■ 『革命少女ウテナ』や『廻るピングドラム』の幾原邦彦の『ユリ熊嵐』にはやられっぱなし ■
今期アニメの最注目作品『ユリ熊嵐』について書きたくてウズウズしていましたが、平日のオフィスでこのブログを開いた人が、ゲゲ!!とばかりに慌ててページを閉じる事必至の上の一コマ・・・。ようやく土曜日になったので、「ユリ解禁!!」です。
「ガウガウー!!」。あるとき、宇宙の彼方の小惑星「クマリア」が爆発しちゃったの。粉々になったクマリアは流星群になって地球に降り注いだんだけどぉ、そしたら世界中のクマが一斉決起!! 皆で人間を襲い始めちゃった。「オドロキー」て感じだよね。
人間たちは「断絶の壁」を作って私たちクマを人間界から追い出そうとしたけどぉ・・・でもでも、人間の作ったルールなんて通用しないんだからね。ガウ!!私達はクマ。クマは人を食べる!!
もう、冒頭のナレーションから飛ばしまくりです。
そんなある日。人間側にある「嵐が丘学園」に百合城銀子と百合ヶ咲るるという2人の転校生がやってきた。だがこの2人、その正体は「断絶の壁」を越え、人間に化けた「人食クマ」だったのです。
■ ユリアニメと思って5秒で切ろうと思ったが・・・ ■
1話の始まりは、いかにもといったユリ系女学生の日常ショット。一目でユリ物と分かる内要。だって、人物紹介のテロップに、「ユリ」って属性が書かれています。
普通なら1分で切る内容ですが、何故か1分で釘付け状態。だって・・・この演出って幾原邦彦じゃないですか!!
『廻るピングドラム』から4年で幾原邦彦の新作を見れるとは思いませんでした。
■ 「断絶の壁」とか「透明の嵐」とか、もう??? ■
3話まで見た所でようやく設定が見えて来ました。
断絶の壁の中、クマに怯えて生きる人達ですが、「嵐が丘学園」では生徒達がクマの生贄を選んでいる模様。携帯の投票で決まります。
選ばれるのは「集団から阻害された人」。
生徒達は、クマに襲われた人は、「透明でない人」だと言います。集団生活に馴染めない人、皆と協調しない人が目立つからクマに襲われるのだと・・・。
■ LINEやTwitterで絶えず「同調圧力」にさらされる子供達 ■
現代の中高生のコミニュケーションツールはLINEやtwitterです。
娘のスマホはいつも着信音が鳴り続けています。その度に娘はスマホに飛びつき、「何々ちゃん、今〇〇に居るんだって」とか「今、TVにキスマイが出ているんだって、見たいけどTV無いから見れない。もうお父さんTV買ってよ!!」なんて言ってます。
子供達は電話で話す事はほとんど有りませんが、絶えずLINEやtwitterで自分の現状をコミュニティーにアップし続けます。私から見れば、ほとんどパラノイア状態。
これらのネットコミュニティーでは「発信しない人」は「存在しない」も同然です。「透明」になってしまうのです。ですから、子供達は自分の存在を「発信」する事で保とうとしている様に思えます。
一方、これらのコミュニケーションは絶えず子供達を「同調圧力」にさらしています。子供の世界は元々閉鎖的なので、「同調圧力」を生みやすく、昔から「仲間外れ」が存在します。しかし、従来は学校から帰宅すれば個人の自由の時間でした。
ところが、LINEやtwitterの普及は、帰宅後の子供達のプライベートな時間を蝕み始めます。「友達ごっこ」が延々に朝起きてから寝るまで続くのです。
■ 阻害される「強い自我」 ■
思春期の子供達は「自我」の形成過程において、「他人と自分の差異」を自覚し、そしてそれに苦しめられます。「どうして自分は皆と違うのだろう・・」・・と。
私などは変わり者を自認していましたから20才過ぎまで、「社会に馴染めない」と悩んでいました。人と違う事で自分の存在を主張すると同時に、それがストレスでもあったのです。このブログとて、その延長に存在しているのかも知れません。(たまたま、入社した会社が変人の集まりだったので、「あれ、オレって普通じゃん」と気付きましたが・・・・)
しかし、子供の集団は「例外」を認めません。一見自由奔放に思える子供達ですが、「自我」という基準点が不明確なので、自分の存在の絶対座標を持っていません。そこで相対座標の原点を探す訳ですが、それはコミュニティーの集団的無意識によって確立しています。要は「空気」ってやつです。
「空気読めよ」とか「KY」などという言葉は最近の用語と思われていますが、子供たちのコミュニテーは昔から「空気」が支配しています。ただ、一昔前はリーダーやガキ大将が居たので、比較的「空気」が明確でした。
ところが、「平等教育」の結果としてリーダーが否定される現代においては、「空気」のコアは集団的無意識によって生み出されます。現代の子供の世界では、リーダーは「空気が読めないヤツ」として排除される傾向にあります。
かつては集団を先導していた「強い自我」は、現代においては阻害されているのです。
■ 「意味が無い」事に「意味が有る」 ■
幾原邦彦の作り出す世界は、いつもながら様式的です。リアルの対極にある世界感ですが、様式美を感じずにはいられません。
一方で色々と深読みをしたくなる幾原作品ですが、ピングドラム同様、テーマは意外にも取って付けた感が有り、むしろ「表現する事」に重きが置かれている様に感じられます。
作中で最も魅力的なのは『ウテナ』の時代からバンクシーン(変身シーンの様に、予め決められたお約束シーン)、ストーリーや展開は、バンクシーンをいかに引き立てるかという事を目的としている様に思えてなりません。
幾原作品は小劇団の演劇の手法と共通性を感じますが、実は手法では無く「表現の為の表現」という点において極めて同根の物を感じます。
価値が多様化してしまった現代においては「主義」や「主張」は十人十色で、そこに語るべき物語は既に存在しません。ただ、「神話」の様な普遍な「強い物語」は現在においても有効で、アニメやラノベがマンガが、神話的ファンタジを粗製濫造するのも、「神話」こそが最強のコンテンツだからなのでしょう。
一方で、現代において「オリジナル」のメッセージを前面に出して主張すると、万人の共感が得にくく失敗するリスクが高まります。そもそも、価値の基準が失われた社会において「主張」は極めて自己満足的要素の高い行為となります。
学生演劇などは良い例で、演劇と言うからには何か「伝えたい事」が無いと思い込んでいますが、その伝えたい事が部員の間にも共有されません。そこで「愛と勇気」みたいな使い古されたテーマを繰り返す訳ですが、彼ら自身そんな物はハナから信じていません。
これが小劇団になると、「テーマ」を無理やり貼り付けるテクニックを覚えます。ただ、問題は「テーマ」が彼らにとって重要では無く、重要なのは「表現する行為」そのものです。目的と手段が完全に入れ替わっていて、「表現」こそが彼らの目的になっています。
幾原邦彦や、彼の信望者であろう新房昭之の表現に共通するのも、「意味」の不在、或いは「表現至上主義」です。
視聴者は彼らの作品の「意味」を深読みしますし、そうしたく成る様に作品が作られいますが、実際にその「意味」など無いに等しいのではないか・・・。
要は、幾原邦彦の本当に描きたかったのは、「バンクシーンのカタロシス」では無いのか?
「バンク・シーン」は実写と違い、様式化が容易なアニメにおける独特の表現手法とも言えます。実際には制作コストを削減する為に同じシーンを繰り返し利用しているだけののですが、それだけに「バンクシーン」は予算を割いてクォリティーを高める事が可能です。
『マジンガーZ』などでも、各話の詳細は結構グダグダだったりしますが、光子力研究所のプールが割れて、マジンガーZが出現してホバーパイルダーとドッキングするシーンで視聴者は最大の興奮を味わいます。『セーラームーン』を始めとする少女アニメのハイライトが変身バンクシーンである事と同様です。
結局、バンクシーン以外に「意味が無い」事によってモワモワした気分を味わっていた視聴者は、バンクシーンにカタロシスを覚えるのでしょう。
だから『ユリ熊嵐』は無意味である程魅力が引き立つ作品とも言えます。ただ、「意味深」である事は重量で、「無意味」を自覚した瞬間に視聴者は醒めてしまいます。
■ 主題歌を歌い「ボンジュール鈴木」の「センスに溢れる無意味」 ■
主題歌を作って歌うのは「ボンジュール鈴木」。一瞬、「やくしまるえつこ」の変名かと思いましたが、ニコ動で注目された「宅録女子」だそうです。
ネットで動画を検索すると色々と出て来ますが、これがナカナカのセンスです。
YUKIやCHARAに似た「ウィスパーボイス」が、中毒性のあるエレクトロニカにベストマッチしていますが、脱力ラップは「かせきさいだぁ」や「スパンクハッピー」にも通じる言葉選びがされています。
もう、センスの塊の様な才能ですが、際立っているのは「歌詞の無意味さ」。
「相対性理論」は、脈絡の無い歌詞の相互作用によるイメージの創造というポストモダンの手法が特徴でしたが、「ボンジュール鈴木」の歌詞は、耳障りの良い言葉が漂っていますが、それは何も意味を形作る事無くフワフワと漂い消えて行きます。あたかもサウンドの潤滑油の様です。
90年代のヨーロピアン・ポップスの延長性にある音楽ですが、この圧倒的な無意味さにおいて現代的であるとも言えます。そして、それは幾原邦彦の「無意味さ」とも共通したものだとも言えます。
「かせきさいだぁ」の楽曲を歌う「でんぱ組」は聴けたものでは有りませんが、こちらは素素晴らしい!!。PVもシュールで面白いですね。
[[youtube:cZN-KJbh2lg]]
これはヤバイ。映像はトリフォーみたい。
■ 今期アニメの注目作 ■
今期アニメ、忙しくてなかなか見れませんでしがが、面白いと思った作品は・・
『冴えない彼女の育て方』は、やりつくされた感のある表現なのに・・・面白い。
『幸腹グラフティー』は岡田麿里とシャフトという信じられない組み合わせ。
『純潔のマリア』は 倉田英之と谷口吾朗という、これ又信じられない組み合わせ。
後は『夜のヤッターマン』の一話目はビックリしましたが(むろみさんの監督ですね)、2話目冒頭で視聴中止。やはりオリジナルの存在に依存し過ぎですね。『ガッチャマン』位いオリジナルを無視しなければ、オリジナルに喰われます。
『アルドノア・ゼロ』は1期で主人公が死ぬというサプライズが有りましたがが、しっかり2期では復活して無双ぶりを発揮しています。
『艦これ』は、これどうやってアニメにするの?!という内容ですが、ストパンみたいなやり方で「ありかも」と思わせる内容。ただ、1話見たら充分。
『東京喰種』はオリジナル展開ですが、もうお腹一杯で視聴中止。
『蒼穹のファフナー EXODUS(エグゾダス)』はオリジナルがあまり好きでは無いので・・・ワクワク感が無いんです。
『SHIROBAKO』と『四月は君の嘘』は安定のクォリティー。ただ、サプライズは少ないかな。
と言う訳で、少々アニメを減らそうと思う今日この頃です。