公開後すぐ見に行きたかったのだけど、上映回数が少なく、後回しにしていたら、この週末で上映が終わると告知があり、大急ぎで見に行く。公開3週で上映終了という不当な扱いで、今週はお昼の1回のみの上映だった。阪本順治監督の久々の新作なのに。プライベートな小さな映画なのだが、ふつうの商業映画とは違うアプローチだ。こんなにも地味でシンプルすぎるタイトルと内容には戸惑うばかりだ。
映画の中ではずっと雨が降っている。(撮影が大変だっただろうなぁ)主人公の大学教授(豊川悦司)はレインコートをかぶり、雨の中を歩き、自転車を走らせる。彼は廃墟寸前の自宅であり、父親譲りの産婦人科の医院でもある屋敷の中で、自分そっくりの人型ロボットを作っているマッドサイエンティスト。でも、映画はホラーでもSFでもない。一人きりで暮らす偏屈な男の日々を追いかけるだけ。
ずっと疎遠だった腹違いの弟がやってきて金をせびる。父親はもうすぐ死ぬ。ずっと病院に入っていて義母が付き添って面倒をみているようだ。自転車で大学に通い、黒板に向かって授業をする。生徒は見ないし、生徒に話すこともない。黙々と数式を書き、板書するだけ。
自分が自分であるという確証がない。自分の姿を見ることができない。鏡に自分の姿が映らないという。左足が自分の足ではないと思う。自由が利かない。だから自分と向き合うために、ロボットを作っているらしい。彼は確かにそこにいて、そこで生きているはずなのに、生きていないようで、ずっと降り続く雨は、まるで冥界を漂うようだ。
傘を持たず、駅の前で佇んでいた少女を自転車で医者へと(産婦人科)送り届ける。彼女はなぜ、そこにいたのか。一度ではなく、何度も、送ることになる。両親や、弟。そして、大学の学部長や、先に書いた少女。彼とかかわる数少ない登場人物たちは、基本、彼と同様で、何もしないし、語らない。映画は何を描こうとしているのかも定かではない。
見ながら、大丈夫か、この映画、と心配になってくる。映画が破綻しているとか、そういう次元ではない。最初から、これは現実ではなく、ただの心象風景なのだと思うしかない。では、その心象風景は何を描くためのものなのか。定かではない。どこかで、何かがあるのだろうと待つのだが、終盤に近づくにつれ、不安になる。もしかしたらこのまま終わるのではないかと思うからだ。そして自分はこの映画から取り残されてしまうのではないか、という不安だ。その不安は現実になる。置いてけぼりにされる。
これは阪本監督の独りよがりだ。だけど、ここまで個人的な映画を今作りたいと願い、それを実現させるのが彼の凄さだろう。徹底的なプライベートフィルム。その世界に浸る。不在の母親はあの少女だ。彼女が通う雨の産婦人科でやがて彼は産まれるのだろう。ひとりで生きていくのは怖い。だけど、人は結局どこまでいっても一人でしかない。