人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

珠玉の平安サスペンス・・・『応天の門』

2016-11-25 07:51:00 | マンガ
 



■ 在原業平が歌に詠んだ「都鳥」とは・・ ■

スカイツリーの近くにある業平橋。「業平」とは平安の貴族、在原業平(ありわら なりひら)の事。彼がこの地を訪れた折、「都鳥」という名の鳥を見て、都を偲んで読んだ歌に由来します。ちなみに「言問橋」もこの歌が由来です。

名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
『古今和歌集』

「都に置いてきた愛しき人は今どうしているのだろう」という恋の歌ですが、ちなみに都鳥(ミヤコドリ)とはユリカモメの事。

実は現在「ミヤコドリ」と呼ばれているのは別の鳥。



チドリの仲間ですが、あまり風雅ではありません。

何故、「都鳥」がユリカモメであると言われるかと言えば、伊勢物語で「都鳥」の事を「「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」と説明しており、その姿はまさにユリカモメ。



実は現在では京都の鴨川でも普通に見られるユリカモメですが、京都に現れる様になったのは1970年代から。昔は東国特有の鳥だった。


■ 「平安きってのプレイボーイ」の業平と、「平安きっての切れ者」の道真がタックを組んだら ■

在原業平は桓武天皇の孫にあたり高貴な身分ながら、薬師の変によって嵯峨天皇の子孫に天皇家の血筋が移ってからは臣籍降下し、在原氏を名乗っています。

平安時代のプレイボーイ物語の『伊勢物語』のモデルとも言われ、様々な浮名を流した様ですが、歌の才能もひとかたならぬものが有りました。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは (『古今集』『小倉百人一首』)

そう、今を時めく「ちはやふる」は彼の読んだ歌だったのです。

業平の時代、都の政治は藤原氏に牛耳られていました。伊勢物語の「昔男」は藤原氏に抵抗する反体制の貴公子の物語ですが、実際の業平は藤原氏とも姻戚関係にあり、政治の中枢から外れる事無く生涯を送ったようです。(Wikipedia参照)


さてさて、ようやく本日紹介する『応天の門』の話の準備が整いました。

灰原薬さんが「コミック@バンチ」で2013年から連載するこの作品、1巻目の宣伝文句は「平安クライムミステリー」だったと記憶しています。表紙は端正な絵なが、もしや中身は・・・あんなこんなのエログロ作品かと思って買ってみたら、何と良質な歴史ミステリーだった。

平安きってのプレイボーイの在原業平と、平安きっての博識の菅原道真がもし親友だったら・・といった「もう一つの歴史」的な作品ですが、作者の灰原薬さんは元々はBL作家だけに、発案された時は「業平が攻めで、道真が受けで・・・ナリミチなんて・・・ぐふぅふぅ・・・」って感じだったのではと勝手に想像しています。(スミマセン)

年齢的には業平の方がかなり上なので、実際の歴史で二人にあまり接点は無かったと思いますが、共に「藤原氏に抵抗していた」という事が接点となって、この物語が生まれたものと思われます。

内容的には、京都の護衛の任についている業平が、京都で起こる難事件や不思議な事件の解決を道真にお願いするという、ミステリーの定石。ただ、起こる事件が今でこそ不思議で無い事が、科学的知識が無い平安では「妖怪」だの「祟り」だのと解釈された訳で、それを博識の道真が唐由来の科学知識を駆使して解決するというのが、何ともキモチの良い。

■ 平安時代をリアルに感じられる素晴らしい作品 ■

現在の私達は歴史の教科書や古典作品を通して平安時代を知るしかありません。ビジュアル的な平安はTVのドラマや映画の影響を強く受けています。そこには薄っすらと「歴史フィルター」が掛かっていて、リアリティーが欠けています。

しかし、『応天の門』はかなり現代的な表現の内容で、着物や風物、風景や単語などは歴史的な背景をしっかり踏まえていながらも、人々の感情は現代人のそれに近い。政争を繰り広げる藤原氏と抵抗勢力のやり取りも、現代劇の様でリアリティーがあります。

「歴史物」に共通していた「当時の人をそれらしく」という無意識の規制が無い事で、歴史上の人物をこんなにも生き生きと描けるという好例かと。

ただ、現代人の持つ自我と、平安時代を生きた人達が持つ自我が当然同じはずは無く、死生観や世界観も異なっている事は確かで、それを敢えて無視できるのは作者がBL的な嗜好の持ち主だから・・・なんて妄想してしまいます。

■ 女の子キャラが可愛い、業平がイケメン、道真がツンデレ ■

この作品の大きな物語は藤原氏とそれにう抵抗する業平達の勢力争い。藤原氏がいろいろとめぐらす策略を、道真の知識と機転でクリアーしていうというのが醍醐味。(実際の業平は藤原氏と宜しくやっていたらしいのですが)

単行本では各話の後に歴史研究家で東京大学教授の本郷和人氏による分かりやすくて面白い解説まで着くので歴史好きにはたまらない作品。単行本は累計で50万部を超すヒット作となっています。

一方、漫画好きには女性キャラが綺麗でカワイイ、業平がイケメンでダラシナクテ素敵。道真のツンデレがかわいい・・・なんて魅力も。

とにかく「大人の読書」に加えて頂きたい!!

「赦し」を許せない人々・・・『聲の形』

2016-09-28 11:38:00 | マンガ
 



『聲の形』 大今良時 講談社 より

■ 何かと比較される『君の名は。』と『聲の形』。 ■

時期をほぼ同じくして公開された大人の鑑賞にも耐えうるアニメ映画として、何かと比較される二作品ですが、私は『聲の形』の方が圧倒的に好きな作品です(原作も含め)。

「それは観終わった後に考えさせられる事が多い」と一点に尽きます。

「SFファンタジー」と「社会性を持った作品」を同列に比較する事自体が無理がある事を承知で言うならば、『君の名は。』は観終わった後に「タイムりープの構造」というSF的ギミックにひたすら思考が集中します。

これが『秒速5cm』や『言の葉に庭』であれば、主人公達の心の葛藤や関係性の変化を色々妄想しながら、しばらく楽しむ事が出来たのですが、『君の名は。』は「入れ替わり」というスペシャルなイベントで主人公達の心が強引に結び付けられてしまっているので、彼らの「関係成立の機微」はすっ飛ばされてしまっています。これは新海監督らしく無い。せめて最後に出会えずに終わっていれば「新海風」としての体裁というかポリシーが保てたのかも知れませんが、大衆のアピールする監督となる為にはハッピーエンドの選択しか無かった。これが今の大衆娯楽映画の限界。

一方、『聲の形』は原作からして「ヒット作品の王道」と対局にる作品ですから、当然映画も大ヒットなど意識しては作られていません。原作7巻で積み上げて来た「人間関係」を2時間の枠でどれだけ分かり易く観客に伝えるかという事に専念しています。だから初めてこの作品に触れた観客も、観終わった後に色々と考えさせられる・・・。

■ 硝子の「赦し」は都合が良すぎる?という当然の反応 ■

『聲の形』を初めて観た人も、原作で読んだ人も、最初に大きな疑問に突き当たります。それは「被害者の少女がなぜ加害者の少年を受け入れたのか」という点。これが、読者(視聴者)がこの物語を受け入れるか、否定するかのカギになります。

普通に考えれば、「イジメを受けた側はイジメタ人間を一生赦す事は有りません!!」。ですから、ここで思考停止してしまった人には、この物語は「障害者をネタにしたお涙頂戴物語」として不愉快な作品のリストに入ります。

一方、「赦し」の理由を色々考えると、この物語は様々な思考のネタを読者(視聴者)に与えてくれます。

■ 硝子は「特殊」な性格の持ち主だから成り立つイレギュラーな物語 ■

「硝子は何故将也を許したのか?」、それは彼女が「特殊な性格」の持ち主だったから。そう言ってしまうと身も蓋も有りませんが・・・これに尽きるかと・・。

根本的には硝子は「自己否定の塊」の様な性格です。それを形成したのは硝子の母親の「イジメに負けない子に育って欲しい」という願望。これは「普通の子に育って欲しい」という願望と同義です。母親は硝子を「普通の子」に育てる為に相当スパルタです。髪を男の子の様に短く切ればイジメられないと言い、さらには、8回も補聴器が紛失するまでは硝子が自分でイジメを解決する事を待っています。(普通の親なら1回で校長室に怒鳴り込みます)

母親の願望とは裏腹に、聴覚障害者が健常者と同じ様に社会が学校で生活する事は根本的に不可能で、彼女が友人の輪に普通の子供として入って行く事は始めから無理があります。

硝子は芯の強い性格らしく、何度失敗しても「友人」になろうと周囲にアプローチし、そして当然の事ながら挫折します。

こんな事を繰り返す内に硝子の心は「自己否定」と「渇望」に引き裂かれていきます。「友達にならなければいけない」という義務感と、「どうせ私には出来ない」という諦めに支配され、表面的なアプローチと裏腹に心は固く閉じてコミュニケーションが取れません。

■ 唯一、硝子が真剣に心をぶつける事が出来たのが将也だった ■

硝子の心が閉じている事を、子供達は敏感にそれを感じ取り、イジメや無視という形で彼女を拒絶しますが、将也だけが彼女に興味を持ち続けた。これを彼女が「救い」と感じる事は絶対に在りませんせんが、その繋がりすらも彼女には大切な物だったのでしょう。

だから、「お前なんか大っ嫌いだ」と敵意をむき出しにする将也に硝子は本気の抵抗を見せる事が出来たのではないでしょうか。それは彼女の人生にあっては数少ない「本音」の行動であり、だからこそ将也は彼女にとって「トラウマ」であると同時に「気になる存在」で在り続けたのでは。

■ 彼女の事を考え続けた将也は、硝子にとって特別の存在 ■

高校3年生になってから、手話を覚えた将也が突然現れます。彼が彼女を気にし続けてくれた事は彼女にとっては驚きであると同時にある種の喜びだったのでは無いか。「関係が続いていた」事が彼女にとってはイジメの辛い記憶に勝る喜びだった・・。

勝手な解釈ですが、「現実的」かと言えば「作者の願望」に近い展開ですが、この最初の「赦し」が無ければ物語自体が成り立たない。

最初は単なる「ストーリーの切っ掛け」として描いたシーンだと思います。しかしこのシーンには作者自身が「不自然さ」を感じていたと思います。ですから7巻に及ぶ原作の執筆の間、「赦し」の理由を考え続けていたのでは無いか。

その試行錯誤に積み重ねが、将也や硝子以外の登場人物にも重要な役割を与え、彼らの造形を深いものにします。

この作品の最大の魅力は、登場人物のみならず、彼らを描くことで原作者自身が成長し続けている事に在る。これは新人作家にだけされた「魔法」のひと時です。

■ 全ての努力を無化してしまった自殺シーン ■

原作の難点を一つ挙げるとするならば、硝子が自殺を選択し将也がこれを助けて命の危機に陥った事。

物語的にはインパクトの有る事件ですが、これまでそれぞれの内面や経験を丁寧に描いて来て、彼らの関係がどう改善されるのかが期待される局面で「リセットボタンが押された」感じがして仕方が無い。これでイジメられていた側とイジメテいた側の罪のギャップがキャンセルされてしまった。この物語で非難されるプロットは、硝子が将也を赦した事では無く、それでも消えない将也の罪を自殺事件が無化してしまった事。

ここら辺が少年誌連載の限界かと感じています。


何れにしても50才のオヤジですら、この作品を読んだ後には色々と考えさせられてしまう。これこそが、素晴らしい作品に求められる条件であるとするならば・・・『君の名は。』は映像表現が美しくとも『聲の形』には勝てない。(個人的にですが)


原作の大ファンでライブのMCで原作1巻のあらすじを全部話しちゃったというAIKOの主題歌がアップされていました。





人は「善」でありたいと願うが・・・『聲の形』

2016-09-25 23:30:00 | マンガ
 


■ 耳の聞こえない転校生 ■

映画『聲(こえ)の形』を見て来ました。

活発でクラスでも人気者の少学6年生の石田 将也(いしだ しょうや)は耳の聞こえない転校生西宮 硝子(にしみや しょうこ)に無邪気な興味を抱きます。

彼にとって初めて接する「耳の聞こえない」女の子は退屈な日常に突然現れた「おもちゃ」みたいな物。どの位、耳が聞こえないのか確かめたり、彼女の発声を真似たり・・・それがクラスで受けると彼の行為はどんどんとエスカレートして行きます。

一方、クラスの女子は彼女に色々と気を遣います。彼女の為に先生の「言う」事をノートに書いてあげたり、ノートを使っての筆談をしたり・・。しかし、だんだんと彼女の世話を「面倒」だと感じる様になります。

興味津々で硝子を観察していた将也は「おまえ、うざがられちゃうよ」と告げますが、硝子は自分をカラかって遊んでいる彼に「トモダチ」になろうと手を握ります。将也は反射的にその手を振りほどき、砂を投げつけます。

その日以来、彼の「イジメ」がエスカレートします。彼女の補聴器を捨てたり、水を掛けたり、足を引っ掻けて転ばせたり・・・。クラスメートは彼のイジメに積極的に、或いは消極的に同調します。

とうとう、保護者から学校にクレームがきます。今までに紛失したり故障したりした補聴器の総額が170万円になると・・・。校長は「警察沙汰になって親に迷惑が掛る前に申し出て欲しいと」と生徒達に告げます。すると、教師を始めクラスの全員が「石田君がイジメていた」と言います。「お前らだってイジメテいたじゃないか」と抗弁する石田は完全にクラスメイトにハブられます。子分だった親友二人は彼の上履きを何度も隠し、遊ぶふりをして暴力を振るいます。

そんな石田に何故か優しく接する硝子に将也は怒りを爆発させます「お前さえ居なければこんな事にはならなかった!!」。掴みかかる将也に硝子も必死の反撃をして、二人は取っ組み合いに・・・・。そして、硝子は転校して行きます。


ここまでは『聲の形』のプロローグ。

中学になってもかつての同級生達は彼を無視し、他の小学校から来た生徒達に「石田はイジメっ子だから気を付けろ」と言いふらします。将也は完全に孤立し、いつしか自ら周囲を拒絶する様になります。

そんな将也も高3になり、彼は何となく自分の寂しい将来が見えてしいます。そして彼は自殺を決意し、身の周りを整理して、最後の「清算」を決行します。

・・・・それは、西宮硝子に会って謝る事・・・。

突然現れたかつての天敵を見て硝子は逃げます!!そんな彼女に将也は思わず手話で話し掛けます。「オレと友達になろう」。自分でも考えもしなかった言葉が飛び出して驚き戸惑う将也を何故か硝子は拒絶しません。目を潤ませて嬉しそうに見えます・・・。

こうして、少年と少女の時間が動き出します。それは、周囲も巻き込んで・・・。

■ 「問題作」を社会は受け入れた ■

作者の大今 良時(おおいま よしとき・女性)が19才で2008年に「少年マガジン新人賞」に応募した作品『聲の形』は入賞を果たしますが、賞の特典である雑誌掲載は見送られお蔵入りに。「聴覚障碍者へのイジメ」を描いた作品に批判が集まると考えたのです。

しかし、マガジンの副編集長は、どうにかこの作品を世に出そうと奔走します。社内の法務担当や弁護士に掛け合い、聴覚障碍者に意見を聴きます。「全日本ろうあ連盟」はこの作品に一切の手を加える事無く雑誌掲載して欲しいと告げます。

こうして、お蔵入りになっていた『聲の形』は、『別冊少年マガジン』2011年2月号に掲載されます。読者アンケートでは『進撃の巨人』・『惡の華』を抑えて首位獲得。マガジン編集部は。この作品を読者が求めていると判断し、「週刊少年マガジン」での連載を決定します。

■ 映画『聲の形』をファンは受け入れた ■

こうして、奇跡的に日の目を見た『聲の形』は、多くの若者の支持を集め、アニメ化の要望も高まります。

9月17日から全国でロードショーが始まった映画『聲の形』は、ファンの期待を裏切らない素晴らしい出来栄えでした。原作に思い入れが深い作品程、ファンはアニメに厳しい評価を下しますが、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子という最高の布陣で、京都アニメーションはこのハードルのはるか上を超えてみせました。

下は劇場予告です





■ 弱い「異分子」を集団は排除する ■

子供は本能的に「イジメ」をします。これは生物や集団に備わった防衛本能だと私は考えています。「異分子」を集団は排除するのです。

小学校のみならず、大人の集団の会社であっても、「変なヤツ」や「空気が読めないヤツ」は排除されます。但し、その人物が圧倒的な肉体的、あるいは頭脳的能力を備えている場合、彼らはリーダーとなり集団を牽引します。

文部科学省は「イジメ撲滅」に必死ですが、人間が生物である限り、学校が集団社会である限り、洋の東西を問わず「イジメ」は無くなる事は有りません。

■ 集団のかなの序列を決めるイジメ ■

もう一つイジメには「本能的性質」が在ります。をれは「集団の序列」を決める事です。生物の集団にはリーダーと序列が必要です。

子供達は遊びの中でも無意識に優劣や序列を決めています。腕っぷしの強いヤツや、ずば抜けて頭の良いヤツは格上。そして、その他大勢は、その中で序列を競って必死になります。仲良く遊んでいても、絶えず、「オレ、こいつより上だな」と確認し続けます。

こうした序列決めの最下層で「イジメ」が生じます。たいして能力に差が無い者達は、誰か一人を最下層にする事で、溜飲を下げるのです。

「イジメ」の原因に理由は要りません。「給食を吐いた」とか「頭が臭い」なんんて理由で十分です。

尤も重要な事はイジメの対象が「反撃」をしない事です。「反抗」や「反論」は反撃では有りません。物理的、肉体的反撃で集団に危害が及ばない事が重要です。

こうして、小学校のみならず、大人の集団でもイジメは必ず存在し、多くの人達が意識的、或いは無意識的にイジメに加担しています。

私も小学校の頃は「○○菌」なんて遊びを平気でやっていました。

家内は「イジメっ子」が東に居ると聞けば東に走り懲らしめ、西に現れたと聞くと西に走って懲らしめたと言っています。お前は『化け物語』のファイヤーシスターズかよと突っ込みたくなる活躍ぶりです・・・。

■ 「集団への帰属の試金石」となるイジメ ■

イジメにはもう一つの役割が在ります。それは「集団の結束を確認」する事です。これは「生贄」と呼ぶに相応しい。

集団は「罪の共有」や「秘密の共有」で結束を深めます。「文化祭。皆で頑張ったね!」と言うのが「ポジティブな結束の儀式」だとすれば、「○○をハブらねーーー?」と言うのが「ネガティブな結束の儀式」です。

秘密結社の儀式なども「ネガティブな結束の儀式」で、法に触れる様な秘密を共有する事で、結束を深め、裏切りを防止するのでしょう。

■ 「理性の鎧」と「善への希求」 ■

ここまで読まれて「胸糞悪い」と思われた方も多いと思います。それは人が「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を本能的に持っているからだと思います。

『聲の形』でも最初クラスメート、特に女子達は硝子に優しく接します。「耳の不自由な子に優しくする」というのは理性的には正しい行動ですし、「自分が正しい存在」である事を証明する事にもなります。人は誰しも「善でありたい」と願います。

「人に優しくしたい」「人に好かれたい」「人に尊敬されたい」と強く願う人は「理性の鎧」を厚くして、自分の中に在る動物的な欲求を必死に抑制します。

『聲の形』の中でもクラス委員長の「川井みき」の「理性の鎧」は強力で、自分の中にある「イジメの欲求」も抑えますが、「本当の自分」の認識も阻害します。彼女は無意識にイジメに同調していますが、自分がイジメに加担しているという意識は抑制されています。

そして、「彼女もイジメに加担していた」と指摘する人間を完全に否定し、自らを守る為には友人すらも無意識に裏切ります。

人は多かれ少なかれ「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を内に秘めていますから、私達は「無意識のイジメ」を誰かに向けていても意外にも気付いていない事が多い。

■ 「公認された悪」に対して凶暴化する人々 ■

「○○バッシング」などという現象が良く起こりますが、雑誌やメディアが「公認した悪」に対して、世間の人々は容赦が在りません。

「理性の鎧」と「善への希求」によって抑圧されていた攻撃性が、容赦なく「公認された悪」を打ちのめします。彼らは相手を「悪」と特定する事で「正義の暴力」を執行する事に疑問を持ちません。これは「イジメ」と同質の物ですが、私を始めとしてほとんどの人はそれを「イジメ」と認識しません。

これは一種の集団の「ガス抜き」です。そして、メディアや政治は、この効果を良く理解した上で利用します。

■ 「本能」と「善」との葛藤を描く物語だ ■

『聲の形』が多くの若者の心を捕えたのは、この作品が「イジメル側の理屈」にも自覚的だったからだと私は考えています。

硝子を最後まで受け入れないのは、女子のリーダー格だった「植野直花」(うえの なおか)です。植野は小学校の時代から将也に好意を抱いていたので、将也が硝子をイジメルのは「
好意」の裏返しでは無いかと疑います。同時に将也の気を引く為にイジメに加担します。

彼女は恋敵として硝子を否定的に見ている分、硝子の問題点にも自覚的です。

硝子はイジメた相手に敵意を剥ける事が出来ません。仮に相手を憎いと思っても、それすら自分に原因の有る事だと解釈します。

実は「イジメをエスカレートさせる要因」は、「敵意に対する無反応」です。「敵意」に対して「敵意」を返す事で「コミュニケーション」は成立します。

ところが「敵意」に対して「敵意」が返ってこないと「コミュニケーション」すらも成立しません。生物はコミュニケーションの成立しない存在を本能的に嫌悪し、排除しようとします。

感情的、本能的な植野が硝子とコミュニケーションする為には、硝子の反撃や敵意が不可欠なのです。作者はこの二人の関係を丁寧に描いています。これは女性作家ならではの描写です。

■ 「イジメ」もコミニケーションなのかも知れない ■

『聲の形』に否定的な人達も居ます。その方達のインターネットの書き込みを見ると「イジメタやつを赦すヤツなんて居ない。」という意見が多い様です。

これこそが、この物語の本質です。

何故、硝子はイジメられたのに笑っているのか。イジメタ相手に「友達になろう」と言うのか・・・・。

それは「イジメ」ですら彼女にとっては「貴重なコミュニケーション」だったのでは無いか。耳の聞こえない彼女にとっては「無関心」が一番恐ろしい。

耳が聞こえない彼女は、相手が自分の方を向いて話してくれなければ、相手との繋がりを確立する事が出来ません。敵意を持って向けられる言葉でも、それが自分に向けられている事が、彼女にとっての救いになっていたのかも知れません。

だから彼女は無関心な相手よりも、自分をイジメル将也とより繋がりを求めた。だからこそ、高校生になって再開した彼を受け入れ、必死になってコミニケーションを図ろうとする将也に好意を抱く様になったのでは・・・。

この物語に登場する若者達は皆、実は「認識される事」を望んでいます。「好きな人に見てもらい」「自分を親友と認めてもらいたい」・・。そのすれ違いが物語に微妙な綾を付け、読者の心を掴んで離しません。

それぞれの読者が、登場人物の誰かに自分を重ねているのです。

映画化に当り、省略されてたエピソードも多く、それを惜しむ声が多いのも、そのシーンや登場人物に対する読者の共感が大きいからかと・・。

■ 吉田玲子の脚本には脱帽だ ■

「TV版の長さで見たい」との要望も多い様ですが、私は単行本7巻を2時間に纏めた脚本には驚愕しています。

大事なエピソードを丁寧にツナギ、原作で不自然な所は大人の視線で補い、そして、重要なシーンに十分な時間を作り出しています。ああ、脚本ってこんなに大事なんだって、実感させられます。

そして、当然、山田尚子の演出も冴えています。とにかく「カワイイ」を描かせたら当代一の作家だけに、結構エグイ内容を、美しい青春の一ページに昇華させています。「美化」はアニメーションの得意技です。実写でこれに成功した例はドラマの『のぶたをプロデュース』位しか思い浮かびません。(あの堀北真希ちゃんと、ヤマピーと亀梨はマジで神)


■ 読んでから観るか、観てから読むか ■

私は原作を読んでから観ましたが、映画版は原作未読でも十分に話の内容が理解出来ます。それこそ、吉田玲子の「神脚本」のおかげです。

実はこの映画、原作を読む前に観た方が感動出来ます。

私などは涙を拭く為にハンカチをスタンバイしていたのですが、隣が若い女性だったので、「何、このオヤジ、泣いててキモイんですけど」と思われたくなくて、泣きそうなシーンになると身構えてしまいました。

これ、原作を読まずに観ていたら・・・ハンカチ1枚では足りないでしょう。

劇場は小学生も多く、劇場を後にする彼らが口々に「感動した」「スゲー良かった」と言っていたのが耳に残っています。


当然、この映画、文部科学省も一押しで、文科省のホームページでもスペシャルページが作られています。

http://www.mext.go.jp/koenokatachi/


■ 「偽善」に陥らない細心の注意 ■

この手の作品は「偽善」との評価を受けやすいのですが、作者の主題は「障害者とのコミュニケーション」では無く、等身大の若者のコミニケーションに在る様です。「聴覚障害」は多くの若者が抱える「悩み」のバリエーションの一つに過ぎません。

原作者の母親が手話通訳をしていた事で生まれた作品ではありますが、一人一人の心の葛藤を丁寧にシミュレートする事で、「悩める若者一般」という普遍性を手に入れています。作者と、それを導いた編集者に最大の拍手を送りたい。


興行収入や作家性は『君の名は。』には及びませんが、視聴者の「共感」と言う意味において、『聲の形』は圧倒的に高い評価を受けるでしょう。特に、今を悩む若い世代の支持は高いかと。願わくは、もう少し上映館数を増やして欲しい。学校の先生にも是非見て頂き、生徒達と感想を述べ合うなど、この作品の社会的な役割は小さくは無いはずです。


50才を超えたオヤジですが、岐阜県大垣市に聖地巡礼に必ず行こうと心に決めました。


それにしても『君の名は・』の高山市・飛騨市に続き、大垣市もアニメ聖地となり、今年は岐阜県の年となりそうです。



<追記>

私は硝子の妹の西宮結絃(にしみや ゆづる)と、親友を自称する永束友宏(ながつか ともひろ)の存在が非常に大きな作品だと思います。この物語は、半分はこの二人の為に有るのかも知れません。

この二人は、ちょっとリアルで無いキャラなのですが、「映画」で、敢えて絵柄をリアルに振る事をしなかったのは、ファンへの心遣いでしょう。大人まで視聴対象とするならば、もう少しリアルなキャラの方が違和感は無いのですが、劇場に足を運ぶのは圧倒的に原作ファンであると製作側も予想していたのでしょう。

私はその予想が裏切られる事を望んでいます。子育て中お母さん、お父さんにこそ観て欲しい作品です。石田ママや西宮ママを観るだけで、明日への勇気が湧いて来ます。

ちょっと大人の漫画読書・・・たまには腐った作品もアリかも

2015-05-21 08:59:00 | マンガ
 

■ 親は子供の成長を通して自分の成長を追体験する ■

娘が大学生になってアパート暮らしになったので、家の中でオタクトークをする相手が居なくなりました。すると、不思議な事で、アニメを見ても面白く無い・・・。結局、アニメは親子のコミュニケーションツールだったのだなと思うと同時に、親というのは子供の成長と共に、自分の成長を追体験するのだと、しんみりと実感しています。

思えば、日曜日朝の戦隊物が面白いと家内が観だした事をきっかけに、『メガレンジャー』や『仮面ライダー・クーガ』『ウルトラマン・ティガ』『おじゃ魔女ドレミ』などを子供達とワイワイと楽しんだ時から随分と時間が経ちました。

かつてはゴールデンウィークには映画館に『クレヨンしんちゃん』を観に行くのが家族の楽しみでしたが、今では新宿武蔵野館の映画を娘と観に行く様になりました。まさに私の大学生時代はミニシアターブームで、タルコフスキーやゴダールお映画を訳も分からず観ていました。

そんなこんなで、購入する漫画も、大人向きに少しずつ変化しています。本日は最近読んだ漫画の中から大人向きの作品を何冊か紹介します。


『ゴロンドリーナ』 えすとえむ



闘牛士同士のホモセクシャルを描いた『愚か者は赤を嫌う』という作品に何度手を伸ばしたか分かりませんが、やはりホモセクシャル物は敷居が高い。

『ゴロンドリーナ』はレズビアンの少女が彼女に振られた事で自暴自棄になった所を、かつて闘牛士のスターを育てた男に拾われ、闘牛の世界に魅せられて行くというお話。少女は振られたショックで命など惜しく無いと思っています。だから牛の前に立っても怯む事はありません。闘牛場で華々しく死んで、別れた彼女に見せつけるという歪んだ願望が彼女を闘牛の世界に駆り立てます。

私達日本人には馴染の薄い闘牛の世界を克明に描いて興味深い作品ですが、とにかく鋭敏に切り込む表現が素晴らしい。作品自体がカッターナイフを振り回すかの様な痛々しさと、激しさを持って読者の心に切り付けてきます。動きを描くのが苦手の様ですが、それを逆手に取ったモンタージュの連続による表現に魅力を感じます。ある意味、ヨーロッパ映画の様な作品です。

今、一番インパクトのある作品です。

作者のえすとえむはBL物の多い作者の様ですが、オーダーメイドの靴職人の世界を淡々と描く『IPPO』という作品を現在ヤングジャンプで連載中です。一足の靴にまつわる人間模様を丹念に描く作品で、こちらも読みごたえがあります。こちらもオススメ!!


『IPPO』 えすとえむ





『鉄楽レトラ』 佐原ミズ



相場ちゃんが主演したドラマ『マイガール』の原作者、佐原ミズが描く異色のフラメンコ作品。実はストーリーテーリングがあまり上手く無く、話の進行が良く分からない作品なのですが、表紙の素晴らしさに騙されて毎刊買わされてしまいます。

学校に馴染めない不器用な男子高校生が、ふとした切っ掛けで手に入れた女性用のフラメンコの靴に導かれる様に、フラメンコ教室の門を叩きます。老齢のダンサーの手ほどきで、少しずつフラメンコに興味を示しますが、クラスメイトのこれ又不器用な男子二人も何故だかフラメンコに興味を持ち・・・そんなイケていない高校生の日常がダラダラと続く作品。オススメかと言えば・・・NO。

しかし、『ゴロンドリーナ』が闘牛の知られざる世界を見せてくれる様に、こちらはフラメンコの知られざる世界を垣間見せてくれる興味深い作品です。

実は、ウエットでカビが生えそうなナイーブな表現が私的に苦手な作家です。もっと少年らしくイキイキと描写されていれば大変魅力的な作品になたのでしょうが・・・。素材としてはスペシャルに面白いので・・・残念。



『ユレカ』 黒沢要



こちらは酔っぱらって近所のダイエーの本屋で買ってしまった一冊。表紙からしてBL物の匂いを感じますが、『鉄楽レトラ』同様に、非常に鋭く切れ込みのある描線に我慢出来なくで買ってしまいました。70点位の作品ですが・・・でも面白いです。

吸血鬼を父親に持つ青年と、500年を生きる吸血鬼の交流の物語。アン・ライスの1979年の小説『夜明けのバンパイア』以降、吸血鬼物はモダンファンタジーに磨きが掛っています。ブラム・トーカーの『ドラキュラ』から始まる吸血鬼作品ですが、もともと気品とエロティシズムに溢れたジャンルでした。「吸血」という行為は「SEX」のメタファーですがで、「吸血によって仲間を増やす」という行為は「生殖」を意味します。

しかし、「SEX]や「生殖」を「吸血」という行為に置き換える事で、吸血鬼というジャンルはエロティックでありながらも高貴で清廉な雰囲気を手に入れる事に成功します。

これがBL的な匂いを発し始めたのは前出の『夜明けのバンパイア』からでしょうか。レスタトという魅力的なキャラクターを排出した事で、このジャンルに新たな地平を築きました。

『ユレカ』は死を望むが故に吸血鬼となった男と、吸血鬼を父に持つが故に迫害されて来た青年の交流と救済の物語です。BLジャンルを私達男性から遠ざけている「男同士のSEX」シーンが「吸血」に置き換わる事で、男性読者も嫌悪感が少ないのでは無いかと思います。

この作品自体がどうのこうのと言うよりも、BLというジャンルに腐女子が萌えるのは何故か・・・という興味に答える作品と楽しめました。

実はBL作品はオノナツメ『クマとインテリ』など、現代の最高水準の表現が沢山隠れているジャンルですが・・・このジャンルから前出のえすとえむなど優れた作家が一般作品で能力を発揮し出した事は非常に喜ばしい事です。



『うせものの宿』 穂積



『式の日』があまりに素晴らしかった穂積の新連載。

省略の美学としての短編・・・『式の前日』 人力でGO 2013.04.20

前作のゴッホとその弟の関係を描いた前作『さよならソルシエ』がいささか尻すぼみだったのは、この作者の長編の構成力が足りないからかなと・・・・。ただ、もともと短編の名手だけに、1話完結の連作として描かれる『うせものの宿』は、この作者の魅力が全開です。

人知れぬ宿に導かれ、或いは迷い込む宿泊客は、この世に未練を残して死んだ人々。彼らの未練は極些細な事ですが、それ故に「うせ物」は見つけ難く、彼ら自身、自分の未練が何であるのかに気づかずに居ます。

そんなこの世とあの世の境にある宿の主は、少女の姿をした「おかみさん」。彼女も又未練を残して死んだ存在かと思われますが・・・・。

穂積の作品の魅力は「思わせぶり」な所。セリフの表面的な流れと、絵の流れに少しずつズレが有ります。それが積み重なって、心に引っ掛かりを残す作風とも言えます。誰でも読みやすい作品なので、『式の日』とセットで是非!!



『水域』 漆原友紀



年末にブックオフに要らない漫画を売ったら1000円分のクーポンを貰いいました。それで買える作品を探していて見つけた上下巻。

『蟲師』漆原友紀の作品です。

部活の練習中に熱中症で倒れた少女。彼女は気づけば川のほとりに居ます。そして一人の少年に出会う。彼と父の住む村は、彼ら以外の住人の姿は無く、何故かいつも雨が降っています。

気付くと少女は病院のベットの上に居ます。彼女の見た光景を家族に話すと・・・家族の表情が変わります。彼女が夢で見た村は、かつて家族が住んでいた村。今はダムの底に沈んでいます。そして少年は死んだはずの母親の兄。そして父親は行方不明になっています。

雨不足でダムに沈んだ村が現れる事をきっかけに起こる様々な不思議な出来事が、家族の止まった時計を再び動かし始めます。

漆原友紀の作品は幻想的な物が多いおですが、こちらは現実とのブレンド具合が程よく、誰か実写映画にしてくれないかなと思える作品です。淡々と心のひだに沁み込んで来る作品です。少し前に刊行されたので、古本屋などで見つけたら是非手に取ってみて下さい。


『春風のスネグラチカ』 沙村宏明 
 


異色のチャンバラアクション『無限の住人』で文化省メディア芸術祭の優秀賞を獲得した沙村宏明が、ロシアのロマノフ王朝のその後を描いて再び優秀賞を獲得した昨年度の作品。

革命によって死刑にされたロマノフ家に生き残りが居た・・・いわゆる「もう一つの歴史」に分類される作品ですが、ソビエト発足当時のソ連の政治的混乱と収容所や監視生活を緻密に描きながら、社会の激変の中に生きる人々の力強い姿をミステリアスに描く傑作。

沙村宏明特融のグロテスクな性描写も、物語の展開に深みを与えているという点において、彼の諸作の中でも「成功」した作品であると言えます。

もともと「知的な作家」ではありますが、それが嫌味では無く、エンタテーメントとして成立している点が素晴らしい作品です。大人の「漫画読書」に耐えうる一冊として必読です。




本日は、最近買った漫画の中から「大人の鑑賞」に耐える作品をまとめて紹介しました。本当はここに『マギ』を入れても良かったのですが・・・。

限りなく文学に近い漫画・・・サメマチオの『わっちゃんはふうりん』

2014-11-27 07:34:00 | マンガ
 



■ 近代文学と「意識の流れ」 ■

人間の意識や思考はどの様に形成されるのかは、心理学の研究テーマの一つですが、その仮設の一つに「意識の流れ」という考え方が有ります。

「人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである(wikipedia)」といった考え方です。

これを文学に応用したのがジェームス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』、そしてヴァージニア・ウルフの『灯台へ』などの作品です。これらの作品は、心の表層に浮かび上がる様々な思考の断片が、何の脈絡無く羅列されている様な表現手法を取るので、現代の明晰な文学に慣れた私達が読むと「グダグダ」な感じがして、とても楽しみながら読める代物ではありません。

その対局にあるのがレーモンド・チャンドラーを始めとするアメリカン・ハードボイルドかも知れません。物語は事物の客観的描写と、主人公のモノローグによって進行します。このモノローグは絶えず誰かに語りかけるかの様に論理的で明晰です。逆に意図的に語り手の感情の揺らぎを排除する事で、むしろ言外に潜む心理を読者に推測させます。

日本のライトノベルの多くも一人称で語られる作品が多く、『涼宮ハルヒの憂鬱』では語り手のキョンはハルヒの事を大迷惑だと語りながらも、読者は言葉と裏腹なキョンの心理を想像して楽しみます。

あたかも「意識の流れ」を否定するかの様なハードボイルドの表現手法ですが、実は読者自身は進行する物語の後ろで「ざわめく意識」を絶えずすくいあげながら読む事を強いられる事から、ハードボイルドは「意識の流れの進化した姿なのかも知れません。

ジョイスらの作品が意識を押し付けて来るのに対して、チャンドラーは意識の押し売りをしません。読者の自由な裁量に任せているのです。

■ マンガは「意識の流れ」の表現に非常に秀でている ■

人間は言動と思考がかみ合わない事が有ります。「顔で笑って心で泣く」などという状況が思い浮かびますが、文章でその様な状況を表現するのは意外に難しい。

一郎は少し俯いた後、顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた・・・。

多分、こんなベタな表現をする事が多いかと思います。
ところが、ここに動きと異なる心の葛藤が重なると、表現が混乱して来ます。

一郎は少し俯いた後、顔をくしゃくしゃにして笑って見せた・・・イヤだ・・・口の端がわずかに引きつっている・・・イヤだ・・・・。

ライトノベル的な書き方をするとこんな感じでしょうか。並走する思考を文章で表現する事は意外に難しいものです。

一郎は少し俯いた後、顔をくしゃくしゃにして笑って見せた・・・。
周囲の音が水底で響くように遠くおぼろげになり、彼女の言葉が泡のようにフツフツと消えて行く。頭の中の血管の音だけが、ドクンドクンと世界を圧迫する。


下手くそですが、文学的な表現を試みてみました。(中二病的文章だ・・・)

「一郎は無理して笑顔を作ったが、心の中は戸惑いと怒りに溢れていた」という直接的表現を避けると、文章は意外に回りくどくで不明確なものになります。


ところがマンガでは、主人公がクシャクシャに顔を歪めながら笑うカットを描いて、そして「イヤだ!!」という思考の「吹き出し」を付ければ解決します。さらに見上げた青空のカットを次に挿入したりすれば、さらに主人公の心の中が暗示されたりします。

■ サメマチオの『わっちゃんはふうりん』に見る意識の流れ ■



昨日本屋で何故か衝動買いした サメマチオ『わっちゃんはふうりん』

作者の名前すら知らず、表紙の絵柄は好みでは無いのに、スーと手が伸びて気付けばレジに並んでいました。

大正時代、薬屋の家業を継いだのは妾腹の義兄。ビジネスに秀でた彼は輸入業者の娘と結婚して事業を拡大しています。本来、家業を継ぐはずだった本妻の息子の弟はボンボンに育った上に事故で片足を失い、今では厄介ものの扱いです。

弟の住む家は兄の持ち物ですが、兄はそこに妾を囲っています。母屋に妾が住み、離れに弟が住んでいます。今度の妾は、芸者上がりにしては出来が悪く、とても兄が身見受けする様な女ではありません。一方で普通の女性の様に大らかに笑い、しっかりとした生活感を持っています。

「兄の女」の存在を煩わしく思いながらも、女性の存在に心が乱れる弟は、なるべく彼女から距離を取ります。自分の妾を片足の無い弟の身近に置く事自体、妾腹の子である義兄のイヤガラセだと考えるからです。

こんな複雑な状況で日常を送る二人ですが、お互い相手を思いやり、気遣っています。そんな二人の生活も長くは続きません・・・・。

ありきたりな設定ではありますが、その描写方法には息を呑みます。兄と弟の複雑ですれ違う思いや、二人を取り巻く周囲の気遣いや我慢、そして一人の女性に対する二人の切ない思いが絡み合いながらも、話は淡々と進行します。

http://sokuyomi.jp/product/wacchanhaf_001/CO/1

上で試し読み出来ます。


シンプルなた絵に、言葉とモノローグが重なります。行動と言葉と心の中がバラバラと目に入って来ます。吹き出しの位置が不規則なので、時系列が分かりにくく、逆にそれぞれが同時に進行する様に感じられます。

まさにジョイスの「意識の流れ」の様なフワフワとした感じを受けるのですが、意識の海に溺れそうになる文学表現とは違い、最少の線で描かれた絵と、最少の言葉と、最少の心の声で形作られる世界は、省略の美学に満ちています。

その行動、その言葉が発せられるまでにどれだけこの男は逡巡したのだろう。心に浮かび上がる言葉すらも、思考の抑圧の網目をすり抜けて来たに違いない・・・・。

「意識の流れ」の手法を取ながらも、その表現手法はレイモンド・チャンドラーの様なある種のストイックさを感じずには居られません。


1冊で完結の作品なので、是非手に入れて読んで頂きたい。
森鴎外の『雁』の様な、抑制された美しさを堪能出来る作品です。



しかし、日本のマンガ文化というのは恐ろしいですね。探せばこんな作品がゴロゴロしているのですから・・・。