人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

小説で読みたい・・・『空の境界(からのきょうかい)』

2013-08-08 03:39:00 | 




■ 速やかに視聴を中止すべき ■

奈須きのこ原作の劇場用アニメ『空の境界(からの境きょうかい)』の旧作が、作品世界の時系列順にTV放映されているみたいですね。

この放映を見て、興味を持たれた方は、速やかに視聴を中止する事をお薦めします。

何故なら、この作品こそ原作の小説で読むべき作品だからです。

奈須きのこによる「原作は、一昔前のそこそこの人気を誇った作品です。
講談社が「新伝奇小説」というジャンル名まで作ってプッシュした作品です。

何故映像で見てはいけないかと言えば、原作の表紙も含めて、作品の世界観と、ビジュアルイメージの乖離が凄まじいからです。・・・いえ、訂正します。元々、同人から始まった作品で、ビジュアルイメージとはライトノベル同様に不可分な作品ではあるのですが、「着流しに赤い皮コート」という中二病全開の主人公のイメージは、ビジュアル化に耐えられないのです。

では『空の境界』が中二病全開の駄作かと言えば、これはライトノベルの歴史的傑作の一つと言えるでしょう。

■ 「新伝奇小説」というジャンル ■

『空の境界』はライトノベルでは無いと主張する方もいらっしゃるでしょう。
しかし、元々、表紙イラストを描いている武内崇の同人サークルからスタートした『空の境界』は、やはり表紙イラストとワンセットで作品世界を構築しており、ビジュアルイメージが最初から2次元に制約を受けるという意味において、典型的なライトノベルと言えます。

しかし一方で、その内容は「本格ミステリー」と言えるもので、文体も難解です。
私の嫌いな武内崇のイラストにイメージの制約を受ける事で、非常に損をしている作品だと私は個人的に思っています。

ネットで公開されていたこの作品を、講談社ノベルから出版した編集者は、この作品の為に「新伝奇小説」というキャッチフレーズを作り出しましたが、これも若干意味不明です。

「伝奇小説」というのは、中国の古典に源流を持つ「もう一つの歴史」を描くジャンルです。「架空の歴史小説」とも言えます。日本でもこの手の作品は少なく無く、芥川龍之介の諸作から、近年では夢枕獏の『陰陽師』まで、枚挙に厭いません。

これらの作品が主として「歴史」や「もう一つの過去」を扱う事で、正等な「伝奇小説」に多少なりとも関係を持つのに対して、『空の境界』は、全く歴史に関係していません。

強いて言うならば「魔法」が存在する世界という意味において、現実と異なる世界を描いており、本来ならば「ファンタジー」に分類されるべき作品です。

では、編集者は何故、この作品を「新伝奇小説」と新しいジャンルまで作って分類したかと言えば、「ファンタジー」に分類してしまうと、この作品に関係する周辺のビジュアルの影響をもろに受けて、所謂「子供向けのファンタジー作品」との誤解を生む事を危惧したのでは無いかと思います。

この作品に流れる、オドロオドロシイ空気は、夢枕獏や菊池秀行の世界観に共通したものがあり、彼らの作品を称する「伝奇ロマン」や「伝奇小説」というジャンル名に「新」を付ける事で、オタクのみならず、従来の「伝奇ロマン」のファン層にもアピールする作戦だったのかも知れません。

いずれにしても『空の境界』は、その表紙のイラストのイメージとは裏腹に、少年少女が読むには、いささか難解で、夢枕獏や菊池秀行のファンにこそアピールする作品です。

■ 魔法の認識の革新 ■

前置きが長くなりましたが、『空の境界』の世界観を決定付けていいるのは「魔術」の存在です。

「魔法」と言うと、ハリーポッターを思い浮かべて、魔法の杖を持って呪文を唱えるとあら不思議・・・って感じを連想してしまいます。

しかし、奈須きのこの描く魔術の世界は、だいぶイメージが異なります。
魔術は「科学」の一つの形態の様でもあり、「錬金術」の延長線であったり、或いは東洋的科学としての仏教を始めとする宗教の秘法の一部であったりします。

ここら辺は、日本の「伝奇ロマン」の伝統を正等に継承しています。一方で、東洋的イメージの世界に封印されがちだった「日本的魔術」と、「西洋魔術」の関係性を再構築した所に、奈須きのこの最大の功績があるかも知れません。

同じ作者のFate(フェイト)とも共通する世界観ですが、世界的な魔術を管理する集団が存在し、そこから逸脱した勢力との戦いや、あるいは、図らずも魔術の力を発動した者が起こす犯罪との戦いが描かれます。

魔術自体も不定形のエーテルみたいな存在で、明確な作用を持つと言うよりは、事象そのものの根源に影響するものとして捉えられています。

『空の境界』の最大の魅力は、この斬新な「体系化された魔術的イメージ」にあるのかも知れません。

魔術師の名前が「魔力の本質」に影響する点など、西洋の伝統的な魔法使いのルールもしっかり踏襲しながらも、かなり和洋折衷的な魔法感を確立しています。

■ 本格ミステリーとしての魅力 ■

『空の境界』のもう一つの魅力は、「本格ミステリー」としての魅力です。

主人公の両義式が、本当に殺人者であるのかどうかという点だけで、思いっきり引っ張る作品ですが、巧妙に答えが伏せられ、断片的な状況だけが提示されるので、読者は無意識の内に、式が殺人者であるのか?もしそうであるならば、その動機は何なのかを推理してしまいます。

私は「ある日突然誰かが殺されて、さあ犯人を当ててみてください」という様な古典的なミステリーは全く受け付けないのですが、「京極堂シリーズ」や、「空の境界」の様な、現在起きている事象の原因を探る様なミステリーは結構好きです。

■ アニメで見る事の不幸 ■

『空の境界』をアニメで見たく無い最大の理由は、武内崇のキャラデザが嫌いという個人的理由もかなり影響していますが、そもそも作品の主題が「不可視の事象」の探求なので、映像化するとイメージがだいぶ損なわれます。

その点、小説は読者のイマジネーションを縦横無尽に駆使して、作品世界を楽しむ事が出来ます。

特ににマンションの独特な建築様式自体が魔法の発動に関係する『矛盾螺旋』では、文章で建築の複雑さや対象性を表現し、それをイメージ化する過程で読者の脳が一種の酩酊常態に陥る様で、もうこれは映像化は絶対に不可能だと思われます。

『俯瞰風景』にしても、人が空中に浮遊する様は、映像的には相当チープですが、文章で書くと、南米の幻想小説にも通じる、不思議な非現実感が生まれて来ます。

こういった文章で表現し、それを読んでイメージする事で生まれる、形容し難い雰囲気を、アニメや実写映像で表現する事は難しく、その点、同じ作者の作品でも、イメージがもう少し具体的なFateシリーズの方が、アニメ化に適しているとも言えます。

何れにしても、この作品をアニメで見る事は不幸であり、もう既に見始めてしまった方は、即刻視聴を中止し、リハビリの為に『ダンガンロンパ』で「大山のぶよ」の声を聞いた後、本屋に直行して『空の境界』の原作を買うべきです。




・・・・ところで、私は始め「そらの境界」だと思い込んでいました。
現在、ネットでは「くうの境界」と思い込んでいる人が多いようです。
作品世界の混沌が、現実世界に漏れ出しているのでしょう。

事象は見る者によって、様々に変化しうる好例です・・・・そんなバカな・・・。



本日はミステリー作品という事もあり、ネタバレ禁止でお送りしました。

「ひろのひとりごと」さんの本が発売になりました

2013-07-30 03:40:00 | 
 



私がちょくちょくお邪魔して、議論をさせていただいている「ひろのひとりごと」さん。
そのブログ主さんが本を出版されました。

「日本経済が頂点に立つこれだけの理由」 山本博一 著

開発系のエンジニアをされている方ですが、
三橋貴明氏に感化されて経済ブログを始められ、
様々なデータをご自分でエクセルで作られています。

三橋氏同様、デフレ脱却が日本の成長のカギという立場で、
金融緩和と、財政出動の重要性を主張されています。

「自国通貨建ての内国債は破綻しない」から「デフレ時には公共事業を拡大すべし」という主張は、単純には受け入れ難いものもありますが、豊富な独自のデータから自説を裏付ける手法は、その労力を考えただけでも頭が下がる思いがします。

経済に関するグラフや統計の読み方は難しく、様々な複雑な要因をどう切り分けるかによって、結果の見方が180度変わってきます。

そういった意味において、結論が私とは180度違うケースもありましすが、元となるデータはどれも興味深いもので、「破綻論者」の私から見ても有用なものが数々見受けられます。

何よりも、専門以外の分野を独学で勉強され、持ち込み原稿から出版に漕ぎつける「意思の力」に感動しました。


景気が国民の「気」の総体であるならば、こういう強い意思を国民の多くが共有すれば、あながち不景気の脱却も無理では無いのかも知れません。


そういった意味において、ネガティブな記事が多い、当ブログは多いに反省すべきなのかも知れません。


「その通りだ!!」と喝采を送るも良し。
「このデータの見方は違うのでは」と検証するのも面白い本です。

ケインズとハイエクの論争では有りませんが、
経済学は意見の対立が、その発展の原動力となる事もあります。
又、立場が変われば、世界の見方も変わる好例とも言えます。

そう言った意味において、バブルを知らない世代の気持が読み取れ、
彼らの立場から、日本経済や社会がどう見えているのか、
三橋氏が彼らの支持をどうして集めるのかという点を理解する意味においても
この本は有用かつ興味深いと思っています。


上の写真は津田沼の丸善の経済本の書棚にフェースアウトで陳列されていたものです。
機会があれば、本屋さんで探してみて下さい。

落下系男子との恋物語・・・有川浩 『植物図鑑』

2013-06-19 04:39:00 | 
 



■ ヘクソカズラ(屁糞蔓)とはあんまりだ・・・ ■

上の写真の花の名前をご存知でしょうか?

普通にそこら変のフェンスに絡まっている蔓草(つるくさ)ですが、
初夏にベル状の小さな白い花を咲かせます。
花弁の中心は、品の良い紅色。

この花の名前は「ヘクソカズラ」と言います。
漢字で書くと、「屁糞蔓」。

何故、こんなにカワイイ花が屁糞なのとお思いでしょう。
実はこの花、茎や葉を折ると、その汁が強烈に臭いのです。
手を石鹸で洗っても、ちょっとやそっとじゃ臭いが落ちない。
だから付いた名前が「ヘクソカズラ」

有川浩の『植物図鑑』はこの花のエピソードから始まります。

上司と外回りをしているOLの「さやか」は、駐車場のフェンスに咲くこの花を見つけます。
部長も可憐な花に目を留め、この雑草は綺麗だねと言います。
「雑草という名前の草はありません。この花はヘクソカズラと言います」と応じる彼女に、、
「うら若い女性の口からそんな言葉が・・・」と部長はビックリします。

「雑草という名の草はありません」と言ったのは、昭和天皇だとか・・・。
素晴しい言葉です。

■ 本が消えた・・・ ■



娘の部活には、有川浩好きが居る様で、時々ハードカバーを借りて来ます。
『植物物語』も先日娘の机の上のあったので、ちょっと拝借して読み始めました。
これが、とても面白く、100ページくらい読み進んだのですが、
次の日、本は我が家から消えていました。
そう、娘た友達に返してしまったのです。

こうなると、どうあっても続きが読みたい・・・
かと言って、100ページ読んだ本を新品で買うのは勿体無い・・・。
そこでブックオフに行くと、文庫版が400円で売られていました。
これなら丁度100ぺージ分のディスカウントです。
早速、購入して読書再開。

■ 落下系男子との恋物語 ■

OLのさやかは、飲み会から帰宅した時、玄関先に落ちている男を発見します。
恐る恐る、男に話しかけると、彼は行き倒れだと告げます。

「お嬢さん、よろしかったら俺を拾ってくれませんか」
「噛みません、躾けのできた良い子です。」

そういう男に、酔いも手伝って、ついついさやかは男を拾ってしまいます。
翌朝、目が覚めると、部屋には味噌汁の良い香りが・・・
自炊なんて、めったにしない彼女の冷蔵庫には、
腐りかけの玉ねきと味噌と卵しか入っていません。
男は、それだけの材料で、美味しい味噌汁とオムレツを作ったのです。

さやかの胃袋は、鷲掴みにされてしまいます。

こうして、さやかと、行き倒れのイケメン樹(いつき)との奇妙な共同生活が始まります。
さやかが家と食費を提供し、樹が家事を担当する。
昼間はさやかが会社で働き、夜は樹がコンビにでバイトをする。

こうして粗筋を書くと、なんだか典型的な「落下系」のお話。
漫画やラノベでは、ヒロインは往々にして空から降ってくる。
主人公の男子は、最初はビックリするけれど、
天真爛漫な美女にすぐに心奪われて、同居する事に・・・。

この「落下系」のお話を、少し現実的にして、
落ちてくるのを美女から、イケメンに変えただけ・・・。

作者自身、後書きで「リアル落ち物女子バージョン」がコンセプトと書いており、
ラピュタみないな話を、イケメンでリアルにやりたかったみたいです。

■ 川原に生えている草を食べる?! ■

拾った男は優秀でした。

家事万能。
料理は上手い。
おまけに礼儀正しく、
そして、いつもさやかに優しい。
・・・さらに、さやかに手を出す事は絶対しない・・・。

もう、現代女子が理想とする男性像がこれでもかという程、てんこ盛り。

さらに樹には隠れた才能が・・・
それは、彼が植物に異常に詳しい事。まさに歩く植物図鑑。

休日になると二人は自転車で近くの川に出かけています。
都会を流れる川の川原や土手には様々な雑草が生えています。
その一つ一つに名前があり、中には食べられるものもある事を樹はさやかに教えます。
樹は季節季節の食べられる野草をさやかと採り、そして様々な料理でさやかを感激させます。

フキは天ぷら、炊き込みご飯、きゃらぶき、ぼっけ味噌に。
ノビルとセイヨウカラシナはパスタに。
イタドリは炒め物に・・・。

こうして、さやかは休日に樹と「狩」に出かける事を楽しみに日々をすごします。
野草たちは、日々の食卓を彩るだけで無く、さやかのお弁当にも入っています。

そんな日々を過ごすうちに、さやかのハートはもう樹に鷲掴みにされています。
でも、苗字も素性も言わない、行き倒れの男との距離は近くて遠い。

そんな、二人の恋の行方は・・・・・


■ ベタ甘な恋愛が読みたければ、有川浩に限る ■

粗筋を書いているだけで、こっちが赤面してしまいそうです。

でも、多分、いまどきの繊細な女子の理想の恋愛感って、こんな感じなのかも知れません。
もともと、携帯小説の形で発表された作品なので、若い女性がターゲットです。

作者が読者のニーズに応える事が良い事かどうかは意見の分かれる所です。
純粋に文学を志す人からすれば、こういった小説は好ましくないと判断されます。

一方、漫画やライトノベルは読者の反応が、作品の内容を変化させます。
ジャンプの人気投票システムではありませんが、
どうしたら、読者の人気が継続的に得られるかのマーケッティングは綿密です。
ライトノベルもシリーズを長続きさせる為には、読者の反応が重要です。

この様なジャンルを日常的に読んで育った現代の作家達は、
「どうしたら読者が喜ぶか」というツボを良く心得ています。
そして、読者が喜ぶ作品は、自分自身が読みたい作品である事が彼らのパワーの源泉です。

だから、読者の若い女性が「ベタ甘」な恋を望むなら、
さまざまなフレイバーのスイーツを提供します。
そして、それが作者自らも、読みたい作品なのです。

有川浩の作品の男女の恋は、いつも「ベタ甘」です。
好きなのに、なかなか言い出せずに、
ぶっきっちょうな優しさだけしか相手に示せない男女。
でも、意外と現実の世界でも、イケテない男女の恋なんてこんな感じかも知れません。

そんな少女マンガ的な「ベタ甘」の恋を書かせたら
有川浩は最高のパテシエかも知れません。

■ 全ての草には名前がある ■



上の写真は私が中学2年の時、お年玉で買った植物図鑑です。

日本の植物学の大家、牧野富太郎博士の『牧野 新日本植物図鑑』。
初版は昭和36年です。
私が持っているのは第15版で、昭和42年発行。

1万円を超える本でしたので、新品は買えずに、
生まれて初めて神保町の古本屋に足を踏み入れました。
6千円という値段が、奥付きにスタンプされています。

植物好きの私は、この本にはずいぶんお世話になりました。
高校時代は野山に出かけては、植物採集をしていました。
新しい草花の名前を一つ覚えるのが楽しくて、
片道切符で、房総の方までも出かけていました・・・。

大学時代は下宿先が山に近かったので、
それこそ食べられそうな山菜を取っては、
図鑑で食べられると書いてあれば食べてみたりもしました。

「雑草という名の草は無い。全ての草に名前がある」とは昭和天皇の言葉だそうですが、
道端に生えていて、名前が分からないものがある事は私にとっては気持悪い事でした。

なんだか、樹君に、若かりし頃の自分が重なってしまって、
50歳も近いのに、電車の中でニヤニヤしながら「植物図鑑」を読んでしまいました。



そんな私ですが、マンションのフェンスに絡むヘクソカズラを天敵の如く引き抜いています。
花はカワイイのだけれど、やはり見た目は、雑草なんですよね・・・臭いし・・・。




『奇跡のリンゴ』の作者には教わる所が多い

2013-06-10 08:37:00 | 
 

6月8日から『奇跡のリンゴ』という映画が公開されています。
http://www.kisekinoringo.com/


青森県弘前市のリンゴ農家、木村秋則氏の実話を元にした作品です。
リンゴは農薬や化学肥料無くしては収穫出来ないと言われていましたが、農薬は同時に農家のい健康を奪っていました。奥さんが手や顔が農薬で赤くはれ上がるのを見て、木村氏は無無農薬でリンゴを栽培する事を決意します。

周囲の農家の苦情やイヤガラセ、枯れそうになるリンゴの木、収入も無く生活は困窮します。それでも木村氏は試行錯誤を続け、最後にリンゴが実るというお話ですが、その過程が壮絶です。

私が木村氏の事を知ったのは2010年でした。
今まで自分が抱いていた、農業や園芸の常識を覆す内容に、頭をハンマーで殴られた様なショックを受けました。



<再録>常識を疑うこと・・・「りんごが教えてくれたこと」 (人力でGO 2010.11.22)






■ 「窒素」「燐酸」「カリ」 ■

「窒素・燐酸・カリ」と聞いてピンと来る方は、園芸好きな方でしょう。植物が生長するにあたり、「窒素は葉を茂らせ、燐酸は花を咲かせ、カリは根を育てる」と言われててきました。

化学肥料は、「窒素・燐酸・カリ」を成分とし、現代農業は化学肥料と農薬の使用によって、収量を劇的に増大させてきました。

これが現代農業の常識でした。

■ 非常識な科学 ■

今日紹介する「リンゴのが教えてくれたこと」の著者、木村秋則氏は青森のリンゴ農家です。

彼は化学肥料と農薬の恩恵という現代農業の常識に疑いを抱き、「自然農業」の実現にその半生を捧げた人物です。

近代合理主義の洗脳を受けた私達は、「科学は常識的」であると信じています。
たとえ科学の発展の結果、戦争や公害など人間に危害が加わっても、それは人間の倫理観や知識の不足が原因であって、科学そのものを否定はしません。

科学至上主義の反動としての、「自然主義」は存在しますが、それらは科学のアンチテーゼとして存在し、精神論的で夢見がちです。

ところが農業において科学の常識が「非常識」である事を、筆者は科学的に追及していきます。

■ 科学の目とは、常識に疑問を持つ事 ■

古来、有名な科学者は総じて奇人変人です。

浮力の発見に狂喜して、裸で飛び出したアルキメデス然り、教会と戦ったガリレオ然り、エジソン然りです。

彼らに共通するのは「常識」を徹底して疑う科学の目です。彼らの視線に「夢」などありません。あるのは「事物の原理を知ろう」とする冷徹な観察です。この本の著者も同様に「科学の目」で近代農業を見つめます。そして彼は近所から奇人として見られてきました。

■ 農薬を使用しないという事 ■

木村氏は非常に論理的な人物です。農家の次男として生まれ、中学の頃から数学や科学が得意で、暗算に夢中で電柱にぶつかったり、真空管アンプを自作して高校の体育館のスピーカーを壊したり、車のエンジンの改造に熱中するような青年でした。

彼は高校を卒業すると、東京の自動車部品メーカーで原価計算の仕事に就きますが、兄が体調を崩した事から、故郷の青森に戻ります。そして、リンゴ農家に婿養子に入ります。

当時のリンゴ農家は年13回農薬を散布していました。当時の農薬は現在は使用中止になったものも多く、農薬に触れた皮膚は水ぶくれになり、1日で皮がむける有様でした。

農家の人達は、農薬による健康被害に陥り、彼の妻も畑に出れない状況に陥ります。

木村氏は、減農薬を試す為、年13回の散布回数を年6回に減らします。ところが害虫被害は少なくリンゴは同じ様に実りました。そこで彼は年1回の農薬散布を試みます。それでもリンゴは実りました。

そこで彼は無農薬に挑戦します。・・・・しかし畑は病害虫の天国と化してしまします。食害と病害で夏には葉が枯れ落ち、リンゴの木は根元からグラグラとしてきます。

周囲の農家は、害虫を恐れ、彼の畑に勝手に農薬を撒いたり、農薬の袋を畑に置いていったりしました。当然、村の寄り合いや親戚の冠婚葬祭にも呼ばれなくなります。

■ 観察する事 ■

ところが木村氏は諦める事無く、リンゴを食い荒らす害虫を観察し始めます。

害虫の卵は2回に分けて発生し、最初のグループは成長するが、後から孵るグループは益虫の餌になる事。

益虫は害虫が発生しなければ現れない事。

蛾の幼虫の気門が足の付け根にあり、農薬散布の際、彼らは気門を閉じてそれをやり過ごす事・・・。

木村氏はどの本にも載っていない昆虫の生態を次々に見つけて行きます。

一方、リンゴは毎年花も咲かせずに、実もなりません。
彼の長女は学校の作文に「私の父はリンゴ農家です。でも、私は父のリンゴを食べた事がありません」とつづりました。子供達は1個の消しゴムを3つに分けて使い、生活は困窮を極めます。

■ 豆を植える ■

ある日、間違って買った本が豆の本でした。豆の根には根粒バクテリアが共生し、空気中の窒素を固定します。だから豆は痩せた土地にも育ちます。

そこで木村氏は、飼料用の大豆を畑に撒きます。すると大豆はどんどん育ち、近所に配り歩く程、豆が収穫できました。豆が畑に窒素分を供給したのです。

■ 死を覚悟して・・・ ■

しかしリンゴは一向に実りまません。ある日木村氏は死を覚悟して、荒縄を持って山奥に分け入ります。縄を枝に掛けようとした手が滑り、縄が飛んでいってしまいます。

縄を探す木村氏の目前に、月光に照らされたリンゴの木が浮かび上がります。誰も肥料も農薬も与えずに、こんな山奥でもリンゴは育っている・・・彼は我に返り、そして足元の土を観察します。

雑草が茂るその下の土は、ふかふかで甘い香りがします。彼は直感します。この土が出来ればリンゴはきっと実ると・・・。

■ 畑を自然に還す ■

彼は習慣として続けたきた草刈を止めます。

畑は背丈程の雑草に覆われ、そこに昆虫達が帰ってきます。野うさぎが、野ねずみが帰ってきます。

そこで又彼は観察します。
ミミズは一日にコップ一杯の糞をする事。
畑の表土が暫くのうちに、ミミズの糞に代わります。

豆はこぼれた種から雑草の間でも元気に育ち、実をつけます。
硬い豆の枝は、冬の間、雪の下で野鼠の食料になって春には消えています。

■ 花が咲き実が成る ■

完全無農薬から6年目の春、木村氏のリンゴ畑に花が咲きます。
実ったリンゴと糖度が20度を越え、地元のホテルのレストランが彼のリンゴに惚れ込みます。

それでも木村氏の観察は続きます。

豆の根粒バクテリアは、窒素が不足した土壌では一つの根に30粒程度ありますが、窒素が豊富になるとその数を10粒程度に減らします。この時点で豆を抜かないと、リンゴに甘みが乗りません。

リンゴが色付く前に下草を刈り取らないと、リンゴが寒さの到来を感知出来ず、リンゴに色が乗りません。

木村氏は、飽くこと無く観察を続け、試行錯誤を繰り返します。

■ 観察農業と自然農業の違い ■

木村氏は北海道で同じく無農薬栽培に取り組む農家の裁判に呼ばれます。

そこで彼は「観察農業」と「自然農業」の違いを指摘します。
「観察農業」とは、全てを自然に委ね、家の窓から畑を観察する行為。
「自然農業」とは、人間が最低限の手を下し、自然の力を最大限に発揮させる農業。近所とのコミニュケーションも「自然農業」には欠かせないと指摘します。

■ 畑作・稲作への応用 ■

木村氏はリンゴの「自然農法」を確立すると、今度は稲作の「自然農法」に挑戦します。

その方法は至って科学的です。
ワンカップの空き瓶に条件を変えた土壌と稲を植え、観察します。

そして彼は、田を荒く耕す事、田の土を一旦カラカラに乾かす事が稲の生育を促進する事を突き止めます。

「自然農法」による稲作は、化学肥料や農薬は元より、有機肥料も使用しません。草刈も分ケツ期前に数度行うだけです。それでも稲は育ちます。

■ 腐らないリンゴ・腐らない米 ■

「自然農法」は基本的に肥料も農薬も一切使用しません。
有機肥料も使用せず、雑草と豆や、前年のワラのみを使用します。

そうして作られたリンゴは放置しても腐りません。2年経っても、萎びて乾燥するだけで、良い臭いを保っています。
水に混ぜた米も、発酵して最後は酢になります。

ところが、有機栽培されたリンゴや野菜や米は直ぐに腐って、腐臭を放ちます。未成熟堆肥(5年未満)によって栽培された作物は、硝酸態窒素が多く残留しています。

硝酸態窒素は未成熟堆肥に多く含まれ、作物に残留し、その濃度が高い飼料を食べ続けた牛は死に至ります。農水省の指針に従って栽培された有機野菜は硝酸態窒素濃度が高い為に、人体に害を及ぼす可能性があり、また早く腐ります。

むしろスーパーの野菜の方が、有機野菜よりも硝酸態窒素濃度が低く腐り難いという実験結果を木村氏は確認しています。

■ 自然農法は農家の利益を向上させる ■

木村氏は経営者としての視点も忘れてはいません。

自然農法による稲作は、化学肥料や農薬を使用する農業の70%程度の収量です。しかし、農薬や肥料を購入するコストを計算すると、利益はむしろ「自然農法」のほうが高くなります。

草刈の回数も少ないので、高齢者でも負担は少なくて済みます。

さらに、稲が丈夫に育つので、冷害にも強く、台風でも稲が倒れない為、収量が安定しています。

■ 農家の後継者が興味を持ち出した ■

木村氏は数冊の本を出版され、TVにも出演され、年の半分程度を講演に出かけています。
今では農家の後継者達が彼の「自然農法」に興味を持ち、彼の元に教えを請いに訪れます。

彼らは、農薬や草刈など労多く利潤の少ない親達の農業に疑問を持ち、それを継ぐ事にためらいを感じていた若者達です。彼らの疑問に、木村氏の自然農法が答えたのでしょう。

■ 農業の未来・日本の未来 ■

日本は世界で一番化学肥料を投入する農業を営んでいます。化学肥料も、農薬も、そして機械を動かす灯油も石油から出来ています。

日本の農業は1の収穫を得るために5の石油を消費します。(カロリーベースだと思われます)アメリカではこの比率が1対1です。

日本の従来の農業は、エネルギー消費型の農業で、石油価格の高騰に対して脆弱です。

一般的には日本の農業の問題点は、兼業農家が多く規模が零細である事から、生産効率が低い事にあると考えられています。民主党も自民党も、やる気のある農家が大規模経営で収益性を高める事が日本の農業にとって重要だと考えています。

効率化した農業は、人を必要としません。後継者問題を抱える農家だけ見れば、たしかに集約化は避けて通れない道に思えます。

しかし、時代は前代未聞の高齢化と、高失業率の定常化へとシフトしています。年金制度が崩壊した後、国民はどのように生きていけば良いのでしょうか?就職のないまま歳を取り続ける若者達はどうしたら良いのでしょうか?

効率性を重視した農業は、10の面積で3の雇用しか生まないかもしれません。しかし、自然農法では10の面積で10の雇用を生み出すかもしれません。

化学肥料や農薬の購入費が無いという事は、現金収入に依存しない農業で、限りなく自給自足に近い農業です。

たとえ65歳以上の老人でも、生産性を確保する事が出来ます。

■ 「自然農法」という次世代の可能性 ■

これまで何度か、このブログでも自給自足型農業への回帰をテーマとして取り上げてきました。しかし、書いている私自信、農薬や肥料の購入という問題点に引っかかっていました。

「自然農法」はこの点をクリアーしつつ、労力を節約出来る一石二鳥の農法です。

■ 「実物経済」への回帰 ■

グローバリゼーションは世界が現在の日本やアメリカになる事と同義でありません。

中国やインドが発展するのと同様に、日本の中に中国の農村やインドのスラムが現れるのがグローバリゼーションです。

昨日のマイクロファイナンスの記事でも分かる通り、貨幣経済の浸透は、本来「実物経済」が機能していた地方や地域コミニュティーの破壊を意味します。

日本の高齢化による破綻は、未来予測ではありません。これは出生統計的に約束された未来です。さらに、世界的パラダイムシフトにより、日本国民の生産性は低下しています。年金維持の最低ラインである潜在成長率3%など、夢の又夢となっています。

今のままでは「インフレ」によって政府はその帳尻を合わせるしか方法を持ちえませんが、それはこれから老人となっていく私たちの世代も含めて、国民皆が不幸になる道でしかありません。

地方の農業とコミニュティーの再生による「実物経済」の復活は、将来的に過剰な福祉コストから財政を救う事になります。

<再録 終わり>


悲しき爆弾テロ・・・『テロリストのパラソル』と『リヴァイアサン』

2013-05-06 14:25:00 | 
 



■ 文学が奏でるテロリストへのレクイエム ■

「ボストン爆弾事件」の真相について色々とネットでは取沙汰されています。
陰謀論的解釈もある様ですが、多分真相は永遠に分からないでしょう。

テロは一瞬にして多くの無垢の命を奪い、決して許される行為ではありません。

一方でマスコミのDNAは、深層の部分でテロリストに同情的です。
これは洋の西東を問わずして。マスメディアの上層部が、
かつての学生運動の経験者である事と無関係では無いと私は思います。

今回の「ボストン爆弾テロ」では様々なデマゴキーを米マスコミが流しましたが
無意識の内に犯人たちに寄せるシンパシーが
報道関係者の判断を狂わせたのかも知れません。

本来、爆弾で市民を無差別に殺戮する行為は許されるものではありません。
しかし、マスコミも読者も、無意識の内に犯人の同調し、
彼らの生い立ちや、境遇こそが犯行の原因だと思い込もうとします。

マスコミ以上に文学はテロリズムに同調的です。
無差別殺戮などという愚行に及んだ人間の「魂の深層」に触れる事で、
道を誤った魂を救済する事が、文学の役割だと言わんが如く、
文学は好んでテロリズムを題材にします。

それは、あたかもテロリストへのレクイエムの様に・・・。

■ 社会を個人へと還元する文学 ■

昨年夏から我が家の本棚には『テロリストのパラソル』がタナザラシになっています。
子供の為に、夏休み前に10冊程、文庫本をまとめ買いするのが我が家の習慣ですが、
何冊かは私自身が読みたい本も混ぜておきます。
(いえ・・全部私が読み逃した本なのですが)
そういった大人向けの本を、娘が手に取ればラッキー程度の期待ですが、
見事に娘は、そういった仕掛けを回避します。

そんな一冊の中に『テロリストのパラソル』があります。
江戸川乱歩賞と直木賞を同時受賞した名作ですから「何をいまさら・・」ですが、
私自身、是非読みたかった一冊ですが、機会を逸した作品です。

全共闘全盛の時代、東大の駒場校舎に立てこもったクラスメートの菊池と桑名と園堂。
安田講堂がまさに陥落しようとする時から、彼らの人生は狂い始めます。
学生運動という幼稚な熱が醒めた後に、3人は自己を模索します。

菊池は本能の赴くままにボクサーを目指し、
園堂は、そんな菊池のアパートに転がり込む事で、
信念や理念とは次元を異にする「女」としての自分を取り戻そうとします。
そして彼らの親友、桑名も又、「世界」に対する己の無力さを実感します。

事件は20余年を経って発生します。
爆弾テロの容疑を被ったまま隠遁生活を送る菊池は
アル中のバーテンダーに身をやつしています、

彼は新宿で小さなバーを営んでいますが、
日中は新宿中央公園でウィスキーをチビチビやりながら
アルコールの禁断症状が治まるのを待つ日々を過ごしています。

そんなある日、中央公園で爆弾テロが発生します。
現場に残された指紋から菊地は容疑者とされます。
しかし、被害者の中にはかつての同志であった園堂と桑名の名前が・・・。
事件に違和感を覚えた菊池は、園堂の娘である塔子と、
妙なヤクザの浅井と共に、事件の真相に迫ります。

ハードボイルドとしても、ミステリーとしても見事な作品で、
江戸川乱歩賞と直木賞の同時受賞も納得な作品です。

あまり内容を書くと面白さが半減するので書きませんが、
「社会変革」を標榜するテロの裏に潜む個人の思いを見事に描いた作品です。
テロリズムの本質が個人のエゴである事を看過した名作です。

■ ユナボマーへのレクイエム ■



太平洋を挟んだアメリカでも、テロリストは作家の想像力を刺激して止みません。

アメリカのポストモダン文学の旗手であったポール・オースターも
全米を震撼させた爆弾テロリスト「ユナボマー」を題材に
『リヴァイアサン』という作品を書いています。

ポール・オースターが日本で注目されたのは『幽霊たち (Ghosts 1986) 』からだと思います。
当時、現代小説は「ポストモダン」花盛りの頃で、彼はその旗手として注目されていました。

「表現する事」で成立した文学のアンチテーゼとして
「表現しない事」という「表現形式」をポール・オースターは模索していました。
それは、日本の俳句や短歌の様に、贅肉を削ぎ落とした文学への挑戦であり、
「何も描かない」という極めてミニマリズム的な文学の実験でした。

『シティーオブグラス』から『幽霊たち』、そして『鍵のかかった部屋』のNY3部作は
「不在」をひたすら表現する事で、「空の箱の中への期待」を刺激する作品でした。
経済成長の限界を知った当時もアメリカ人や日本人の
「自己の中の空洞」に見事に共鳴する事で、
ポール・オースターは一躍人気作家の座を射止めます。

ところが、音楽や芸術のミニマリズムの変質と同様に、
ポール・オースターの作風も変化して行きます。

そんなポール・オースターが社会と接点を回帰した最初の作品が
『ムーンパレス』だった様に思います。
「不在の証明」から一歩進んで、「存在の再確認」へと作風が変化していきます。
尤も「確認作業」が「消極的」なので、やはり「現代文学」的アプローチではありました。
それは一般的な作家とは異なる、抽象的で寓話的な作業でした。

そんなポール・オースターが、実際の社会的事件を最初に扱ったのが『リヴァイアサン』です。
この作品の題材をは全米を震撼させた爆弾テロリスト「ユナボマー」でした。
ポスト・モダンの作家であるポール・オースターは、テロリストをどう捉えているのか
非常に興味深い作品でもありますが、
彼も他のテロリズム文学と同様に、テロリストに非常の同調的です。
いえ、「同調的」という点をあえて強調する事で、文学とテロとの関係を問い直しています。

物語は作家の友人が、道端で爆死する事で始まります。
当時アメリカの各地で「自由の女神像」が爆破される事件が連続します。
その犯人が爆死した私の友人だったらしいのです。

そこから私の過去への話に遡ります・・・。
友人の過去を辿るうちに、主人公は友人の思想に同調して行きます。
そして、彼自身がかつての友人の意思を継ぐ事を決意します。

実は、細かい内容はあまり覚えていません。
それが現代小説らしさとも言えますが・・・。
ただ、作品の肌合いや、一種の虚しさの様な物が、
私の脳味噌の最深部を侵食した事も事実です。

一般的な小説が、大脳皮質の表層を刺激するのに対して、
現代文学は小脳や間脳みたない、動物的な脳組織を刺激します。

現代小説はインテリの自己満足の様に受け止められがちですが、
私の様な脳細胞がむき出しの様な「中二病」こそが、
現代文学に最も感応し易いのかも知れません。

■ 中二病を抜けられなかったテロリスト ■ 

若者は成長の過程で必ず大人の社会と衝突します。
正面から大人と戦い、玉砕する人も少なくありません。
それを世間では反抗期と呼ぶのでしょう。

反抗期は、たいがい挫折で終焉を迎えます。
自分の反抗していた社会や親が、
自分より苦労している事を知って「恥しく」なるからです。
ですから、多くのツッパリが反抗期を過ぎると妙に律儀になります。

一方で、優等生達は、親への反抗や友人との喧嘩でストレスを発散する事は出来ません。
彼らの多くは、ネットの世界にて沈溺します。
その内に、不思議な自我が形成されて来ます。

それは、相手を罵倒する限り自分は負けないという捻じれた価値観です。

ネットで蔓延す中国叩きや韓国叩きも似たようなもので、
これらの国を叩いている間は、自分の不遇の原因から目を逸らす事が出来ます。

しかし、この「ごまかし」もいつかは醒める時が来ます。
そこから先は、努力によって周囲とのギャップを埋めるか
テロリストトとなって、世界の不幸を増やすしかありません・・・。

全共闘の世代は、現実的な暴力で社会に対抗し挫折を味わいました。
彼らの世界は、「学校」という警察権力の及ばない小さな世界でした。
国家の暴力機関である警察が学校に乗り込んだ時、彼らの幼稚な闘争は終焉を迎えます。
一部の者達が、テロリストとして非対称の闘争を続けますが、
それは最早、社会や仲間からも遊離した、歪んだ自己実現でしかありませんでした。

一方、現在の闘争の現場はネットの中に移っています。
2チャンネルをはじめとするネットの言論空間では
若者だけでなく、かつての全共闘の世代も暴れまわっています。
現状、国家の暴力と対峙する事の無いネット空間では、
「自制」という鎖から解放された人々が、
社会に対する怨嗟を、他者への攻撃という形で吐き出しています。

これは日本に限らず、社会の拘束の強い韓国や
政府の拘束の強い中国も同様です。
日本を攻撃する限りは、大目に見られるこれらの国では、
社会の不満のはけ口は、反日という形で噴出します。

こうして、現代のトロリスト達は無自覚のままに、社会を危険の淵に追い込んで行きます。
悲しい事に、彼らは誰に踊らされているかを自覚していません・・・。




<追記>

テロリストのパラソルの主人公の菊地はアル中です。
彼は作中ずっと、ウィスキーを手放しません。
これは酒好には酷な小説です。
作中でバランタイン12年ものなどをチビチビやられたら、
ついつい飲みたくなってしまいます。

ゴールデンウィークを仕事に費やした自分へのご褒美に、
「山崎」を一本買って、チビチビやりながらこの記事を書いたら、
ほとんど、意味不明の内容になり、酔いが醒めてからあわてて直しました。

最初の稿を読まれた方は???だったと思います。
この改訂版を読んで下さる事を、期待しています・・・。