なんと舞台上に110人に及ぶ人たちが出てくる。20人ものキャスト。ピンクチャイルドのダンサーたち、沖縄かりゆし会のメンバー。さらには、対馬丸の生き残りである上原妙さん。生演奏を聞かせてくれる奏者たち。これだけの人々が登場する小劇場の芝居は見た事がない。ラストではその全員が一斉に舞台上を埋め尽くす。凄まじいエネルギーが伝わってくる。祝祭的空間がそこに展開することになる。
再演を繰り返すごとにどんどんスケールアップしていくこの作品は、もともとは小さなお話であった。はずだが、それがこんなふうにとんでもないプロジェクトへと変貌を遂げていくのは、この作品が描こうとするものが、人々の大きな願いだからだ。それに共感した人々の輪が広がるように、作品世界も広がっていく。
命の尊さと、それをいかに守り抜くかの戦いがここには描かれる。無謀な日本軍の行為が多くの若い命を奪ってしまった対馬丸事件を題材にして、この芝居の中では、子供たちを徒に死なせてしまった教師(菊地潤)の心の痛みが描かれる。死んでしまったものたちが、彼のもとを訪れてくる。一緒に過ごしたかっての時間が甦る。それが、何度となく繰り返されていく。悔恨がまた彼の心を過ぎる。悔やんでも悔やみきれない。彼が子供たちを死なせたわけではない。しかし、彼が子供たちを対馬丸に送り込んだことも事実だ。大切なものたちを死なせてしまったことの悼み。事件の原因や悲劇だけを描くのではない。
物語自体は彼ひとりの内面に収斂されていくが、それをこの芝居は、もっと大きなものに包み込んでいく。彼だけではないたくさんの人たちの痛みが、大きなうねりを伴い巨大なものに収斂されていく。そこには作、演出の斉藤勝さんの熱い思いがしっかり伝わってくる。このやり方がこの作品にとって幸福なことか否かはなんとも言い難いが、こういう形で作品が進化していくことは興味深い。
これは、ただ単にスケールアツプして、スペクタクルとして、この作品を再構成しようなんてことではない。人々の平和への祈りをこういう形で視覚的に見せていくことで、ひとつの願いとして見せていくための試みなのだと思う。
再演を繰り返すごとにどんどんスケールアップしていくこの作品は、もともとは小さなお話であった。はずだが、それがこんなふうにとんでもないプロジェクトへと変貌を遂げていくのは、この作品が描こうとするものが、人々の大きな願いだからだ。それに共感した人々の輪が広がるように、作品世界も広がっていく。
命の尊さと、それをいかに守り抜くかの戦いがここには描かれる。無謀な日本軍の行為が多くの若い命を奪ってしまった対馬丸事件を題材にして、この芝居の中では、子供たちを徒に死なせてしまった教師(菊地潤)の心の痛みが描かれる。死んでしまったものたちが、彼のもとを訪れてくる。一緒に過ごしたかっての時間が甦る。それが、何度となく繰り返されていく。悔恨がまた彼の心を過ぎる。悔やんでも悔やみきれない。彼が子供たちを死なせたわけではない。しかし、彼が子供たちを対馬丸に送り込んだことも事実だ。大切なものたちを死なせてしまったことの悼み。事件の原因や悲劇だけを描くのではない。
物語自体は彼ひとりの内面に収斂されていくが、それをこの芝居は、もっと大きなものに包み込んでいく。彼だけではないたくさんの人たちの痛みが、大きなうねりを伴い巨大なものに収斂されていく。そこには作、演出の斉藤勝さんの熱い思いがしっかり伝わってくる。このやり方がこの作品にとって幸福なことか否かはなんとも言い難いが、こういう形で作品が進化していくことは興味深い。
これは、ただ単にスケールアツプして、スペクタクルとして、この作品を再構成しようなんてことではない。人々の平和への祈りをこういう形で視覚的に見せていくことで、ひとつの願いとして見せていくための試みなのだと思う。