チヤン・ユアン監督の新作を偶然見ることにした。余談だが、本当はこの日は子供鉅人『電気女 夢太る』を見に行くつもりだったのに、『1798年、冬』を見たら、続いてここ(シネ・ヌヴォー)で上映するので、予定を変更してしまったのだ。せっかくこんなところまで来てしまったのだから、出会いを大事にしよう。
と、いうことで、『小さな赤い花』である。『1978年、冬』とは別の意味でこれも面白い映画だった。
主人公は4歳児のチャン。彼が全寮制の保育所に預けられるところから始まる。最初は誰も同じだ。泣き叫び、親にすがりつく。しかし、あきらめてここでの生活を始める。「中国に根強い画一化政策への批判」がテーマらしいが、見ていてほのぼのとした児童映画にしか見えない。(これは褒め言葉である)
子供たちの生き生きした姿がドキュメンタリータッチで捉えられていて楽しい。チャンのするいたずらの数々。(もちろん問題を起こすのは彼だけではないが)それに、先生たちは対応する。たった5人ほどの先生たちがこの膨大な子供たちの面倒を見ているのだ。その困難さ。子供たちの中でのヒエラルキー。ここでの日々の生活のリズム。そんな様々なことがきちんと捉えられている。
この映画の原作は中国の人気作家ワン・シュオ。彼の自伝的小説らしい。だが、60年代に幼少期を過ごした彼の体験を現代の中国を舞台に映画化したのだろうか。とても60年代の中国には見えない。だが、明確な時代設定は映画ではなされていないから、よくわからない。チラシによれば、この映画は「過剰な教育政策に潜む矛盾を通して真の教育とは何かを問いかけてくる」らしい。だが、僕にはそんな大袈裟な映画には見えなかった。映画自体もそこまで深刻には描いてない気がする。
「子供の頃が一番幸せで、ここを出たら苛酷な人生が待っているのに、あなたたちはそれを知らない」と先生が言う。これはけっこう痛烈だ。
4歳児の目線で世の中の不条理を暴いていく。それを大人との対決として見せたりはしない。ましてや社会現象とか政治の問題だなんて、大袈裟に捉えもしない。チャン・ユアンの中では確かにそういう視点もあったのかもしれないが、少なくとも僕が見たこの映画には4歳児の頭の中で考え、そしてそこに起きている(あるいは、彼らが起こしている)現実を子供目線で捉えた映画に見える。だから、面白かったし、そこで止まっているから中途半端な印象も残った。
と、いうことで、『小さな赤い花』である。『1978年、冬』とは別の意味でこれも面白い映画だった。
主人公は4歳児のチャン。彼が全寮制の保育所に預けられるところから始まる。最初は誰も同じだ。泣き叫び、親にすがりつく。しかし、あきらめてここでの生活を始める。「中国に根強い画一化政策への批判」がテーマらしいが、見ていてほのぼのとした児童映画にしか見えない。(これは褒め言葉である)
子供たちの生き生きした姿がドキュメンタリータッチで捉えられていて楽しい。チャンのするいたずらの数々。(もちろん問題を起こすのは彼だけではないが)それに、先生たちは対応する。たった5人ほどの先生たちがこの膨大な子供たちの面倒を見ているのだ。その困難さ。子供たちの中でのヒエラルキー。ここでの日々の生活のリズム。そんな様々なことがきちんと捉えられている。
この映画の原作は中国の人気作家ワン・シュオ。彼の自伝的小説らしい。だが、60年代に幼少期を過ごした彼の体験を現代の中国を舞台に映画化したのだろうか。とても60年代の中国には見えない。だが、明確な時代設定は映画ではなされていないから、よくわからない。チラシによれば、この映画は「過剰な教育政策に潜む矛盾を通して真の教育とは何かを問いかけてくる」らしい。だが、僕にはそんな大袈裟な映画には見えなかった。映画自体もそこまで深刻には描いてない気がする。
「子供の頃が一番幸せで、ここを出たら苛酷な人生が待っているのに、あなたたちはそれを知らない」と先生が言う。これはけっこう痛烈だ。
4歳児の目線で世の中の不条理を暴いていく。それを大人との対決として見せたりはしない。ましてや社会現象とか政治の問題だなんて、大袈裟に捉えもしない。チャン・ユアンの中では確かにそういう視点もあったのかもしれないが、少なくとも僕が見たこの映画には4歳児の頭の中で考え、そしてそこに起きている(あるいは、彼らが起こしている)現実を子供目線で捉えた映画に見える。だから、面白かったし、そこで止まっているから中途半端な印象も残った。