『映画 ゆるキャン△』より
■ 『映画 ゆるキャン△』に賛否両論 ■
『映画 ゆるキャン△』に賛否両論が巻き起こっています。
女子高生がキャッキャ・ウフフとゆる~いキャンプをする作品を期待していたファンからは「社会人のシリアスなドラマは観たく無い」とか「キャンプシーンが少ない」などの苦情が出ています。
一方で「成長した彼女達の姿を観れて最高」とか「社会人である自分は、彼女達の気持ちが痛い程分かる」といった肯定的な評価も多い。そして、この作品の本質を理解しているレビューは概ね「名作認定」しています。
■ 『ゆるキャン△』の本質は、女子高生のドロドロとした人間関係 ■
私は『ゆるキャン△』を高く評価していますが、それは私がキャンプ好きだからでも、女子高生好きだからでもありません。私は『ゆるキャン△』は「女子高生の微妙な人間関係」を、かなりリアル描いた稀有な作品だと思っています。
志摩リン(しま リン)はソロキャンプが好きな無口な女子高生。そんな彼女が本栖湖でキャンプをしていると・・・キャンプ場のトイレの前で各務原なでしこ(かがみはら なでしこ)が寝ている所に遭遇します。風邪を引かないかと気にはなりますが、リンは彼女を起こそうとはしません。ナデシコは夜、寒さで目覚め、リンに助を求る。こうして二人の関係が始まりますが、人懐こいナデシコにリンはどう接して良いか分からない。多少迷惑に感じても居ますが、するりと間合いに入って来るナデシコとの関係に、心地よさも感じ始めます。
リンはある種の「コミ障」で、又ある種の「厨二病」でもある。彼女は一人を好み、他人と深く関わろうとはしませんが、それを苦にする事はありません。価値観もだいぶズレていて、祖父の影響を強く受けているので同年代とは合わない。そして、彼女は決定的に言語表現が苦手です。モノローグでは結構饒舌ですが、美味しいものを食べた時のモノローグを聞くに「言語表現のセンス」というものを全く持ち合わせていません。故に、同年代の少女達と、フワフワとした会話のキャッチボールをする事が出来ない。即答を求められる様なケースでは「考えておく」と答えるしかありません。
一方、ナデシコは天真爛漫な子供キャラですが、「共感力」のバケモノです。相手も気付いていない「相手の求めるもの」を見付ける天才とも言えます。ナデシコはリンのパーソナルエリアの内側に一瞬で踏み込みます。一瞬でリンの障壁を中和してしまうのです。リンは、利口を装っていますが、実は論理的思考は苦手です。むしろ感覚的。そんなリンにナデシコは相性が良い。ナデシコの言葉は「ウワー、キレイだねリンちゃん」と言った様に「単純で感覚的」ですが、実はリンがモノローグで捏ねくり回す言葉よりもリンの感じている本質に近い。だからリンはナデシコを通じて自分の本当の気持ちや感覚に気付かされている。
一方で「野クル」のリーダーである大垣千明(おおがき ちあき)とリンの相性は非常に悪い。TVシリーズの冒頭の方で「大垣千明か、私、あいつ苦手なんだよね」とリンは口にします。チアキは積極的で多弁なキャラに見えますが、実はかなり論理的で思慮深い。女子高生の中では、大人とも言える。そんな彼女が同年代の少女達に上手く接するには、「明るい女子高生キャラ」を演じる必要が有ります。他人とのズレを埋める努力をしないリンと、他人とのズレをキャラ設定によって埋めようとするチアキは対象的です。しかし、チアキはキャンプの師としてリンに興味が有りますし、一人の人間として孤高を貫こうとするリンにも興味を持っています。リンの「脆い純朴さ」を尊いものと理解しながらも、リンに他人との交流を持たせる手助けもしたい。リンに嫌われている事を自覚しながらも、リンと友達になりたいとチアキは願っている。そして、ナデシコを介して、リンとの関係を結びます。高校時代のリンとチアキの関係は、ナデシコという触媒無くしては成り立ちません。
チアキには中学時代からの親友が居ます。犬山あおい(いぬやま あおい)は関西弁のおっとりキャラ。チアキとアオイは同じ中学校出身ですが、アオイは転校生という事もありあまり友達が居なかった様です。一方、精神年齢が同級生に比べて高いチアキも浮いた存在だったでしょう。アオイは多弁ではありませんが、洞察力に優れ、精神年齢も高い。そんな二人が親友になるのは必然とも言えます。チアキは世話焼きですが、自身にアンバランスな危なっかしさが付きまといます。自分が他人を傷付ける事にも自覚的です。そんなチアキが本心を明かすのはアオイだけですが、アオイにはそれを受け止める包容力がある。
リンと、チアキとアオイという本来ならば接点を持たないであろう人達を、ナデシコは自然に結び付けて行きます。それは「皆で一緒ならばもっと楽しい」という純粋な願望による行動です。そして、リンも「一緒は楽しい」という自分でも知り得なかった感情に徐々に目覚めて行きます。
一方で、人との関わりを持てないキャラも存在します。野クルメンバーとキャンプに行く斉藤恵那(さいとう えな)はリンの友達ですが、積極的な友人関係と言うよりは、他人と距離を置くという点においての「共犯者」的な慣れ合いの関係です。エナの対人スキルはリンに比べて高いので、一見、友達付き合いが上手に見えますが、実は彼女は他人に興味が持てない。作品の中では「マイペースな人」として描かれますが、女子高生達の中では異質な存在です。そんな彼女は人間よりも飼い犬のチクワとの関係を重視しています。そして、チクワを介して友達と付き合っている。キャンプにチクワを同伴するのは、チクワ無くしては、他人と繋がりを保てないからとも言えます。
■ 不気味で特異なキャラ ■
『ゆるキャン△』は女子高生だけで無く、教師や家族も丁寧に描かれます。そんな大人キャラの中で、彼女達に影響を与えるのはリンの祖父、ナデシコの姉、顧問のグビ姉の3人です。
この3人のキャラは、大人として彼女達の成長を見守る役を負っていますが、それぞれ少し不気味です。特にナデシコの大学生の姉は、大人っぽいと言うよりは他人を寄せ付けない鋭利さを持っています。彼女はリンにある種のシンパシーを感じていますが、それは孤独が好きな面が引き合うからでしょう。しかし、リンとナデシコの姉の決定的な違いは、友達が居るか居ないか・・・いえ、要るか要らないかでは無いか?ナデシコの姉は、ナデシコの様な友達が出来なかったリンの将来の姿、或いは、陽気キャラを演じる事を捨てたチアキの将来の姿とも言えます。
リンの祖父は、「カッコイイ大人」のアイコンとして描かれているので、キャラクターの奥行に乏しい・・・と言うか敢えて奥行を描かない事で、アイコンとして孤高です。これはこれで良い。
面白いのはグビ姉と呼ばれる顧問です。彼女は「大酒飲み」というキャラが与えられて、物語に笑いを生むネタ的なキャラクターです。一方で、普段の彼女は真面目で消極的ですが、顧問としてナデシコ達の活動を見守り、サポートします。リンの祖父や、ナデシコの姉の対極として「ダメな大人」として描かれるグビ姉ですが、作品における彼女の存在は小さくありません。精神年齢の高いチアキやアオイも、グビ姉を大人として、そして姉的な存在として慕い、頼りにしています。
■ リアルな女子高生の関係は20代後半ではどう変化するのか ■
『映画 ゆるキャン△』は女子高生だった彼女達の10年後?を描く作品です。実はこの設定は「キャラクター物」としての漫画やアニメでは異例です。『ゆるキャン△』は日常系の作品ですから、『サザエさん』や『チビまるこちゃん』の様に普通はキャラクターは成長しません。仮に成長したとしても、高校を卒業する程度までが普通。
TV版『ゆるキャン△』では成長した彼女達が夢として描かれますが、それは単なるエピソードに過ぎません。様々な作品のエピローグに登場する「数年後の主人公達」みたいなネタに過ぎません。
「キャラクター物」にとって「成長」はリスクです。ファンは「キャラクター」に愛着を持っていますから、成長して反抗期になったタラちゃんには共感を持てません。成長して良いのは『渡る世間は鬼ばかり』の「えなりかずき」や、『北の国から』のジュンとホタルだけです。おっと、『大草原の小さな家』のローラを忘れていました。(これらの作品は、成長を描く日常作品ですし、生身の俳優は実際に成長してしまう)
話が逸れましたが、「キャラクタ物」としてリスクを伴う「成長」を描いた事は『ゆるキャン△』という作品の本質に関わる問題です。『ゆるキャン△』の原作者や、スタッフは、単なる女子高生のキャッキャ・ウフフのキャンプを描きたかったのでは無く、リアルな女子高生の人間関係を描きたかった。だから映画版で成長した彼女達の姿を、原作者やスタッフは「見たかった」。
『映画 ゆるキャン△』で、社会人となった彼女達の描き方はリアルです。リンは名古屋の零細地方紙の記者として働いていますが、「自分らしい企画」を作る事が出来ずにいます。ナデシコは東京でアウトドアのショップ店員をしていますが、これは天職の様で、「他人の欲している物を感じ取る能力」を存分に発揮しています。チアキは東京でイベント会社に勤めた後、地元に帰り観光振興協会で地元のPRをしています。アオイは鰍沢の小学校の教諭になっていますが、学校は廃校が予定されている。エナは横浜でペットのトリマーとして犬に囲まれた生活をしています。
それぞれのキャラクターが、「まさに、この職業しか考えられない」という職業に就いているだけで、原作者やスタッフのキャラクターに寄せる思いの強さを感じます。
就職して、住む場所もバラバラになった彼女達は、いつしか一緒にキャンプに行く機会も無くなり、LINEやインスタで近況を報告しあう仲となっています。高校の友人のアルアルです。そんな中、チアキが突如として名古屋のリンの元を訪れます。相変わらず迷惑キャラのチアキですが、チアキがナデシコ抜きでリンを訪れる事に、10年の歳月が積み上げた二人の関係が垣間見れます。リンは「相変わらず迷惑なヤツ」と感じながらも、チアキに普通に接しています。まあ、その後、タクシーで山梨まで拉致されるので、迷惑には変わり有りませんが・・・。
リンが拉致された先は、山梨県富士見町にある廃施設。そこをチアキはキャンプ場にしようと画策しています。当然、仕事の一環として。そこでキャンプに詳しいリンの意見が聞きたかったのです。こうしてゆるキャン△メンバー達のキャンプ場作りが始まります。草刈りや整地といった慣れない作業に戸惑い、さらには、思わぬ事態も発生して、挫折を味わう彼女達ですが・・・大人となった彼女達は諦めません。色々な策を練って、目的の実現の為に努力し、そして勝ち取る。
普通の社会人が日々の仕事の中で行っている、工夫と努力を、社会人となったゆるキャン△メンバーも普通のやっている・・・これは素晴らしい事です。高校時代に「ゆるキャン△」を読んでいた、或いはアニメを観ていた人達も、既に社会人となった人達も居るでしょう。彼女、彼らには、この物語は刺さります。いえ、50代後半の私にも刺さります!!
■ 白眉は廃校となった小学校の校庭でのチアキとアオイ ■
2時間という長めの映画ですが、全く飽きる事無く、観客を山梨の山村に連れ去ります。どこを取っても名シーンですが、どれか一つを挙げろと言われたら、廃校式が終わった小学校の校庭でのチアキとアオイのシーンが白眉。
学校の荷物を持って出て来たアオイを車でチアキが迎えに来ます。雨が降っている・・・。ちょっと物思いに耽るアオイをチアキが肩で小突いて傘から追い出します。ニシシと笑うチアキ。「ちょっとシンミリした・・・・。うそやでぇ~~」と言うアオイだが、表情には影が有る。アオイの口癖を見事に使いながらも、二人の信頼関係の深さと、二人の成長を見事に描いています。「映画的な名シーン」と言えます。
■ 「彼女達は実際に身延に居る」という確信を抱かせる事 ■
『ゆるキャン△』ファンが作品に登場したキャンプ場や、身延の街へ聖地巡礼に訪れるのは、「そこには彼女達が居る」と思わせる「実在感」を作品が作り出したから。それは、ある種のドロドロした女子高生達の人間関係を丹念に描いた成果であるとも言えます。
『映画 ゆるキャン△』に失望した人の多くが、この作品の「表面的な可愛さ」しか見ていないのでしょう。そういうファンが支える作品だと知りながら、敢えて期待を裏切った『映画 ゆるキャン△』のスタッフ一同には、心からの拍手と感謝を送りたい。名作です!!
キャンプが、”キャンプ場”でするレクリエーションになってしまった(成り下がってしまった)ことに、いまだ違和感をおぼえるBSOBです。
「キャンプ=野営」派の人には昨今のオシャレキャンプは許せないものがあるかも知れませんが、キャンプって私達が子どもの頃から屋外レクリエーションだったと思いますよ。飯盒炊爨なんて最高のエンタテーメントでした。最近のオシャレキャンパーは飯盒を「メスティン」と呼ぶ様ですが・・・。まあ、私が子供の頃に夏休みに田舎でやっていたキャンプは、河原でしたが。トイレは穴を掘って・・・。
娘を持つ身としては、アニメの女子高生キャラは娘やその友人達に重ねて見てしまう。今回の映画版も、娘達と同じ年頃で、同じ様に仕事に悩む姿に、思わずエールを送りたくなりました。
ゆるキャンは文句なしに傑作です。
(しかしスーパー株は、そうでもない。笑)
劇場版も良かったですが、気になる点が一つ。
アニメ第3期はどうするのか?
成人した劇場版はあくまで別時間線のお話として、
第3期はさらっと女子高生に戻すのか。あるいは……。
(TVシリーズ、もっと見たいですけどね)
映画で成人した姿を描きましたが、高校時代の延長線上にしっかりと乗った未来を描いたので、第三期を高校時代に戻しても何ら問題の無いのでは?
多分、大丈夫!
おキャンプ族の人力さんとは、やっぱここら辺に社会的カースト差を感じますねぇ...。
(底辺カーストの)我々にとってキャンプとは、アドベンチャーの一環(または修行?)でしたもの^^;)。
原作マンガ読み始めました。なんか、ノリが”エル狩り”や”時坂さんは僕と地球に厳しすぎる。 ”なんかに似てるっぽい…ような?。まだ一巻目ですがけっこう面白そう^^)!。
私は文句なしに、1期よりも2期が好きです!
観光PR番組だろうとなんだろうと、
中身が面白ければそれで良し!!
むしろそれを作品に生かす、制作陣のセンスを評価します。
(というか、ビジネスとしてはそうあるべき)
この動画に出てくる場所がそうであるように、山梨が舞台じゃないんですか? 昨年の早春に甲府駅近の献血ルームで献血したら、クリアファイルをもらいましたが…(あの頃は今のように知られてなくて、地元ローカルの作品なのかな…と思ってましたが)
個性が生きづらさにつながって、それを乗り越えたりあるいはうまく利用して…という今回の記事の分析、私は面白かったですけどね。
ところで明日は8/5で、発酵の日だと寺田本家のHPの「カフェうふふ」のところに書いてあったような(オンラインですが、何かイベントがあるようにも)
タープなんて無い時代(あったかも知れませんが)、日影を作る為に、町内会のテント(運動会で大会本部に使うううやつ)を借りてました。照明はバイクのバッテリーにヘッドライトを繋いで使ってました。そして浮き袋は車のタイヤのチューブ(当時の車ってチューブレスじゃ無かった野かな?)
なかなかのハイソぶりでしょ。
「惑星のさみだれ」、アニメは連続二期ですが、私も原作を買ってしまいそうです。
私、二期目、三期目ってどんな作品も飽きちゃう傾向が有ります。新鮮な感動が薄れるというか…。
「ゆるキャン△」は「女子高生のソロキャンなんて親は何考えてんだよ!襲われたらどうすんだよ!」って本気で突っ込んでいる頃が見ている側としては楽しかった。それが、「りんチャンは今日は〇〇でソロですか〜」と当たり前になった辺りから熱が少し冷めた。
そのうちの皆んなキャンプに手慣れてきて、ヒヤヒヤ感も無くなって..。