■ 耳の聞こえない転校生 ■
映画『聲(こえ)の形』を見て来ました。
活発でクラスでも人気者の少学6年生の石田 将也(いしだ しょうや)は耳の聞こえない転校生西宮 硝子(にしみや しょうこ)に無邪気な興味を抱きます。
彼にとって初めて接する「耳の聞こえない」女の子は退屈な日常に突然現れた「おもちゃ」みたいな物。どの位、耳が聞こえないのか確かめたり、彼女の発声を真似たり・・・それがクラスで受けると彼の行為はどんどんとエスカレートして行きます。
一方、クラスの女子は彼女に色々と気を遣います。彼女の為に先生の「言う」事をノートに書いてあげたり、ノートを使っての筆談をしたり・・。しかし、だんだんと彼女の世話を「面倒」だと感じる様になります。
興味津々で硝子を観察していた将也は「おまえ、うざがられちゃうよ」と告げますが、硝子は自分をカラかって遊んでいる彼に「トモダチ」になろうと手を握ります。将也は反射的にその手を振りほどき、砂を投げつけます。
その日以来、彼の「イジメ」がエスカレートします。彼女の補聴器を捨てたり、水を掛けたり、足を引っ掻けて転ばせたり・・・。クラスメートは彼のイジメに積極的に、或いは消極的に同調します。
とうとう、保護者から学校にクレームがきます。今までに紛失したり故障したりした補聴器の総額が170万円になると・・・。校長は「警察沙汰になって親に迷惑が掛る前に申し出て欲しいと」と生徒達に告げます。すると、教師を始めクラスの全員が「石田君がイジメていた」と言います。「お前らだってイジメテいたじゃないか」と抗弁する石田は完全にクラスメイトにハブられます。子分だった親友二人は彼の上履きを何度も隠し、遊ぶふりをして暴力を振るいます。
そんな石田に何故か優しく接する硝子に将也は怒りを爆発させます「お前さえ居なければこんな事にはならなかった!!」。掴みかかる将也に硝子も必死の反撃をして、二人は取っ組み合いに・・・・。そして、硝子は転校して行きます。
ここまでは『聲の形』のプロローグ。
中学になってもかつての同級生達は彼を無視し、他の小学校から来た生徒達に「石田はイジメっ子だから気を付けろ」と言いふらします。将也は完全に孤立し、いつしか自ら周囲を拒絶する様になります。
そんな将也も高3になり、彼は何となく自分の寂しい将来が見えてしいます。そして彼は自殺を決意し、身の周りを整理して、最後の「清算」を決行します。
・・・・それは、西宮硝子に会って謝る事・・・。
突然現れたかつての天敵を見て硝子は逃げます!!そんな彼女に将也は思わず手話で話し掛けます。「オレと友達になろう」。自分でも考えもしなかった言葉が飛び出して驚き戸惑う将也を何故か硝子は拒絶しません。目を潤ませて嬉しそうに見えます・・・。
こうして、少年と少女の時間が動き出します。それは、周囲も巻き込んで・・・。
■ 「問題作」を社会は受け入れた ■
作者の大今 良時(おおいま よしとき・女性)が19才で2008年に「少年マガジン新人賞」に応募した作品『聲の形』は入賞を果たしますが、賞の特典である雑誌掲載は見送られお蔵入りに。「聴覚障碍者へのイジメ」を描いた作品に批判が集まると考えたのです。
しかし、マガジンの副編集長は、どうにかこの作品を世に出そうと奔走します。社内の法務担当や弁護士に掛け合い、聴覚障碍者に意見を聴きます。「全日本ろうあ連盟」はこの作品に一切の手を加える事無く雑誌掲載して欲しいと告げます。
こうして、お蔵入りになっていた『聲の形』は、『別冊少年マガジン』2011年2月号に掲載されます。読者アンケートでは『進撃の巨人』・『惡の華』を抑えて首位獲得。マガジン編集部は。この作品を読者が求めていると判断し、「週刊少年マガジン」での連載を決定します。
■ 映画『聲の形』をファンは受け入れた ■
こうして、奇跡的に日の目を見た『聲の形』は、多くの若者の支持を集め、アニメ化の要望も高まります。
9月17日から全国でロードショーが始まった映画『聲の形』は、ファンの期待を裏切らない素晴らしい出来栄えでした。原作に思い入れが深い作品程、ファンはアニメに厳しい評価を下しますが、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子という最高の布陣で、京都アニメーションはこのハードルのはるか上を超えてみせました。
下は劇場予告です
■ 弱い「異分子」を集団は排除する ■
子供は本能的に「イジメ」をします。これは生物や集団に備わった防衛本能だと私は考えています。「異分子」を集団は排除するのです。
小学校のみならず、大人の集団の会社であっても、「変なヤツ」や「空気が読めないヤツ」は排除されます。但し、その人物が圧倒的な肉体的、あるいは頭脳的能力を備えている場合、彼らはリーダーとなり集団を牽引します。
文部科学省は「イジメ撲滅」に必死ですが、人間が生物である限り、学校が集団社会である限り、洋の東西を問わず「イジメ」は無くなる事は有りません。
■ 集団のかなの序列を決めるイジメ ■
もう一つイジメには「本能的性質」が在ります。をれは「集団の序列」を決める事です。生物の集団にはリーダーと序列が必要です。
子供達は遊びの中でも無意識に優劣や序列を決めています。腕っぷしの強いヤツや、ずば抜けて頭の良いヤツは格上。そして、その他大勢は、その中で序列を競って必死になります。仲良く遊んでいても、絶えず、「オレ、こいつより上だな」と確認し続けます。
こうした序列決めの最下層で「イジメ」が生じます。たいして能力に差が無い者達は、誰か一人を最下層にする事で、溜飲を下げるのです。
「イジメ」の原因に理由は要りません。「給食を吐いた」とか「頭が臭い」なんんて理由で十分です。
尤も重要な事はイジメの対象が「反撃」をしない事です。「反抗」や「反論」は反撃では有りません。物理的、肉体的反撃で集団に危害が及ばない事が重要です。
こうして、小学校のみならず、大人の集団でもイジメは必ず存在し、多くの人達が意識的、或いは無意識的にイジメに加担しています。
私も小学校の頃は「○○菌」なんて遊びを平気でやっていました。
家内は「イジメっ子」が東に居ると聞けば東に走り懲らしめ、西に現れたと聞くと西に走って懲らしめたと言っています。お前は『化け物語』のファイヤーシスターズかよと突っ込みたくなる活躍ぶりです・・・。
■ 「集団への帰属の試金石」となるイジメ ■
イジメにはもう一つの役割が在ります。それは「集団の結束を確認」する事です。これは「生贄」と呼ぶに相応しい。
集団は「罪の共有」や「秘密の共有」で結束を深めます。「文化祭。皆で頑張ったね!」と言うのが「ポジティブな結束の儀式」だとすれば、「○○をハブらねーーー?」と言うのが「ネガティブな結束の儀式」です。
秘密結社の儀式なども「ネガティブな結束の儀式」で、法に触れる様な秘密を共有する事で、結束を深め、裏切りを防止するのでしょう。
■ 「理性の鎧」と「善への希求」 ■
ここまで読まれて「胸糞悪い」と思われた方も多いと思います。それは人が「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を本能的に持っているからだと思います。
『聲の形』でも最初クラスメート、特に女子達は硝子に優しく接します。「耳の不自由な子に優しくする」というのは理性的には正しい行動ですし、「自分が正しい存在」である事を証明する事にもなります。人は誰しも「善でありたい」と願います。
「人に優しくしたい」「人に好かれたい」「人に尊敬されたい」と強く願う人は「理性の鎧」を厚くして、自分の中に在る動物的な欲求を必死に抑制します。
『聲の形』の中でもクラス委員長の「川井みき」の「理性の鎧」は強力で、自分の中にある「イジメの欲求」も抑えますが、「本当の自分」の認識も阻害します。彼女は無意識にイジメに同調していますが、自分がイジメに加担しているという意識は抑制されています。
そして、「彼女もイジメに加担していた」と指摘する人間を完全に否定し、自らを守る為には友人すらも無意識に裏切ります。
人は多かれ少なかれ「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を内に秘めていますから、私達は「無意識のイジメ」を誰かに向けていても意外にも気付いていない事が多い。
■ 「公認された悪」に対して凶暴化する人々 ■
「○○バッシング」などという現象が良く起こりますが、雑誌やメディアが「公認した悪」に対して、世間の人々は容赦が在りません。
「理性の鎧」と「善への希求」によって抑圧されていた攻撃性が、容赦なく「公認された悪」を打ちのめします。彼らは相手を「悪」と特定する事で「正義の暴力」を執行する事に疑問を持ちません。これは「イジメ」と同質の物ですが、私を始めとしてほとんどの人はそれを「イジメ」と認識しません。
これは一種の集団の「ガス抜き」です。そして、メディアや政治は、この効果を良く理解した上で利用します。
■ 「本能」と「善」との葛藤を描く物語だ ■
『聲の形』が多くの若者の心を捕えたのは、この作品が「イジメル側の理屈」にも自覚的だったからだと私は考えています。
硝子を最後まで受け入れないのは、女子のリーダー格だった「植野直花」(うえの なおか)です。植野は小学校の時代から将也に好意を抱いていたので、将也が硝子をイジメルのは「
好意」の裏返しでは無いかと疑います。同時に将也の気を引く為にイジメに加担します。
彼女は恋敵として硝子を否定的に見ている分、硝子の問題点にも自覚的です。
硝子はイジメた相手に敵意を剥ける事が出来ません。仮に相手を憎いと思っても、それすら自分に原因の有る事だと解釈します。
実は「イジメをエスカレートさせる要因」は、「敵意に対する無反応」です。「敵意」に対して「敵意」を返す事で「コミュニケーション」は成立します。
ところが「敵意」に対して「敵意」が返ってこないと「コミュニケーション」すらも成立しません。生物はコミュニケーションの成立しない存在を本能的に嫌悪し、排除しようとします。
感情的、本能的な植野が硝子とコミュニケーションする為には、硝子の反撃や敵意が不可欠なのです。作者はこの二人の関係を丁寧に描いています。これは女性作家ならではの描写です。
■ 「イジメ」もコミニケーションなのかも知れない ■
『聲の形』に否定的な人達も居ます。その方達のインターネットの書き込みを見ると「イジメタやつを赦すヤツなんて居ない。」という意見が多い様です。
これこそが、この物語の本質です。
何故、硝子はイジメられたのに笑っているのか。イジメタ相手に「友達になろう」と言うのか・・・・。
それは「イジメ」ですら彼女にとっては「貴重なコミュニケーション」だったのでは無いか。耳の聞こえない彼女にとっては「無関心」が一番恐ろしい。
耳が聞こえない彼女は、相手が自分の方を向いて話してくれなければ、相手との繋がりを確立する事が出来ません。敵意を持って向けられる言葉でも、それが自分に向けられている事が、彼女にとっての救いになっていたのかも知れません。
だから彼女は無関心な相手よりも、自分をイジメル将也とより繋がりを求めた。だからこそ、高校生になって再開した彼を受け入れ、必死になってコミニケーションを図ろうとする将也に好意を抱く様になったのでは・・・。
この物語に登場する若者達は皆、実は「認識される事」を望んでいます。「好きな人に見てもらい」「自分を親友と認めてもらいたい」・・。そのすれ違いが物語に微妙な綾を付け、読者の心を掴んで離しません。
それぞれの読者が、登場人物の誰かに自分を重ねているのです。
映画化に当り、省略されてたエピソードも多く、それを惜しむ声が多いのも、そのシーンや登場人物に対する読者の共感が大きいからかと・・。
■ 吉田玲子の脚本には脱帽だ ■
「TV版の長さで見たい」との要望も多い様ですが、私は単行本7巻を2時間に纏めた脚本には驚愕しています。
大事なエピソードを丁寧にツナギ、原作で不自然な所は大人の視線で補い、そして、重要なシーンに十分な時間を作り出しています。ああ、脚本ってこんなに大事なんだって、実感させられます。
そして、当然、山田尚子の演出も冴えています。とにかく「カワイイ」を描かせたら当代一の作家だけに、結構エグイ内容を、美しい青春の一ページに昇華させています。「美化」はアニメーションの得意技です。実写でこれに成功した例はドラマの『のぶたをプロデュース』位しか思い浮かびません。(あの堀北真希ちゃんと、ヤマピーと亀梨はマジで神)
■ 読んでから観るか、観てから読むか ■
私は原作を読んでから観ましたが、映画版は原作未読でも十分に話の内容が理解出来ます。それこそ、吉田玲子の「神脚本」のおかげです。
実はこの映画、原作を読む前に観た方が感動出来ます。
私などは涙を拭く為にハンカチをスタンバイしていたのですが、隣が若い女性だったので、「何、このオヤジ、泣いててキモイんですけど」と思われたくなくて、泣きそうなシーンになると身構えてしまいました。
これ、原作を読まずに観ていたら・・・ハンカチ1枚では足りないでしょう。
劇場は小学生も多く、劇場を後にする彼らが口々に「感動した」「スゲー良かった」と言っていたのが耳に残っています。
当然、この映画、文部科学省も一押しで、文科省のホームページでもスペシャルページが作られています。
http://www.mext.go.jp/koenokatachi/
■ 「偽善」に陥らない細心の注意 ■
この手の作品は「偽善」との評価を受けやすいのですが、作者の主題は「障害者とのコミュニケーション」では無く、等身大の若者のコミニケーションに在る様です。「聴覚障害」は多くの若者が抱える「悩み」のバリエーションの一つに過ぎません。
原作者の母親が手話通訳をしていた事で生まれた作品ではありますが、一人一人の心の葛藤を丁寧にシミュレートする事で、「悩める若者一般」という普遍性を手に入れています。作者と、それを導いた編集者に最大の拍手を送りたい。
興行収入や作家性は『君の名は。』には及びませんが、視聴者の「共感」と言う意味において、『聲の形』は圧倒的に高い評価を受けるでしょう。特に、今を悩む若い世代の支持は高いかと。願わくは、もう少し上映館数を増やして欲しい。学校の先生にも是非見て頂き、生徒達と感想を述べ合うなど、この作品の社会的な役割は小さくは無いはずです。
50才を超えたオヤジですが、岐阜県大垣市に聖地巡礼に必ず行こうと心に決めました。
それにしても『君の名は・』の高山市・飛騨市に続き、大垣市もアニメ聖地となり、今年は岐阜県の年となりそうです。
<追記>
私は硝子の妹の西宮結絃(にしみや ゆづる)と、親友を自称する永束友宏(ながつか ともひろ)の存在が非常に大きな作品だと思います。この物語は、半分はこの二人の為に有るのかも知れません。
この二人は、ちょっとリアルで無いキャラなのですが、「映画」で、敢えて絵柄をリアルに振る事をしなかったのは、ファンへの心遣いでしょう。大人まで視聴対象とするならば、もう少しリアルなキャラの方が違和感は無いのですが、劇場に足を運ぶのは圧倒的に原作ファンであると製作側も予想していたのでしょう。
私はその予想が裏切られる事を望んでいます。子育て中お母さん、お父さんにこそ観て欲しい作品です。石田ママや西宮ママを観るだけで、明日への勇気が湧いて来ます。