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映画・演劇のレビュー

『薄氷の殺人』

2015-01-21 22:17:24 | 映画
この日本語タイトルは、あまりにそのまんまで、単純すぎる。ここには何の含みも、情緒の欠片もない。でも、原題の翻訳である『白昼の花火』では、あまりに情緒的すぎて、この映画のイメージを反対に損ねる。難しいところだ。ここに提示されるイメージの集積がこの作品の魅力だ。説明ではなくそこで提示される映像。その圧倒的なインパクト。描かれる事件や、犯人の造形、トリックなんて、それと較べればどうでもいいことだ。どちらかというと陳腐でしかない。なんだ、そんなことなのか、とすら思う。だいたい、こうくるのなら、もっと他の見せ方があったはずだ。

だからこれはそこにポイントを置かない映画なのだ。そんなことよりもまず、この圧倒的な風景に魅了させる。彼らのたたずまいも含めて、そのすべてがただただ侘しい。ここで暮らす人たちの心情がこの事件を完全に凌駕する。というか、この風土がこんな事件を誘発したのだと思う。ここで生きる人々の心情がこの作品を形作る。それがこんな犯罪を生んだ。中国北部のある町。ここで生まれ、死ぬまで、どこにも行けない。朽ち果てるように生きていく。そういう諦めが根底にある。それを貧しさのせいにはしない。そんなことを彼らは考えてもいない。これが自分たちの生きる世界で、ほかにはどんな生き方もない。雪と氷に閉ざされた世界。暗くて寂しい。楽しいことなんか、何もない。

男と女の物語であるにも関わらず、彼らの心情はまるで描かれない。何を想い、何を感じたか。どうしてこうなったのか。すべてが曖昧なままだ。描く気もない。どうせ描いても、お前たちにはわかるまい、と突き放された気分だ。わかった気になんかなるなよ、と言われた気がする。もちろん、そんな単純なものではないだろ、とは思う。でも、知りたい。なぜ、そうなったのかを。荒涼とした風景の連鎖。教えられるのはそればかりだ。そこから、考えろ、とでも言われた気分だ。だから、ただ、それを見つめるばかりだ。

殺伐とした場所で、暮らし、死ぬ。バラバラ殺人事件。分散された遺体の一部。列車に揺られ、トラックに乗せられ、やがて、さまざまな場所へと運ばれる。冒頭の描写だ。最後まで見たとき、それがこの映画の象徴だったことに気付く。どこか遠くに行きたい。たとえ、死体になったとしても。舞台となるクリーニング屋を中心にした、この閉ざされた町。5年前の事件の再来。だが、再び悪夢が始まるのではない。その空白の5年間こそが彼女にとっては悪夢だったのだ。そして、事件のためにぼろぼろになった二人の男にとっても。自分はもう死んだことにして、生きている犯人。アル中になり、身を持ち崩す元刑事。女を挟んでそんな両者が対峙していく。

説明のない描写の積み重ねで、見せていくから、つながりが今いち明確ではない。事件の全容も彼女の口から語られるばかりで(しかも、そのしゃべるシーンも、実際の描写もない)わからないままだ。もしかしたら、彼女は彼女をゆする男と、この町を離れていこうとしていたのかもしれない、とすら思う。凶暴な夫から逃れるために。

刑事と彼女との間にも、愛情はない。だから、ラストの白昼の花火にも、虚しさしか残らない。彼女は誰にも、体は開いても、心は開かない。その頑なな想いが何によるのかを明確にするわけではない。する必要もない。


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