椎名さんは自分の人生の幕引きに取り組んでいこうとしているようだ。先日の死についてのエッセイ(『僕がいま、死について思うこと』)に続いて、今回は記憶についてのエッセイである。『風景進化論』でやったことを今一度自分のこれまでの人生を振り返るためにやり直していく。これはノスタルジアではない。もっと切実なものに見えるのが切ない。
まだまだ若いのだから、もっと新しいことに挑戦すればいいのに、なんて言わない。だいたい椎名さんはこれだけではなく、恐るべき量の本を出しているのだから、ことさらこれだけを取り上げて、どうこう言うのは意味のないことだ。これだっていつもの企画ものの一種で特別ではない、のかもしれない。
だが、この本を読みながら、『さらば国分寺書店のオババ』からスタートしたこれまでのさまざまな挑戦がよみがえってくる気もした。『哀愁の町に霧が降るのだ』の頃、椎名さんの昭和軽薄体と呼ばれた文章に嵌まって、それからずっとオンタイムで彼の本をほぼすべて読んできた。何百冊ものおびただしい本の数々。その先にこれがある。70歳を迎える椎名さんの哀愁がここに極まる。読みながら、やっぱり切ないな、とそればかり。なんだかなぁ、である。
まだまだ若いのだから、もっと新しいことに挑戦すればいいのに、なんて言わない。だいたい椎名さんはこれだけではなく、恐るべき量の本を出しているのだから、ことさらこれだけを取り上げて、どうこう言うのは意味のないことだ。これだっていつもの企画ものの一種で特別ではない、のかもしれない。
だが、この本を読みながら、『さらば国分寺書店のオババ』からスタートしたこれまでのさまざまな挑戦がよみがえってくる気もした。『哀愁の町に霧が降るのだ』の頃、椎名さんの昭和軽薄体と呼ばれた文章に嵌まって、それからずっとオンタイムで彼の本をほぼすべて読んできた。何百冊ものおびただしい本の数々。その先にこれがある。70歳を迎える椎名さんの哀愁がここに極まる。読みながら、やっぱり切ないな、とそればかり。なんだかなぁ、である。