習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『長江哀歌』

2007-10-13 09:22:20 | 映画
 一昨年11月公開されたジャ・ジャンクーの『世界』を見た時、居ても立ってもいられなくなった。《世界》では今何が起きているのか、そこから目を背けるわけにはいかない、と思った。この世の中でどれほど悲惨なことが起きていようとも、そこに行き、何かをしようなんて、思いもしなかった。無力な自分にはそんなだいそれたことが出来るわけがない、と思ったからだ。それよりも自分が今ここで生きていることで精一杯だ、と思っていた。《世界》で起きていることは別世界のこと、としか考えなかった。もちろん、そんなわけがないなんてこと、頭では充分に分かっている。

 しかし、あの映画を見た時、この映画の中で起きていることは遠い世界のことではない、と感じた。気付かないうちに少しずつ世界は動き、取り返しのつかないことが、自分の身に起きていく。そんな実感が皮膚感覚で伝わってきて、ぞくっとさせられた。急激な勢いで都市化がすすむ北京を舞台にして、その実、郊外の[世界公園]というテーマパークの中からほとんど出ないでこの映画は展開する。

 ここで働く人たちの姿をドキュメンタリータッチで綴る。<ここにくれば北京に居ながら世界一周が体験できる>という触れ込みの煌びやかな場所である。その表と裏を描きながら、何かが壊れていく予感を描いていく。ラストの心中シーンの衝撃は半端ではない。何も起きない映画である。何も起きない中でこれだけの崩壊が静かに進行している。

 この映画を見て、北京オリンピックに向けて凄まじい破壊が始まっている今の北京を自分の目で見て来たい、と思った。何が出来るか、ではなく、ただ自分の目に焼き付けたい、と思った。そして、映画を見た1ヶ月後、冬の北京の町に立っていた。凍てつくような寒さの中、いろんなところを歩いた。世界の中心である天安門広場から紫禁城という観光コースも見たが、前門周辺の凄まじい破壊が心に残った。まるで戦後すぐの焼け跡のような状態で取り壊されていく街。むき出しの瓦礫の中を歩く。道はあるが周囲は瓦礫の山である。人々はその横で普通に生活している。1ブロック先は昔のままの町並みが広がる。フートンも歩く。凄いなぁ、と思った。こんな衛生状態の悪いところでこれだけの人が暮らしてる。ここは中国の首都で街の中心からあまり離れていない。ほんの少し歩いただけなので、何も本当の事なんて分からないだろう。しかし、何も知らないよりはずっと分かった気がした。あれから、約2年。ジャ・ジャンクー待望の新作である。 

 長江、山峡。ダムに沈む古都を舞台にして、2人の男女がこの街にやって来る。16年振りにここに帰ってきた男。2年間何の連絡もない夫を探しにこの街に来た女。2人はすれ違うこともなく、この街を彷徨う。

 かって妻と住んでいた場所は既に水没している。街中がどんどん取り壊されていき、あと少しですべてが水の中に消えていく。そんな死んでいく街を見つめていく。妻と娘を探して、街をさすらう。彼はしばらくここで暮らす。ビルの取り壊しの仕事に就く。

 女の夫はここでたくさんの従業員を使い、ダム工事の仕事に忙殺されている。彼女は看護婦をしながら、夫の帰りを待っていた。だが、夫の心がもう自分にはないことを悟り、何かに決着をつけるためここに着た。彼女は夫に「好きな人ができたから」なんて言うが、それが本当だかは分からない。

 この2人の男女に象徴させて消えていくかっての中国の姿を描く。彼ら2人の物語は交錯しない。これは別々のお話なのだから、当然のことである。この同じ街に偶然同じ山西省からやって来た赤の他人2人の物語を、1本の映画の中に封じ込める。旅人の視点でこの街を見るというスタイルがいい。彼らに感情移入できる。

 ラストシーン、取り壊されるビルとビルの間に綱を渡し、その上を歩く姿を捉えたショットが胸に突き刺さる。主人公の男が振り返るとそれが見える。このイメージショットは強烈だ。こんなふうに危うい道をこの国は歩いている。そして、この世界もまた同じかもしれない。

 今この街がダムに沈む前に、どうしてもここを映画に残して置きたかったというジャ・ジャンクーの気持ちが痛いほど伝わってくる。彼はこの国の人間として、この事実をフイルムに留めないではいられない。09年山峡ダムは完成し、この映画に描かれた街はこの世界から消えていく。中国が国家の威信をかけた壮大なプロジェクトのもとに、犠牲になったものはただ一つの街が消えていくということだけではないはずだ。

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