平田オリザさんが大学生の時に書いた戯曲の再演である。91年の再演の時に大幅にリライトしたヴァージョンでの再演だから、学生時代のものをそのまま、上演してわけではないけど、「17歳の冬、パリで高村光太郎の『雨にうたるるカテドラル』という詩を読んで以来、その心持ちは、変わっていないように思えます。」とパンフにはあるから、ここにある思いは21歳の彼のものであり、17歳の彼でもある。そして、それは過去のものではなく今の平田さんの覚悟でもある。
この芝居を見ながら、いつもの青年団の作品とはかなり違う、と思う。スタイルの確立がない。まだ、そうなる前の段階の芝居だ。そんなことはわかったままで、敢えて、そのまま、芝居にした。大切なのは、この底に流れる想いである。だからだ。
光太郎と智恵子の悲恋ものではない。彼らの関係性を前面に押し出さない。いつものように群像劇だ。智恵子は途中で死んでいて、出てこなくなる。彼女への光太郎の想いが表に出ることはない。ラストのエピソードで、同じように既に死んでいる宮沢賢治と智恵子が光太郎のところにやってくる、というお決まりのパターンは踏襲するけど、殊更そこで光太郎の想いを前面に出さない。戦争中に戦意高揚の詩を作ったことへの、言いわけもない。
だが、何かが壊れたのかもしれない。彼の中にあった大事なもの。それがどうなったか。こんなにも説明しなくていいのか、とは思わない。説明は意味をなさないことは、今までの、オリザさんの作品が証明している。だが、この作品は、そこまで客観的ではない。それだけに、バランスが悪いから、今にも説明しそうになる。主人公、という設定自体がいつもとは違う。主人公がいると、どうしてもそこを視点にして全体を見てしまう。そうすると、作品全体が彼の目から見たものになりかねない。この芝居の弱点はそこにある。でも、そこも修正しない。
それどころか、だから愛おしい、と思ったのではないか。ぎりぎりのところでバランスを取りながら、(バランスは崩れているけど)最後まで、それを持続する。そこに光太郎の精神を重ね合わせる。そう思うと、この芝居が彼を主人公にしたのも肯ける。
この芝居を見ながら、いつもの青年団の作品とはかなり違う、と思う。スタイルの確立がない。まだ、そうなる前の段階の芝居だ。そんなことはわかったままで、敢えて、そのまま、芝居にした。大切なのは、この底に流れる想いである。だからだ。
光太郎と智恵子の悲恋ものではない。彼らの関係性を前面に押し出さない。いつものように群像劇だ。智恵子は途中で死んでいて、出てこなくなる。彼女への光太郎の想いが表に出ることはない。ラストのエピソードで、同じように既に死んでいる宮沢賢治と智恵子が光太郎のところにやってくる、というお決まりのパターンは踏襲するけど、殊更そこで光太郎の想いを前面に出さない。戦争中に戦意高揚の詩を作ったことへの、言いわけもない。
だが、何かが壊れたのかもしれない。彼の中にあった大事なもの。それがどうなったか。こんなにも説明しなくていいのか、とは思わない。説明は意味をなさないことは、今までの、オリザさんの作品が証明している。だが、この作品は、そこまで客観的ではない。それだけに、バランスが悪いから、今にも説明しそうになる。主人公、という設定自体がいつもとは違う。主人公がいると、どうしてもそこを視点にして全体を見てしまう。そうすると、作品全体が彼の目から見たものになりかねない。この芝居の弱点はそこにある。でも、そこも修正しない。
それどころか、だから愛おしい、と思ったのではないか。ぎりぎりのところでバランスを取りながら、(バランスは崩れているけど)最後まで、それを持続する。そこに光太郎の精神を重ね合わせる。そう思うと、この芝居が彼を主人公にしたのも肯ける。