昨年末にまる1日かけて見た椅子の階の4作品一挙公演(上映)の中で、唯一50分間だけ見落としていた部分の演劇パートを映像で見る機会を頂いた。本編である映像部分はオリジナルの公演を見ているので、これでとりあえず全編を見たことになる。
それにしてもあの日は不思議な体験だった。朝から1本見た後、昼食後、2本目であるこの作品を1時間だけ見て、他の芝居を見に行くという強行スケジュールとなった。戻ってきて残りの2本を見るというスケジュールだ。わがまま言って途中まで見せてもらえた『行き止まりの遁走曲+』はもしかしたら今回の企画の中心を担う作品だったのかもしれない、と改めて思う。
この企画の面白さは、すでに上演済みである久野那美、作、演出作品の映像での上映にとどまらず、それを基にして進化発展させるとどういうことになるのかという試みだ。この新機軸は映像になった作品を劇場で見るという行為の前後に、新たに作成されたエピソードをライブの演劇として上演するというところにある。もちろん常設の劇場での上演である。難波のサザンシアターで上演を行うというのも面白い。ここは芝居小屋ではあるけど、椅子はこだわりの映画館仕様になっており、演劇の小劇場でありつつも、映画のミニシアターに限りなく近い空間になっている。こういう不思議なスペースで、この不思議な作品が上演上映されることに意味がある。これってなんだか凄い仕掛けではないか。映画と演劇のコラボをこういう形でやすやすとやり遂げたところに久野さんの遊び心と、斬新さを感じる。そして、そんな企画の中心を担うのがこの作品なのだ。
今回のラインナップされた4作品のなかで、これは一番つかみどころがなく、わかりにくい作品である。ほかの3作品は文句なしの傑作だと思う。芝居として完成度も高く、それだけで完結している。それに比して、この作品は上演を見た時にも感じたことなのだが、何がやりたかったのか、よくわからなかった。久野さんの意図が曖昧でよく見えない気がして、見終えた後も、なんだか狐につままれた気分で帰途についた記憶がある。だから、もう一度見ることで、自分なりにこの作品との決着をつけたいという気分もあった。
それなのに、スケジュールの都合で半分しか見れないという暴挙となったのは惜しまれる。それでも今回こういう形で改めて見直してみて、この作品のつかみどころのなさこそが、この作品の魅力だったのではないか、と納得することにした。なんとなく、ここに集まり、大切なはずの1日を過ごすことになる人々の群像劇だ。港の先の公園、行き止まりになる。そんな場所で過ごす時間。公園の向こうは海である。閉鎖されるなんて思いも寄らないことだった。でも、それが事実となったとき、それをどう受け止めたらいいのか。そこにいつまでもあって当たり前の場所がいきなり消えていく。そのとき、人は何を思い、何を感じるか。
公園管理委員会(あとで見直すと、台本には公園倫理委員会とありました)の会長が映画の試写会にやってくる、というのが今回の演劇パートだ。そして当然本編であるお芝居はそのまま映画として今回は上映される。演劇だった作品がそれをモデルにした映画になり、上映されるのだ。このなんだか不思議な構造に眩暈がする。同じものなのに現実が虚構になり、虚構と現実が反転する。
そんな映画を見た観客である会長は監督から感想を求められて答えようがない。公園はもう今はない。だけど、映画の中では公園の最後の日が確かにある。記憶の中の風景と目の前の映像となった光景は一致しない。だけど、これは確かにあの日の出来事だ。
さらに、今日僕は、これをパソコン画面で映像として見ている。前半のライブシーンはちゃんと見ているけど、後半のそれ(映画の後の部分)は今回初めて見た。しかも、ここも映像として、だ。ほんとうならここは劇場で役者たちの演じる姿を見るはずだった部分だ。たまたまそうなっただけだが、なんだか不思議だ。
映画と演劇をこんなふうに自由自在に組み合わせて、映画でもなく演劇でもない不思議な作品に仕上げた。しかも、今回は芝居の部分を久野さんが演出するのではなく敢えて他の演出家(中村一規)に依頼した。そのことでどれだけの落差がそこに生じたのかは定かではないけど、これが閉じた作品ではなく、開かれた作品として完結したことは事実だろう。こんな摩訶不思議な体験はそうそうあるものではない。なのに、こんな貴重な体験がほんの一握りの観客にしか共有されなかったのは残念でならない。