はとてもとっつきやすい個性がある。逆に、2014年のような開いていない塊やミルキーさなどが無く、ミネラルが強く香り、炒った青っぽいナッツ系の味もあり、果実風味もいつののように拮抗している。印象としては2014年ほどは長く楽しめなくても10年経過までは慌てなくても楽しめる。それが分かるだけでこの価格はお得である。それゆえに飲食業者などの業界が先を争って購入するのである。毎年何パーセントづつ販売価格を上げていけるからである。要するに投資対象でもある。それが保証されていることが商品価格を押し上げるという構造を素人の数寄者は考えない経済なのである。どの世界でも同じだが、如何に素人と言うのが、その玄人の世界に気が付かずに生きているかというのが分かるような話しである。



参照:
ロールキャベツを食せば? 2009-08-09 | 料理
符丁に酔って、芥子を落とす 2005-08-02 | 料理
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
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