Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

1970年代後半の東欧出身

2023-10-17 | 
金曜日のイザールフィルハーモニーからの生中継をラディオとストリーミングで鑑賞した。新曲もAIでのサウンド作りなど、ラトル指揮のBR交響楽団にはあまりやりどころがなく、この作曲家に委託したムジカヴィ―ヴァの責任であるが、新体制での音楽的な問題点も浮かんできた。

従来はこのシリーズは官邸の裏のヘラクレスザールで催されることが多く、その小さなホールでも売切れることがなく苦情されたが、今回は新しい大きなホールイザールフィルハーモニーで殆ど売り切れたとされている。新シェフのラトル様様で喜んでいられるのだろうか。

肝心なのは芸術的な出来なのだが、先ずは新曲委嘱の選定からして問題が多くて、その作曲法については目新たらしがあるとしても、何ら新たなメカニズムも何も感じさせることはなかった。後半のベリオ作曲「コーロ」は1976年にドナウエッシンゲンで初演されて、しかしこのシリーズで初めて取り上げられたらしい。

前者は、九月に同様にベルリンの音楽祭で初演された1976年生まれのミュラージーメンスとリームに習ったイレシュの曲と1979年生まれのジュライとは方法などは異なっても取り分け斬新な芸術アイデアがないということでは共通していた。後者はラトル指揮のシマノフスキ―全集録音に感動して曲を捧げようとしていたということだった。

そうなると異なるのは演奏である。双方とも大編成の交響楽団をパレットにしているということで、下手に演奏して大失敗ということは許されない。そして前者の演奏は、作曲家自身がレクチャーで語っていたように、初めて自分の創作の音を聴けたと語る様に到底通常では不可能な面倒な演奏とアンサムブルを求めている。

その意味からしてのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの献身的準備は結果に表れていた。抑々それだけの手間をかけて演奏するだけの創作かどうかが問われるほどなのだが、昔から練習曲というものが存在したように、大管弦楽団の可能性を試すような音化することに意味があるという作品もあるのである。
Márton Illés: Lég-szín-tér / Kirill Petrenko · Berliner Philharmoniker


するとラトル指揮のBRの交響楽団は少なくともこうした有名な新しい音楽のシリーズを持ちながらそれほど素晴らしい演奏が生まれていないようにラトルの指揮もそれ以上に魅力のあるものとはなっていなかった。

ラトルがここで目指しているものはやはりその語り口だと思われるのだが、やはりそれ相応の音を出していかなければいけないので、丁寧にはやっていたとしても、またまたのっぺりとしたことになっていた。音化するだけで精一杯でそれ以上にはグラデーションも着けられないという塩梅で、何か元の木阿弥のような演奏会となっていた。

百戦練磨の初演魔エンゲルの指揮に比較すると、なによりも欠けているのは、指揮者自身が総譜からざっくりと鷲掴みする全体の叙述法と構成感であり、それをどのように演奏にして内容を聴者にも明白にするかということでしかない。



参照:
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
透過性を上げる試み 2022-10-18 | 暦
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時間的な余裕感を吟味

2023-10-16 | ワイン
次の旅行のティケットを購入した。1月のベルリンでの三晩の二晩しか購入してなかったので一晩を買い足した。

そして今回はベルリン北部のパンコウに宿泊するので、またまた冬季で日照時間も短く、九月の様にワイン街道から一気にチェックインから初日は難しいと思った。そこで途上でもう一泊する。場所を北側から入れるところを探したが、先ずはVW本社のヴォルフスブルク周辺にアパートメントを見つけた。安く40平米以上ある。どうも同社の研究所に通うような人が使うようだが、若干問題はそこからパンコウまでの距離で250キロを優に超えて、それはそれで遠く疲れる。10時過ぎにチェックアウトしても14時にしか着かない。すると結局通り道のマグデブルクとなったのだが、65ユーロである。さしてその周辺には興味もなく総合走行距離も若干延びる。

抑々ハルツ地方に行きたかったのだが、先日は時間的余裕がなく、今回は雪が心配である。だから出来るだけ避けたく、また態々ライプチッヒを経由するつもりもない。そこでまだ出かけたことがないケーテンやクヴェトリンブルクのバッハやプロテスタントのメッカ周辺を探すと、ザーレ河沿いに同様の価格で共同キッチンぐらいのところが見つかった。更に二つのアウトバーンが交わり、ハルツ山地の北からでも南からでも入れるので、どちらかに積雪があればもう一方のライプチッヒ側と含めて積雪がないアウトバーンを使える筈だ。最終的に直前までキャンセル可能なので天候状態で最終的に考えればよい。

そこならば総合距離で少し延びるぐらいでパンコウまで2時間半までを見ておけば到着しそうで、近回りすれば200キロも走る必要はない。旅行日にぐっすり就寝可能となれば、翌日の10時チェックアウトでのんびりと走れる。前日も16時チェックインならば暗い内に朝立ちしないでも500キロを到達可能なので楽であろう。

ミュンヘンから持ち帰ったアヒルのテリーヌも悪くはなかったが雉がやはり旨かった。ラインガウのリースリングは奥さんに態々分けて貰った2021年産のラインガウワーで、既に瓶詰めから一年半ほど経っていても酸が効いている。まだ二年には半年ほどはではあるが、少なくとも有害なリンゴ酸などは丸くなってしまっているので、熟したワイン酸が効いているということだ。来春まではバリバリに新鮮なリースリングとして楽しめることがはっきりした。

何故2021年のグローセスゲヴェックス「グレーフェンベルク」が素晴らしいかというと、より長く木にぶら下がっている葡萄はこうした地域ワインよりも酸が分解されていて、より長く新鮮さを保つということでしかない。

そして独特の香味とその果実風味は経年で落ちていくにしても、それで不味くなるということではないのを経験から学んだ。要するに新しい時に酸がそれだけ分解されていて、更に素晴らしい個性を放っている限りは、十年経ってもそうした美徳は薄れないということである。



参照:
サフランライスの秋の味覚 2023-10-09 | 料理
バービーと広島のミーム 2023-08-08 | 文化一般
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明朝の寒さに備える献立

2023-10-15 | 生活
明日から冷えるらしい。旅行から帰って来てジャージのパジャマに着替えた。洗濯してから初めてだったが、伸びも最小でジャージで身体が温まる。冷えるようになると夏布団でも丁度いい感じになるか。これはこの厳寒期に頼もしいと思う。ところで週明けに窓掃除が可能かどうか?

明朝の冷えに備えて、今晩はブルゴーニュを開けて、先ずはミュンヘンで購入したバムビのテリーヌ、そして茄子を付け合わせにした牛肉の予定だ。またホテルの近くのパン屋で購入したバイエルン風のパンが残っているので摘まんでもよい。

あまり意識していなかったが、確かにレストランなどで食した中が空いているのは酵母を使っていないということか。粉自体は所謂ミックスだと思うのだが、塩も一寸効いていて味がよく香ばしい。ゼーメルと呼ばれるブロッツェンは帰宅後食しても美味かった。合格点以上の出来だ。但しシュヴァルツヴァルトの上塗りとかそういうのとはまた違う。近所に住んでいたら通うだろう。

総体的にやはりバイエルンはドイツで最も豊かな土地柄で、食事もなにもかも質が高い。嘗てはそれほど意識しなかったのはやはり農業地のそうしたレーダーホーゼなどの地方色への意識が強かったことで、現在の経済的な基盤やそうした富裕層へとあまり目が行かないこともあったのかもしれない。なるほどハンザのハムブルクなどの経済的に豊かな土地もあるのだが、やはり先端産業を中心としたミュンヘンからシュトッツガルトはやはりドイツ経済の牽引車であることには変わりない。もう少し文化に金を掛けなければいけないのである

さて次の音楽はラフマニノフとなる。交響曲二番も一番も初めて聴く。パガニーニラプソディーは楽譜は見たことがあるがライヴは覚えがない。協奏曲四番はお勉強して、ヴォカリーゼと。トリフォノフの二晩ともまだまだいい席が残っている。バーデンバーデンの前回のリサイタルはコロナ期間中でもあったので、300人ぐらいだったかもしれない。今回はこれまたお馴染みのネゼサガン指揮でこちらもある程度評価が定まってしまっていて余計に入り難くなっているのだろうか。個人的には指揮者にはおかしな期待はないのだが現在の体制でのニ回目のフィラデルフィア管弦楽団演奏会なので楽しみなのだ。

それが終わるとベルリナーフィルハーモニカー演奏会の極東旅行壮行演奏会となる。これはなによりも出来上がりが楽しみだ。そして指揮者のペトレンコはミュンヘンからの帰路マイニンゲンに古い書き込みのパート譜を見に行ったのだろう。訪日を前にネット会見をしたようなので、このことが明らかにされて、愈々二度目の試みはシュタインバッハ版を再びフィルハーモニカーで試みることが明らかになった。要するにコロナ期間中の折衷策は破棄されることになるだろう。そしてコンツェルトマイスターもクスナウ門下のダイシンが受け持つに違いない。これで日本公演プログラムAへの期待が大いに高まった。

一昨年にエンゲルが指揮して大絶賛されていたので、如何に奏法などで上手にやるかに掛かっている。因みにブラームスは来年の復活祭まで寝かされるので、精々日本でやれるだけ練習してきてほしいと思っている。両プログラムを合わせて日本で漸くこれという演奏が為されることになるのだろう。比較すればカラヤン指揮の万博の頃とかベーム指揮のNHKホール演奏会に匹敵する演奏会となるに違いない。



参照:
迎へ酒の酔いがまわる 2023-09-20 | 料理
見事な素材とその出し方 2023-09-01 | 雑感
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変わった指揮と座付き楽団

2023-10-14 | 
承前)前音楽監督キリル・ペトレンコは第一回アカデミーコンサートの客演指揮者として何を為したか。2021年の「トリスタンとイゾルテ」以来の客演であったが、ペトレンコの指揮も変わり、そして何よりも500周年の管弦楽団も変わっていた。奈落の中と舞台の上では尤も異なるのだが、その間現音楽監督ユロウスキーの2021年の「鼻」、昨年の「ルーダンの悪魔」、本年の「戦争と平和」を聴いて来ればこの変化は明白だった。

的確な指揮やその懇切丁寧なキュー出しなどは変わらないのだが、よりアンサムブルをさせるような方向にあって、特に舞台上ではとことんまでやっていた姿勢よりも、現在の座付き楽団の状態に満足しているような指揮ぶりであった。恐らくユロウスキーの手に渡ることで、楽団の方も自己防衛のようなアンサムブルを壊さない努力もあり、当初は新監督下でぎくしゃくしていた感じもあったのだが、本年のプロコフィエフ演奏でのそれが評価されて最高の楽団とされたのは偶然ではない。

独伝統的楽器配置で左右に広がったそのヴァイオリン群の掛け合いや受け渡し、木管、金管への繋がりや重ね方は当然のことながら歌へのそれと同じようによりしなやかになり、場面によっては多くの音色旋律的な表情を作っていた ― 大絶賛の交響曲七番の録音よりも一層洗練されている。特に四度音程がどのように落ちていくのか、それとも上がっていくのかは、重要な表現であって、一部の合唱フーガのみならず、全てが二部へと連なる動機の扱いとして揺るがせない。

この点においてブレゲンツでの録音は往路の車中でヘッドフォーンでより纏まった音響として聴けたのだが、やはりそのアンサムブルが全く異なり過ぎて、特に第一部の小さな音では歌手の後ろに沈んで仕舞っていた。上手な楽団程小さな音での表現力が秀逸となるのだが、それが見事なダイナミックスを為していた。その分、ブレゲンツでのような女声陣の表現力がなくても、座付き楽団がそれに余りある表情を作る。

プログラム冊子にクラスティング氏がドルニー支配人の手腕で2020年に予定されていた歌手陣を略揃えというのは敢えて異なったことを書き記していると思う。しかしその中でもマリアヌス博士を歌ったブルンスは、特にその二部での表現は大変重要な音楽的な扱いとなっていた。ある程度の声量も期待されるので、もしかするとベルリンでも起用されるかもしれない。

ここで音楽史的な興味から、現在のミュンヒナーフィルハーモニカーの前身カイム管弦楽団が現在のドイツェスムージアムの乗り物館で初演した時の名簿からヴェーベルンとツェムリンスキー、そしてシュトラウスとレーガー、日本で活躍したプリングスハイム、その義理の兄弟トーマス・マン夫妻に、ブルックナーの交響曲で有名なシャルク、そして娘婿のヴィーナーフィルハーモニカーのコンツェルトマイスターローゼ、メンゲルベルク、ストコフスキー、そしてコルンゴールトなどの音楽的に興味のある名前を挙げておこう。

そして、この座付き楽団ではヴィーンとの対抗意識もあって疎遠で、その分フィルハーモニカーの方は1901年四番、1910年八番を初演、その他1900年二番、1906年六番、1907年七番、1904年三番、1905年一番、19010年五番と殆どマーラーの管弦楽団となっていた。そして座付き楽団が八番を演奏するのも今回が初めてであった。(続く)



参照:
500周年記念の一望 2023-10-10 | 文化一般
3D的感覚の認識 2023-10-05 | 文化一般
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現生に存在しない畏敬と平安

2023-10-13 | 文化一般
当夜のプログラムにいつものクラスティング氏が書いている。ペトレンコがアカデミーコンサートで最も取り上げた作曲家はマーラーであったと。音楽監督就任早々の特別演奏会と一般向け二回、そしてベルリンでの演奏会で交響曲三番を取り上げたのが2014年1月12日からで、2014年9月にリュッケルトリーダー5曲と第六交響曲、2016年3月にザイフェルトとゲルハーハーの「大地の歌」とスコッチ、2017年6月に極東旅行の為の交響曲五番とパガニーニラプソディ、2017年10月に日本から戻っての「魔法の角笛」、2018年5月に交響曲七番、2020年に交響曲八番の予定だったが、2020年6月にカウフマンの「若人の歌」が中継された。交響曲九番もその続きで予定されていた。

今回の演奏で改めて気が付いたことは少なくない。この曲で一番難しいのは交響曲とオラトリオの合作とされるような例えば四度動機の扱い方や三和音の展開形などの和声音楽の中での小さな単位の扱い方が分かり難く、結局今回も十分な時間も取れなかった。しかし同時にマーラー自身が書いている。

「ある変化が必要な箇所の必要ならざる得ない論理によって、それが自分自身の突然の驚きとして戻ってくる。自分自身をその芳醇の中に見出し、そこは楽天の花園と成り、もしかするとあなたが言うように、そこにタルタトースの夜の叫びを見出すかもしれません。…私自身、創作しているのではなく創作されているのだと感じています。」と女性に書いている。

このように可也の早書きで膨大な音符を扱って、指揮者メンゲルベルクに1906年8月18日に書いているように、この曲においてはその「独自の内容と形式」で「世界が鳴り、そして響き始める」と、「その声楽は最早人の声ではなく、惑星と太陽がそこに廻っているのです。」としている。

まさしくフィナーレの合唱もメシアン作曲「アシジの聖フランシスコ」と同様に実感として鳴り響く宇宙である。そこに不協和の響きとしての悪魔が存在しているというのは指揮者クーベリックである。シェーンベルクの初演や歴史に残る録音を残している指揮者であるが、美しいメロディーやハーモニーのみを聴いて、美しい建築美に耽る者はマーラーにそれを見いだせず、その様な者は人を語ることも一生叶わないだろうと発言している。

「大地の歌」を挟むその間の健康的な問題があったとしても、この作曲家にとっては語るべきことはここに語り尽くされていて、その逐一について十二分に示される演奏を実践するのも難しい。如何に響き亘る音を鳴らすことが容易ではないか、逆にそうして考え尽くされて選ばれた音というほどに容易でもない。熟練の指揮者であり、書き込める作曲家の筆があってこその作品である。

生涯最大の成功をおさめた交響曲で、マーラー自身が驚いていたのは上のような作曲の流れがあり、第二部のゲーテの「ファウストの場」と合わせて、規模だけでない大きさと内容がありそれだけに理解が難しい曲でもあったということだ。その場面における救済をして、この世には存在し得ない畏敬と平安があると、この大曲としている。(続く



参照:
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
アムステルダムへと一週間 2023-06-16 | 文化一般
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シチリアの安物ワインに

2023-10-12 | 料理
本年最後の予定の旅行から帰宅した。プファルツに入ってから、燃料が怪しくなっているところで渋滞があったのでアウトバーンを下りて、遠回りしながらとランダウで給油した。174.9だったので30リットル入れておいた。通常ならばミュンヘン往復は無給油で往復するのだが、往路に急いだことと、復路で飛ばしたことで心細くなっていたからだ。

復路のアウトバーンは久しぶりに気持ちがよかった。ミュンヘン―ウルムノルト間の工事が全て終わったようで、一か所だけの橋だけで、その他は夜間などは再び殆ど無制限で走れることになったようである。新しい車で新機能で夜間視覚さえよくなれば平均速度を可也上げれると思う。BMWを国上げて支援しているようなものである。兎に角、三車線が長く続いて路面が綺麗なので飛ばす楽しみがある。

あとは、シュトッツガルトからカールツルーヘ迄の黒い森の工事が終わり、一部ICEの新線路と日本の新幹線の様に交差している辺りからもう少し峠越えがなんとかなれば、2時間半か掛からなくなる筈だ。しかし下りの復路も飛ばしても3時間では無理で3時間半以上掛かる。

眼鏡の影響は大きいのだが、飲んだ後に右目が充血していたので、それだけ運転の負担が掛かっていたのだろう。コロナ期に明らかに落ち込んだ動態視力などが回復したように感じるのは、全く気が付いていなかった臭覚でもそうであり、様々に健康的にコロナ影響を脱しつつあると思う。

500周年記念演奏会はそれに値するだけの演奏をしていた。舞台上のこの座付き楽団を聴くのは、2016年のツアー、2017年の日本公演直後のブラームス交響曲四番、ヘルマンレヴィ記念演奏会に続いて四回目であったが ― それ以前はザワリッシュ指揮とクライバー指揮だけだろう ―、今回が奈落で演奏するその良さを一番発揮していたと思う。態々出かける価値のある演奏会だった。

予想通り1時間40分後にはレストランに出かけられた。一度一人でふらりと寄った時に手前のガストロでの食事が気が利いていたので今回試してみた。高級ホテルフィーヤヤーレスツァイテンの横にあるだけに普通に200ユーロぐらいのボトルがメニューに並んでいて、一人80ユーロ以上ぐらいの相場を作っている様だ。それでも一等地だけに結構入っている。やはり外国人が多いようだ。

そういうことで決して安くて旨いレストランではないのだが、イタリアのシチリアの安物ワイン39ユーロに合わせて勧められた特製ティラミズも良かった。本物のアマレットなどの材料を使ったというのはその味の良さに表れていて、全く変な甘さがなかった。14%のアルコールにバッチリで、覚醒した。その前のヴィール肉レモンソースにアンティチョークは味付けが参考になった。

お陰で車を動かす前にカフェンインを必要もなかった。地下駐車場は早めに出かけたので良かったのだが、案内の様に半分は閉鎖されていた。次にこの劇場に行くときはある程度解決されていることを祈る。広場を進入禁止にして出入口をマクシミリアン通りに作るらしい。広場でイヴェントがもっと盛大に出来るようになるのだろう。16時55分入場で24ユーロはまずまずだったか。ダルマイヤーに行こうと思えば劇場に出るしかなかった。劇場の人らしきが声をかけてくれたのだが、その行先は異なる。



参照:
備えておきたい生活 2023-10-11 | 料理
500周年記念の一望 2023-10-10 | 文化一般
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備えておきたい生活

2023-10-11 | 料理
愈々旅行の準備である。今年最後のお泊りの予定。燃料も満タンにした。エンジンオイルを入れておけば、これで帰って来るまで動いてくれればよい。178,9で午後よりも若干高めに支払ったがそれでも前回と合わせて安い。

駐車場の制限があるので上手く入り込めるかどうか、いづれにしても普段よりも余計に時間を見ておかないといけない。上手くゆっくり走っていければ一番良い。シャツも回収してきた。出来れば日帰り支度で着替えずに、チェックインして荷物を部屋に入れて、保冷材だけを預けて其の儘16時30分過ぎに劇場に向かうぐらいでもいいかもしれない。

衣装も朝晩が13度程まで下がるぐらいで、晴天で25度までなので何を着ていても問題とならない。夏と下着も全く同じでいけそうだ。あとはジーンズだけでいいのか。衣装ケースだけはスーツケースに入れる。帰りに着替えるだけにしてもよい。

道中の用意にノイズキャンセラーを充電したり、お勉強にブレゲンツでの演奏をWAVにした。演奏時間は70分ほどしかなく、今回もスポーティーという皮肉もあったぐらいで早いのだろう。食事の予約を21時に取ってあるが、これならば20時45分で十分だった。楽譜は探しても見つからないので調べるとやはり昔の音友版の楽譜があった。四年前のこととなると忘れている。

今回はコーヒーも何を買うべきか考えておかないといけない。その他は結局いつものようなものを買うだけだが目新しいものがあるのか。途上ではピクニックとなるが、ブロッツェン二つに、何かを挟むのと、果物三種類にラッディシュ、あとはお好み握り飯を二号飯となる。茹で卵三つにサラミ類を二三本あれば途中一色外食を挟んで帰宅迄なんとかなる筈だ。コーヒーメーカーがあったが、それ以外にこちらからエールグレーを魔法瓶に入れていき、セイロンティーを一リットルほど向こうで沸かす。

九月に残っていたインゲン豆に合わせるように牛肉を食した。2021年産のオートコートドニュイのワインに合わせる為だった。初めてそれに合わせてボンベイと呼ばれるカレーソースを作ってみた。見た目はもう一つであったが、まずまずの味だった。なによりもブルゴーニュに合わせられた。

二本重ねて購入していたワインで、これはこれで楽しめた。ドイツのリーズリングでも拠り抜くと最近は10ユーロ代で食事に合わせた日常消費用も中々見つけるのが大変になっているので、こういうのが15ユーロ越えても当然かと思う。スーパーでは流石に50ユーロも出せないので、25ユーロ迄ぐらいでいいブルゴーニュが探せると勉強になる。

牛肉もローストビーフなどの少し安いところになるとぱっと焦げ目だけをつけて、オーヴンに十分ほどかけることで、触感のいいものが食せる。やはり牛肉は食欲を齎すので、豚肉も色々と味の繊細なものは少なくないのだが、やはり月に何度かは食したい。その為にも手ごろな赤ワインはしっかり備えておきたいものである。



参照:
ダブルブッキングを確認 2023-03-21 | 文化一般
山の中にある産業 2023-10-07 | ワイン
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500周年記念の一望

2023-10-10 | 文化一般
先日紹介したCDボックスを鳴らした。思っていたよりも素晴らしい録音だった。先ずはシェーンベルクの「ヤコブスの梯子」も上手に録られている。総体してこの録音の1996年頃はこの指揮者の絶頂期だと分かる。よって、今世紀に入ってから「千人の交響曲」を生で体験した時よりも制御が効いた指揮であり、同じ楽団が上手に演奏している。なんといってもその音響は見事である。

日曜日のミュンヘンでの初日の批評はまで出ていない。しかし幾つかの呟きを総合すると音響的に難しかったというのは窺い知れる。写真やヴィデオを見ると、独伝統的楽器配置で第一ヴァイオリンの反対側に第二ヴァイオリンが座っている。

この配置はブレゲンツでの演奏会時のアメリカン配置からすれば、当然あるべき姿と思った。アンサムブルが合わせ難いとかの技術的な問題もあるのだが、初演時の形を踏襲するのは当然で、ソリスツや合唱とのバランスもそこから演繹的に追及される。

それでもどうしても楽器も異なり、会場も劇場でとなると、その歌の明瞭さの為には出来る限り正面で聴きたく、また大編成となるとある程度の見通しと、その後半に広がった音源を集約して聴けるような距離感も欲しい。指揮台での音というのも一つであるが、余程楽曲を知り尽くして楽師や歌手に逐一指示できるほどでないと纏まった印象を得るのも難しい。

プレス席も平土間の後半とかで、バルコンのサイドとかには関係者席があったようで、そもそも主催がアカデミーという1818年からの組織である。だから劇場の直接の主催ではない。同日独仏文化波で楽団創立500周年記念に因んだ番組がTV放送された。そこで、その組織の発端として交響楽団運動を行う許可の書類も示された。

最初の起点として1523年の作曲家ゼンフルの手紙が現コントラバス奏者のアーカイヴ担当者から示され、その日付とされていた。それも楽師長とは異なって作曲家として任命されていた。それ以前にインスブルックのユダヤ人イザークが既に楽師長の任にあったようなのだが、資料がないのだろうか。

1777年には、ハイデルベルク城などで有名なクーアプァルツの支配者カールテオドール候がヴィッテルスバッハ―家の世継ぎの為にミュンヘンに嫌々移動したことから、シュヴェツィンゲンの夏の宮殿にモーツァルトらが学びに来た所謂マンハイム楽派の楽団の33人がその慰めに同行することになった。そこで教会音楽の反動的なラッソーらが育んだ楽師らと合弁することになり、当時の最先端であった楽派のクレッシェンドなどの奏法がそこで奏でられたことになる。楽長として同行したカナビヒなど楽師の給料目録が示される。

久しぶりに入浴した。八月の涼しかった時に浸かったかどうかの記憶はない。兎に角、長く入浴していなかった。シャワーではあまり綺麗にならない例えば足の裏とか、胸元とかも石鹸で擦るだけでも全然違う。冷たくも熱くもないお湯となったのでぐったりすることも逆上せることもなかったが、就寝は深く一気にとなった。中々普段はそう行くことはあまりないのはやはり神経が立っているのだろう。



参照:
黄金晴れのロココ日和 2007-10-01 | 暦
3D的感覚の認識 2023-10-05 | 文化一般
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サフランライスの秋の味覚

2023-10-09 | 料理
ミュンヘン行の燃料は半分入れた。ワイン引き取りに南ワイン街道に出かける途上で最も安いセルフスタンドで40リットル入れた。177,9セントだったので残りを満タンにする時には下回ることはない。その間に20kmも走らないので足しにはなるだろう。

幸いなことに来週の天候は落ち着いて秋日和になりそうだ。衣装も夏に着ていたものに若干下着などに工夫すれば足りる。駐車場を工事しているというので早めに入庫しなければいけないようだ。それでも停められれば助かる。

今朝は一番冷えた。摂氏一桁で流石に走りに出かけるのにフリースのチョッキを着て、羽織るものが必要だった。天気が良いので裸で走れるが、汗はあまり掻かなかった。

長袖シャツは週の半ばから着るようになって、その上に白衣となっている。足元も冷たくなってきたのでサンダルからスリッパに替えた。長袖になると厨房で袖が汚れるので長袖割烹着が必要になる。購入する実験室用白衣は決めてあるが、なにと一緒に発注するか。やはり窓拭き用のスプレーか。

窓拭きもこの二週間ぐらいで計画をしたい。寒くなってくると陽射し頼りとなる。冬タイヤのこともあるので初雪予想を調べた。今迄の統計から最も早くて2012年の十月末の里雪らしいが、十一月第二週までは雪道を走る状況にはないと判断した。その後はどうしてもというのはないので慌てないでいいだろう。拠って不凍液もその後でよく、冬籠りも上手く行けばそれ以降にまで伸ばせると思う。

それでも窓を閉めるようになるとノートブックのファンが気になるようになってきた。そこで最も甚だしく負担の大きいエッジブロウザーを使わないようにした。その代わり再びOperaに戻ることにした。これをクロームのサブとして使う。普段はそれを使っておくということだ。アドストッパーも標準で入っているので使いやすくなっている感じだ。

エンジンオイルは残っている300㏄程をミュンヘン行前に入れておけば戻って来てもかつかつにはならないだろうが、十一月第二週までにまた1000kmほど余分に走るので、再び1リットル補充しなければいけない。月末の発注でいいだろうか。

すると今回はまとめで配送料を浮かすためにマイクロファイザーの皿拭きを購入してみようかと思う。大抵は手洗いでも籠で乾かしておくので必要もないのだが、やはりワイングラスなどは拭いたい時もあり、急いで水気を拭き取ることも少なくない。

先日の杏子茸をバスマッティのサフランライスにしたのは悪くなかった。ワインも若いので力があったので、いい味の均衡が楽しめた。鶏もオリーヴオイルマリネ―だったが、リースリングを壊さなかった。オリーヴオイルもグリルにしてしまうとニュートラルである。安物米が値上がりしたので、リゾットやバスマッティにタイ米などを上手に使っていくことで、麺に頼らずに食を維持できる。やはりジャガイモが価格安定していることが大きな安定感となっている。因みに米は前日のワインソース仕込みの貝のブイヨンで炊いた。



参照:
若年寄りも結構使える 2021-08-06 | ワイン
蝙蝠食べるジキル博士 2020-02-01 | 生活
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対象への認知の距離感

2023-10-08 | 
承前)ベートーヴェン交響曲八番ヘ長調のユーモア、ウィットについてはしばしば言及される。その弁証法的な叙述がヘーゲル哲学との同時代性を示しているのは間違いない。そうした「通常」とは異なり、終止で始まるだけではなく、そこにつけられた極端なアクセントやコントラストなど、二楽章の六度の和音の刻み、ハンスフォンビューローに言わせると「眉を顰めるべきな」スケルツォの遅れた木管とティムパニーの強調などが、従来の「通常」の作法を浮き彫りにして、そうした交響楽活動自体を認知させるという効果を生じる。

夏のベルリナーフィルハーモニカーツアー公演ではこの交響曲が都合三回演奏された。最初のザルツブルクのは聴けていない、二回目のルツェルンでの演奏は補聴器による雑音が酷かったとされ、上階の席でも音が入ったことが認識されて指揮者も上を見たりしていたのだが、距離があったお陰で鑑賞上の大きな弊害とはならなかった。三回目のルクセムブルクよりも名演になりえたのは偶然ではないだろう。

それはルツェルンの音響の明るさが幸いした面もあるのかもしれないが、大きな空間でコントラストの激しさは増長される傾向にあって、この楽曲の主旨がよく伝わったからに違いない。一種のエコーチェムバー効果のようなものかもしれない。対象への距離感という意味にもなる。

こうした構造的な視座を、ボッフムでのアンデルセン作曲「トリオ」は当然のことこの交響曲のアイデアをも抱合しているからこそ、この若い作曲家の作品が早くも歴史の中で位置づけられることになっている。それのみならず、グバイドリーナ作曲「レヴューミュージック」、そしてヴェルトミューラー作曲「シュリマージ」も同じことを明らかにしていた。

上の三曲が同様に音楽の歴史の中で八番交響曲の様に二百年後に演奏されるとは誰も信じ難いが、「トリオ」の再演が歴史的な意味を持つことはこれらの相互する連環から最早明らかである。奇しくも指揮者エンゲルが将来へのユートピア的なヴィジョンであるかもしれないと語った意味はここにある。

ビッグバンドと大管弦楽は「ペンギンと白熊の様に決して遭遇しない」というテーゼは、その音響からしても明らかであり、ソヴィエトのタタール人女性の作曲家がモスクワの映画音楽を作っていた時にこうしたグルーヴな曲を書いて、それでもコーラスの扱い方等とてもミスティックな風情は、その二群の楽器群においても受け渡しに大きなコントラストを与える。1960年代の「ナポレオンソロ」などの米TV音楽と最初の鐘の音とのそれ以上に大管弦楽が剝き出しのままに「映画音楽」を奏するとなると可也衝撃的であるということで、スタディオ管弦楽団が適度にスイングして演奏するのとは違う激しいコントラストがそこに生じる。
Sofia Gubaidulina - Concerto For Two Orchestras (w/ score) (for orchestra and jazz band) (1970)


今回のその徹底した運弓による弦の扱い方などは全く異なる筈のクセナキスの演奏のそれとも共通点を導き出すことになる。バーゼルの世界一大きな現代音楽管弦楽団シムフォニエッタの力量はその明晰な演奏法への徹底した合意で明らかで、この点でもその前の週のベルリナーフィルハーモニカ―によるクセナキス演奏に酷似した。即ち映画音楽などのあのどげつい厚かましい音響を実感する行為とクセナキスの正確な演奏を体験する事とはその止揚される結論というところで殆ど差異がないということになる。つまり交響曲八番において求められた認知と相似する。(続く



参照:
クリックトラックの接点 2023-09-25 | 音
ブラームスの先進性から 2023-09-06 | 音
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山の中にある産業

2023-10-07 | ワイン
ワインを取りに行くつもりだ。先ずはグランクリュを回収してこないと、折角予約して別けて貰ったのに申し訳ない。収穫量が絞られていたということだが、週末に出かけると上手く行けばまだ試飲させてくれるかもしれない。

しかしお目当ては、その先摘み入っているプリミエクリュである。春にはまたその下の雑色砂岩土壌のリースリングがここ数年は最も本数を飲んでいるワインで、最低18本は開けている。2022年産は酸が効いていないので限界はあるのだが、アルコール度数も11%越えぐらいでどんどん飲んで仕舞う。僕の健康飲料だ。

プリミエクリュも試飲して最低量は購入する。そして最後のは残っているかどうか。場合によっては昨年のプルミエクリュが買えるかどうか。なんだかんだと纏まった本数になる。

来年の五月の試飲会迄は日常消費用をこのプリミエクリュの2020年物と他の何かを加えて、適当な中間価格のもので誤魔化していくのである。以前はグランクリュは祝日などの日にしか開けなかったのだが、最近はどこの醸造所でもいいものが醸造されるようになって、購入する本数も増えて、月に一本ぐらいは開けるようになっている。

ものによっては20年程寝かしておく方がいいものがあって、中々開け時を選ぶのが難しいのである。なにもユダヤ人商人でなくても投機の気持ちは浮かぶのがこれだ。フランスのシャムパーニュやワインなどはこれで価格が上がった。ドイツも戦前はその様に価格が高騰していたのだが、ユダヤ人迫害で富が逃げた。有名な啓蒙の弁証法のアドルノの実家もビンゲンのワイン商であり、フランクフルト学派のロートシールド家のフランクフルト周辺にそうしたシンジケートが出来上がっていたのも当然だろう。

こうした栄光を取り返す運動がこのワイン街道のご近所で始まったブルゴーニュシステムの導入で、四半世紀を経て軌道に乗った。私が個人的に各地の試飲会などに出かけて、親方やオーナーなどと話すと、ドイツ高級ワイン協会長等の多くと知己があり、この流れを引率している運動の待った中にいて多くを把握していることから、隠密指導員のような顧客になっているというのはそういう意味からである。

購入したサラダ脱水器を水洗いして、葡萄を洗って回してみた。脱水度はよく分からないが、バランスは良い。上から水を出すところは上手く機能した。製造元はジーゲンとハーゲンとカッセルの中にあるような所謂ザウワーランドの山の中にある町にある。小さな工場が衛星写真で分かる。所謂ヴェストファーレンの重工業地たちとは全く異なるが、それに代わるような先端産業でもない。精々人口減少を引き留めて近隣の職場を作ったぐらいの経済規模だろうか。

ドイツの場合はアウトバーン網が整備されているのでオルペに抜けるにしても30km30分ほどで達する。反対方向にも100km程なのでまずまずである。こうした辺鄙なところに工業を育てるにはやはり交通網の意味が大きい。



参照:
サラダの水切りのように 2014-09-07 | 生活
欧州のユダ、ユダヤの欧州 2009-10-28 | 歴史・時事
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上からの全貌展に期待

2023-10-06 | 文化一般
リオネル・ファイニンガー展示会のティケットを購入した。ドイツでは四半世紀ぶりの全貌を示す展示となるようだ。個人的にもニューヨークの摩天楼を描いたような大判の絵画は観た記憶があるのだが、何処でかも思い出せずに、全貌などには到底触れていない。今回購入前に調べると、その美学的な傾向が幾つかのエポックを亘っていて、とても多様なことを知って驚いた。

展示会場はフランクフルトのレーマー広場の改修に伴って出来たようで、旧市街の再生に寄与するのだろう。嘗てまだ若いアンサムブルモデルンがメッツマッハ―等の指揮で練習をしているのが通りから見えたところである。嘗てはフランクフルトと言えば先ず出かけたところだったのだが、その後は「アルプスの少女ハイジ」のように塔の上に登って故郷の方を眺める必要もなく、車で出かけることもなくなっていた。

そこで今回改めてベストの駐車場などを調べた。勿論アルテオパーなどからの足の便が良ければ出来る限り渋滞する市街地で車を走らせたくないので調べると、展示場のシルン自体は地下鉄駅に直結しているのだが、乗り換えが必要なことが分かった。電車の乗り換えは特に地下鉄は上下に動くことなどが多く好まない。なによりも景色が見えないところは御免である。

例えば小さなケーヴィングは確かガルダゼーかどこかの雨の日に上を登れないので経験がある。決して閉所恐怖症ではなくても寧ろ高所の方が苦手なクライマーなのだが、やはり服や手足の汚れ方等全く好まない。正直あれを趣味にしている人の気が知れない。

使っていたサラダ脱水器が壊れて二週間ほど経つ。折から緑の野菜の高騰であまり食していないのでそれ程不自由はしなかったが、流石に無いと困る。次の旅行前に入手しておいた。適当に良さそうな売れ筋を発注したのだが、前回とは方式が異なっている。因みに前回のは紐で引っ張る方式で、それ自体は壊れていいなかったのだが、そこから籠を回すところの爪が全部折れてしまった。加水分解だがその方式自体に問題があった。その前は手で回す方式で、今回もその方式となった。

メードインジャーマニーということで補償が五年になっている。確かに爪を立てないで縁が大きなギアーとなっていて壊れない。更に直径を絞って深めにしてある。これはとても賢く、回す力や遠心力による使い難さも減少させてある。

恐らく長く使っていると下の器の方が割れてくるかもしれない。また蓋に水きりの穴を設けてあるのはアイデアとしては全然悪くないだろう。問題は蓋の汚れが黴を発生させるような方向には進まないかということだろうか。

これでまた古い壊れたもののボールの部分が野菜洗いなどにも使えるようになって、必要ならば大量の野菜類をソースと混ぜるのにも使えるようになる。テ―ファル製だったのでもう少し期待していたのだが残念だった。耐熱表示もついていない。早速安く入手したレタスの水切りが楽しみになる。それを洗うのに丁度古い水切りのボールが早速役に立ちそうである。



参照:
お手本としてのメディア 2008-01-20 | 雑感
有名メーカー三年保証品 2019-03-15 | 雑感
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3D的感覚の認識

2023-10-05 | 文化一般
「シムプルイズザベスト」と聖フランシスコばりに托鉢でもとか書いた。しかし、そうはいかない、下着を注文した。九月に旅行が増えて、洗濯ものなどが増えるとどうしても数が必要になる。スイスのシーサーの衣料については触れたことがあるが、高値を維持しながら品質とそのオファーが限られてきていて、縮小傾向にある感じがこの二十年程強まっている。それに従って使用頻度も低くなっていて、購入も限られるようになっているが、それでもサイズがよく分かっているものは使いやすい。高級品ほどゆったり裁断なので使いやすい。

しかし安物でもゆったり裁断と品質が良いことが分かれば購入回数も重なる。その一つに就寝用に使用していた老舗の下着が、品質も優れていて、ご愛用になった。そうなればサイズも分っている事であり、色などを変えて他所行き用にも使えるようになってきた。

特に男性下着は「非常口」が付いているかどうかが大きな判断材料になる。スポーツ下着などは無しで構わないが、最近は子供の時から立小便が出来ない子供が増えてきていて、口を付けていない下着が一般化している。母親の教育は恐ろしやである。四半世紀前ならばドイツでも昼間から個室に入る男性は何をしているのだろうということになっていたが、こうした安物下着を使うようになると多くはズボンを下さざるを得なくなってくる。その証拠に自分自身も態々ということが少なくなくなった。安物を使うとそうなる。体調に影響するような四つ組の小さめのそれも使い切ったので、新たに調達するようになったのは喜ばしく健康的だ。

愈々「千人の交響曲」の楽団五百周年記念演奏会が週末に初日を開ける。ペトレンコ指揮総稽古もはじまっただろう。こちらも一週間を切ったので、お勉強をしておかないといけない。前回はブレゲンツの公演で2019年5月だったので記憶を遡りながら新たにお勉強となる。千人のと呼ばれるマーラー作曲交響曲八番変ホ長調はそれ程大きな合唱団を要するということで、実際には千人もいたら管弦楽団とバランスを取りながら上手に演奏するのは難しいだろうが、ブレゲンツでは330人規模で演奏された。

今回は、ミュンヘンの座付き管弦楽団に、この間二人指揮者が変わった合唱団そしてラトヴィアの国立合唱団、そこにテルツァーの少年合唱団が加わる。客席にどのように合唱団を入れるかでその規模も大きくなるのだろうが、それも期待したいところである。指揮者のペトレンコも小澤などと同じで大きな編成になればなるほどその指揮の技が光ってくる。いずれベルリンでも演奏することになるのだろうが、順序としてコロナ期間中に中止されたこの機会が流れたことは大きかった。しかしそれ以上に五百年に一度の機会となったことは偶然以上に大イヴェントとなるに違いない。

今し方気が付いたのだが、前々回にこの曲を経験した時の指揮者ミヒャエル・ギーレン指揮のCDボックスにはその曲の前に一月に実演に接する予定のシェーンベルクの「ヤコブスの梯子」がコムピレーションされている。この二つの関係はよく分からないが、マーラーがカトリックに改宗していて、シェーンベルクがプロテスタントに改宗していたというのは前提としておいてよいのだろうか。そしてペトレンコに後者にて要求されている空間音楽としてのそれを指揮者エンゲルが「アシジの聖フランシスコ」で示したように、ブレゲンツでは客席を向いて指揮していたことは先ず書き留めておこう。



参照:
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
安売りブランドで愛嬌 2023-08-16 | 生活
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生きているだけでいい?

2023-10-04 | 文学・思想
承前)10月3日ドイツ統一の祝日である。この日のベルリンでの新制作「メデューサの筏」追加最終公演ほど相応しいイヴェントはないものと思う。「68年には未だ狭窄があった時よりも、今日においてのように、この作品がより豊かに現実政治であって、本質的なことはない。」と2025年からミュンヘンで新制作「指環」を演出するトビアス・クラッツァーはバイエルン放送協会に語った。

この作品はこの数年間においてもより政治的な事として上演されてきているのだが、ここでは敢えて具体性が避けられて、この演出家特有のとても考えられた中でのやりっ放しの演出となっている。勿論そうしたコンセプトはこの会場の音響などを含めての指揮者の判断ともなっている。

しかし同時に報告者は、この上演で現在の難民問題そして植民地への航海の往きはよいよいの船旅の中での様々な社会層そして水遊びの風景などを観て、行楽地に行くと地中海の大規模水葬場で泳いでいると感じるだろうと書くように情動的に揺すぶられている。その様に音楽が書かれているのだが、それは激しさを増す環境運動へであったり、資源不足へと聴者を引き込むことになる。

それ以上に演奏はとても未だに刺激的な音楽を為しながらも演出がという評も初日からあったのだが、最初の評者はより大きな観想を語っている。

即ち、如何により快適な自己選択をしていても、それでも戦うことに意味があるというテーゼを導き出している。座礁した船からの逃避、そして曳航するボートからの切り離し。
Das Floß der Medusa | Trailer | Komische Oper Berlin


それは最終場面での格納庫の大きな扉が開き、滑走路へと生き残りが導かれる時に明らかになる。そこでの問いかけであった。個人的にはマルタ―ラー演出のアイヴスの最終作「宇宙」のボッフムのトリエンナーレのヴィデオから人々が吸い込まれていく「ガス室」を思い浮かべたのだが、ここでは生き残りが故郷フランスに戻った時の社会が語られている。
Trailer: Universe Incomplete, Ruhrtriennale 2018


難民問題は、環境問題は、資源の問題は、そのもの「より快適な住処」にいる我々のそのものであるということだ。その為に生存競争があり、その社会の構造を目の辺りに実感させることがこの音楽劇場のコンセプトであった。

前記の「狭窄」に示唆されていたようにその冷戦時代には別の政治文化的な要素から到底気が付かなかった世界の秩序が現実政治においても環境問題においても資源問題においても実感可能な課題となって来ていて、そもそもその社会自体が機能していないということに気付くということである。

選択的に生かされていて、最終的に何処に連れていかれるのか?クラッツァー演出は昨年フランクフルトで同じエンゲル指揮の「マスケラータ」で「有りの侭の自分」を示していたが、今回はより広く、インテリ層ではなく、東ベルリン出身者や移民の背景のある人たちにもエンタメを装いながらも同じように音楽的な効果から実感してもらい、更にそこからありうるべき姿勢が問われている。創作者の意図を顧みれば、これ以上な上演の効果はないように思われる。同時にその作曲の価値と真意が漸く顧みられることになった。(続く)



参照:
"Kämpfen lohnt sich": Polit-Oper "Floß der Medusa" begeistert, Peter Jungblut, BR24 vom 17.9.2023
オペラの前に揚がる花火 2023-09-19 | 雑感
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
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挙動不審者たちの巣窟

2023-10-03 | 歴史・時事
承前)メタムジークという言葉が出た。悪く言えば楽屋落ちになって仕舞うが、広義には音楽のその営みを認識することになる音楽行為である。ボッフムでのヴェルトミューラーの新曲世界初演はトリエンナーレとバーゼルのシムフォニエッタの委嘱作ということで、後者の定期公演でアルザスで同じプログラムの中で再び演奏される。またビッグバンドがNDRの所属なのでその練習はハムブルクの第一スタディオで行われたようだった。そこで指揮者エンゲルと作曲家のヴェルトミューラーへインタヴューが為されてネットで公開されていた。

作曲家はスイス語を話していて、スイスで学んだあとにシュネーベルの下で作曲を学んでいる。音楽的にはコルトレーンやブルックナーなどを同時に扱っていて、実際に演奏者としても学んだオランダのコンセルトヘボー管弦楽団でも打楽器奏者として活躍する一方、ジャズ奏者としても活躍していた。

よって、長年のパートナーである高名なジャズサクソフォーン奏者ペーター・ブレッツマンに捧げられている。それが完成前本年六月に亡くなったようで、日本でも人気でトップジャズメンと組んでいたミュージシャンは、これまたルール地方の工業地域の出身者と知るとこれまた興味深い。
Peter Brotzmann Quartet - Jazzfest Berlin'95

Konzert – Free Music Production / FMP: The Living Music: Brötzmann solo — ここでもシャツを垂らしている作曲家。


Peter Brötzmann, Trio Infernal - Einheitsfrontlied von Hanns Eisler - 1973

Hanns Eisler/ Bertolt Brecht - Das Einheitsfrontlied/ Το τραγούδι της ενότητας (German/Greek lyrics)


更に古い映像などを観るとブレヒト作詞アイスラー作曲「統一戦線の歌」から即興演奏をしていて、典型的なその世代の上の人だと分かる。プログラムにあったようにロックなどだけでなくてフリージャズとかの背景がそうしたアナーキーなものであったことを考えると当然かと思う。そして公演前のNDRのインタヴューで、ブレッツマンへの作曲について語られていて、ドイツで最も破壊的な作曲家へスポスが彼の為にぎっしり楽譜を書き込んでいて完全に失敗したという笑い話があった。それを調べるとへスポスも昨年亡くなっていて吃驚した ― 一度正式に紹介されたことがある作曲家なので、やはりその決して機械の様に冷たくはない手の温もりを思い出す。
SonARTrio: Hespos - Zerango


個人的にはフリージャズの世界には疎いので、シュトックハウゼンの世界とも表裏にあるということが分かるぐらいで、それ以上ではないのだが、サウンドチェック中に会場から出て来たオヤジを見て、これは作曲家だなと直ぐに分かった。即ち、なにかスーツみたいなものは着ているのだが、その白シャツが股間まで垂れているのである。こんな人は健全な市民世界では明らかに不審者である。その顔つきもどことなくラリッた感じなのだ。

少なくともへスポス氏は鋼材彫刻職人の様な感じであり、まさしくその音楽そのものなのだったのだが、なるほどそれがフリージャスかとまではその場では判断できなかった。やはりそれを知らないからなのだ。

奇しくも今回のプログラムで採り上げられた三人とも身近で接している。グバイドリーナも現在はハムブルクの近郊に住んでいるようだが、嘗て日本へ初訪問の時に前後ぐらいの席に座っていて、その醸し出す雰囲気は今でも覚えている。またフィナーレを飾ったステンアンデルセンもピアノ協奏曲再演のフライブルクで目の前の席にガールフレンドと座っていた。これもなにか違うなというのは早めに分かっていた。身近で接した作曲家は数知れないのだが、結構距離が開いていたのだが、又予めその声だけはスイス語として聞いていたのだが、結構印象に残った作曲家としてリスト入りした。そしてその音楽はとなる。(続く



参照:
瞬間に拡がって、伝わる 2008-03-15 | マスメディア批評
旧産業からそして今 2023-09-22 | 文化一般
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