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映画・演劇のレビュー

『おしん』

2013-10-18 21:30:21 | 映画
 今、これを作る意味はどこにあるのだろうか、と思いつつこの映画を見た。一世を風靡したTVドラマの映画化である。昔ならよくあったパターンなのだが、しかし、これだけの歳月を経て劇場版リメイクはない。しかもネタはNHKの朝の連ドラである。昔、松竹はよくこれをしていたけど、それはTVのヒットを受けてその翌年くらいには公開したというケースだ。TVの余波を受けて便乗するというのがそのパターンだ。しかも、70年代くらいまでの出来事だ。まだまだ映画界が映画産業として成立し、映画会社のもとで、プログラムピクチャーとして映画が量産されていた時代のお話である。今はもうそんな時代ではない。今の時代、映画はTV局が作る。だからTVと連動してその劇場版は同じキャスト、スタッフのもとで作られる。今回のような例は実は稀有のことなのだ。

 30年の歳月を経てよみがえる。しかも、偉大なるTV版へのオマージュになっている。これは確かな平成版『おしん』だ。では、今、おしんが時代を切り開く、とするということにしよう。そこには一体どういう根拠があるのか。どんな意味があるのか。

 そこが一番気になるところなのだ。だが、この映画からはその答えは見えてこない。中国を初めとしてアジア圏でこのドラマが大ヒットした。その背景には貧しさへの共感がある。日本だってこんなにも貧しかったのだ。その事実を踏まえて、「でも、その先には今の日本がある」とすると、自分たちの未来も決して捨てたものではない、と思ったからか。もちろん、その認識は正しいはずだ。躍進するアジア諸国の経済発展は目覚ましいばかりだ。しかし、その先には「更に先のもうひとつの今の日本」があることも忘れてはならない事実だろう。

 今、日本人が再び『おしん』を見るか、と言われると、NOとしか、言いようがない。現に劇場はガラガラである。空前の不入りを記録している。(僕が見た公開4日目の梅田での4時の回は、20人もいなかった。)それは当然のことだろう。映画の出来不出来とは関係ない。今、日本人にとって、ここに描かれる想いは、今を生きる力にはならないからだ。今ある現実のその先にあるものを僕たちは見たいと思う。その答えを求めて劇場に通うのだ。『おしん』の元気が日本を明るくすると信じられたなら幸せなのだが、なかなか現実はそうはいかない。

 富樫森監督はとても丁寧にこの映画を作り上げた。主役の濱田ここねも素晴らしい。彼女の力強さには救われる。時として、暗くてつらいだけの映画になりそうな素材なのに、そうはしない。だが、大事なのは、そこではない。その先をどう見据えるか、だろう。



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