Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ブロムシュテットの天命

2019-02-14 | 文化一般
またもやブロムシュテット講話に嵌ってしまった。切っ掛けは、一昨年のシーズンにおける「アインドイツェスレクイエム」の自身の投稿への観覧歴があったのでそれを見返して、その動画のリンクを探ったところからである。当然ながら今は切れている。それどころか連続放送の途中からクレームが入ったのか、最後まで番組放送も見れなかった。理由は不明だが、オンデマンド放送を止めたのはダルムシュタットの宗教法人の決断だった。だからその続きは見れていないが、同時期つまり2012年当時に収録した映像が出てきた。こちらも様々な会場からの映像が使われているが ― なんとゲルハーハーが練習で歌う画像まで見れる、なぜかDL可能なのだ。ゲルハーハー自身は典型的なミュンヘン人で子供合唱団から出てきた人だからカトリックで、この番組のプロテスタントな宗教とは直接関係無い筈だ。

そうした宗教的なレッテル付けや感覚を超越するところまで伝道するのがこのブロムシュテットの講話である。インタヴュー番組が二つあって、全部で四部に分かれていて、合わせて一時間半を超えている。結局全部一挙に見てしまった。それでも伝記的な三部作よりも別途のインタヴューが音楽的な内容として一番面白かった。それ以外では、フルトヴェングラーがヴィーナーフィルハーモニカーとブルックナーの五番を振りにストックホルムに来た時の逸話が興味深い。

青年音楽家ヘルベルトは感動して、フルトヴェングラーを遠くからでも一目見たいと楽屋口で待っていた。するとフルトヴェングラーが体を震わせて出てきて、癇癪を起して「ストックホルムではブルックナーはもう二度と振らない」と怒っているというのだ。つまり、多くの聴衆は、ああブルックナーかと、まあまあという気持ちで予習もなく聞いていて、それをフルトヴェングラーが怒っていたと理解したらしい。15歳からブルックナーに何気なく熱を入れていた音楽家は「もっともっとスエーデンでブルックナー」をと思って、実際に指揮するようになってから半世紀を経て、楽員が「こんな音楽を奏でられる幸せ」とその価値に感動するまでになったという。

フルトヴェングラーが、ベルリンの聴衆を捨てて他所で指揮をしても仕方がないと、ナチ第三帝国に留まったことはファンなら誰でも知っている。しかしその真意を量りかぬところもあって、読み替えれば、ナチのイデオロギーであった「アーリア人種の優位性」と同意義にもとれる。そしてこのブロムシュテットの証言はその疑惑への一つの回答を与えてくれると思う。

更にブロムシュテットご本人のブルックナー像も語られる。この点で注意したいのは、話者はプロテスタントであって、ブルックナーはカトリックという大きな文化土壌の差があることで、実際にその演奏実践からそれほど違和感はないが、話しぶりからすると本来の全てを包み込む大らかさからより核心へと向かって切り取られている感は否めなかった。

ブルックナーのフィナーレで典型的なその音響が鳴り終わってから「魂が飛翔していく感じとその余韻」は、この指揮者の演奏会での特徴となっていて、なぜか日本ではそこが特別な意味を持つようになっている。私などからすると、あの指揮棒を置いてからの長さはプロテスタントの信仰告白を超えたドグマに相当するものと感じて、どうしても邪魔したくなるのだ。ドイツでは一般的にあのやり方は大きな違和感を以って待ちきれないものと捉えられる。しかし日本ではそれが恐らく都合よく曲解されていることぐらいは、新教徒ブロムシュテットならよく分かっているだろう。しかし絶対そのようには語らない。それが指揮者ブロムシュテットの「天命」だからである。

氏の経歴の中で一時期新しい音楽に従事していて、とはいってもヒンデミットなどのようだが、マルケヴィッチをザルツブルクに学びに行くなどしたのだが、「現代音楽の多様な様式を扱うことで沢山学べるが、古典はそう簡単にはいかない」というのは全く正しい。指揮などを技術的に克服出来る出来ない事とは別に、そうした古典を解釈するというのは正しく氏が言うように聖書を読み解くのと変わらない。難しいのは「古典には基準」というのがあるということだ。「英雄」の新しい批判版と楽友協会の古いアーカイヴなどを比較して葬送行進曲の楽譜の「アクセントかデイミニエンドか」の相違をいつものように歌って説明している。そうした学術的な準備が欠かせないのは当然で、これに関しても正論であり、私が言うのもおかしいが、「超一流の技術(や知識)を持つ者が必ずしも一流の音楽家ではない」ということをよく表している。

もう一人カラヤンらしき人物が話しに登場して、自己の成りを評価させてそれでよしとする姿勢を、もうそこから「なにも挑戦しなくなったところで終わりだ」と厳しく捨て去る。それもここでは啓蒙思想的な今日より明日の進歩を超えて、「新教であろうと旧教であろうと、イスラムであろうと、原理派ユダヤ教であろうと」ともう一つ上の告白をする。そして休息日を金曜日の夜から日曜日としていて、これこそが恵みなのだと、それは創世記の通りの「信心」ではなくて「真実」であると信仰告白をする。まさしく氏のセヴェンデーズの宗派の教えの核心だろう。私はここまで突っ込んだ発言に強く心を打たれた。信仰はどうでもよいのだが、来週に迫った「ミサソレムニス」を心して準備しなければいけないと肝に銘じた。



参照:
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
ヘーゲル的対立と止揚 2018-09-11 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胡散臭さを振り払う

2019-02-13 | 文化一般
靴紐を直した靴で走った。締りが強過ぎて厳しかったが走っているうちに緩んできたようだ。それでもハードテューニングには遠い。応急処置には変わらない。週明けからまた冷えて、喉ががらがらしてきた。先週の散髪も堪える。それでも陽射しがあったので苦しみながらもぼちぼちと走ってきた。運動をしなければ熱が出ていたかもしれないが、久しぶりに汗を十分に掻いた。それだけで満足だ。

明け方悪い夢を見た。気になっているここ数か月音沙汰の無い女性のことだ。病で倒れてどうなっているかとても心配しているのだが、夢では何処からかその消息を知って、連絡をすると第二子を出産して他所の街で暮らしているということだった。勿論私はそのような思いがけない無礼に落胆するのだが、なによりも健康だと知って、恨み交じりに泣き笑いするのである ― まるで藤山寛美の泣き笑いの松竹新喜劇である。恨み節も収まらずワンワンと泣きながら幕が閉まって、目が覚めた。未明から色々と忙しがったので二度寝も叶わずパン屋に出かけたのだった。

ベルリンの放送交響団が日本公演に出かける。最も由緒のある放送交響楽団だが我々西側の人間は壁の向こうのことであまり馴染みがなく、壁が崩壊してからも何となく胡散臭かった。更に先ごろまではポーランド人かドイツ人か東側の人間か何かわからないようなヤノウスキー爺さんが監督をしていて更に胡散臭くなっていた。そしてそれ以上に胡散臭いウラディーミル・ユロフスキーというユダヤ系ロシア人二世指揮者が監督になった。しかしこの指揮者はミュンヘンのペトレンコの後任に決まっていて、とても感心が高まった。またこの人の楽団のスポンサーにNABU野鳥の会がなるようにバードウォッチングばかりしていそうな人物なのだ。その人が「アルペンシンフォニー」について語り指揮するのだから、たとえ平地のベルリンの人でも興味を持つだろう。またその説明がいい。夜明けから日没までのそれを人生の始まりと終わりだとこの指揮者は理解して、描かれる登山シーンはアレゴリーだと言い切る。勿論風呂場のリヒャルト・シュトラウス演奏になる訳がない。来週の金曜日の放送が楽しみになった。通の音楽ファンは、ミュンヘンの放送管弦楽団などを聴いている暇はないのである。そして前半にはNABUが委嘱したらしい鳥の囀りの音楽が演奏される。二日後の日曜日には日本ツアーの練習を兼ねて諏訪内晶子のソロでブラームスが前半に演奏されるようだ。それは仕方ないとしてもプログラムとしての値打ちは大分下がる、更に日本公演では旅費を節約するのは仕方がないがアルプス交響曲は取り払われ惨憺たるプログラムが並んでいる。
Vladimir Jurowski über die "Alpensinfonie" von Richard Strauss


フランスからの二日続けての放送は価値があった。日曜日は「オテロ」全曲、月曜日はベルリンでの「フィルハーモニカーシーズンオープニングコンサート」で、双方とも録音録画等を所持している。だからその内容は重々知っている。それどころか実演を含めて何種類もの演奏を知っている。それでも生中継以降初めて聴く放送であった。価値があったのは、前者の生録音のストリーミング放送に入っていた雑音が無いことと、後者のラディオ生放送録音を音飛びさせてしまったからで、改めて聴いて録音する価値があった。

先ず前者は、生放送時よりも、いつものように音響上のバランスが整っていてとても安心して聞けた。要するに音響的な新鮮感よりも音楽的な結実にゆっくりと耳を傾けられた。更に生放送ではオンタイムで休憩が入るが、殆ど続けざまで放送されたことで、とてもコムパクトであり、出来上がり感が気持ちよかった。毎度のことであるがペトレンコ指揮の初日は緊張などもあり管弦楽団が上手に演奏できないことが多く、いつも物足りなさも感じるのだが、年数が経って聴き直すとその完成度の高さに驚くことが殆どである。それ程日間隔があいていないが、11月末の初日のその程度の高さを改めて確認することになった。そして疑心暗鬼だったフランスからのストリーミングも僅かな音抜けの中断はあったが、概ね高品質で音量を上げると可成りの音場を感じることだが出来た。
OTELLO: Trailer | conducted by Kirill Petrenko

OTELLO: Video magazine


後者のコンサートの方も、アナウンス通りに、最初の「ドンジュアン」からして聴きごたえがある。後の演奏からすると始まりはとても不安定で上手く行っていなかったが、手元にある生中継録音の音飛びが無いので落ち着いて評価可能となった。そしてその録音自体は、生中継のバランスからするとどうもミキシングが変えられているようで、遥かに興味深い音が聞ける。この日の演奏はデジタルコンサートホールで映像が見れるのだが、やはりこのラディオ放送のミキシングは大変完成度が高い。恐らく、DCHのアーカイヴは生放送時のオーディオを必要な所だけ編集してあるのだろうが、こちらはバランスが異なるように感じる。
Strauss: Don Juan / Petrenko · Berliner Philharmoniker

Beethoven: Symphony No. 7 / Petrenko · Berliner Philharmoniker




参照:
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こまめなSNS生活

2019-02-12 | SNS・BLOG研究
バイエルンの放送局で放送された「ヴァルキューレ」の批評が出ている。そもそもラトルがなぜこの曲を振りたがるか分からないと、皆と同じことを言う。実際に散らかし放題で、管弦楽ばかりに拘って、歌はやらせ放題だと批判される。我々サイモン・ラトルファンからすると今更と思い、放送管弦楽団がこのようなプロジェクトに公共料金を払う意味が問われる ― それどころか映像も放映され、「指輪」プロジェクトは新ホールに持ち越されるというから恐ろしい。

一幕や三幕のハイライトに差し掛かると前のめりになり、こうしたコンサート形式の上演に、交響楽団に求められる精度に至ることが無く、お手本のペトレンコ指揮座付管弦楽団に及ばないとされる。歌手陣においても二幕で僅かしか歌わないクールマンのそれ比するだけのものはなかったとされる。

管弦楽団の楽器群がその行先を失っているのが、そのアインザッツ同様に総奏でも聞かれたたとされる。そこまで書くならば、なぜこの交響楽団がこうなっているかについて少なくとも示唆すべきだ。この書き手の名前は憶えがあるが、突込みが足りない。

客演ということはあるが、ラトルの指揮は当然のことながらしっかりしている。歌手が途方に暮れて歌い難くとも、管弦楽団はアンサムブルがしっかりしていればベルリンのフィルハーモニカーとまではいわないまでもそこそこの演奏が出来て当然なのである。

昨年引いた新しいネット回線が止められている。それどころか違う回線の電話も閉鎖されている。原因は、全て独テレコムにあって、どうも新回線の銀行引き落としが出来ていなかったようだ。警告書が届いて初めて気が付いた。だから先週の木曜日頃に引き落としの同意書をボンの本局に送ったが、処理できていないのだろう。いつものことながら請求書とその回線閉鎖で顧客の善良な市民を怒らす。それしか回線がないならば困るが、ラディオ放送ぐらいは古い回線でも録音できると思うので構わない。順番待ちまでしてテレフォンセンターで苦情するつもりもない。先ずは様子を見よう。そもそも関係の無い電話回線を止めて、問題の回線を活かしていることがおかしい。使い勝手が悪いのは新回線に合わせたNASストレージにしているからそれを使うにはいちいち切り替えなければなにも記録できないことだ。

日曜日はオランダからの放送があった。それを紹介して、特にそこでのコンセルトヘボーでの「英雄の生涯」は期待していた。なぜかというと、日本でも活躍していた指揮のロート氏は元手兵だったSWF放送管弦楽団で全集を録音していて、その紹介に放送で語っていたからだ。それによると「カラヤンやティーレマン指揮の湯船の鼻歌は間違いだ」という意見で、それは間違いなく正しい。それでもあのコンセルトヘボーでどれほどSWFのようなシャープな演奏が可能かどうかが疑問で、聞いてみたかった。それでも前半のエマールの「皇帝」などちっとも聴きたくもないものがあって、適当に考えていたら、またまた指揮者のロート氏が登場した。放送は一月末の録音なので恐らく本日ケルンでの演奏会もあってケルン近郊の自宅にいたのだと思う。前回「ディゾルターテン」でいいねを貰った時も同じような状況だった。この人も私の呟きファンではないかと思うぐらいだ。フライブルクに住んでいたぐらいだからプファルツにも一定の印象を持っている人かもしれない。

そこまでは普通で、更にリツイートしてくれたお蔭で、情報が不完全で更なるスレッドを開けないと分からなかったのだろう、フランスのおばさんが「今日か?何時?」と尋ねてきた。放っておいてもよいのだが、ロート氏本人にも質問していることになって、こちらも言いだしっぺなので、急いで14時と答えておいた。暫くすると恐らくそのコンサートに出かけていたオランダの親爺が14時15分だと正確な時刻を書き添えた。調べて分かっていたが、いつもその放送を聴いているのではないので餅は餅屋の情報で助かった。

演奏は案の定「皇帝」はあまり聴く価値もないばかりか、良くもこのピアニストをインレジデンス演奏家に選んだなと、この楽団の人選などはいったいどういう組織でやっているのだろうと改めて思った。お待ちかねの「英雄の生涯」は中々面白かった。やはりああいう風に演奏することで楽劇と交響詩との間にある創作過程の端々を知ることが可能となる。

それなりに満足していると、先ほどのオランダ親爺がグレートコンサートと書き込みをしてきた。いいねだけは二つ付けておいたが、暫くしてからロート氏がそれまでリツィートしていた。結構熱心にSNS活動をしている人だと分かる。コンセルトヘボーも後任探しがまだ決定していないのだろうから、客演する人は皆色気を持つのは当然だろう。少なくとも打診ぐらいは受けたいと思うのが人の常だ。当然地元で熱烈に応援してくれる人は力になる。一時のメディア戦略によるマスの時代がこの業界では異例で、コツコツとどぶ板選挙のような活動をするのが大切である。



参照:
音が鳴り響く環境の考査 2015-04-01 | 音
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大当たり二等170ユーロ!

2019-02-11 | 生活
当選!発注していた楽劇「サロメ」の配券があった。思ったより良い席である。但し公演日はカメラの入る日で、高品質な録画は自分では出来なくなる。それ以上にまたカメラに映りそうな席だ。ある意味ペトレンコ体制では常連さんに間違いないので、昨年の記念公演に次いでカメラに入れてしまえというような感じさえする。衣装だけ考えておかなければいけない。それ以上に広場がパブリックヴューイングで閉鎖になので駐車などがどうなるのか、また新しいことを覚えさせられる。出し物が一幕ものなのでそれほど面倒なことはないだろうが、最後の拍手も早めに切り上げになり私の助力も必要なくなる。

座席のクラスは、第一希望の上位クラスになったが、今までコンサートで一度座ってもオペラでは座ったことの無い場所である。その距離感や角度は分かっているので全く心配は要らない。コンサートの時よりも中央の王のロージュに近く、完全に奈落も監視できるので、音響も悪くはなく、かなりいい席だ。なにもマルリス・ペーターセンの裸体は見たくはないが、文字通り身を投げ出しての舞台は近いだけに鬼気迫るのではなかろうか。

価格は安くなり170ユーロと、第一希望の高価な初日185ユーロよりは15ユーロも安くなった。つまり敗者復活配券になったということだろう。それでも第二希望が当たったとも出来る。やはり、安いクラスはより厳しくなり、何でもいいという人には上のクラスを配券するのは当然だろう。ひょっとすると上の差額で駐車料金が相殺になるだろうか。一幕ものの「サロメ」の価格としては許容範囲内だろう。懸案のヴィデオは恐らくオンデマンドのMP4で構わないが、録音だけ可能かどうか技術的に研究してみよう。

これで、初日の放送を聴いて、使用楽譜に関しても研究可能となる。正直なところ「サロメ」は今更の感のある出し物で、万が一外れることも考えたのだが、行くことになれば筋が通る。先ずは、この20日に「ミサソレムニス」を歌うペーターセンとブルンズは、夏に「第九」でもクールマンと揃って出場する。また、五月の千人の交響曲には「第九」のヨウンがクラウディア・マーンケと並んで歌う。嘗てのカラヤン時代のようにいつも同じようなトップ歌手が出るわけではないが、徐々に事務所の関係からも同じような人が重なって出るようになっている。道理で歌手にもお馴染みが増えてきた。一部はミュンヘンとは関係なくベルリンの体制でも引き継がれるだろう。

土曜日に峠を攻めようと足拵えをしていたら、靴紐が切れた。普通の紐ならば交換すればおしまいだが、これはループ状のものが使われていて、くっつけないと使えない。早速洗浄して室内で観察すると、紐だけでなくて、その通し場所も切れていた。靴自体は二年前の三月に購入していて、その商品一号から使っているシリーズとしてはが最も長く使えた。昨年はアルプス行はならなかったが、前年は二回はアルプスでも使っているので充分だろう。次の後継商品を選択するのに時間が掛かるので、先ずは紐を結んでループの場所を動かして、留め紐を糸で縫って瞬間接着剤で固めた。上手く行けばもう一月ぐらいは平素のトレーニングに使えるかもしれない。そこの踵の分厚いところに数センチのねじがねじ込まれていた。いつの間に踏んだのだろう。街中で履くことは無いので不思議に思っている。そこにも接着剤を流し込んだ。



参照:
待望のランニングシューズ 2017-03-22 | アウトドーア・環境
次世代への改良点 2017-12-03 | アウトドーア・環境




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一流の催し物の周辺

2019-02-10 | SNS・BLOG研究
日本からの呟きを見ていたら消去されていた。理由は法律に抵触するのでドイツでアカウントが消去されたというものだ。内容はそれ程のものではなかったと思うが、アカウント名からしてクライズライターと恐らくナチか東独の社会統一党でしか使われない言葉を名乗っており、そのアイコンを見るとなんと総統らしき写真が載っている。勿論ドイツ国内では禁止どころか訴追されかねないが、更に怖いのはユダヤ人組織である。日本でも有名になったヴィーゼンタールセンターなどを筆頭にそれこそモサドまでが世界中に網を張っている。マンの「ファウストュス博士」の人物像ではないが呵責容赦ない追求である ― 私のような横着な人間でも確認したが敢えて写真の部分は消す。そんなものを晒しても誰も喜ばない。

そもそもその手の連中が何を呟こうが無知を曝け出しているようなもので耳を傾けるに値しないのだが、無知が無知を呼ぶような構造がSNSの世界で、ホワイトハウスからの呟きが最もその頂点にいるかと思うと殆ど正夢だろうかと頬を抓らなければいけない。それにしてもそもそもああしたカウント名を付けて何を主張したいのだろうか?タブー破りの面白さなのか、ちっとも面白くないのである。とても趣味が悪く幼稚なだけである。誰も見たくはない。要するに黒いコートを羽織った露出狂のオヤジと変わらない。

特に芸術、更に音楽関連などになるとユダヤ系の人の活躍無しには一流の催し物は成り立たない。何が言いたいかと言えば、無関係であるからなどと言えるのは余程の鎖国された島国の人か孤立している人なのだが、そういう人種に限ってこうした無配慮な言動が目立つのである。所謂スピナーと呼ばれる人種だろうか。

先日車中のラディオで、シナのドイツ企業買占めの話しが出ていた。ドイツ工業協会理事の声明だと思ったが、同時に本国の景気の鈍化からそもそも買占め数が減ってきているというのである。恐らくその方が正しいのだろうが、そもそも生産拠点や貿易の問題ではなく、技術への興味から盛んな買占めに走っていた訳だから、技術さえ移転してしまえばあとはお払い箱である。そうしたことから寧ろ社会的にはシナへのアレルギーはまだ今後広がるのではなかろうか。

先日のヴァイオリニストのカプサンではないが反応が思わぬところから来ると、どうしようかなと思っているストリーミングプログラムも紹介した責任で聴かなければと思うことが少なくない。メトからの中継は、「青髭」と「イランタ」を組み合わせたプログラムで、最初に後者を未知のソニア・ヨンツェヴァの歌で聴きたかった。四月には一月のメトに続いてバーデンバーデンでデズデモーナを歌うからだ。そもそもMeTooガッティ指揮だから券を購入していなかったが、メータ指揮で歌うことになり興味津々だ。それもチャイコフスキーのオペラとなると嘗て大屋政子プロデュースで食中り状態のロシアオペラをこの辺りで正常に戻したいのだ。メトデビューの指揮者は先ごろまでペトレンコの後々任としてコーミッシェオパーで振っていたナナーシという名のある人だ。勿論この二作品の組み合わせと後半の「青髭」をフィンレーが歌うとなっては外せない生中継である。そのように紹介したら本番前にフィンレーがいいねをしてきた。もう殆ど私の呟きのファンではないかと思わせる。番組は風邪気味とアナウンスのあったヨンツェヴァなどで無事始まって、それを聴いて録音する価値はあったと喜んでいると、休憩時間にそのフィンレーとイディト役のドイツ人のデノーケという歌手が出てきていた。

私などはメトからの中継もNHKで殆ど聞いたことが無く、今のようなこのライヴ感覚は夢のようにしか思えない。それだけでなく実際にインターアクティヴな関係が築かれるとすれば、考え方を変えなければ話しにならなくなってきている。なるほど日本などの地理的にも島国にいることからすればニューヨークは一寸異なるのかもしれないが、ここからすれば海の向こう側で時差六時間はそれほど遠くはない。

そして「青髭」の管弦楽が良く鳴っていて、指揮者の実力もあるのかもしれないが驚くほどである。なるほど監督のネゼサガンが振ればこれぐらいはと思うが、これだけ座付楽団が鳴らせるところは無いと思った。やはり監督が言うようにメトが世界一の座付で、フラデルフィアは世界一の管弦楽団というのもそれほど間違ってはいない。そしてお待ちかねのフィンレーの歌はハンガリー語のニュアンスは評価できないがとても良かった。所謂銭をとれる歌手で、まだまだキャリアーも相当するギャラも上るかもしれない。そして相手役も全然悪くはなかった。この辺りがメトの実力でそれが次から次への演目でそれぐらいの歌手が続いている。ロンドンのコヴェントガーデン劇場とは違うのは当たり前かもしれないが、これがオペラの殿堂だ。



参照:
「ナチは出て行け」の呟き 2019-02-07 | マスメディア批評
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

放送管弦楽団あれこれ

2019-02-09 | 雑感
エマニュエル・パウの演奏でピンチャーの協奏曲を聴いた。丁度その時に同じくライヴでミュンヘンから「ヴァルキューレ」が二幕後の休憩に入った。とても良い演奏で、尺八みたいな音までを息漏れなしに出していた。一体あう云う音をどのように出せるのかと思うが、この曲の初演者で時間が経っているためか演奏としてこなれていて、これでもかというほどの音の段階を付けていた。楽譜に書き込まれているという以上に作曲家との意思疎通があるのかもしれない。あれだけの細やかな表現となると楽譜に書き込んでも限界があるように思え、そもそも簡単に真似できない。このような曲がコンクールの課題曲にもなるのだろう。勿論お手本はパウの演奏以外にない。作曲家にとっては彼が演奏してくれるだけでその楽曲の芸術的価値が上がる。あまりフレンドリーでない風采の指揮者兼作曲家だが、管弦楽も良く書けていて、一度聴いただけだが、様式としては20世紀のモダーンを出ないが、立派なものだ。更に名の知らない指揮者とベルリンの老舗放送管弦楽団が素晴らしいかった。

そして、再び三幕でミュンヘンに戻った。指揮のサイモン・ラトルファンとしては彼がどんな指揮をして、こうした楽劇では何が出来ないかを良く知っているつもりだ。たとえそれが交響楽団でのコンサート形式であっても基本は変わらない。その放送交響楽団は冒頭からゴリゴリと弾いてきて、流石に角も立っていると思っていたが、直に高弦などが美音で奏しだす。そこにチューバなどが出たり入ったりの多いアンサムブルで、この楽団のシェフの顔が浮かぶ。なるほどあのヘラクレスザールは大きな編成には向いていないのかもしれないが、超一流と比較してはいけないがクリーヴランドの楽団だったら綺麗にサウンドチェクだけで合わせてくるだろう。

歌手陣もそもそも口元の閉まらないヴェストブロックには期待しないが、指揮者があまり細かに指導出来ない分自覚して押さえて歌っていた。しかし何といっても二幕のフリッカを歌ったクールマンは見事だった。そのインタヴューも途中で流れていたが、キャンセルした「フォレと組んでペトレンコ指揮で歌ったので」と話していた。MeToo指揮者のグスタフ・クーンヘの対応も厳しく呟いていたが、ここでも中々歯切れが良い。ラトルもインタヴューで彼女の「反応の良さ」を特別に語っていた。なるほど年末の「こうもり」における歌でも分かったが、彼女自身に言わせると「フリッカが最も好きな役」となるのを歌で証明していた。大したもので、夏には第九で生を聞ける。

それにしてもラトルは、上手に語る。自身がドイツ語がそこまでできない分、古いドイツ語も気にならないので、丁度良い距離が取れていいと話す。この辺りは本当にドイツ向きで、ベルリンでの生活も「移民をやらしてもらっている」とベルリン子の子供たちのと父親と母親の間を取って丁度そこがよいのだと、上の話しの前振りにしていた。ネゼセガンも天才的だが、この人も本当に頭が良い。

そして放送管弦楽団で経験がない分、白紙で始められるのでピアノといえばピアノを出してもらえると喜んでいた。宜しい、その点は認めるが、そしてその指揮に関して分かっている分、この放送交響楽団の実力が如実に出た。やはりヤンソンス指揮になって、はっきり発音が出来るようになった分、出せない音が増えた ー 要するに意味ある音が出せなくなっている。弦の甘い音でも、これまた超一流と比較しては気の毒だが、フィラデルフィアなどであればあのような単純な音は出さない。なるほど放送管弦楽団の使命としてマイク乗りし易いことは当然であるが、ややもすると第二管弦楽団のポピュラー放送管弦楽団に近づいてしまう。オペレッタの演奏ならばそれで良いが、楽劇では流石にその差が顕著になる。

そのように考えれば、指揮者の実力もあるのだが、同じ放送交響楽団でもベルリンの老舗は立派に鳴っている。ユロウスキーの下では明らかにベルリンの方が上ではないかと感じた。それ以前に「ヴァルキューレ」に関してはペトレンコ指揮の座付管弦楽団の演奏の方がはるかに厳しい演奏をしていた。これは慣れとか慣れていないとか指揮者の腕とはまた異なるアンサムブルの問題である。ミュンヘンの放送管弦楽団がオスロの交響楽団やバムベルクの交響楽団程度ではいけない。

手元の記念切手のエルプフィルハーモニーとゲヴァントハウスの二種類が手薄になって来たので、各々シートで再注文した。特にエルプの方は145セントなので高額となり、最後の一枚を残すべきかどうか考えたぐらいなのだが、実際に会場を見ると自身の記念切手になってしまって、まだまだ使用する心算で購入した。ゲヴァントハウスの方もその管弦楽団がここ暫く更に脚光を浴びそうなのでどんどん使う心算だ。



参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭の悪そうな出で立ち

2019-02-08 | 生活
散髪に出かけた。9時始まりでなくて8時半だったので、先客がいて追い返された。一時間後の約束で出かけると他の客が入っていた。更にそのオヤジと手を止めてやりて婆が話しているので、そこにあったプファルツの雑誌を捲っていた。中々いい線をついている雑誌で写真も印刷も綺麗で、地元民は喜んで隈なこになってそこから情報を取ると思う。私もザウマーゲン世界大会の記事に釘付けになった。

前回は11月だろうと話したが、実際にそうでオテロ上演訪問に時間をおいて出かけた。本来ならば1月のチューリッヒ訪問の後と思っていたが、寒さが厳しく伸びに伸びた。バリカンを思い切って入れたことで、あまり邪魔にならなくなった効果もある。そして寒さが緩んだところで、何とか済ました。これで次回は春の声を聞いてからだ。

これで、ミサソレムニスのお勉強に集中できる。その前に幾つかの生中継などを聞かないといけない。週末は先ずはベルリンからパウのソロでのピンチャーの協奏曲である。作曲家としても指揮者としてもあまりいい感じはないが、ベーレンライター社が紹介の呟きに早速反応していたので、そこから出版しているのだろう。パウファンはいてもピンチャー関連とは全く予想しなかった。同時刻にミュンヘンから「ヴァルキューレ」中継も流れているが、ラトル指揮ならば「ジークフリート」の方に期待したい。中々あの楽譜をコンサート指揮者が指揮するのは難しいと思う。

先日シカゴからの放送を紹介してそこで協奏曲を弾いたヴァイオリンのカプソンからいいねがあったのも意外だった。名前は知っている演奏家だが、あまり知らないのでプロフィールを見ると偶然ながら友人とこの演奏家は同僚かも知れないと分かった。必要ならば直接にフィードバックも可能なのでタイマー録音したのだが、残念ながら無音で失敗した。指揮もビュシュコフである意味シカゴに本当に必要な指揮者かもしれないとも思った。

メールが入っていたので何かと思うと、ロンドン交響楽団YouTube中継のリマインダーだった。それも既に放送が流れだしてから入った。録音録画をしておいた。この手のものではイスラエルからのものは知っているが他所の交響楽団がどうなのかも興味だった。形式は垂れ流しで同じだが休憩にあまり表情の良くないおばさんがしきりに話していた。楽員なのかどうか知らないがそこまで頑張らずに、ソリスツなどにインタヴューでもすればよいのにと思った ― 後で見ると冒頭に付け足していた。客席も満席ではなく、それほど湧いていなかった。

指揮者はエリオット・ガードナーで嘗てモンテヴェルディ楽団を指揮しているときは興味津々な活動をしていたがその後はバッハなどを振らせても全く精彩がなかった。今回も態々楽員を立たせてシューマンなどを演奏させていて、これは今流行りのギリシャ人カラヤン二世の物まねかと思った。勿論起立して演奏させるのはなにも珍しくもなく、特にバロック音楽では昔からやられていたが、こうした比較的古い交響楽団にロマン派の音楽をこのように演奏させる意味が皆目解らなかった。あれはやはり楽員のお通じや健康を考えたものなのだろうか。要するに演奏実践上では不利な面ばかりが聞こえて、利点は全く感じなかった。バロック音楽ならば上体の触れが大きくなって、それが本来の音楽的なグロテスクに結びつくことはあっても、シューマンの演奏で何を奏でようとしたのか?何かその指揮の鈍さと相まって、カラヤン二世ならば流石にこうはならないだろうと、まるで年寄りが若者を引き立てるようなショーでしかなかった。最後には楽屋からパインビーアを持って出てくるなど、明らかに頭の悪そうなことをしていた。
Weber Euryanthe, Mendelssohn Concerto for Violin & Piano, Schumann Symphony No 3


この老舗交響楽団は英国で屈指の実力を誇る筈であり、サイモン・ラトルが指揮者になって高額券で売られる様になった。しかしこうしたコンサート中継を見ているとただただ荒っぽくて、決して歴史的な奏法云々の話しではなく、また共演のヴァイオリンのファウストの演奏も全く冴えなかった。アンコールの「真夏の夜の夢」ぐらいがまだ面白かったぐらいだ。一度コンサートに行こうと思っているのでとても不安になった。それはベルリンのフィルハーモニカーならあれだけ不細工なことにはならない - でも新体制へまだまだで、これからである。それでも次の中継は、ハイティンク指揮のブルックナーなので、中継の様子も分かったので楽しみにしよう。

土曜日から日曜日にかけてはボストンからの中継である。リサ・バティシュヴィリのシマノフスキーもいいが、コープランドなど面白いプログラムで、やはりネルソンズにはライプチッヒでもこうしたプログラムで勝負して欲しい。



参照:
無色透明な音の世界 2018-11-10 | 音
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ナチは出て行け」の呟き

2019-02-07 | マスメディア批評
先週気になる記事が出ていた。流行り言葉「Natzis raus」が見出しになっている。第一面横の所謂社説コラムなので目を引く。この言葉が意味するものは誰にも明らかで、所謂外国人排斥のパロール「Ausländer raus」つまり「外国人出て行け」と叫ぶレイシストのそれを裏返したものだ。新聞によるとその言葉が公共文化波ドィチュラントクルテューアの呟きとして書かれているらしい。要するに社会的に少なくともネット上は認知された表現となる。

新聞は同じ状況として「右翼」というのはもはや健全な保守派を指すのではなくて同時に「極右」を指すようになっていると状況を説明する。つまりネット住民にとっては最初のパロールを以って「私はそこに属することの無い真っ当な人間」であると主張することと同意義らしい。編集者は、ラディオ局の呟きは、そもそもネットにおける荒らし右翼に対して、「ナチは出て行け」となっていると説明する。

一体どこに、ポーランドかフランスかデンマークかベルギーかオーストリアへと追い払うのかという疑問は別にして、そもそものナチにおける外国人を人種的に差別した暴力的排斥は刑に問われて、rausではなくrein、即ち追放でなく拘束による治安だと書く。つまりネット上での匿名のそれはナチの方法ではなく、身を隠しているのでそれではないとしている。

寧ろ問題点は軽々にナチ呼ばわりすることで喜ぶのは正々堂々と出てくる本物のネオナチであり、政治的には右翼が悪いとされるのも例えばキリスト教社会主義の民主主義的な価値観の欠落に起因するとしていて、要するに「右翼も極右変わらず」悪くされるその背景について説明する。

否定されるナチ自体が他の意見を封殺するそのやり方の方が、過去への評価の問題以上に悪いとする。当然のことながら思想の自由とそれを担保する憲法の解釈への議論、そうした現在世界中で顕著な動きが大まかに示唆される。ここまで読めばどうもこれは呟き問題でもあり言語表現の問題でもあるように思う。

この高級紙は第二の勢力である政党AfDに対して厳しくその実態を暴き、糾弾し続けているが、ここではとても慎重にそれらに対するカウンターの在り方を諌めている。ネットでは音楽家ではイゴール・レヴィットなどが最も激しくそのカウンターとして活動しているが、それ以上にやはり監視することによる牽制も重要だ。

連邦共和国の音楽家では何人かはこの新聞紙上でも注目に値するその言動が問われた。最も有名なのは指揮者クリスティアン・ティーレマンだ。この指揮者に関しては、その演奏会は一度行けば十分だったが、最も長くウォチャーを続けていて、キリル・ペトレンコなんかよりも長いお付き合いである。そのような切っ掛けになる新聞記事があったのは、同じ指揮者インゴ・メッツマッハーである。これは20世紀の音楽も得意にしていてアンサムブルモデルなども指揮していたので、誰もがリベラルな音楽家として疑わない。ベルリンの演奏会で、プフィッツナーとこともあろうにリストの前奏曲を前後のコンサートで取り上げて十分な釈明が出来ていないというものだった。その方の組織ではリストアップされているに違いない。その他過去の人では歌手エッダ・モーザーなども明らかにこの範疇に入る先導者である。

そのティーレマン指揮の演奏会には人が入らなくなった。エルブフィルハーモニーでは当日まで前売り券が出ていた。戻り券かどうかは分からないが、ラトル指揮ロンドン交響楽団などではそうした余剰券がそもそも存在せずありえない。そして同じ興行師プロアルテが扱っていて、なんと驚くことに224ユーロも徴収している。同じ時期にベルリナーフィルハーモニカーをネゼセガンが指揮してもまともに興行すれば180ユーロほどしか請求されない。興業師の儲けが如何ほどかは直ぐに算出可能だ。「広告費や手間などを掛けなければ君たちの演奏会など誰も来ないよ」と、彼らに言わせたらこうなる。つまり売れ残るのは当然かもしれないが、それでもラトルの指揮や知名度にはそれなりの価値があるのだろう。

エルブフィルハーモニーも一巡二巡したので、通常の売れ方の近づいてきている。偶然にもティーレマン登場の後はNDR管弦楽団を振ってメッツマッハーが出る。NDRは「ユダヤの小さなグノーム如きで、アルベリヒのようだ」と、ペトレンコを散々侮辱したが、なにかハムブルク周辺にはその手の根が蔓延っているのだろうか。街の印象では昔からそのような感じはないのだが、南と比較して根暗で開放的な感じは薄く、丁度大阪のおっさんが笑いながら反対の方向に指して道を教える雰囲気に近い。シュピーゲル社の本拠地でもあるSPDの牙城だが、長期低落傾向の左派の虚飾のようなものをそこに感じる ― まさしくそれがAfDを育んだ。



参照:
独精神についての疑問視 2007-10-13 | 音
言葉の乱れ、心の乱れ 2006-10-28 | 女
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

省エネ電気使用通信簿

2019-02-06 | アウトドーア・環境
昨年度の省エネ電気使用通知簿が来た。その結果から何を学ぶか?先ず結論からすると○である。前年度が1845kWh なのに対して1707kWhで押さえている。恐らくここに住むになるようになってから最も電気消費量が少ないに違いない。それも二十年前からすれば半分以下ぐらいか。これが何を意味するか。

なにが前年比で変化したかを見ると、消費が増えた方ではミニノートブックを常時駆動させ、同時にUSB-DACの駆動時間も伸びた。留守録する時などは点けっぱなしになることもある。だから増加は覚悟していたがこれだけ減少したのには驚いた。しかしそれも最後の四半期だけなので要素としては限定的だ。更に六月からはルーターが二機になったのでこれも増え、更に最後の四半期はNASストレージがほぼ常時稼働になった。その他の増加分は殆ど無いと思う。

一方減少したのは、掃除を手伝う人が病気になってからアイロンが飛躍的に減った。洗濯の回数もシーツなどのそれが減った分若干落ちたかもしれない。これだけで1000kW以上も減少させられるならばその使用量を今後監視しなければいけない。同時に掃除機の使用も減ったので、これらの電化製品の使用量が上に当たるのだろう。だから差引を考えれば、減少分が各々の機器の電気容量差で数十倍以上なので、それが年間使用量で三分の一減少したとすれば増加分は完全に呑み込んでしまったことになる。逆に増加分はそれ程大きくはないので、やはり減少を今後とも工夫していかないといけない。次に購入の洗濯機は省エネを進めるかもしかない。

全体として標準な数値に近づいてきているので、仕事場としてもまたオーディオ機器も付けっぱなしで使っていることからすれば大変優秀だ。あれだけの消費をしていた私が、連邦共和国の始末な社会で標準に近づいてきているのは驚異的だ。夜も必要な照明は灯されており、早寝をしている訳でも全くない。オーヴンも週に二回ぐらいは使っている。冷蔵庫も四半世紀ほど使っている。全く省エネ製品ではない。省エネ製品は二つのモニターとPC類ぐらいか。ああそうか、そのPCのHDDをSSD化したことで、増えたNASストレージの電力消費を大分相殺しているかもしれない。NASは、常時点灯していても、HDDのように頻繁に動かない。意外に環境に優しいかもしれない。

一月以上遅くなったが、あまり誰も内田光子の数えの古希のお祝いを呟かない、だからそのクリスマス前の新聞記事を紹介しておこう。自分も忙しく特別なファンでもないので中々目が通せなかった。ルクセムブルクのリサイタルなども券が余っていて気になっている。近ければ行くが、それも何か面白いプログラムなら出かけるが内田のシューベルトには遠過ぎる。レヴィットのリサイタルでも一時間を超えて出かける気はしない。前回はルジュェスキーとのジョイントだから出かけた。内田の協奏曲はシェーンベルクやモーツァルトも聴いた。

新聞はそのピアノは、人の耳を澄ませて今までに経験したことの無い聴体験に導くものだとしている。そして正確なリズムは、小さな減速やメトロノーム上の加速において、とても強い表現力とするもので、その明白さを評価する。こうした音楽家は、「内面的な音が貧しくなるほど大きな音を立てる」ということを知って、こうした静かな音を奏でる音楽となるとしている。

モーツァルトへの志向はフィリップス社が推したもので、同時にシューベルトは取り上げていたがとあり、同時にショパンとドビュッシが挙がっている。ヴィーンでのピアノの先生がシェーンベルクとヴェベルンの弟子であるリヒャルト・ホイザーと書いてある。どこかで名前を見たような気がするが思い出せない。個人的にはシューベルトはブレンデルがあったので関心を持たなかったが、モーツァルトは内田に匹敵する演奏はあまり思い浮かばない。ショパンのチャンスがある様だったら今頃内田の録音を買い込んでいたと想像する。



参照:
Nicht nur Schmeichelei, Ein Wienerin aus Japan, Clemens Haustein, FAZ vom 20.12.2018
フクシマ前消費の半分へ 2017-01-29 | アウトドーア・環境
尽きそうな節電の可能性 2018-02-08 | 生活
騙された心算で行こう 2018-09-19 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリルと高度に一致」

2019-02-05 | 文化一般
パン屋から出てくると地元の公安局の人が話しかけてきた。店の前の歩道には乗り上げるなということで、やはり地元の人から苦情が出たのだろう。道路を狭めて駐車するということになる。それ以上に放射冷却の通り、バイオウェザーの影響で15分ほどの乗車時間に五回ほど事故が起こりそうになった。どれも皆が意気っていて不注意と陽射しの強さに集中力が無くなっている状態だった。さぞかし今日は事故多発しているに違いない。このような日は運転しないに限る。皆が狂っているので避けようがない。

バーデンバーデンの新支配人スタムパへのインタヴュー記事がバーデンの新聞に出ている。そろそろ徐々に語り始めないとプログラム発表になってしまう。幾つかの点で興味ある発言をしている。先ず個人的な音楽の繋がりとしてベートーヴェンのLPに言及していて、リヒテルにクルト・ザンデリンクが付けた三番ハ短調の協奏曲だ。これだけではなんら意味はなさないが、偶然にもランランが弾いて初共演のペトレンコが振る予定だった曲だ。偶然かもしれないが、更に重要な発言をしている。

「演奏者を含む芸術家との対話に尽くしていて、私たちはバーデンバーデンではベルリナーフィルハーモニカーと協調が大変幸運だ。オペラ界からの人とペトレンコがフィルハーモニカーを率いることになる。内容的に何をするかについてはキリルと私の間で高度な一致を見ている。」と話す。

これはどのように読もうが可成り立ち入った言い方をしている。先ず呼び捨てしていることからも当然ながら今までの準備期間で二ケタ回は会談若しくは打ち合わせをしているということだろう。もう一つ注目したいのは、オペラ界からの人がフィルハーモニカーにも影響を及ぼすような言い方だ。勿論演出家である訳だろうが、そこまで立ち入る演出家って誰だろう?クリーゲンブルクならばそこまでは前に出ない。管弦楽にまで影響を与えそうな演出家は?確かに論外としてもミュンヘンの「フィデリオ」の演出も可成り音楽に影響を与えるものだ。そして歌手からのフィードバックも受けているような話しぶりとすると、私が知る限りクラウス・グートぐらいしか思い浮かばない。彼の演出は、表面上は穏やかそうだが、実際は音楽的にもかなり影響するだろう。

しかし質問は、「歴史的上演若しくはレジーテアター、名作オペラそれとも新作?」で、それには直接答えずに上のように反応している。勿論芸術家には作曲家や作詞家も含まれるが、そこに演出家らしきが入るとなると全く答えにならない。初めからリームの新作などということは今までのこの復活祭からしてありえないので、レジーテアターの方へ傾倒するということだろう。そこで昨年のペトレンコのインタヴューを思い出そう。

そこでペトレンコは演出に合わせた演奏にも言及していて、可能性があるならば自身で何時かやってみたい気持ちがあることも語っていた。謂わば既にプロジェクトが動いていて大物演出家と対話があったとみるのが自然ではなかろうか?スタムパの方は今シーズンから浪人をしていて実際には、今までコンタクトの薄かったオペラ界の人材とコンタクトを取り始めていた筈だ。

その次の質問「ドルトムントの聴衆はバーデンバーデンとは違う訳で、考えを転換させなければいけないか?」に、「ここの方が多様性が拡大して、どのように聴衆に語り掛けるべきかが問われている」として「どのプログラムで」と答える。「その遺伝子が助けになり、音楽家を引き寄せるように聴衆をも引き寄せるバーデンバーデン。」となる。

もうここまで聞けば、前任者とは知的程度も全く異なるのは分かるのだが、実際にどのような判断を下してくるかは分からない。そもそも前任者は同じ知能程度の指揮者に推されるような支配人だったが金儲けは上手かった。だからそのゲルギーエフの貢献はここでも評価していて、これも私と同じだ。

もしここに示唆されているベートーヴェンの「フィデリオ」を入れてみると、グート演出なら丁度いい具合に新しく尚且つ名作を上演出来る。気になるのは、ミュンヘンが今シーズンの「フィデリオ」最終公演として、先があるかのように書き加えたことで、そうなると誰が指揮しても主役二人はミュンヘンに留まることになる。復活祭には三年前にバーデンバーデンでも歌ったようにマルリス・ペーターセンのレオノーレはどうだろうか?可成り画期的な上演になる。さてどうなるか?

Ludwig van Beethoven “Leonore” (Marlis Petersen & René Jacobs • Freiburger Barockorchester)




参照:
Interview mit Benedikt Stampa: Exklusiv, ja. Elitär, nein!, Badische Neueste Nachrichten vom 4.2.2019
都市文化を再考する 2019-02-05 | 文化一般
邪魔になるZDFクルー 2018-11-07 | 文化一般
アイゼナッハの谷からの風景 2017-07-17 | 音 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都市文化を再考する

2019-02-04 | 文化一般
ミュンヘンからの帰路は早かった。街を出るのに再び遠回りした。ナヴィに打ち込んでおかないと駄目だ。それが無ければ久しぶりに三時間を割ったと思う。途中飯を頬張ったりお茶を入れたり、室内灯を点けて走行車線をゆっくり走り、コップを助手席の奥から拾うのに苦労したり、セーターを着たりでくつろぎ走行だったが、なぜか平均速度は110㎞を超えていた。嘗てザルツブルクからの帰りに時速140㎞を出して500㎞を四時間以内で帰宅したことがあった。しかし最近は交通量が違って夜中でもあまり飛ばせない。しかし久しぶりの土曜日の夜はトラックがない分空いている。冬タイヤの制限があってもしばらくは時速210㎞で巡航を何回か出来た。それでも燃費もそれほど落ちなかった。やはり空いているのが一番で、そして省エネ走法をここ暫くミュンヘン往復で練習してきたので、新車を買えばもっと早く走れる筈だ。先数キロの道路状況と制限速度を予め情報入力して、ハイテクハイビームを加え、新しい眼鏡を買えば間違いなく帰宅が早くなる。

なによりも今回は零時過ぎ頃の降雪が予想されて、それも二三時間予想よりも遅れたことから、無風の乾いた中を快走した。それでも予定通りチューリッヒの方に向かっていたら大変なことになっていたかもしれない。ルイージが降りてくれたお蔭である。35フランぐらいの寄付はどうでもよい。イタリア人指揮者は、亡きアバドを含めて、今後ともあまり信用しないようにしたい。お勉強代である。その点ムーティは結構堅いなと思う。

今回はカーテンコールに最後までいたので車を出したのは21時20分前だった。バイバイの後でももう一度引き出し、回数も多く「タンホイザー」に次いで長かった。昨年の冬の「指輪」はお誕生日式典があったので長かったが、繰り返しの数は少なく、今回は「タンホイザー」の時よりも残った人が多かった。特に淡白な平土間席も多く、その時点で後の回数は、会場の係りの人と同様に、略予想が付いた。結構頑張っていたのはバルコンの上あたりで、通常はあまり数がないが、おばさんが固まっていたのでカウフマンファンかとも思ったがそうでもなかったようで、ご本人の視線もあまりそちらには向いていなかったようだ。天井桟敷は数人の根暗の若目の男性や結構年配の女性も粘っていた。出し物の「フィデリオ」も新制作の初日シリーズではないので客層も少し違ったかなと思った。初日シリーズに比べて少なくともペトレンコ指揮のそれにはあまり慣れていない人もいるようで、あれだけ出てくるのを知らなかったような人が戻っても来ていた。

斜め後ろには27日の券を公式サイトで買って貰って、更にバレーの券まで買い上げて貰ったおばさんがいた。休憩中に若い女性と話していた時に捕まえて再会の挨拶をした。妹さんが券を使って感動していたということで、「初日からまた練ってきていてよかった」と話した。バレーも本当に喜んでいた。88ユーロの席を20ユーロならば、それは価値があっただろう。一寸した「テアターゲマインデ」である。流石にミュンヘンは、詰まらないところで声を上げる爺さんもいれば、やはりその層が分厚い。当日も娘さんを連れた親子連れもいて、新制作シリーズとは異なる普段着の聴衆も多かった。

マフラーを取りに行った通用口の窓口でも確か劇場で見たようなおばさんがいた。東欧系の人の様だったが楽師さんの関係かで券を取りに来ていたようだがすんなりと行かないようだった。あれだけの層が厚くて人数がいても何となく見かけたような人が増えてきた。これも平素の再演だからだろうか。マンハイムなどの雰囲気を知っていると本当に羨ましく思う。中からは舞台でも挨拶するアーティストマネージャーの女性も出てきた。あれが都市文化だ。世界に誇るだけでなくて、その文化都市の中での芸術的な営みが違う。バッハラー支配人が語るように、「そのもの」を求めて訪れる聴衆の文化共同体である。

会場係のオヤジさんが、この人ともなにかを話した覚えがあるのだが思い出せない、車いすの婆さんの場所を確保するために特別に動いていたが、「ヨーナス・カウフマンを聴きに来ましたか」と婆さんに話しかけて、「僕も聴いたけど、良かったよ」と語るのだ。ああいう人が結構詳しいのだ。そして初日シリーズには王家もやってくる。劇場の前にはプロの物乞いも時々機嫌よさそうに話しかけてくる。

近代劇場文化も都市文化の一つであり、恐らく食文化などもそうだろう。以前は高級コンディトライやデリカテッセェンなども消費文化の一つでしかないと思っていたが、少し違う面も見えてきた。いつものようにダルマイーアでトルテを購入しようとしていると、いかにも外国人労働者風の痩躯の中年男性と八歳ぐらいの娘がガラス越しにトルテを眺めていた。どれにしようかと選んでいるのだ ― それがまたあの有名なユダヤ人収容所映画La vita è bellaの主役のお父さん似なのだ。その外見だけでなにか心打たれるのだが、どうぞ先にと待とうとすると、「先にどうぞ」とこちらに譲る。娘にゆっくりと選ばせたいのだ。そしてこちらの勘定が済む頃にもう一人の店員が対応するのを見ていた。なぜか「ナッツがそのまま入っているのか」に拘っていた。店員は「クリームですよ」と答えた。なぜかなと思って様子を窺がっているとそのロベルト・ベニーニと再び眼が合った。「やっぱりほら歯に、分かりますよ」と想像して話しかけた。こちらはそうなるともう空想が止まらない。大きなトルテもそれほど高くはないが、それでも家族で一食を賄えるほどの価格になり、晴れの日感は間違いなくある。きっと娘の誕生日か何かにおばあちゃんが訪ねてきていて、その婆さんが入れ歯をしているのだなとまで考えてしまった。こういう光景が街角で違和感なく普通に見られるのも大都市だからで、マンハイムにはない。観光客ばかりの街でもない。こうしたものも含めて都市文化であると理解するまでにそれほど時間は掛からなかった。
La Vita è Bella (1997) - Arezzo nazista (1945)

La Vita è Bella - Barcarolle (Jacques Offenbach - da Les contes d'Hoffmann)

La vita è bella - Buongiorno principessa




参照:
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
ハムブルクの夜の事 2019-01-30 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MeToo指揮者に捧げる歌

2019-02-03 | 文化一般
ペトレンコ指揮「フィデリオ」再演は書き尽くせない。もし私が楽曲を暗譜していたら、一冊本を書けていただろう。初日と最終日は全く異なっていた。乗っている奏者の相違も明らかで、特にオーボエの山賊兄などには心配したが、どうして見事にこなしていた。そして一幕に関しては軍配は最終日に上がった。二幕は冒頭に詰まらない演出に残念にもヤジが飛んで緩んでしまったので迷惑至極だった。カウフマンの折角の歌唱も初日とは比較にならない普通の出来だった。PAの轟音とともに舞台装置が動く間に我慢できない爺さんがいて声を上げた ― 丁度クリーゲンブルク演出「ヴァルキューレ」三幕前のような塩梅だ ―、上から見ていたのでよく分かったがグリーンラムプが点くと振り始めるようになっていて、タイミングが非常に悪かった。カウフマンファンは爺さんに賠償を求めるべきぐらいである。だから最後のフィナーレのプレストモルトで限界まで加速しても効果が薄れた。あれは幕開きから最後までを一挙にもっていかないといけない。何度も言及しているが掛け声とか何とかは余程タイミングが合わないと間が抜けたものになり、特に音楽の場合は致命傷になる ― コンサートの最後の音の余韻とか言っているような程度ではお話しにならない世界である。

しかしそうしたテムピの配置だけでなくリズム的なアクセントなど、初日には出来ていなかったことを山積みしてきていた。キリル・ペトレンコは新制作初日やマイクが入ると決めてくるが、オフ録の時は色々なことを試してくる。それがオペラの場合は、外的な事故とか歌手の不調とかと不可抗力として、その職人的な技量を示しているかに見えるが、再演のベートーヴェンに関しては明らかに初日には出来ていないことを可能な限り出してきた。冒頭に書いたように、逐一指摘すべきことは沢山あるだろう。しかし録音がないと難しい。

そこで先ず留意すべきはその楽器配置である。殆どこのところ原理主義かのように伝統的独対抗配置を取ってきたのが、ここに来て通常配置を採用している。勿論その楽譜からの判断であり、冒頭のレオノーレ三番のコーダのカノンからして抜群の効果が上がる。対抗配置にする価値よりも音響的にも合わせ易く合理的ということなのだろう。そのことは初日におけるアンサムブルにも表れていて、課題と対策が様々に試みられているということでしかないだろう。

それゆえに特筆しなければいけないのは一幕における見事な音楽運びだ。フルトヴェングラーの「レオノーレ三番」を往路の車中で聴いた。その指揮は殆ど狂ったようなクライマックスとなっていたが、懲りずに聴いたベーム指揮の第一幕の大雑把には代えられない。私が言いたかったのは、勿論フルトヴェングラーのテムピやアゴーギクがペトレンコ指揮に似ているというのでは全く無いが、楽聖の音楽の本質的な要素としてのその音楽構造と楽譜の読み方そして演奏実践における共通項である。それが顕著になったのは一幕で、恐らく最終日の一つのハイライトだったレオノーレのレチタティヴとアリアで、ホルンの妙技も特筆されるべきだが、カムペがあれほどオペラティックに歌えたのもその指揮運び以外の何ものでもなかった。カムペの名唱でもあり、バイエルンの音楽監督として記録として先ず「影の無い女」を挙げられるのに対し私はここのこれだけで超一流のオペラ指揮者としてのペトレンコを記念しておきたい。

カムペ自身が語っていたようにあまりにも器楽的に書かれているために、オペラ的な歌謡表現がままならず、恐らく今までこれほどまでに上手く行った演奏は無かったのではなかろうか?名録音もあるが、トスカニーニにしろ、マーラーにしても、歴代の名指揮者もこれを解決するのはとても難しかったと思う。私がどんなに「ペトレンコはオペラ指揮者でない」と強調しても、こうして歴史に残ってしまう。そのような指揮であり、ここでの試みと成果が、ベートーヴェンの演奏として夏まで繋がっていくと確信する。なにもフルトヴェングラーが楽聖の交響曲を狙い撃ちにして自らの音楽演奏実践の素材にしたのではないということだ。
Gwyneth Jones "Abscheulicher! Wo eilst du hin?" Fidelio

Christa Ludwig - Abscheulicher

Fidelio Leonorenarie Janowitz 1977

Régine Crespin; "Abscheulicher"; Fidelio; Ludwig van Beethoven

Beethoven - Fidelio - Vienna / Furtwängler 1953 live cf.45m30s

Beethoven: Leonora’s aria - Lehmann-Toscanini - Salzburg 1936


カムペの昨年一月の「ヴァルキューレ」と並べられるような歌だけでもって、このオペラがそしてこの再演が精彩を帯びてきたわけではなかった。先ず冒頭からヤキーノがマルツェリーナに襲い掛かる場面はもはや初日シリーズ指揮のMeToo指揮者ガッティを思い起こさずには観ておられず、ミュラーの歌に迫真性を加えた。彼女にとってもとても大きなステップアップになりそうな歌唱だった。これだけで私などはスケベ心をくすぐられ、舞台にワクワクしだした。

札束を入れたアタッシュケースを持った立ち振る舞いのロッコを歌うグロイスベックのアリアにも感動させられるなど状況は一転する。そして、ドンピサロとのデュエットなどややもするとお決まりの流れが急に劇の中で意味を持ち始める。そして歌詞にも細かく音楽が付けられていると同時に、既に触れたようにレオノーレのアリアが二幕でのフロレスタンのアリアに対照するように綺麗におかれているような大きな音楽構造も明らかにされてくる。器楽的なオペラであるそうした側面が、初めてオペラとしての表現、つまり手の込んだミクロの音楽構造表現として開花するときにこそ明らかになってくるマクロの音楽構造である。(続く)



参照:
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疲れを残さない足跡

2019-02-02 | 
足に雪の疲れが残っていた。大したことはないが一寸した張りが動機付けになる。もう一息と峠を攻めてきた。積雪量が増えていて、確実に10センチほどの積雪となっていた。上から降りてくる車がのろのろしていると思えば先日の犬を探していた小屋のオヤジだった。こちらが通り抜けるのを待っていた。余程下りのブレーキに自信がないのだろう。挨拶して通り過ぎる。歩幅が歩行程にしか伸びない。雪の上で踏み込むよりも轍の堅めのところが楽だった。

喉にも違和感を感じたりしたので慎重だが、これで先週からのノルマに短い一本が足りないだけで来週を迎えれる。要するに短い一本ぐらいは天候さえよければ幾らでも余分に走れる。今晩も足に疲れが残るかもしれないので湯船で温めて就寝しよう。

今日中に燃料を満タンにする。価格は前回ほどで入れられるだろう。まだ少し残っているので、平均すればまあまあだ。エンジンオイルも少し足しておこう。窓洗浄の水も少し足しておこう。次までは少し時間が空くので、先ずは何とか無事に往復したい。

色々と日程などを考えているうちに、早々と2020年のカレンダーを印字した。既にいくつかの日程が書き込まれた。この夏のミュンヘンのオペラの配券作業が始まった。順番に開けていくことは分かっているが、「サロメ」初日に売り切れが出た。二日目から四日目までも変わらない筈だが、まだ作業をしていないということか?同時に「オテロ」も二日とも「マイスタージンガー」は一日のみ売り切れになっている。一般的に初日シリーズの翌年の今回の「オテロ」は人気が高い。双方ともヨーナス・カウフマンという売れっ子が出ることでは変わりないが、その相違は再演の数によるかもしれない。更に昨秋にカウフマン無しで三回公演があったので、その分人気は落ちる。

それでもどのようにこうした売り切れの差が出るのか?一つには初日の場合はプレス席などの非売席も少なくなくその需要も読めているということかもしれない。順々に開けて行って、残っているという他の日も順々に売り切れになるのか、それとも本気でまだ購買希望者を募っているのかはよく分からない。少なくとも、売れ行きは読める筈なのだが、券の種類によって出方が変わるのかもしれない。

数学的に自動で配券してしまうことも可能で、どのように作業をしていくかも、数学的に作業効率を計算できる。弊害になるのは、アナログでの注文でそれを一度デジタル化しないといけないことである。また第一希望第二希望をどのように活かしていくか?若しくは、付随のコメントをどのように活かすのか?アルゴリズムの作成と同じように作業が進んでいる筈だ。

明日のお勉強に久しぶりにレオノーレ三番の楽譜を開けてみた。ペトレンコ指揮の演奏は大変興味深く、管と弦のバランスだけでなく、フルートとオボーエ、ファゴットの関係も金管との関係もとても興味深かった。幾つかYouTube音源で確かめてみる。期待していたメスト指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの2015年の演奏はよくない、そもそもこの組み合わせは相性が悪いようで、ベーム指揮のそれとは比較にならない。これは演奏様式とかではなくて、座付管弦楽団がまともに演奏していない。その他、フルトヴェングラーなどもう少し聞いて確かめてみたいと思う。あの下らない演出のお蔭でこの曲を堪能できるのだけが幸いだ。

Beethoven Leonore Overture No 3 from Fidelio Salzburg 2015

Beethoven: "Leonore" Overture No. 3 / Böhm Wiener Philharmoniker (1977 Movie Japan Live)

Beethoven : Overture Leonora Nº 3 OP. 72a

Beethoven: Leonore Overture no. 3 (Furtwangler)



フルトヴェングラーの演奏を聞くとその正確な譜読みとその指揮に感心する。先に前回の旅で書いていなかったことを記しておく。記憶が錯綜するのも嫌なのと最終公演の後では最初から説明したり後出しのようになるかもしれないので、道中に聞いた録音に絡めて書いておこう。ドナーニ指揮の録音を準備したことは書いたが、結局それが退屈でベーム指揮の方へと移った。そして胸が騒ぐのを感じた。しかし当日の公演では全く異なる演奏となっていて、予想通りドナーニ指揮に近かった。しかしフルトヴェングラーの演奏を聞くと、寧ろこの演奏の方に音楽的な近親性があって、ベームの指揮演奏が、まさしくこの演出でそのドグマティックなものが批判されているそのものナチのイデオロギーに近いかことを改めて確認する。そして今回の演奏の細部とそうして管を軽妙に浮かした演奏法こそが戦後世代のドナーニなどがなせなかった演奏様式で、バレンボイムもこれを羨ましく思うだろう。そしてそのような演出に合した今回の再演だったのだ。この幕開きの最初のセリフからレオノーレ三番の序曲が文字通り今回の再演公演の全てを物語っている。恐らく、ペトレンコ指揮でこの座付管弦楽が最も立派に音楽芸術的に演奏した序曲だった。



参照:
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
残り二新制作作品のみ 2019-02-01 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残り二新制作作品のみ

2019-02-01 | 雑感
昨日の雪がさらに増えた。もうこうなると無視して走るしかない。気温は低く安定しているのでサクサクとクラストしていてそれほど走り難くはなかった。沢沿いを走っただけなので高低差はあまりない。だからそれほど足元の不自由はなかったのだが、ゆっくり走行しても通常以上のエネルギーは使った。汗も掻いた。土曜日までにもう一走りしたい。

ミュンヘンも金曜日から土曜日に掛けて危険な状態になるようだが事故が起きるなら先に起きてしまうだろう。夕方までにすべてが解決されていればよい。但し雨量があるので、雪になるとやはり積もる。何よりも有難くないのは帰宅のアウトバーンでのホワイトアウトである。

土曜日の準備にレオノーレ三番の楽譜を落とした。序曲にフィデリオ序曲しか準備していなかったからだ。手元にある楽譜と比べてみる。どこまで初日の記憶を呼び起こせるか。

18時始まりで初日より一時間早いので、帰宅は一時間以上早く、道路状況さえよければ12時半前には帰宅可能な筈だ。但し出来れば一時間前からのガイダンス、マフラーを取りに行くのと、更に週末の買い出しミュンヘンで済ませるとなると、駐車場には16時前には入れたい。つまり、11時には出発しないと危ないかもしれない。

六月の新制作「サロメ」の券を発注した。籤引きになるのでどうなるかは分からない。今回は、もともとタイトルロールを歌うマルリス・ペーターセンの希望で取り上げられて、僅か四回しか上演されない。短い作品であり、新たな透明性の高いオーケストレーションの版を使うというのだが、どこまでキリル・ペトレンコが指揮する価値があるかも若干疑わしい。言えることは、この楽劇がミュンヘンの歌劇場の十八番で、鼻歌交じりに演奏される程度のものであるということだ。だから、通常は六回公演なのを四回にして手短に済ませる効果もある。初日の放送と三日目のストリーミングである程度分かるというものだが、やはり生でも聞いてみたくもある。少なくとも下位の座席を一日掛けて並んで購入するほどの価値はないと思う。

籤引きの当否が決まるとミュンヘンでの来シーズンのプログラム紹介があり、バーデンバーデンからの情報が徐々に出てきて、ベルリンの新監督就任の恐らくお披露目を兼ねたプログラム発表があり、バーデンバーデンでのスーパーオペラが話題に上ると一挙に話題がミュンヘンから他所へと移る。

2020年4月初中旬がバーデンバーデン祝祭となる。そこで初めてペトレンコがスーパーオパーを指揮する。その頃、カウフマンが「トリスタン」をボストン響と歌う。つまり、そこまでは本公演がなく、早くてもオペルンフェストで新制作初日若しくは2020年秋になってからとなる ― 2020年5月11日、13日のアムステルダムでのマーラーフェストツアーが既に発表済み。2020年秋に2019年秋に続いて、演奏旅行に帯同しないということがあるだろうか?2019年ジルフェスタ―公演は休めないとして、2020年ヴァルトビューネがどうなるか?2021年はもうオペルンフェストしか指揮しない。それも再演だけだろう。

2020年オペルンフェストの「トリスタン」、その前にバーデンバーデン、ヴァルトビューネは二年続けて代役。すると、全ての日程はここ二三か月中に全て発表される。バーデンバーデンは「フィデリオ」ならばあまり準備期間は掛からない。演出家は?

しかし「サロメ」初日シリーズが四日しかない意味は?一つは他の指揮者による再演が次のシーズンの冒頭にある場合だろうか。若しくは2021年のオペルンフェストに再演となる。そこで、「トリスタン」再演と二本立てとなる。勿論2021年ヴァルトビューネでの指揮でベルリンは夏休みに入る、その後である ― その前5月16日のライプチッヒでのマーラフェスト参加などは発表済みだ。因みにバーデンバーデンは4月初めとなる。

そうなると、2019年秋の新制作はなにだ。手兵の日本公演をメータの手に授けてまでの新制作準備とは。現在までの新制作は、(「イエヌーファ」)、「ティート」、「ディゾルダーテン」、「影の無い女」、「ルチア」、「ルル」、「サウスポール」、「マイスタージンガー」、「レディーマクベス」、「タンホイザー」、「三部作」、「パルシファル」、「オテロ」、「サロメ」となって、順番からするとロシアものだ。そして「トリスタン」で終結。「サロメ」をミュンヘンのアンサムブルの集大成と語っているのも示唆している。



参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする