この夏モーニングショーで公開され、一瞬で消えていった映画である。どうしても見たかったのに見れず、DVE待ちか、と思っていたが、偶然にも、たった1週間、朝だけシネヌーヴォーで上映されることになり、見てきた。
こういう上質の映画と出逢えたら、もう何もいらない。ただ、その余韻に浸れたなら、それだけでいい。荒涼とした中国西北部の地方都市、西幹道(いったいそれって、どこにあるのだろうか。そんなことも知らない)。映画の原題はこの町の名前であるその『西幹道』(西干道)である。日本語タイトル通りの秋から冬の風景が描かれる。
18歳の兄とまだ小学生(11歳)の弟。母と無口で存在感のない父。兄は工場で働いているが、まともに仕事にいかない。この町でこんなふうに埋もれていくことに苛立ちを感じている。だが、何も出来ない。ただ無為に時をやり過ごしていく。北京から一人の美しい少女がやって来る。2人は彼女に心惹かれる。
弟はただ見つめている。兄が彼女を追いかけること、少女の踊る姿。何もない風景の中で、ただ学校に行き、大好きな絵を描き、何も喋らず、ただ見ている。自分からなんらかの行動に出ることはない。自分の気持ちを表には出さない。
汽車がこの町にやって来る場面から始まる。僕たち(観客である僕である!)はあの汽車に乗りこの町に辿り着いた気になる。ここに降り立ち、1978年のこの町のある家族の生活を垣間見る。やがて少女もここにくる。2人と同じように僕もあの少女に恋をする。少年の目線で同じように彼女の一挙手一投足を追う。ロングショットの多用はこの場所、風景の中で生きる彼らの姿を見事に捉える。(映画館で見れてよかった!)
やがて、少女は病気の父の死を看取るために北京に帰る。もう帰ってこない、と思う。だが、彼女はもう行くあてもない。唯一の家族を失いこの町に戻る。ひとりぼっちの彼女は兄を受け入れる。2人の密会を見てしまった弟はショックを受ける。ただ、そんな出来事を静かに追いかけていくばかりだ。感情に起伏はほとんど描かれない。ドラマックにしようとするならいくらでも出来る。だが、まるでドキュメンタリーのように距離を置いて見つめていくばかりだ。
そうすることで、僕たちはあることに気付く。もうあの頃には戻れない。30年前、僕もこの兄と同じように18歳だった。好きな女の子に気持ちを上手く伝えられなかった。どこにでもいる少年だった。同じ時代を別の場所で生きた。なのに、まるで、同じように生きてきた気がする。この兄と弟は2人とも僕自身だ。
映画は主人公に感情移入することで世界がそのまま自分のものとなる。そんな疑似体験が出来る。そんなあたりまえのことを長らく忘れていた。この寂しい映画はそんな無邪気な子ども時代に僕を戻してくれる。
映画はことさら何も言わないから、いくらでも想像力をかきたてる。見たこともない風景がなぜか懐かしい。心地よいノスタルジアを感じるというのではない。もう忘れてしまっていた孤独だった少年時代を想起させる。誰もが記憶のかたすみに留めている風景だ。寒々とした畑の道。電信柱に自分の描いた絵を貼る。線路の上を歩く。工場の門をくぐり抜ける。廃墟となった建物に忍び込む。壊れたラジオを直す。汽車の中の人々の佇まい。家族で食べる食事。学校でノートの裏に絵を描く。いくつもの風景がただそこにあるだけ。なのにそのひとつひとつが胸に沁みる。
とりわけ彼女の表情が忘れられない。少年は、きっと生涯彼女のあの頃の顔を忘れない。兄が軍隊に入る。そして、翌年死んで帰って来る。それでもまた、いつもの日常が続く。映画の終盤に描かれる1979の冬の描写はことさら胸に痛い。同級生に兄のことを悪く言われた少年が、暴れる。唯一彼が感情を爆発させるシーンだ。裸にされ、走って逃げる彼が謝って大きな穴に落ちる。死んでしまったか、と思う。衝撃的な場面だ。
兄の服を作り直して着る。とても大きい。母が直してくれた。この子もやがて大人になる。1978年、冬が、この少年の中でどんなものとして残っていくのか。よくはわからない。だが、あれから30年。中国はかっての中国から大きく躍進した。北京ではオリンピックが開かれ、世界の一等国になった。だが、何かが確実に失われていく。そのことに気付くのはまだまだ先にことかもしれない。今年一番の映画であろう。この映画を、ただ、静かに見つめて欲しい。
こういう上質の映画と出逢えたら、もう何もいらない。ただ、その余韻に浸れたなら、それだけでいい。荒涼とした中国西北部の地方都市、西幹道(いったいそれって、どこにあるのだろうか。そんなことも知らない)。映画の原題はこの町の名前であるその『西幹道』(西干道)である。日本語タイトル通りの秋から冬の風景が描かれる。
18歳の兄とまだ小学生(11歳)の弟。母と無口で存在感のない父。兄は工場で働いているが、まともに仕事にいかない。この町でこんなふうに埋もれていくことに苛立ちを感じている。だが、何も出来ない。ただ無為に時をやり過ごしていく。北京から一人の美しい少女がやって来る。2人は彼女に心惹かれる。
弟はただ見つめている。兄が彼女を追いかけること、少女の踊る姿。何もない風景の中で、ただ学校に行き、大好きな絵を描き、何も喋らず、ただ見ている。自分からなんらかの行動に出ることはない。自分の気持ちを表には出さない。
汽車がこの町にやって来る場面から始まる。僕たち(観客である僕である!)はあの汽車に乗りこの町に辿り着いた気になる。ここに降り立ち、1978年のこの町のある家族の生活を垣間見る。やがて少女もここにくる。2人と同じように僕もあの少女に恋をする。少年の目線で同じように彼女の一挙手一投足を追う。ロングショットの多用はこの場所、風景の中で生きる彼らの姿を見事に捉える。(映画館で見れてよかった!)
やがて、少女は病気の父の死を看取るために北京に帰る。もう帰ってこない、と思う。だが、彼女はもう行くあてもない。唯一の家族を失いこの町に戻る。ひとりぼっちの彼女は兄を受け入れる。2人の密会を見てしまった弟はショックを受ける。ただ、そんな出来事を静かに追いかけていくばかりだ。感情に起伏はほとんど描かれない。ドラマックにしようとするならいくらでも出来る。だが、まるでドキュメンタリーのように距離を置いて見つめていくばかりだ。
そうすることで、僕たちはあることに気付く。もうあの頃には戻れない。30年前、僕もこの兄と同じように18歳だった。好きな女の子に気持ちを上手く伝えられなかった。どこにでもいる少年だった。同じ時代を別の場所で生きた。なのに、まるで、同じように生きてきた気がする。この兄と弟は2人とも僕自身だ。
映画は主人公に感情移入することで世界がそのまま自分のものとなる。そんな疑似体験が出来る。そんなあたりまえのことを長らく忘れていた。この寂しい映画はそんな無邪気な子ども時代に僕を戻してくれる。
映画はことさら何も言わないから、いくらでも想像力をかきたてる。見たこともない風景がなぜか懐かしい。心地よいノスタルジアを感じるというのではない。もう忘れてしまっていた孤独だった少年時代を想起させる。誰もが記憶のかたすみに留めている風景だ。寒々とした畑の道。電信柱に自分の描いた絵を貼る。線路の上を歩く。工場の門をくぐり抜ける。廃墟となった建物に忍び込む。壊れたラジオを直す。汽車の中の人々の佇まい。家族で食べる食事。学校でノートの裏に絵を描く。いくつもの風景がただそこにあるだけ。なのにそのひとつひとつが胸に沁みる。
とりわけ彼女の表情が忘れられない。少年は、きっと生涯彼女のあの頃の顔を忘れない。兄が軍隊に入る。そして、翌年死んで帰って来る。それでもまた、いつもの日常が続く。映画の終盤に描かれる1979の冬の描写はことさら胸に痛い。同級生に兄のことを悪く言われた少年が、暴れる。唯一彼が感情を爆発させるシーンだ。裸にされ、走って逃げる彼が謝って大きな穴に落ちる。死んでしまったか、と思う。衝撃的な場面だ。
兄の服を作り直して着る。とても大きい。母が直してくれた。この子もやがて大人になる。1978年、冬が、この少年の中でどんなものとして残っていくのか。よくはわからない。だが、あれから30年。中国はかっての中国から大きく躍進した。北京ではオリンピックが開かれ、世界の一等国になった。だが、何かが確実に失われていく。そのことに気付くのはまだまだ先にことかもしれない。今年一番の映画であろう。この映画を、ただ、静かに見つめて欲しい。