太宰治の『人間失格』を読んだとき、誰もが「オレも(私も)人間失格だ」と思ったように、この作品を見た私たちは、自分もまたヤクタタズだ、と思うようになるだろう。だがそれは誰もが共感する、ということではない。ヤクタタズという負の存在である自分を意識することは誰にでもある。それを受け入れるところから始まる。この象徴的な作品が指示するものは明確ではない。ヤクタタズというふうに言われ、だから殺された人たちは、ヤクタタズなのか。それはAという男がただ、そう定義しただけだ。そして、彼を待ち続けることで、ヤクタタズという衝撃的な言葉がどういう意味を持つのかを、この芝居はきっと提示することになる。19人はヤクタタズの全員ではないし、彼らもたまたま殺されただけで、彼らである必然性はない。そんなこと、分かりきった話だ。この脚本を書いたフルカワトシマサは事件の概要を伝えたいわけではないことは明白だし、その全容を描けるというふうに思うわけでもない。ただ、「相模原障害者施設殺傷事件」を通して、そこに秘められたものがなんなのかに迫りたいと思っただけなのだろう。事件について直接触れることは一切ない。それはこの台本の最後まで一貫している。だけど、あの事件を通して、誰もが恐怖したことの意味は、その一端は確かにここから見えてくることになるのだろう。台本を読み終えた時に、その全貌は明らかにならない。ラストまで至ってもなお、釈然としない。というか、そこまで来て、スタート地点に立たされた気分だ。終わりはただの始まりなのだ。
そのことを、今回の第1幕第1場の上演を見て再認識させられる。キタモトマサヤ演出による本作は、2部構成になっている。第1部は予告通りのリーディング公演。そのあまりのそっけなさに、戸惑うほどだ。4人のキャストとト書きを読む森川万里の総勢5人に、同時通訳の手話による演者が登場する。しかも、舞台の中央に立つ。感情を一切入れない淡々とした朗読だ。観念的なお話なので、まるでお話が伝わってこない。これにはまいった。30分の上演は戸惑いばかりが残る。森川さんのナレーターが舞台を自在に動き回るから、彼女ばかりに目が行く。舞台中央の手話通訳者は目に入っているけど、僕たちは見ていない。聞こえない人たちに向けて、リーディングで上演するという行為自体が大胆だし、聞こえる人たちの目の前一番目立つ場所に手話通訳者が立つという配置も大胆だ。さりげなさが、実はとんでもない仕掛けによってなされている。今回の公演には盲聾者も観客として来ている。彼らにこの芝居はどう映ったか。そのことも気になるが、まずは自分が見たものを、どう感じたかを書こう。
4人の役者たちは盲の女(大熊ねこ)と車椅子の男(ファック ジャパン)を両サイドに起き、その間に聾の男(TAaKA)、背の低い男(千葉昇司)が並ぶ。TAaKAさんはサインパフォーマーで、耳が不自由。千葉昇司さんは知的障害を待つ。2人のベテラン俳優に挟まれて、彼らがリーディングに挑む。どんなものになるのか、ドキドキしながら目撃する。だが、見終えたとき、なんだか物足りない。よくわからない台本をまるで突き放すようにして見せる。これでは取り付く島がない。もちろん、それもまた演出のねらいだ、ということは、第3部の2度目のリーディングで明らかになる。
第3部と書いたが、それでは第2部は何なのか、と気になる人がいるはずだ。ふたつのリーディング、1部と3部の間にトークショーが挟まれる。これがなんと50分もある。これを演劇公演だと考えると、歪すぎる構成だ。本編よりも長い。特定非営利活動法人MAMIEの安藤美紀さんとフルカワトシマサの対談である。聞き役になったフルカワが彼女のお話を聞く。彼女の生活、活動、そして彼女が連れて歩く聴導犬(盲導犬ならみんな知っているだろうが)のことを話す。手話シンガーである彼女の息子さんである安藤一成によるライブや、聴導犬のデモンストレーションまであり、これが今回のメインではないかと思わせるほどのボリュームだ。本末転倒ではないか、と不安にさせられるほど長い。知らないことを教えられ、障害者に対する新しい眼を見開かされる。でも、これはフルカワトシマサ作品『ヤクタタズ!』公演ではないのか、と。だが、フルカワ本人はまるでそんなこと気にもしない。この公演が(というより、これはイベントと呼ぶ方がいいかもしれない、とここまで見て思う)安藤さんのパフォーマンスになっても構わない勢いである。
フルカワの意図は明確だ、自分の書いた台本(芝居)はあくまでも、台本でしかない。事件の意味に迫るためにはどんどんそこから派生していく問題や事項を受け入れて行く。相模原事件ではなく、障害者と、この社会が抱える問題へと問いかける。スタートが「津久井やまゆり園」だった。
第3部が定刻より遅れて始まる。もちろん同じ台本を同じキャストでリーディング公演する。だが、明らかに違う。モノトーンだった衣装から今回はこの芝居に合わせた衣装を身につけ、小道具も用意する。そして、役者たちは役を演じる。だが、普通の芝居にはしない。敢えて、不十分な出で立ち、対応をさせる。ベンチは用意されるし、車椅子も使う。だけど、リーディングだから、テキストを持つし、ト書きはナレーターが欠かすことなく読む。明らかに、舞台を見たならわかっていることもちゃんと読む。「間」なんていうことばも、読む。しかも、なぜか、そこで間を取らないで次の台詞が読まれる。ここからはキタモトさんの独壇場である。立体的になった芝居が4人の役者たちのパフォーマンスを通して展開していく。ちゃんと演出がなされたお芝居になって立ち現れる。しかし、それは完璧な芝居にはならないで敢えて不完全なものとして提示される。役者同士の接触はないし、Fジャパンは車椅子には乗らないで推している。メリハリを付けた声の演技で、怒濤の展開が表現される。
これはまだ芝居ではない。リーディングなのだ、という声が聞こえてくる。そして、これは不完全なものなのだ。だから、芝居としてもヤクタタズかもしれない。だが、こういう形で提示されたこの台本は、実に生き生きしている。実験的な作品はさらにその実験的な意匠を纏って、そこに出現する。