「ぽぉ~にょ・ぽにょ・ぽにょ~~・・・。」
これは魔法の歌ではないだろうか?
一度耳にすると、
頭の中で一日中鳴っている。
一度口ずさんでしまうと、
映画館へ足を運んでしまう。
夏休み間、娘が歌っていたおかげで、
「崖の上のぽにょ」を見に行きました。
いろいろ批判的な批評も散見しますが、
これの何処がいけないのだろうか・・・?
こんなに楽しくて、こんなに美しくて、
こんなにワクワクしながら1時間半を過ごせるのに・・。
宮崎アニメの特徴一言で言えば
「動きのあくなき追求」につきると思います。
アニメーションは絵が動く事に根源的な魅力があります。
ノートの端っこに描いたパラパラアニメの楽しさを
とことん突き詰めていけば、
ディズニーアニメや宮崎アニメに行き着きます。
しかし、これは「動かない絵」を特徴とする
日本のアニメーションにあっては、特殊な作風です。
「動かない絵」・・低予算でセル数が制限されるから「動かせない」。
その制約を日本のアニメは「口パク」という演出で誤魔化しました。
顔のアップで口だけのセルを動かし、台詞を乗せて時間をかせぐ方法・・。
ところが、台詞があるからには、台詞の中身が問題になります。
台詞の中身は次第に高度化し、物語は複雑化し、
アニメーションの主役の座を「動き」から奪い取るまでになっていきます。
そして、主役の座を追われたかに見えた「動き」も、
セル数の省略による「速く見える動き」という副産物を生み出します。
一方、宮崎アニメは徹底して動きを追求していきます。
人物や乗り物の動きは当然として、
雲や草原を渡る風や、波などを執拗なまでに描き込みます。
「崖の上のポニョ」では、波の描写に偏執的なこだわりをみせます。
磯で遊んだ事がある方はお分かりかと思いますが、
磯での波は、「波立ち」では無く、
呼吸するような緩やかな水面の上下運動です。
ブワァと膨らんだかと思うと、スーと引いていく波。
生き物の様にも見える、この磯の波を
宮崎アニメは、生き物として見事に描いています。
結局、「崖の上のポニョ」は、
この生き物の様な、波と海を描きたかったんだなと
思えて仕方ありません。
「紅の豚」でひたすら空と雲を描いたように。
「もののけ姫」以降、世間からは「テーマ性」を求められる宮崎アニメですが、
実際には、そのテーマは意外に稚拙で青臭いものがあります。
「自然の力」と「人と文明の原罪」というテーマは
教科書的ですし、20世紀的でもあります。
ジブリの技術を使って、凡人がこのテーマに取り組むと
「ゲド戦記」が出来上がるのでしょう。
「崖の上のポニョ」は父である宮崎駿が
息子に対して示した教えでもあるし、反発でもあるのでしょう。
「アニメーションはあくまでも動く絵」でなければいけないという・・。
細かな動きの積み重ねが、ファンタジーという実在しない世界を
現実に唯一繋げる事の出きる魔法だという事を・・・。
物語世界に引き込んでしまえば、
プロットが多少崩れていようが、
テーマが希薄であろうが、
あまり気にもなりません。
ただ、ひたすらハッピーエンドを願うだけです。
そう、昔からお伽話の結末は王子様の○○に決まっています。
「崖の上のポニョ」は子供にも大人にも
夏休みの素敵な贈り物でした。
<追記>
ポニョの魔法によって引き寄せられた月の潮汐力によって、
海辺の街は、高潮(津波では無いですよ)によって水没してしまいます。
魔法の力で活力を増した海には、
デボン紀の古代魚達が悠々と泳いでいます。
この海を宗助とポニョは、
魔法で大きくした模型の船で渡って行きます。
この「一時の大人の不在の世界」の描写がとても素晴らしくて
ワクワクしながら見てしまいました。
そう、宮崎映画は少女と少年が二人で
困難に立ち向かうシーンが多いですね。
水位の上昇によって一変した世界は、
ジータとパズーが不時着したラピタの様に
静けさと生命力に溢れています。
それよりも、「水没した世界」の美しさは
イギリスのSF小説家、J・Gバラードの
「沈んだ世界」や「結晶世界」を彷彿とさせます。
バラードは世界が水没したり、世界が乾燥したり、
強風で世界が滅んだり、ある地域の物質が全て結晶化したりする
極端な現象が進行した後の世界を書き続けた作家です。
自伝的小説「太陽の帝国」はスピリバーグによって映画化されています。
水没した世界を描いた「沈んだ世界」では巨大化したワニが登場します。
「ポニョ」に登場する古代魚は、生命の力を象徴しているのでしょうが、
どうも、このワニを思い出してしまいます。
そして、小型船での遡行は、「結晶世界」を連想してしまいます。
宮崎駿がバラードを意識した事は無いと思いますが、
ポニョの世界設定の唐突さに不快感を覚える方は
バラードを一読する事をお勧めします。
何故なら、世界の異変の原因が、
一切書かれていないからです。
それでも、バラードの一連の作品は、
国内外で不動の評価を得ています。
最近のアニメは、神経症的なオタクの突っ込みを避ける為
世界観の設定が綿密ですし、その説明も克明です。
オタク達は、その設定の隙間をすら埋める様に、
さらに仔細な想像を巡らせて楽しみます。
宮崎駿は、ポニョの世界や事象を「おおらか」に設定する事で、
設定の隙間を拡大し、隙間そのものを無くしてしまいました。
ですから、ポニョはオタクには「居住まいの悪い」作品になっているのでしょう。
その証拠に、家内が観に行った時には
映画の最後に子供達がポニョの歌を大合唱していたそうです。
子供達はこの素敵な作品を素直に受け入れているようです。
これは魔法の歌ではないだろうか?
一度耳にすると、
頭の中で一日中鳴っている。
一度口ずさんでしまうと、
映画館へ足を運んでしまう。
夏休み間、娘が歌っていたおかげで、
「崖の上のぽにょ」を見に行きました。
いろいろ批判的な批評も散見しますが、
これの何処がいけないのだろうか・・・?
こんなに楽しくて、こんなに美しくて、
こんなにワクワクしながら1時間半を過ごせるのに・・。
宮崎アニメの特徴一言で言えば
「動きのあくなき追求」につきると思います。
アニメーションは絵が動く事に根源的な魅力があります。
ノートの端っこに描いたパラパラアニメの楽しさを
とことん突き詰めていけば、
ディズニーアニメや宮崎アニメに行き着きます。
しかし、これは「動かない絵」を特徴とする
日本のアニメーションにあっては、特殊な作風です。
「動かない絵」・・低予算でセル数が制限されるから「動かせない」。
その制約を日本のアニメは「口パク」という演出で誤魔化しました。
顔のアップで口だけのセルを動かし、台詞を乗せて時間をかせぐ方法・・。
ところが、台詞があるからには、台詞の中身が問題になります。
台詞の中身は次第に高度化し、物語は複雑化し、
アニメーションの主役の座を「動き」から奪い取るまでになっていきます。
そして、主役の座を追われたかに見えた「動き」も、
セル数の省略による「速く見える動き」という副産物を生み出します。
一方、宮崎アニメは徹底して動きを追求していきます。
人物や乗り物の動きは当然として、
雲や草原を渡る風や、波などを執拗なまでに描き込みます。
「崖の上のポニョ」では、波の描写に偏執的なこだわりをみせます。
磯で遊んだ事がある方はお分かりかと思いますが、
磯での波は、「波立ち」では無く、
呼吸するような緩やかな水面の上下運動です。
ブワァと膨らんだかと思うと、スーと引いていく波。
生き物の様にも見える、この磯の波を
宮崎アニメは、生き物として見事に描いています。
結局、「崖の上のポニョ」は、
この生き物の様な、波と海を描きたかったんだなと
思えて仕方ありません。
「紅の豚」でひたすら空と雲を描いたように。
「もののけ姫」以降、世間からは「テーマ性」を求められる宮崎アニメですが、
実際には、そのテーマは意外に稚拙で青臭いものがあります。
「自然の力」と「人と文明の原罪」というテーマは
教科書的ですし、20世紀的でもあります。
ジブリの技術を使って、凡人がこのテーマに取り組むと
「ゲド戦記」が出来上がるのでしょう。
「崖の上のポニョ」は父である宮崎駿が
息子に対して示した教えでもあるし、反発でもあるのでしょう。
「アニメーションはあくまでも動く絵」でなければいけないという・・。
細かな動きの積み重ねが、ファンタジーという実在しない世界を
現実に唯一繋げる事の出きる魔法だという事を・・・。
物語世界に引き込んでしまえば、
プロットが多少崩れていようが、
テーマが希薄であろうが、
あまり気にもなりません。
ただ、ひたすらハッピーエンドを願うだけです。
そう、昔からお伽話の結末は王子様の○○に決まっています。
「崖の上のポニョ」は子供にも大人にも
夏休みの素敵な贈り物でした。
<追記>
ポニョの魔法によって引き寄せられた月の潮汐力によって、
海辺の街は、高潮(津波では無いですよ)によって水没してしまいます。
魔法の力で活力を増した海には、
デボン紀の古代魚達が悠々と泳いでいます。
この海を宗助とポニョは、
魔法で大きくした模型の船で渡って行きます。
この「一時の大人の不在の世界」の描写がとても素晴らしくて
ワクワクしながら見てしまいました。
そう、宮崎映画は少女と少年が二人で
困難に立ち向かうシーンが多いですね。
水位の上昇によって一変した世界は、
ジータとパズーが不時着したラピタの様に
静けさと生命力に溢れています。
それよりも、「水没した世界」の美しさは
イギリスのSF小説家、J・Gバラードの
「沈んだ世界」や「結晶世界」を彷彿とさせます。
バラードは世界が水没したり、世界が乾燥したり、
強風で世界が滅んだり、ある地域の物質が全て結晶化したりする
極端な現象が進行した後の世界を書き続けた作家です。
自伝的小説「太陽の帝国」はスピリバーグによって映画化されています。
水没した世界を描いた「沈んだ世界」では巨大化したワニが登場します。
「ポニョ」に登場する古代魚は、生命の力を象徴しているのでしょうが、
どうも、このワニを思い出してしまいます。
そして、小型船での遡行は、「結晶世界」を連想してしまいます。
宮崎駿がバラードを意識した事は無いと思いますが、
ポニョの世界設定の唐突さに不快感を覚える方は
バラードを一読する事をお勧めします。
何故なら、世界の異変の原因が、
一切書かれていないからです。
それでも、バラードの一連の作品は、
国内外で不動の評価を得ています。
最近のアニメは、神経症的なオタクの突っ込みを避ける為
世界観の設定が綿密ですし、その説明も克明です。
オタク達は、その設定の隙間をすら埋める様に、
さらに仔細な想像を巡らせて楽しみます。
宮崎駿は、ポニョの世界や事象を「おおらか」に設定する事で、
設定の隙間を拡大し、隙間そのものを無くしてしまいました。
ですから、ポニョはオタクには「居住まいの悪い」作品になっているのでしょう。
その証拠に、家内が観に行った時には
映画の最後に子供達がポニョの歌を大合唱していたそうです。
子供達はこの素敵な作品を素直に受け入れているようです。