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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

残席から探るランラン状況

2018-06-16 | 雑感
一日避難の準備に入る。とはいっても、祭りが始まる前に買い物を済ませて、夕飯の準備をして、明くる日の服装とお泊りの荷物をするだけだ。そして土曜日も朝からパンを取りに行って、走って、肉屋に寄るので変わらない。但し早目に済まして、一眠りしてからフランクフルトに向かいたい。峠攻めを走るとそれなりに疲れる。

少し暑苦しいがルクセムブルクに着て行ったのと同じもので、シャツは今回で洗濯屋行きだ、ミュンヘンの初日は違うものを着る。七月もそれが使えるだろうか。兎に角、夏は暑いので可能性も限られる。蝶ネクタイの方が涼しいのだが、もう少し色も揃えておきたい。七月向けにバーゲンで買えるかもしれない。フランクフルトの劇場などは普段着でよいのだが、少し良い席などを取るとどうしても目立つのでやはり考えてしまう。立見席の便利なところはそこにもある。

興味深いのは残券の状況だ。ここでも急激に売れ始めたと思ったら、新たな券が10枚以上放出された。とてもいい席は劇場がリザーヴしていたものの感じだ。その他も定期会員の戻しか団体の戻しのような感じもある。公的な劇場であるから、いい加減に決まり無しに券を都合することはない。それでもこうしてどんどん出て来る。直前に思い出して行けなくなったのを届ける定期会員もいるのだろうが、興味深い。

気になるランランのカムバック、調べてみると昨年と同じような連弾のようなものが二週間先に催される。それには登場しても驚かないが、ルツェルンを超えて態々ウィリアムテルの故郷まで来て演奏するのだ。よほどスイスに金を預けているのだろう。それどころか同じ演奏会の枠でラべック姉妹はアンデルマットのゴンドラ駅まで行って演奏するようだ。大した建物ではないが、これもよほど金が眠っているのだろうか。ランランが立ち寄るコンサート自体はその山の上でなくて、湖の登山用品で有名なマムートの本社のある近所で、私が最初に音楽祭のためにホテルを予約した町の近所である。六週間ほどすると車で30分ほどのルツェルンでカムバックを飾ることになっている。そしてその初日の売り切れていた席が四つ並びで出ている。ちょっと不思議な感じがする。舞台の反対側だが蓋の開け方によってはそれほど悪い席ではない。一体どこの法人からの提供なのだろうか?そしてその意味は? ― しかしその後数時間でそれらは捌かれていた。

不思議なことにランランは11月に日本でヴィーナーフィルハーモニカーと演奏することになっているが、こちらでは演奏しないので川崎の前にどこで合わせるのだろう*。一方ワンはその直前三日前にパリで共演している。少なくとも日本公演は代われるようになっているが、その後のシナではダブルブッキングになって、日本でミュンヘンの交響楽団と演奏することになっている。もう一人アジア人の代わりが必要そうなので、なんとも言い難い。

兎に角、その後の予定はバーデンバーデンになっていて、それも一月以上前に完売していた。昨年のペトレンコデビューの時も直ぐには完売しなかったので、そのネームバリューの大きさは恐らくこの業界ではピカイチであろう。どうも欧州に比較すると日本ではそれほど人気が無いようだ。

燃料も20リットル入れた。138セントほどでここ暫くの高騰の中で比較的安かった。フランクフルト往復は全く問題がない。久しぶりのフランクフルトである。その間ミュンヘンへは十回ほど往復していると思う。それはバーデンバーデンよりも多いだろう。嘗ては、我々のバッハの会があったので定期的に出かけていたが、その時は殆ど満タンにして走っていた。今からすると無駄なことをした。高速だから重くて高速安定性もよいと思っていたが、燃費は街乗りも含めてかなり悪かった。それがミュンヘンへと通うようになってから省エネ走行が身について感覚が磨かれてきた。つまり100㎞は比較的中距離でも10リットルで計算して走れるようになった。だからフランクフルト往復も以前よりも安くつくようになっている筈だ。


*調べてみると、同じ曲を9月にコンセルトヘボーで合わせることになっている。



参照:
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
祝杯の無い幸福 2018-06-15 | マスメディア批評
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祝杯の無い幸福

2018-06-15 | マスメディア批評
ワイン祭り第二週が始まる。穏やかに一週間目を乗り越えて、一日出掛けることもあって、天気が良くなって晴れても来週明けには解放される。ワールドカップもあることであり、変に祝杯などが重ならないようなので大丈夫だろう。それよりもなによりもソニー様のお陰だ。

そのノイズキャンセリングイヤフォーンへの批判を読むと出来上がりが悪くクウォリティーコントロールがなっていないというのがあった。第三国で製造している限りは限界があるだろうと思う。少なくとも私の手元に届いた製品に関しては欠陥は見つからない。中には音が割れるというのがあったが、最初に感じていたものは無くなった。何かが当たっていたのかとも思う。曇った音も感じなくなっている。それでも通常のモニターヘッドフォーンに比べるとあまりきれいに高音が伸びない感じはする。

SWR2の夕方の討論番組を聞いた。とても下らなかった。他の話題の時は下らないとは思わないのだが、やはり音楽関係はあまりにもばからしい。学ぶことが殆ど無いからだ。これに比較すると先のインタヴュー番組の方が遥かに優れていて示唆に富んでいた。

メモしていて、一番良かった一言はfazから日曜版に追い払ったおばさんの言葉だ。話しの流れから指揮者のそれによって音楽が異なるというよりも、時の芸術として同じ演奏家が今日と明日、昨日と今日では違うという一期一会の話しが最も印象に残った。つまり同じ創作の楽譜から、現在の管弦楽は指揮者が整理するだけで十分な演奏が出来る訳だが、それを指揮者が変化をつけるというよりもその時その時の演奏の違いの方が興味深いという考えだ。これは示唆に富んでいる話しである。

つまり、指揮者の特徴とかその音楽とかいうのは商業的なイメージ戦略でしかなく ― まさに放送を流しているSWRの選択した冒頭に写真を出している指揮者ギリシャ人カラヤン二世のことを暗に批判していて、実際録音では彼について一切言及されていない ―、そのことを最近時間を掛けて話したベルリンの音楽監督バレンボイムが嘆いていたというのである。つまり現場の職人的なもの以上に何かを指揮者が表現できるというのは可成り慎重に審査しないといけないという事だ。それでも、仕事柄つまらない演奏会ばかりに最後まで居座らされ続けても、月に一回ぐらいの「出合い」が喜びだという。

演奏家を代表して嘗てのベルリンのフィルハーモニカーでクラリネットソリストだったカール・ハインツ・シュテフェンツという指揮者がルートヴィッヒスハーフェンやワイン街道のノイシュタットでの経験などを話していたが、所謂二三流の指揮者の話しを聞いても仕方がない ― 今この道をオーボエのマイヤーが追っていてこちらで仕事をしている。それでも、指揮者が居なくても演奏は可能だが、合わせるのに指揮者が居ないと話が纏まらなくて、五回の練習が五十回必要になるという話しはよかった。まさしく指揮者の仕事はそこにある。経済である。

指揮の歴史からハンス・フォン・ビューローの話しが音楽学者女史から出て、それが歴史的にオーケストラビルダーとしての教育者であったことと、同時に聴衆をも教育したという事で、キリル・ペトレンコに期待されているのはまさにそこだと簡単に言い切った。これも正論で付け加えることはない。なるほどペトレンコが、先駆者としてビューローを挙げていて、そこから導いた話としても、メムバーの若返りや強化と同時に期待されるところだ。

勿論カラヤンについてはペトレンコが触れるわけがないが、ファンのおばさんがしっかり話してくれた。それはアバドの人当たりの身近な小父さん的存在と昔の威張った指揮者は違うという話しから、それは厳密には正しくないという事を力説していた。そこでは、「アバドは音楽的に旧世代という事で、ラトルは新世代」という事になっていたが、この人々が話しているのはどうも20世紀の後半の管弦楽しか知らない世代の妄想だった。そこが分かっていないとキリル・ペトレンコの指揮の管弦楽芸術的な価値はいつまでたっても分からないであろう。そもそもカラヤンがいつの間にか「ドイツ的響きの旧世代」になったのだろう。専門家を名乗るのもおこがましいパネラー達だった。流石に亡くなったカイザー氏ならば、フルトヴェングラーの響きもよく知っているので、そんなバカげたことは言わなかっただろう。

キリル・ペトレンコを世紀の指揮者とするラディオ放送のインタヴューから座付き管弦楽団の最新メムバー表を見ていると、オーボエの一番はグヴァンツェルダッチュがそのままで、副に宮本のお弟子さんのユキノ・トムプソンが繰り上がっている。つまり山賊風のお兄さんが居なくなっている。ターディと言う人でカラヤンアカデミーに在籍していたフルートの一番と兄弟だと思うが、フランスの楽団にでも移ったのだろうか。良く吹けていたと思うがフランス人にしては若干重いリードの感じで如何にもオペラを彩るという響きだった。



参照:
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
原典回帰というような古典 2016-10-20 | 文化一般
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権威の向こう側

2018-06-14 | 文化一般
「メリーウィドー」をざっと観た。予想以上に出来が良かった。ストーリーは、藤山寛美の松竹新喜劇と大差はないのだが、流石にレハールの狙いは決まっている。今で言うとヒット曲メーカーのような渾身の主題と、それを上手く使って全曲を構成している。シュトラウスファミリーのあとの世代としても、やはりその音楽的な力は大分異なる。

参考に通したのは、先ごろ日本で話題となった、ヴェリサー・メスト指揮の2004年チューリッヒ公演らしい。音楽的には、主役ペアーも脇もそれなりで、この辺りの出し物としては充分なのだろう。主役に関してはフランクフルトの公演に期待している。演出はオーソドックスというか、公演の大落ちは、狂言回しの親仁がピットに入り指揮棒を持って答礼に出たメストに踊らせるというものだ。あの面白味の無いメストに踊らせるのが味噌なのだろうが、やはり舞台裏落ちになっているには違いない。そもそもこの手の音楽劇場はレヴューとの境が無いので、態々そうしなければいけなかったことが関心ごとなのだ。その光景を見ると、先日ヴィーンからの報告でその指揮姿から「マリオネット」と称されたように足をしっかりと固定してその両手を前上方で上下させるのを思い出して吹き出してしまった。それにしてもラインダンスになると、見事に足が高く上がっていて、余計に異質感を与えるのがこの人のキャラクターだ。彼のドナウ訛りをしっかり理解していてもこうだから、あの人が指揮台で英語でおかしなことを話していると違和感しか感じない人も多いと思う。同じように見ものだったのは先にも「大蝦米」と紹介したティーレマンの指揮姿であるが、これもシュトラウスファミリーのニューイヤーコンサートを来年飾ってくれる。今から腹を抱えての初笑いが待ち遠しい。
Franz Lehár -"Die lustige Witwe" /The Merry Widow

両陛下がクラシックを鑑賞 立ち上がって拍手も(18/06/02)

Very funny marionette street performer


Renée Fleming - Vilja-Lied - Die lustige Witwe

Street Performance | Mr. Bean Official



そこで思い出したのが初めて座るロージェの「プロシェニウム」自体が舞台の枠組みのことを指すので、劇場空間の舞台とこちら側を分かつ形式としても存在する。上の舞台を奈落まで繋げることで丁度その緩衝空間の境界を脅かすことになる。

SWR2で「独裁と謙虚の間で ― 音楽における権威」と題して、指揮者の其々をアルブレヒト・マイヤーなどを含む楽士さん達にインタヴューを録った番組が流された。先ずはペトレンコに関するところをつまみ聞きした。第二フルートを吹いているハンガリー生まれのアンドレア・イッカー女史が語る。三代の音楽監督に仕えて、ご本人は翻訳家としても活躍していることから、その音楽的な創造性が刺激されないような指揮者の下で廃業寸前になっていたのだという。それがペトレンコが現われて、レパートリーを始めからやり直したという。三回やっても容易に追いつかないようなアイデアが出されて、それを成し遂げる喜びとまたさらなる一歩から積み上げていくペトレンコとの仕事へと駆り立てられることを語る。オペラ指揮者というのは、そもそもコンサート指揮者とは違って舞台とのコーディネーションが必要なので大変なのだが、それを成し遂げるだけでも大変なのに、安定したその演奏実践と演奏に拠っての喜びという事を成し遂げているというのだ。だから、それがあり得るというのならば、「彼の指揮技術や身体の動きは、彼を世紀の指揮者にしている」と断言する。
Meet the Musicians #11: Andrea Ikker (flute)


この話題で付け加えておきたいのは、フィラデルフィアの演奏旅行で見せたネゼセガンがどうも同じ飛行機に乗って旅行していたことだ。これは指揮者としてかなり楽員と危険な関係にあるようにも思え、指揮者の権威がどのようなものであるかに関して、番組の冒頭であった話が浮かぶ。シュトュツガルトからチェリビダッケに付いてミュンヘンで第一ホルンを吹いていた楽員は、「指揮者が幾ら虚勢を張っても駄目なんだ、音楽家なんて普通ではなくてそういう事には感性の強い集団だからね」とご尤もなことを語っている。その意味では若い楽員たちとそのような付き合いが出来ることは若さなのかもしれないが、どこかで事情は変わってくるのではなかろうか。

この番組は一時間もので最後にパーヴォ・ヤルヴィが登場する。ブレーメンでのそれこそ室内管弦楽団との関係なのだが、そこからこの指揮者の本質的な可能性が述べられているかどうかは通して聞いてみて触れてみたい。そして明日は夕方の討論会で、ラトルのあとを観て、「大指揮者の意味」が話される。あのおばさんが一体なにを語るかが注目される。



参照:
業界のダークホース 2018-05-16 | 雑感
音楽監督と至福の生物 2018-03-19 | 音
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Don't we trust him?

2018-06-13 | アウトドーア・環境
早起きしてシンガポールからのライヴ中継の一部を観た。なによりも印象に残るのはやはり金主席の若くその真剣な発言だろうか。トラムプの方も国際的なビジネスマンのようにしっかりと相手の表情や真意を追っているのが見えて面白かった。まさしく、交渉相手として信用のおける人物としての金のいで立ちだった。その姿をこまごまと動く妹と共に見ていると、やはりこの独裁者の夢は朝鮮半島のスイス化だと思うに十分だ。朝鮮の統一は中立化しかないと感じるようになってきた。シナの分割がありえない限りは、EUのような共同体は不可能なので、朝鮮半島が新絹の道の終点となることで大きな意味を持ち得ることは朝鮮民族の存在意義を大きくするからである。

様々な生中継を観た。ABCの作りが比較的スマートだったが、速報性には欠けるが意外にドイツェヴェレの英語放送が良かった。そこで日本のネットでも話題になっていた日本の写真家の写真集やその個展、撮影風景などが紹介されていてよかった。政治課題として到底そこまでは上らないのだが、こうした表現者などの感性は統一からその後を見据えていて当然であり、「手遅れにならずに記録してよかった」というのは理解出来る。

月曜日も広場でライヴをやっていた。激しい雷雨から雨が降っていたので盛り上がりは無かったので、それほど続かなかった。なによりも涼しくなって来て窓を締めれるようになったのが嬉しい。そのお陰で夕食のサラダパーティーが一寸寂しかった。塩じゃがだけは暖かかったがコールドミールがあまりに涼しかった。それにしても夕刻の雷雨は激しく、綺麗に車を洗えた。頭も濡れた。

週末の「メリーウィドー」の残席が50以上あったのが僅か一晩ぐらいで高価な43席のみに減っている。水曜日の分は安いので早めに売れていたが、土曜日の方が最終的に掃ける勢いである。フランクフルト市内の勤め先などでの口コミによる売れ方である。前日のワイン祭りの喧騒の中でも時間が出来ると思うが、先ずは楽譜を落として良さそうなヴィデオを通して観ておこうと思う。

引き続きミュンヘンの「三部作」の残席が新たに放出されている。その席の塊り方からスポンサー筋の戻り券としか思えない。恐らくBMWが確保していた座席だろう。そこに個人の戻り券などが混じっているような感じだ。一日目の出方と二日目の出方が全く異なるのも面白い。12月に座ったような91ユーロの席も一つ出ている。ペトレンコ指揮となると完売まで時間が掛からない。

YouTubeで有名な「NHKから国民を守る」の政治活動が、またもや安倍昭恵によって潰されかけている。多くの視聴者の支援を受けてワンイシューで以って地方自治体選挙で党勢を伸ばして、次の国政選挙に狙いを定めていた政治団体である。昭恵との付き合いから、更に出身者への偏見を放送し、私などを含めて多くの違反報告が出されてアカウント停止となった。それどころか今回は暴力事件を起こし、その被害者が三宅洋平の応援をしていた大袈裟太郎で、奇しくも三宅の政界進出挫折と似たような状況になっている。



参照:
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
お手て繋いで夜道を行く 2018-04-29 | 歴史・時事
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暴漢に向かったBASF社員

2018-06-12 | マスメディア批評
パンを取りに行って、森へ向かう。車中のラディオはマコン大統領のその思想からそのEU政治を解いていた。大統領が今やEUを世界を動かす政治家であり、それだけ優秀な人物であることは知っていた。しかし彼が「エリーゼ宮のモーツァルト」と呼ばれていたとは知らなかった。「浪速のモーツァルト」という人も健在なので、レコーディングもあるヘルムート・シュミット独首相を完全に超えていて、本当に神童だったのかどうかも知らない。嘗てはポーランドかにもピアニストの元首が居たり、クルト・マズーアでも大統領候補に挙がっていたこともあるぐらいだから驚かないが、フッセール哲学などを深く学び、更に少年ピアニストとしても優勝しているとすれば、この人物の青少年時代の生活が知れよう ― 臨床医者の家庭で父親は教授らしい。必ずしも知的な政治家が立派な政治家とは限らないが、少なくとも「回想の政治」からの理念の政治は、それが議論の叩き台となる。現在のように知的水準が低く場当たり的な政策をぶち上げる為政者が権力を乱用する世界となれば、フランスが価値基準とする民主主義の基本である議論すらも成り立たなくなる。

内田光子の弾き振りの録音を聞いた。2007年の録音で一曲目の無指揮者の立ったままで演奏したディヴェルティメントを聞くと、昔風の演奏で、この程度ならばベルリンの楽団でも間違いなく弾ける程度だった。その後の内田光子のピアノと演奏も悪くは無かったが、現在のこの楽団から期待するほどの演奏ではなかった。指揮者の問題だけでなく、現在のように統一や徹底がされていない様子である。要するにセル時代のようなそれは期待出来なくて、現在のそれはその時から継続していなかったという事になる。こちらでも話題になったのはその後のツアーだった。

新幹線で暴漢にあって亡くなったのはBASFの日本法人の人のようだ。プラスティック関連の人のようだが住まいからすると大阪勤務だったのだろう。太陽電池関連とするとやはり顔料なのだろう。38歳というからまだこれからこちら本社ルートヴィヒスハーフェンでの研修などもあったと思う。ネットで見ると女性に切りつけた暴漢に挑みかかったという事だが、勤務柄跳ね上がり者はあまり居ないので、防御と正義感で暴漢に立ち向かったのだと想像する。進行方向の二列後ろで突然そのようなことを感じたらなので、容易に逃げられなかったのかもしれない。二人の女性への犯行途中であったとすれば猶更だろう。なるほど反社会的な気持ちの強い容疑者にとっては、それほど草臥れていないような様子の勤め人というだけで、殺ってしまう決意が湧くのも分からないではない。

それにしても、こうした被害者に落ち度があったのかどうかが話題になっていたようだが、なにかそこに如何にも日本社会の鬱屈のようなものを感じる。そして容疑者の名前が公表されていて、その家族などにインタヴューするというのと、被害者の名前を挙げて色々と詮索するのとは全く同じ様に暇な日本人の悪趣味な関心ごとなのである。このような容疑者をも罪に問えるという前提がそこにあり、被疑者を死者として弄ぶ日本社会の風土がとても醜い。一体そこのどこに公共性などがあるのかと思われるむら社会には何時ものことながら辟易する。

シカゴからの放送は、ストリーミング自体がAAC‐LCで256kbs出ている。これは決して悪くはない。タイマーで録音したのだがやはりこれも最初が音無しで、50分過ぎから70分ほど録音されていた。原因は引き続き鋭意調査中だが、前半は吹っ飛んで、不思議なことに後半のサミュエル・アダムスという作曲家の新曲から綺麗に録れていた。偶然かも知れないが、その前の解説部分に中断などがあったので何らかの技術的な作動があったのだろう。調査の重要な資料になる。録音自体は昨年の三月のもののようである。だから翌週の放送のプログラムも昨年バーデンバーデンで聞いた「はげ山の一夜」が含まれている。

さて関心ごとのシカゴの交響楽団の出来であるが、プログラム次第のシューマンの交響曲四番は、そのまま先日ルクセムブルクで聞いて、フィラデルフィアでの実況放送録音もあり、フィラデルフィア管弦楽団との聴き比べとなる。さっと聞いたところ、呟きなどでの下馬評の「シカゴが上」は証明されなかった。そもそも昨年のバーデンバーデン、ルクセムブルクのクリーヴランド、フィラデルフィアと比べて、シカゴにはアドヴァンテージは殆ど無いことは分かっていたが、やはり気になったので態々放送を録音したのでもある。

なるほどこのクラスの大管弦楽団の比較になると容易に甲乙が下せないのは当然だろう。例えばアダムスの曲ではまるでロンドンのシムフォニカーのようなパリパリとした響きがムーティ指揮で鳴り響くのだから驚いてしまう。しかしシューマンなどを聞くとその指揮がたとえネゼセガンのように振れていないとしても、中低音部へのアンサムブルのあまい弦楽だけならまだしも管楽器との掛け合いでフィラデルフィアの様には全く合わせられないことが良く分かる。「ロマンツェ」のチェロソロはこちらの方が上手いぐらいだからソロスツクラスはより優れているのだろう。しかし指揮の技術だけでなく、またサウンドの問題でもなく、純粋に管弦楽がどれぐらい楽譜を正確に合奏出来るかという点では現在のシカゴは低迷しているというのが正直な感想である。だからキリル・ペトレンコをマエストロの引退後にと狙っていたのだろう。



参照:
遮断される聴空間 2018-05-20 | 雑感
マンハイム、対岸の火事 2016-10-19 | 雑感
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またまたオタクな生活

2018-06-11 | 
喧噪の二晩目をやり過ごした。ノイズキャンセリングのお陰で精神状態は正常に保たれている。これだけ気温が高くて窓を閉めるとなると発狂するところだ。ご近所さんもバイエルンのチェコ国境へと旅立った。二週間して戻ってくる。避難する人は少なくない。そのような中で正常な精神状態で居座るのは大変だ。先ずはキャンセリングのお陰で窓を開けて生活して就寝時にだけ閉める。

そのお陰で20時からの放送を聞き逃した。イヤフォーンでじっとしていて脳内の視界が開かなかったからだ。皆に知らせておきながらカウフマンの「オテロ」を聞き逃した。それでも三幕の「柳の歌」からは聞いた。デズデモーナも悪くなかったが、なんといってもパパーノ指揮のコヴェントハウスの座付き管弦楽団が見事だった。ミュンヘンのそれでは可能だろうかと思わせるピアニッシモなどの歌いぶりが見事でスカラ座よりも上手いかもしれない。テムポを落としながらも自然と流れる指揮にも感心して、オペラ指揮者としては五本の指に入るような指揮者であることを再確認した。それでもそれに続く器楽部分がなぜかジンタのようになって、まるでこれがイタリアのオペラの歴史だと言わんばかりなのだが、どうしてもこうしたところにこのオペラ指揮者の自己顕示欲を感じて仕方がない ― ヴェルディ解釈の本質的な問題をここに指摘するには暮れのペトレンコ指揮を聞いてからにしたい。そしてお待ちかねのカウフマン、流石に細やかなところも音楽的に正確に読み込んでいて、その声のコントロールと共に金の取れる芸術家だ。ペトレンコ指揮での暮れの実演を期待する前に、先ずは月末への期待が膨らむ。

夜中二時の録音をセットしたが目が醒めていたので見ると、なぜかクリーヴランドからの生中継のソースが落ちていて ― 研究課題である ―、既に始まっていたバーンスタイン自身のインタヴューは充分に聞けなかった。マニュアルに切り替えて録音した。1970年7月9日の録音で、その月末に監督セルが亡くなる前の演奏会だ。だから予想通り一楽章での一糸乱れずの弦の合わせ方も後のシカゴのそれとは異なり柔軟で美しく、当時のニューヨークのそれとは透明感が全く異なる。弦ほどには管などは現在ほど細やかな演奏は出来ていないが、ホールによって養われたそのアンサムブルの特徴は変わらない。バーンスタインの解釈はLPの録音と変わらないが、あのクールな管弦楽団が演奏することでとても興味深い。今晩の内田光子の弾き振りと、シカゴからのムーティの伴奏が益々楽しみになって来た。

晩年にもイスラエルフィルやニューヨークフィルだけでなく、欧州でもヴィーナーやコンセルトヘボーなどの暑苦しい管弦楽団でマーラーを指揮することが多かったが、ベルリンでの演奏などもとてもその解釈の細部が分るもので、学究的な興味を引くものだった。それと同じような細部がここでも聞き取れる。そして、恐らく細かく聞くほど、何か似ているものを思い起こすのである。演奏実践の方法は異なるが、どうもバーンスタインの解釈に最も近いのはキリル・ペトレンコのそれだと気がつき出す。バーンスタイン節の効果ばかりが印象に残るのだが、その実はマーラールネッサンスの本質にこの指揮者の読譜が寄与するところが多いだろう。要するにペトレンコのあのバカ丁寧な読み取りを想起させるものは、もう一方の大きな市場を獲得したショルティー指揮の大音量に結びつく演奏実践と相まって車の両輪となっていた要素だろう、そのことがルネッサンスのもう一面であったという事になる。

ミュンヘンで評判のマーラー演奏実践のもう一つの雄であるヤンソンス指揮放送交響楽団のヴィデオをイヤフォーンを付けて観た。ここ暫く世界の頂点の管弦楽を立て続けに聞いた後ではなんともその差は埋め難い。指揮者の責任だけではなく、やはりドイツの放送局の中では少しマシという程度で、その楽員の顔ぶれも老齢化している。先ずはホームグラウンド会場が出来て十年ほど経たないと駄目だろう。トュッティ―も弦楽も管楽も強引な指揮でよさそうに聞こえるが、実際のアンサムブルはオスロフィルに毛が生えた程度でしかない。少なくともクーベリック監督時代の昔からその傾向や程度はそれほど変わっていない。
Elbphilharmonie LIVE | Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks & Mariss Jansons


注文したティケットが早速届いた。数が出ないイレギュラーな発売なので手が空いていると見える。アムステルダムのハイティンクも購入しなくてよかった。日曜日はまた代役である。前回はペトレンコのキャンセルで捨てたので64ユーロ寄付となった。今回は、ジョルダンのコンサートにしろ、ブロムシュテットやハイティンクにしても行かなかっただけの費用で、ノイズキャンセリングの購入費が賄える。やはり片道二時間以上かけて出かけるとなると、よほど価値のある出し物でないとリスクだけが高まるだけだ。



参照:
祭りの喧噪もなんのその 2018-06-10 | 音
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般
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祭りの喧噪もなんのその

2018-06-10 | 
ワイン祭りの週末は腹を据える。夜中まで騒がしい時であるから、夜中に合衆国からのネット放送に備える。管弦楽団が日本旅行を終えたクリーヴランドからはアーカイヴ録音である。土曜日午後八時つまりこちらで日曜日午前二時から、バーンスタイン指揮でマーラー復活交響曲、日曜日午後四時からつまりこちらの日曜日午後十時から、内田光子弾き振りである。それに続いて、シカゴからの日曜日午後八時からつまりこちらの午前三時からムーティ指揮内田のピアノでベートーヴェンハ短調協奏曲とこれまたシューマンの交響曲四番だ。どれを起きていて聞くか、タイマーにして録音するかは分らないが、月末には出掛ける初日の留守録をしないといけないので、テストも何回かしておきたい。

ワイン祭り初日にノイズキャンセルングを試した。結論からすると、これは使える。ブルーテュースでPC再生で使っている音源を流した。音を出さない状態でノイズキャンセルにすると戸外で楽音が流れているのは聞こえるのだが、小さな音の音楽を流すことも可能だった。遮音の悪い音楽ホール並みには外の楽音をキャンセルしてくれた。アンドロイドではその深さを変えれるのだがPC対応のソフトはまだ見つからない。もう少し遮音を強く出来たならよい。つまりなにかを聞いていないでノイズキャンセリングだけしていると不自然感がある。

PCのブルーテュースが古くて使えないので、アダプターで使っているが、その機能ではあまり飛ばない。具体的に調理をしながらであるとブツブツと切れる。これは送信側の問題である。タブレットならだとあまり問題とならない。最も問題になったのは食事の時に噛み合わせを動かすと、耳の圧力が変わって違和感が生じることだ。飛行機の旅を考えると食事ばっかりなので大丈夫だろうか?

そこで耳を澄まして聞いていたのは、パリの「パルシファル」一幕である。前夜に触りを聞き直して本腰を入れて聞き通した。場合によっては指揮者ジョルダンのコンサートに出掛けようかと宿までを目星を付けたので、聞き分けに熱も入った。因みに同じように出かける検討をしていたコンサート二日目に指揮者ハイティンクが倒れたようだ。引き続きどうなるのかは分からないが、予定していなくてよかった。全く同じどころか、一曲が始まる前にカエルのように前のめりになって倒れたのはあのダンディーでならしたイタリアのジュリーニだった。その無様な姿を見せられた私の方がショックだった。無事予定通り振り終えたコンサート直後には亡くならなかったが二三年してから訃報が飛んだ。

先ず前日に注目したのは、アダム・フィッシャーやハルトムート・ヒェンヘンらの指揮で決まらないリズムとテムポ運びが比較的上手く進んで適度に推進力があることだった。同時に楽譜の指定も比較的綿密に読み込んでいるのが分るところだった。しかし更に進むにつれて、先ず何よりもリズムもしっかり定まっていない要素が強くなってきた。印象としては拍打点が定まらず所謂メリハリ効いたリズム取りになっていないことと、同時に楽器間の音程が定まり難そうで、様するに座付き管弦楽団の実力も発揮出来ていない鈍らな指揮が目立つ。劇場での下積み上がりの人のようだが、到底コンクールなどでは予選落ち程度で、父親の名字が無かったらバレンボイムの助手にもなっていなかったのではとも思われる。ぼろ糞に言われるもう一人のロシアのペトレンコの才能よりも明らかに落ちそうであるが、劇場で破綻無く振り切ることを習って来た人のようである。日本でもコンサートで事故を起こしていないことでもその実力は証明されているようだ。但し、親父さんの書き込みが加わった楽譜なのか、遺言か何か知らないが意味不明のアゴーギクなどを付けて音楽的才能の欠如を補う傾向があって、なにか聖金曜日への音楽でもサウンドトラックの化け物が出て来るような伴奏を振っていて、到底ラトル指揮のその音楽実践に比較可能な読解力はこの指揮者からは求められない。ネゼセガン指揮の批判をした方が価値がありそうだ。

音楽的に不器用であっても一向に構わないのだが、少なくともサウンドトラック指揮者でなくて指揮者の顔が出るようなタレントイメージで売り込みに堪えるような才能は皆無だと思った。そしてこの程度のどんな地方にもいるような程度の指揮者を国立劇場の監督にするヴィーンとはどうしたものか?無能な日本の二世三世政治家のような指揮者であるが、この世界でしか生きる可能性を見出さなかったのかと不思議に思える。よほど、音楽以外には教養の無い家庭だったのだろうか?

想定よりも早く「パルシファル」の三日目の券が出た。第二候補の日の公演だったが、結局買わなかった。数は二ケタ以上出ていた。目ぼしいのはバルコンの左右の端で四枚以上出た。価格は293ユーロだ。躊躇させたのはその席と私が半額で購入した42ユーロ席との視角、音響とも差異がそれほどないことだった。それ以下のクラスは平土間最後尾のバルコンの下あたりだった。それにしても纏まってこれだけ並んだような席が出る理由は分からなかった。団体か定期会員用にデポしてあったのだろうか。価格の割に良い席ではなかった。バルコンは決して悪くはないのだが、同じ金額ならば他の席の方が良かった。「三部作」で出ていた前から三列目正面なら買っていたと思う。一時間半ほどで全て完売した。



参照:
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感
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プロシェニウムロージェ

2018-06-09 | 文化一般
窓を閉めて就寝した。熟睡してよかったのだが、明け方若干汗ばむ感じだった。先週から半袖にしたのである。目が醒めて、PCを早朝から立ち上げた。朝起きて就寝前の音楽鑑賞が気になりだした。土曜日の過ごし方に係るからだ。

プッチーニ「三部作」の券を購入した。夏のミュンヘンオペラフェスティヴァルの公演だ。その初日公演シリーズは昨年12月に二日目を王のロージェの横で観た。お目当てのヤホの声も弱く、その点で不満もあり、もう一度聴いてみたいと思っていた。先日から夏の二日目の公演の戻り券は出ていたのだが、一日目のものは出ていなかった。流石にオペラ通いの人は歌手にとっての一日目と二日目の違いなどが分かっているのだろうと思っていた。管弦楽は後の方が良くなるのはペトレンコ指揮の特徴だが、歌手はTV撮影ぐらいが入らないとやはり声の出方が違う。

オペラフェスティヴァルの切符は寒い時に並んだのでどれでも買えたのだが、その時は「パルシファル」しか購入しなかった珍しい人間である。先ずは其れを確保して、半額になる分はホテル代の足しにのつもりだった。それでも一枚しか買わなかったので足が出た。7月の計画が立たなかったこともあるが、その後にヤホの「蝶々夫人」の公演予定などを見てもやはりこの「三部作」ほどの魅力は無かった。更にペトレンコ指揮で歌う可能性は先ず今回が最後であり、あの絶妙のピアニッシモはやはりこの組み合わせでもう一度確認しておきたかったのだ。そしてその一日目の戻り券が五枚出た。

三列目正面二席とバルコン一席、後方平土間サイド二席、そしてプロシェニウムロージェだ。最初のは明らかに招待席で余ったのだろう ― 私の発注後、バルコン席と同様比較的早く売れた、そして数時間後には完売。最後のは関係者に配られて、楽員関係者などは大抵そこになるのだろう。今回のはその最上階で、ペトレンコがパスキエ女史を招待する時の下部ではない、だから視界もそれほど良くない割に二つ目のランク価格なので躊躇した。しかし二月に撮った写真を研究すると王のロージュの高さでそれほど高くないことに気が付いた - 実は「パルシファル」初日の座席も比較的似ている視角なので写真を撮っておいたのだ。それどころか指揮者を前から見るような位置でこれは面白いと思った。舞台は映像を含めてその奥も分っているのだから全く構わない - そもそもあのタイムマシーンの中や逆づりシーンは網膜に焼き付いている。上から歌手の言葉が聞き取れれば問題はない。なんでもよいからペトレンコにしっかり指揮して貰えばそれだけで価値がある。兎に角全部で22席しかなく、指揮者に招待される予定もなく、ペトレンコ指揮で売りに出るのは更に限られているので、これは幾ら並んでも買えない席であり決心した。ミュンヘンで購入した最高金額143,50ユーロの券である。今年は計画が立たないという事は逆に短期的に縦横無尽に動けるという事でもある。これはこれで結構楽しみになってきた ― またヴァイオリンは女性陣が引っ張るのか。

就寝前にパリからの「パルシファル」を楽譜を前に聞き始めた。夜更けだったので最初の数十分だったがBGMで流していた印象よりも真面目に演奏していた。少し気になってきたので、思ったよりもじっくり聞かないといけないかもしれない。歌手よりも否応も無く指揮者ジョルダンの手腕を詳細に見ていくことになる。バイロイトの「マイスタージンガー」でガタガタになっていたのでここまで細かく楽譜を読んでいるとは思わなかった。但し、それがどこまで指揮出来ているかが疑わしいのがこの指揮者で、引き続き懐疑の念で聞き進めよう。それでもラトル指揮とも全く違う、丁度ネゼセガン指揮解釈との比較対象でとても良い資料になりそうだ。ワイン祭り中にそれをイヤフォーンで確認できたら幸せだ。



参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
天才も実践から学ぶ 2017-12-28 | 音
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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管弦楽への圧倒的熱狂

2018-06-08 | 文化一般
エルサレムからの放送を聞いた。これでフィラデルフィア管弦楽団の問題となった欧州イスラエルツアーが終わった。「不安の時代」ではテルアヴィヴでの演奏が最も優れていた。最終日は三千人収容と多目的ホールのためか楽器の繋がりが再び元のように聞こえた。音響の影響で、クラリネットを支える木管群がマスキングされてるかどうかで、会場の良し悪しは其れではっきりした。エルブフィルハーモニーからの放送が今一つな理由は不明だ。演奏自体も残響の程度によって合せているので、その差が良く分かった。会場に合わせた演奏に関しては放送でも話題になっていて、こうしたツアーの特徴としてホームグラウンドでないところに短時間で合わせていく経験が積み重ねられるようだ。演奏の精度も含めてツアー中のそれには限界があったとも思うが、生で聞くとやはり期待通りの演奏をしていて、アメリカを、世界を代表する管弦楽団であることは分かった。昔から放送に乗り難い楽音と乗り易いそれとかが議論されるが、フィラデルフィアサウンドは後者だと思い込んでいたが全く間違っていた。クリーヴランド管弦楽団の時も放送の音質と生のそれには当然ながら差があったが、寧ろそれは「生で確認する」作業に近かったが、こちらの方が「生でなければ分からない」要素が多かった。

その要素としてバスからの積み上げのピラミッド構造とその細やかさはHiFi機器で再生し難いもので、それを重々承知でいい加減な読譜とその音響を作り上げたのがフォンカラヤンの芸術であって、そこにバランスを取ったレガートラインを乗せて世界的なヒットとしたという事になる。奇しくも先日、話題のフランツ・シュミットの曲を録音していたのはカラヤンでなくジェームス・ラストだったというのは偶然ではないかもしれない。メディア産業が懲りずに目指すところはそうした大衆受けの良い音響の消費活動の促進である。今回の欧州イスラエル公演でのネゼサガン指揮のフィラデルフィア管弦楽は、イスラエルでは殆ど無い熱烈なスタンディングオヴェーションのみならず、ハムブルクでもヴィーンなどでも状況は変わらず熱狂的喝采を受けた。しかしジャーナリズムは文字に出来ていない。その背景はなにかと想像すると、やはり二十世紀後半の管弦楽を批判的に解析出来ていないという事にほかならないと思われる。「カラヤン風」という評があったぐらいだから、ネゼセガンの指揮はその譜読みや打拍が間違っていてもカラヤン世代のような誤魔化しは全くないのだが、そこが確信出来ないまま、より広範な聴衆を熱狂させるサウンドを駆使しているのを目の辺りにして当惑しているとしか言いようがない。

The Philadelphia Orchestra - Yannick in Jerusalem


今まで生で最も多く聞いている楽団がヴィーナーフィルハーモニカーで、その次が頻繁になりつつあるベルリナーであるが、フィラデルフィアにおいては音楽の核になっている中声部や第二ヴァイオリン陣の充実は下から上までの木管群の色彩感と相まって特筆すべきで、コンセルトヘボーの弦楽合奏やゲヴァントハウスのヴィオラ陣などとも異なる中核を作っている。嘗てのオーマンディー時代のオーディオ水準やムーティ時代の精度からするとその録音と生の音響の差は少なかったのかもしれないが、やはりネゼセガン指揮の精度ではそれだけでは済まなかった ― 大管弦楽での室内楽的な合奏を奨励している。

フィラデルフィアのプロテストの呟きなども覗いたが、やはりイデオロギーをそこに感じて、イスラエルをボイコットするだけでは解決しないものへの視点が欠ける気がした。抗議は大切だが、それを含めて何らかのメッセージとして、芸術分野においては特に音楽の情動性が聴衆に、社会にどのように作用していくか、そこが注目点である。ツアーが終了しても本来は様々な予定があったようだが、そそくさと帰宅準備のようで、面白かったのはコンサートマスターのキムがお土産などと語っていることだろうか。「フィラデルフィアは二度とイスラエルには演奏旅行しないだろう」という一方、イスラエルフィルハーモニカーを招待することなど、如何にイスラエルとの関係は複雑で、その管弦楽を何も知らぬ顔で招聘して歓迎する日本人のバカさ加減が浮かび上がる ― 演奏会場の前での抗議すら聞いたことが無い。放送においてもガザとの関係だけでなく今回政治利用されようとしたトラムプの大使館移動問題などが言及されていて、ここでまたどこかの国の首相が嬉しそうにイスラエルを訪問するバカ顔が思い浮かぶ。

個人的には、本拠地ではシューマンで魅力的なインタヴューをしていたユミ・カンデールが乗っていなかったことが残念だった ― 彼女はヴィーンから合流したようだ。そしてなによりもテルアヴィヴからのバーンスタイン交響曲の録音放送の出来だった。永久保存版にしても良いもので、久しぶりにバーンスタインの真価を堪能した。これで漸く月末のための「パルシファル」のフラッシュアップへと進める ― そもそもその音楽が細かく入っている訳でもなんでもないのだが。



参照:
不安の時代の闘争 2018-06-07 | マスメディア批評
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
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不安の時代の闘争

2018-06-07 | マスメディア批評
週末は雷雨勝ちとある。気温も上がるが夜間は18度だから窓を閉めれるだろう。それでも土曜日は天候が落ち着くようで、日曜日は30度を超える。ワイン祭りをどのように乗り越えるか?日曜日にはマーラーの九番の演奏会もあり、土曜日も無いことはないのだが、避難にどこまで逃げて幾ら掛けるかだ。宿と入場券で最低100ユーロ近くになる。コンセルトヘボーでハイティンク指揮を聞こうと思えば、それだけで150ユーロを超えて、燃料代もそれに近くなる。その価値はない。涼しい時期ならば屋外で過ごすのも良いが、陽射しが強いと不快でしかない。目的地が地中海沿岸ではないからFKK海水浴ともいかない。やはり、諦めて、先頃購入したイヤーフォンのテストネズミになっていようか。そのためにも投資したのだ。騒音の中でノイズキャンセリングで問題なく音楽が聞ければ閉ざされた中でこれほどの愉悦は無いのだが。

テルアヴィヴからの中継録音は素晴らしかった。フィラデルフィアの一行はイスラエル中で大歓迎されるのは言うまでもない。イスラエル人で今イスラエルへと特使として出向くことの意味を解さぬ者はいまい。世界中でどのようにイスラエルが批判されているかが自覚されているのは当然で、その中でももともと現在の政策に批判的な層も少なくはないだろう。そうした背景はイスラエルの英字紙でも読み取れる。

一曲目のバーンスタインの交響曲二番「不安の時代」の演奏はいつになく素晴らしかった。印象としては、拍を深く刻んでいるためかテムピが遅く感じられたが、新聞などはいつもほど間延びしてなかったとある。実際に一部冒頭プロローグのクラリネット合奏からとても間をもたせている。しかしなによりもこの木材をふんだんに使っているとされる会場の音響が素晴らしい。生では双方とも知らないのだが、このブロンフマンアウディトリウムのマイクロフォンセッティングは、エルブのそれとは異なり、とても魅力的な響きを伝えている。それはまるで同じ豊田のエルブについて語られるディテールまでが聞こえるそれで、なぜかエルブのNDRのセンターマイクロフォンでは細部がマスキングされてしまっているのだ ― 正しいメインマイクロフォンセッティングがまだ定まっていないようだ ―、細部が手に取るように聞こえ乍ら全体が綺麗に鳴っている。まさしくそれが生で聞くフィラデルフィアサウンドの繊細さで、微細なクリーヴランドの鳴りとはまた異なる本格的なものだ。但しとても興味深いことにここでの響きは湿り気があって、あの乾いたアメリカ管弦楽団の響きがここでは殆どイスラエルフィルのそれのようにウェットなのだ。

私は特にその第二部を聞いていて、バーンスタインが指揮する「カディッシュ」を、あの広島での公演の情景を思い出してしまった。あの夏の暑く重い空気感を、上着の色の変わっていく汗の滲むバーンスタインの背中を思い出した。そのアンダンテ―コンモートの盛り上がりはバーンスタインがマーラー解釈で聞かせるものなのだが、イスラエルの普通のジャーナリストがそれの聞こえ方を綴っている。

「この曲を通して、バーンスタインで問題になる針が落ちても聞こえるほどのそれが、最後には鼓動が聞こえるような高揚へと掻き立てられた」 ― 実際にその前に会場で携帯が鳴っていたのは放送で確認した。「それがイスラエル社会の ― 実はどの社会のもであるが ― 希望を思い起こさせるような演奏で、どの社会でも上手く行っていないことは神の知るところで、希望はそこにあるのだ、そしてバーンスタインそれ自身がイスラエルの文化歴史のカギとなっていて、暗示しているようだ」と、「闘争はいつも厳しく、秩序と制御、記録と予言、愛と苦悩を齎す」と書き、「その闘争それ自体が全てだ」と纏めている。ピアノのティボデーなどが語っていたが、まさしく音楽は宗教ではないところかもしれない。

ネゼセガンが繰り返しアンコールで音楽的に表明する、ややもするとキリスト教的と聞こえる「愛」がどのようにイスラエルでは受け取られているかは分らない。しかし、テルアヴィヴまでは国歌演奏も無しに進行して来ていて、その背後には関係者の配慮があるに違いない。最後のエルサレムこそは注目されるが、国歌の演奏で再び批判を浴びるまでに音楽家を追い込むのは間違いだ。バーンスタイン後に鳴りやまぬ拍手に答えてラヴェルのパヴァーヌがピアノ演奏された。さて今晩は最終日の中継録音放送である。
The Philadelphia Orchestra. Tel-Aviv 4.06.2018




参照:
In Tel Aviv, Philadelphia Orchestra triumphs over ‘Age of Anxiety’ JAMES INVERNE, (The Times of Israel)
WRTI To Simulcast Philadelphia Orchestra Concerts In Israel, Germany, Austria (WRT1)
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
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不安の時代に最高の言語

2018-06-06 | 
またもやフィラデルフィア中継のテルアヴィヴからの生放送が中止になった。ストリーミングのサーヴァーの問題だろう。このプロジェクトからするとライヴ感が欲しいのでとても残念である。容易に翌日に順延して、翌日の最大の山となるエルサレムからの放送も翌日に順延した。

放送中に様々なSNSの紹介やらしていて、放送局の書いたものを見ると、先日ここで言及していたこの同一プログラムを四回も放送するという馬鹿げたプロジェクトについて記している。私見の通り、話題にして貰って議論して貰うことを想定している。当然のことその背後には、現実的な制約があり、グラモーとのライヴはCD化するとかのメディアの安物な商売があるのだろう。それをも含めての聴者の観測が味噌なのだ。

放送が始まるのを待って、中々始まらないとか、実際のコンサートはまだやっているかなとか考えるのもそこに含まれる。バーンスタインの「不安の時代」のフィナーレへと浄化されていく高まりは、その指揮でのマーラーの演奏などでも馴染の物であり、第三交響曲「カディッシュ」で更に浮き上がってくるものだ。その交響的世界に投影されているものは?

その世界の一部をYouTubeでフィラデルフィア管弦楽団が伝えている。今回のとても政治的な構造の中で、これまたある意味とても政治的なのだがイスラエルとパレスティナの子供たちが共に学ぶ施設を、音楽監督のネゼセガンと四人の楽員が訪問して音楽大使を務めている。その施設やその背後関係などは我々同様に彼らもそこまで詳しくはないかもしれないが、そんなことよりも大切なのは何らかのメッセージを出すことである。誰も現在のガザ地区やイスラエルの状況を解決することなどは出来ないのだ。まさしく不安の時代そのものなのだ。
Yannick and Musicians Visit Israel's "Oasis of Peace"


私たちこうした芸術音楽に何かを期待する者は、こうした度々表面的にしか見えないようなメッセージやその活動を軽視するどころか、自らの美意識に反していると軽蔑することすらある。多くの場合は政治的として毛嫌いされる対象である。だから、ネゼセガンが「音楽は、幸福、自由、平和のための最高の言語」だと子供たちの前で語ってもどこか表面的にしか思わない。しかし、先日のベルリンでのアマチュア―楽団の催し物風景がドイツェヴェレで紹介されているのを観ると、少し考えが変わるかもしれない。
Sir Simon Rattle und das "Be Phil Orchestra" | DW Deutsch


そこに世界中から集まってきた趣味の音楽家たちを紹介しながらのフィルム化になっていて、用心深い人はここでもメディアによって作られた世界に警戒する。同時に美意識の高い人はそこでなされる音楽実践は、あくまでも楽屋落ち的であって決して芸術的な審美眼に敵ったものではないと考える。そしてそこで再びサイモン・ラトルがそれこそが音楽だと力説すればするほど、その違和感が広がるかもしれない。しかし、そこで展開する演奏実践を、世界中のどの文化や未文化にでも見られる根源的な声を唱和したり音を揃って出したりする協調作業の視点から観測すれば、もはやそこになにも疑念は生じないだろう。つまり、世界言語としての音楽の力は議論の余地が無い。同じようなものに会食などがあるが、これは固有の文化に根付いていて、中々インターナショナルとはならない。

森を走っていると林道の先に小鹿のバムビを見つけた。久しぶりに子供を見た。横切るような場所も大体同じだ。獣道は我々が感じるよりも明らかな合理性があって、そこに道が出来ているのだろうか。大掛かりな山狩りをしてから見かけなかったバムビであり、しっかりと生息していることも分った。

日曜日のブルックナー九番のコンサートも悪くは無かった。ベルリンのフィルハーモニカーが黄金のザールにどれほど慣れているのか慣れていないのかは知らないが、フィラデルフィアのそれとは大分異なり、音響を活かした音楽づくりと同時にその明晰さも立派だった。アメリカの管弦楽団では聞けそうもないような音が出ていて驚いた。楽器の問題であるよりも、やはり木管を中心とした技術や独自の音色へのイメージが異なるからだろう。そもそも九番はベルリンのあの高弦の強靭さに合っている曲である。三楽章のあとの四楽章にも違和感が無くなって来て、四楽章の動機もしっくり響くようになってきている。それでも終止を待っておかしな声が会場から聞こえた。ナインと叫んだように聞こえたが、やはりそういうパトスをブルックナーに求めている狂人が態々四楽章版を聞きに来ているのだろうか。ある程度の教養のある人間ならば初めから分かっていて来るのであるから、やはり目立ちたがりの跳ね上がり者なのだろう。



参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
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大蝦米とは何のこと?

2018-06-05 | 雑感
パリの「パルシファル」を流した。管弦楽も想定内の出来だった。BGMとしての印象は、下手な座付き管弦楽団の割には、バイロイトの批判されたアダム・フィッシャー指揮のように引き摺るとされるような事は無く、先頃振っていたヘンヒェヘン指揮よりもリズムがしっかりしていたと思う。それでも、売り込もうとしているフレッシュでダイナミックなタレントイメージの指揮では全くなくて、鈍くて冴えない印象は拭えない。問題点は楽譜を見乍ら詳しく指摘していくことで、正しい楽譜の読み方を終りまで辿って行きたい。可成りのチェックが入ると思うが、ヘンヒェンの場合のように指揮の技術の問題ではなく読み込みの問題があるとすると最後まで付き合えないと思う。少なくとも魅力のない指揮で、本当にこの人がヴィーンで何年も勤まるのかのか疑わしく感じた。指揮技術的には二流であろうが、オペラ指揮者としては、下積みを積んでいるようで、それでもいいところがあるのかもしれない。

オペラ指揮者といえば先日ネットで見つけたバイロイト初代音楽監督ティーレマンの動画を見つけた。リンクをシナ人のところに送ったら面白いイムプレッションが戻ってきた。何ら先入観念を与えないように観て貰ったのだが、感想は一言。大蝦米、一体どういうことかというと、大きな海老を指す言葉で、その指揮ぶりが祖奴らと一緒だというのだ。なにか鈍そうなガタイで不器用にもがく感じを指すらしい。先ごろベルリンのフィルハーモニカーにデビューしたもう一人のペトレンコに対して、新聞はまるで宙を掴むように闇雲に指揮棒を振っていると報告されていたが、オペラ指揮者もコンサート指揮者もそのレヴェルではよく似たものなのかもしれない。こうなると本当に間抜けな職業にしか思えない。
Renée Fleming - Vilja-Lied - Die lustige Witwe, Musikalische Leitung - Christian Thielemann/大蝦米


日曜日の夕食前に一仕事した。電気コンロのスイッチが壊れていたからだ。症状は先ず火力調整の切り替えが回らなくなった。布巾を巻いて無理して回していたらいつの間にか壊れた。消火も出来なくなったぐらいだ。以前にも内部が焼けて場所を取り換えたりしていて使っていたのだが、これで壊れるのは二カ所目だ。スイッチは四個しかないので、使う二個を維持するべく修理に入った。前回の時はアースの関係か電気ショックで肩まで震えてしまったのであまりやりたくなかったのだが仕方がない。240Vはやっぱり怖い。無事スイッチを取り替えてヒューズを上げるとショートした。二三度繰り返した。ショートしている場所はその壊れたスイッチのところだったので、接触場所を除去するためにスイッチを破壊した。残りは二つである。冷蔵庫もコンロも古いものを無理して使っているのは遠くないうちにアパートメント全体をリフォームしようと思っているからで、車と同じで最後まで使い果たすべく我慢して使っている。それでもまだ二年ほどは使えると思う。流石に一口では料理の可能性が限られてしまう。

就寝前にソプラノのゴルダ・シュルツがお勉強を遣り直すことを書いていた。誰かが次聞く機会を楽しみにしているとかコメントしていたので、空かさず「パルシファル」のクリングゾールの娘を楽しみにしているとコメントしておいた。朝一番で返答してくれた。それによると、「ダークアンドビューティフルスタッフハプニング!で楽しんで仕事をしている。」ということだが、舞台で通常以上に色々動きがあるという事だろうか?やはりバゼリッツの色彩という意味か。音楽自体からするとどうかととも思うが、間違いなくテムポも可成り早いと思うので通常の動きは可能ではなかろうか。早速彼女を漸くフォローしておいた。
Golda Schultz & Markus Werba✬♫ "Cinque, dieci, venti, trenta"/Le nozze di Figaro

Golda Schultz & Markus Werba✬♫ "Se a caso madama la notte ti chiama"/Le nozze di Figaro

Golda Schultz & Marianne Crébassa✬♫ "Aprite, presto, aprite!"/Le nozze di Figaro

D.Damrau/C.Álvarez/G.Schultz✬♫ "Signora, Cos'è quel stupore"/Le nozze di Figaro

Diana Damrau & Golda Schultz✬♫"Che soave zeffiretto"/Le nozze di Figaro

Golda Schultz✬♫ "Giunse alfin il momento"/Le nozze di Figaro

C.Álvarez & G.Schultz✬♫ "Crudel! Perché finora farmi languir così"/Le nozze di Figaro


そもそも彼女が出していた写真は歌曲の楽譜だったから、書いてからチョイ役のことで悪かったかなとも思った ― 後で調べると声を痛めていてドクターストップが掛かっていたようだから復帰の準備だったらしい。しかしその乙女役などの名前を見るとテラ・イロートなど新制作「ティートュス」でも歌っていたり、若手とはいいながら制作録音のそれのように結構役者が揃うのがミュンヘンの実力だ。

週末時間があっておかしいなと思っていたら、試飲会を完全に忘れていた。最近は試飲会を忘れることが増えている。理由は、カレンダーの書き込みに従うような計画的な生活が出来ていないことであり、忙しくスケデュールが一杯に詰まっていたならば逆にそうした遊びの予定も淡々と熟していける。要するにここ一年ほどは計画が立たない生活をしているからだ。この間一体幾つの予定を逃したことだろう。こうした生活は性格に合わず、とても気分が悪い。

今晩は再びテルアヴィヴから生中継だ。バーンスタインがどのように聞こえるか?流石にこれだけ聞き返すと、楽譜が無くても大分曲が入ってきた。



参照:
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
オペラ座の怪人は何処 2018-04-01 | マスメディア批評
白船をしっかり見極める 2018-03-05 | 文化一般
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非パトス化の演奏実践

2018-06-04 | 文化一般
人に紹介しただけでラディオ放送を忘れていた。それでも20時過ぎ始まりなので思い出して、結局最後まで聞いてしまった。プッチーニの「三部作」だ。初日の演奏にはそれなりに物足りなさもあり、生中継の技術的な問題もあったので、それほど重視していなかったのだが、珍しい上演という事で放送も重なり、録音も数種類も重ねてしまった。生中継は不安定乍らその新鮮な音響は録音となるとデジタル録音でも差異が感じられるのだが、問題のORFのそれとフランクフルトのARDアーカイヴからのHR2でも音質が大分違っていて驚いた。但し「三部作」が別けてリストアップされていて三部に別ける放送体制は変わらない。つまりオリジナルの一部の後の拍手はカットされる。やはりORFのネットストリーミングは高音が伸びていない感じで、MP3的な美化が感じられる。歪感が少ない分一寸聞きには如何にもヴィーンの香りとまで感じて、そのナレーションのハリボを噛んだようなヴィーン訛りと共に独特だ。

翌朝にはベルリンからのゲストがそこの楽友協会でラトル指揮で演奏する。前々日にはフィラデルフィア管弦楽団が演奏して生中継されたばかりなので、その差異も注目される。そしてなによりもブルックナーの交響曲9番の四楽章版が楽しみだ。ラトルの指揮はマーラーよりもブルックナー向きだと思っていると同時に、その初演風景をネットで見て、繰り返して演奏する必要を感じていたが、幾らかは手慣れてきただろうか。この版が上手く定着すれば、将来的にラトルのベルリンでの代表的な成果になる可能性があると思う。その可能性を感じている。

週明けになるとワイン祭りの準備で落ち着かなくなる。暑くなるようだから快適さも無くなるが、そろそろ「パルシファル」の復習をしておかないといけない。先ずは四月のパリ公演の中継録音を聞いて録音しておこう。ジョルダン指揮であるからまともに演奏出来ているとは思わないが、その前のメトロポリタンでのネゼセガン指揮との比較になるだろうか。バーデンバーデン復活祭での域には遠いとしても、ここらあたりで一度ガラガラポン混ぜ合わせして、新たなお勉強にしないと月末の初演への心掛けが出来上がらない。正直、もはやペトレンコ指揮のオペラは彼の才能の浪費でしかないと、将来思われるようにしか、考えなくなっているが、それでも「三部作」初日の録音を聞き返すとその徹底した美しさは特筆すべきで、改めて大変なことをしていると再確認する。最後に聞いたのが二月の「指輪」の上演で、それでさえ遣り過ぎと思ったが、「三部作」でのバスの鳴らし方なども徹底している。やはり和声のベースになっていて、対位法的な扱いにおいても歌の中声部を飛翔させるのもその正確さである。

そして夏のベートーヴェンを考えると、先ほどの東京の「フィデリオ」の評判から、まさに非パトス化の枠内での「舞踏の神化」へと想いが募る。現在日本ではクリーヴランドの管弦楽団がプロメテウスと称した演奏会を開いているらしいが、それならばそこで何故この非パトスが囁かれないのかは大変謎だ。そもそもベートーヴェンにヴァークナーの「死による救済」を暗示する点で美学的評価の余地がない。日本における根強いベートーヴェン人気は研究対象だと思うが ― 毎年演奏される第九の不思議と共に、だからどうもオペラだけでなく、そうした市場への支持はサブカルチャー化したもので、ただ単にライフスタイルでしかないと予想される。そこからまた合衆国における管弦楽活動なども関連していく。

そこでベートーヴェンの演奏が如何にパトス化を避けながら大交響楽団で演奏され得るかという問いかけがなされる。一つの方法としてクリーヴランドでやられているように例えばその八番の交響曲などでの軽妙さと洒脱さの晩年の「バガテレ」などに通じる演奏実践もあるが ― その意味からも後期弦楽四重奏曲を取り上げた時点でコンセプトは定まっていたようだ ―、その点で先日のバイロイトでのヤルヴィ指揮の演奏は、その音楽的コンセプトがブレーメンの室内楽団でやるの同一であるとしても、やはりとても大きなエポックを刻むものであったと思う。いずれにしても七月から来年の二月の「フィデリオ」、「ミサソレムニス」までは「べート-ヴェン研究」を続けることになる。アルフレード・ブレンデルのベートーヴェンツィクル以来だろうか。

その傍証として、復活祭のラトル指揮のそれを見れば明らかで、カラヤンの影に怯え続けたこの指揮者が、結局はフィルハーモニカーの特徴である発し発しとしたその演奏形態から一歩も逃れえる事が無かったその演奏実践を挙げれば事足りる。晩夏に演奏される第七交響曲の演奏へと向けてヤルヴィ指揮の功績は過大評価過ぎることはないと思う。それにしてもラトル体制の最後でこれを入れたツェッチマン支配人のアーティストプロデューサーとして才能と人間関係構築の手腕には首を垂れたい。これはキリル・ペトレンコのオーケストラ芸術への新展開へのハードルを大きく下げてしまうような大功績で、サイモン・ラトルとのミュンヘンでの会合でも話題になった課題でもあったのだろう。



参照:
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
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「抗議するなら今しろ!」

2018-06-03 | マスメディア批評
承前)楽友協会黄金のホールからの中継を聞いた。結局一時間の時差では間に合わずに一時間半のディレーとなって、9時始まりだった。フィラデルフィアのローカルの放送局であるが慣れていないところもあるのだろう。香港からの中継はどうだったのだろうか。少なくとも香港の放送局の映像も残っていて、先日再放送された音質も悪くは無かった。今回の内容も想定以上に興味深かった。

楽団も無事飛び立ったことだろうから、そのテロ対策に関しての情報もネットと自身の体験から纏めておきたい。まだ新聞等に出て来るだろうが、大きな危険性はそもそも無かったのだろう。パリでの動きを見ると最終的に分かるだろうが、テロ危険情報が発生していなかったという事だ。ヴィーンでも可成りの警備態勢が取られていたようで、主に会場外での抗議行動への牽制で、初日には二人が、二日目には誰も抗議しなくなったとある。それでも跳ね上がり者が居ないとは言えないので情報にも管制が敷かれていたようだ。ルクセムブルクでは、全くコントロールが無かった ― 券が無くても潜り込めそうだった。その代わり当初からつまり一般ネット発売の時からPC印字での発券はしていなかった。つまり身元が分かる者にしか発券していなかった。その数も数十枚位程度で、顧客以外の初めての購入者も身元調査が出来るぐらいの数だったろう。それでも顧客や定期会員から見ず知らずの者への券の譲渡はあり得ると思うが、制限を設けていたのだろうか。そのようなことで全く警備が見えなかった。券があっても欠席して空いていた席の数も数十までいかなかっただろう。今回の欧州ツアーで95%の入場率だとあるので、何処も同じようなものだったようだ。完売は、ルクセムブルクとエルブフィルハーモニーのみで、後者は返却券を求めて長い列が出来ていたらしい。

ブリュッセルで発生したような抗議活動予防処置として、演奏前に挨拶があり、「抗議をするなら演奏が始まる前にやってくれ」と言うのはとてもいい効果がある。そのような会に集う聴衆の多くは様々な事情を考察しつつ最終的には「管弦楽団の判断を尊重しよう」とする人たちだろう。しかし、やはりそこには釈然としないものを感じている人も少なくない筈だ。だからフィラデルフィアで行われていた激しい抗議行動も認めつつ平和裏に意見を促すという方法はやはり合衆国の民主主義ではなかろうか。その中でもフィラデルフィアはリベラルな土地柄と認識している、だからこうした方策でそのもやもやとしたものが吹っ切れはしないか。

地元紙が様々な楽員にインタヴューをしている。その中にはブリュッセルでの中断劇をして「アップセットするぐらいでトリートメントなんて」と語るように、やはりたとえ二人のテロ行為であって、受ける方は予想だにつかない。もし「アラー」とか叫んでいたら一瞬で人々が吹っ飛んでいたかもしれない。またその一方今回のツアー自体に「政治的なもの」を感じていた楽員も幾らかいたようだ。現実に舞台上で、それも指揮者となると的になり易くとても怖いと思う。情報は合衆国外交筋から得ているだろうが、それほど信頼関係が必ずしもある訳ではない。安全の確かさを値踏みするだけであり、不慮の事故は避けがたい。この点も過小評価してはいけないと思う。

そのような環境の中で放送された音環境はとても価値があった。この会場で座付き管弦楽団が演奏するのはしばしば聞かないでもないが、いつものORFの放送とはフィラデルフィアのネット放送では音が違った。あの鼻詰まりのような音ではなく綺麗に抜けていたから、余計にその会場の角の落ちた丸くなる音響を再確認した。ネゼセガンはリハーサル中に楽員に向かって、「ソフトになればなるほど、ウォーマーに」と、「歌に気をつけて」と座席の音響を確認しながら要求したようだ。そして、「ドンファン」の強い響きになると、「それじゃあまりにもソフト過ぎるんだ」と冗談を叫んだようだ。

その音響効果は放送でも明らかで、バーンスタインではあまりにも輪郭が鈍ってしまっていて、ハムブルクで響かしたようなクールでありながらも繊細な演奏はピアノも管弦楽も難しそうだった。その分、エルプからの放送ではつまらなかったチャイコフスキーが飽きさせなかった。音楽的な取り扱いでは不満も少なくないが、少なくとも楽器の棚卸のような演奏ではなく、歌の効果が表れていて有機的な効果を上げていた。そこでの楽器群の合わせ方がやはり興味深かった。どうしても我々はそこをホームグランドとする座付き管弦楽団の音楽作りとか音質とかを考えてしまう。

こうして比較対象があると、あの座付き管弦楽団の音楽は決して音楽の伝統を継承しているのではなくこのホールの響きを継承しているのだと確信した。まさにキリル・ペトレンコがNHKホールで「明白に」と言ったように、そのように対処した音楽をやることでそのバランスを取っているのだと気が付いた。そしてそれがいつの間にかにヴィーンのヴィーン古典派の演奏実践の伝統になっているようだ。あそこでいつも弾いているとああいう風になってしまうのだろう。

フィラデルフィアの音もどこまでもソフトで且つあまりに豊かに ― 少なくともスピーカーで聞くとその後ろに居並ぶ低弦がぶよぶよになってしまっていて、生で聞いたのとは著しく異なり、要するにリズムよりも旋律、和声の音楽づくりになってしまうのである。しかしやはりここでも注意しておかなければいけないのは昔の録音どころか、和声構造から全てを演繹的に処理していったフルトヴェングラーの指揮でも決してそのようには響かないことも付け加えておこう。

放送や新聞が伝えるヴィーンのスタンディングオヴェーションの嵐の熱狂は通常では見られないもので ― エルプフィルハーモニーでもロックコンサートの如きと報じるも、その意味をどのジャーナリストも書き込めていない ―、勿論最後のアンコールの「愛の挨拶」まで、今回の欧州イスラエルツアーのイヴェントとして考え尽されたプログラムであることを考えれば当然のことであったかもしれない。まさしく楽員が言う様に「一寸緊張感があるんだ」というのが勿論その環境を形作っている。益々、イスラエルからの中継から耳を離せなくなってきた。新ホールはやはり本田氏の音響設計らしい。(続く)
Mahler's Resurrection Symphony with The Philadelphia Orchestra | Bravo! Vail 2016 Season

Gil Shaham and The Philadelphia Orchestra play Mozart at Bravo! Vail 2017




参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
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マイクロフォンセッティング

2018-06-02 | 生活
夜中の雷雨で目を覚ました。バルコンの日除けや机などを退避させた。それほどでもないと思ったが、動かす良い機会だ。翌日もそれほど強い陽射しは予想されていなかったからだ。そのように始めて窓を開けて就寝していた。夜中の最低気温が下がっていなかったからだ。そのような理由で朝早く目が醒めたが二度寝してしまった。曇りがちで世間は前日の祝日に続いて休みがちとなるとぐっすり寝坊した。寝坊できることは幸せなのだが、腰に張りが来た。遅くなったが仕方なく走りに出かけた。

沢沿いの向こうからあまり顔を見ない若いお兄さんが走って来てすれ違った。その足取りは馬のように感じた。背丈も190㎝ぐらいだががっしりしていて、ランニングタイプではないのだが、運動能力が高そうだった。ああいうのを見るとこちらは幾ら走っても牛の走りで牛歩ではないだけだと気づく。勿論足元が悪いのでスピードは出ないのだが、やはり普段は見かけないああした走りを見ると違うなと思った。

そんなことで幾ら汗を掻いても仕方ないようなものなのだが、少なくとも目が醒めてすっきりした。このBLOGで誰かが訪問したページのタイトルなどを見ていると、一体何を自分が書いたのかなと興味津々で覗くことがある。誤字などを見つけて直すのが面倒だなと思う時もあるが、思わず内容に引きこまれる時もある。要するに書いた時の自身の考えとかとは異なり読者として読まされるものも無いことは無い。そうした投稿はやはりいいのだと思う。タイトルと関係ない時もあれば、なんだと思うときもあれば、なるほどと納得する時もある。様子するに完全に書いた本人が忘れている内容も少なくないのである。そしてそれが丁度一年前であったりして、同じように窓を開けて就寝したなどと書いてあると、これまた面白い。

演奏家が自身の古い映像や録音などは見たくも聞きたくもないというのはそれが自身のレパートリーであって、今も進行形でよりよいものを目指していれば過去のそれの出来ていないことを良く知っているので振り返りたくないのは当然なのである。それでも聞く側にとってはよほど同じ演奏家を追っかけていない限りそのような差異はそれほど感じない。

金曜日の夜は再びヴィーンからの生中継があるが、先ずはいつものORFの録音にしてもそのネット配信が異なるので今までは聞き取れなかった黄金のホールの響きが聞けるか楽しみだ。繰り返してエルプフィルハーモニーからの録音を流しているが、NDRの録音はまだまだこのホールの真価を示しているとは言えない。マイクロフォンのセッティングなどのノウハウが足りない。少なくともルクセムブルクで聞いたような弦楽陣の分離感と管との重なりなどが綺麗に収録されていない。黄金のザールからの中継もいつもの座付き管弦楽団の甲高い響きとは違って落ち着いた凄みのある響きが聞こえるかどうか楽しみである。チヤイコフスキー交響曲4番の演奏は、ペトレンコの言葉ではないが西欧で演奏されるそれは全てキッチュな演奏になるとしても、このネゼセガンの「演奏解釈」では精々管弦楽の木管陣の名人芸を楽しむだけになってしまって些か退屈である。オーボエ首席三代目のリチャード・ウッダームスは、二代目デュランクルを引き継いで40年、ツアー後にリタイアーという。興味深いのは百年の歴史で三人しか主席がおらず、それだけ永く勤め上げるようだ。合衆国のような世界では、遠縁の内科医師も全米を転々とよりよいポストを求めてと聞いていたので、こうした世界で終身雇用が存在しているのが面白い。伝統を守るという事では合理的かもしれない。それに引き換え指揮者が世界中を旅行して回っていて楽譜も十分に読め込めていないとなると幾ら技能が高く活躍していてもやはり駄目だ。(続く

バービカンホールでのコンサートが気になる。時間あれば行ってもよいかと思ったぐらいなのだが、まさかこれほど売れていないとは思わなかった。如何に管弦楽コンサートというのは有名交響楽団でないと入らないかが明らかだ。そういう自分でもミュンヘンのアカデミーコンサートには一度しか出向いていない。欧州ツアーのボンまで出かけただけだった。フランクフルトの35ユーロが高過ぎると感じた。ロンドンの最上の55ポンドは、会場は知らないが、まあまあではないか。BBCでさえ数年前には無名の指揮者の座付き管弦楽団という事でプロムス出演を断ったぐらいだから、その程度だろう。嘗てはEMIもあったので欧州音楽市場の中心であったがこれでEU脱落と共にその地盤低下は激しいと思う。エネスコフェスティヴァルのブカレストなどのように音楽市場も東欧へと少しづつ動いて来るかも知れない。



参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
備えあれば憂いなしの気持ち 2017-06-01 | 生活
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