■ 速やかに視聴を中止すべき ■
奈須きのこ原作の劇場用アニメ『空の境界(からの境きょうかい)』の旧作が、作品世界の時系列順にTV放映されているみたいですね。
この放映を見て、興味を持たれた方は、速やかに視聴を中止する事をお薦めします。
何故なら、この作品こそ原作の小説で読むべき作品だからです。
奈須きのこによる「原作は、一昔前のそこそこの人気を誇った作品です。
講談社が「新伝奇小説」というジャンル名まで作ってプッシュした作品です。
何故映像で見てはいけないかと言えば、原作の表紙も含めて、作品の世界観と、ビジュアルイメージの乖離が凄まじいからです。・・・いえ、訂正します。元々、同人から始まった作品で、ビジュアルイメージとはライトノベル同様に不可分な作品ではあるのですが、「着流しに赤い皮コート」という中二病全開の主人公のイメージは、ビジュアル化に耐えられないのです。
では『空の境界』が中二病全開の駄作かと言えば、これはライトノベルの歴史的傑作の一つと言えるでしょう。
■ 「新伝奇小説」というジャンル ■
『空の境界』はライトノベルでは無いと主張する方もいらっしゃるでしょう。
しかし、元々、表紙イラストを描いている武内崇の同人サークルからスタートした『空の境界』は、やはり表紙イラストとワンセットで作品世界を構築しており、ビジュアルイメージが最初から2次元に制約を受けるという意味において、典型的なライトノベルと言えます。
しかし一方で、その内容は「本格ミステリー」と言えるもので、文体も難解です。
私の嫌いな武内崇のイラストにイメージの制約を受ける事で、非常に損をしている作品だと私は個人的に思っています。
ネットで公開されていたこの作品を、講談社ノベルから出版した編集者は、この作品の為に「新伝奇小説」というキャッチフレーズを作り出しましたが、これも若干意味不明です。
「伝奇小説」というのは、中国の古典に源流を持つ「もう一つの歴史」を描くジャンルです。「架空の歴史小説」とも言えます。日本でもこの手の作品は少なく無く、芥川龍之介の諸作から、近年では夢枕獏の『陰陽師』まで、枚挙に厭いません。
これらの作品が主として「歴史」や「もう一つの過去」を扱う事で、正等な「伝奇小説」に多少なりとも関係を持つのに対して、『空の境界』は、全く歴史に関係していません。
強いて言うならば「魔法」が存在する世界という意味において、現実と異なる世界を描いており、本来ならば「ファンタジー」に分類されるべき作品です。
では、編集者は何故、この作品を「新伝奇小説」と新しいジャンルまで作って分類したかと言えば、「ファンタジー」に分類してしまうと、この作品に関係する周辺のビジュアルの影響をもろに受けて、所謂「子供向けのファンタジー作品」との誤解を生む事を危惧したのでは無いかと思います。
この作品に流れる、オドロオドロシイ空気は、夢枕獏や菊池秀行の世界観に共通したものがあり、彼らの作品を称する「伝奇ロマン」や「伝奇小説」というジャンル名に「新」を付ける事で、オタクのみならず、従来の「伝奇ロマン」のファン層にもアピールする作戦だったのかも知れません。
いずれにしても『空の境界』は、その表紙のイラストのイメージとは裏腹に、少年少女が読むには、いささか難解で、夢枕獏や菊池秀行のファンにこそアピールする作品です。
■ 魔法の認識の革新 ■
前置きが長くなりましたが、『空の境界』の世界観を決定付けていいるのは「魔術」の存在です。
「魔法」と言うと、ハリーポッターを思い浮かべて、魔法の杖を持って呪文を唱えるとあら不思議・・・って感じを連想してしまいます。
しかし、奈須きのこの描く魔術の世界は、だいぶイメージが異なります。
魔術は「科学」の一つの形態の様でもあり、「錬金術」の延長線であったり、或いは東洋的科学としての仏教を始めとする宗教の秘法の一部であったりします。
ここら辺は、日本の「伝奇ロマン」の伝統を正等に継承しています。一方で、東洋的イメージの世界に封印されがちだった「日本的魔術」と、「西洋魔術」の関係性を再構築した所に、奈須きのこの最大の功績があるかも知れません。
同じ作者のFate(フェイト)とも共通する世界観ですが、世界的な魔術を管理する集団が存在し、そこから逸脱した勢力との戦いや、あるいは、図らずも魔術の力を発動した者が起こす犯罪との戦いが描かれます。
魔術自体も不定形のエーテルみたいな存在で、明確な作用を持つと言うよりは、事象そのものの根源に影響するものとして捉えられています。
『空の境界』の最大の魅力は、この斬新な「体系化された魔術的イメージ」にあるのかも知れません。
魔術師の名前が「魔力の本質」に影響する点など、西洋の伝統的な魔法使いのルールもしっかり踏襲しながらも、かなり和洋折衷的な魔法感を確立しています。
■ 本格ミステリーとしての魅力 ■
『空の境界』のもう一つの魅力は、「本格ミステリー」としての魅力です。
主人公の両義式が、本当に殺人者であるのかどうかという点だけで、思いっきり引っ張る作品ですが、巧妙に答えが伏せられ、断片的な状況だけが提示されるので、読者は無意識の内に、式が殺人者であるのか?もしそうであるならば、その動機は何なのかを推理してしまいます。
私は「ある日突然誰かが殺されて、さあ犯人を当ててみてください」という様な古典的なミステリーは全く受け付けないのですが、「京極堂シリーズ」や、「空の境界」の様な、現在起きている事象の原因を探る様なミステリーは結構好きです。
■ アニメで見る事の不幸 ■
『空の境界』をアニメで見たく無い最大の理由は、武内崇のキャラデザが嫌いという個人的理由もかなり影響していますが、そもそも作品の主題が「不可視の事象」の探求なので、映像化するとイメージがだいぶ損なわれます。
その点、小説は読者のイマジネーションを縦横無尽に駆使して、作品世界を楽しむ事が出来ます。
特ににマンションの独特な建築様式自体が魔法の発動に関係する『矛盾螺旋』では、文章で建築の複雑さや対象性を表現し、それをイメージ化する過程で読者の脳が一種の酩酊常態に陥る様で、もうこれは映像化は絶対に不可能だと思われます。
『俯瞰風景』にしても、人が空中に浮遊する様は、映像的には相当チープですが、文章で書くと、南米の幻想小説にも通じる、不思議な非現実感が生まれて来ます。
こういった文章で表現し、それを読んでイメージする事で生まれる、形容し難い雰囲気を、アニメや実写映像で表現する事は難しく、その点、同じ作者の作品でも、イメージがもう少し具体的なFateシリーズの方が、アニメ化に適しているとも言えます。
何れにしても、この作品をアニメで見る事は不幸であり、もう既に見始めてしまった方は、即刻視聴を中止し、リハビリの為に『ダンガンロンパ』で「大山のぶよ」の声を聞いた後、本屋に直行して『空の境界』の原作を買うべきです。
・・・・ところで、私は始め「そらの境界」だと思い込んでいました。
現在、ネットでは「くうの境界」と思い込んでいる人が多いようです。
作品世界の混沌が、現実世界に漏れ出しているのでしょう。
事象は見る者によって、様々に変化しうる好例です・・・・そんなバカな・・・。
本日はミステリー作品という事もあり、ネタバレ禁止でお送りしました。