ティム・バートンの新作である。今回はジョニー・デップが出ないから、期待した。(別にジョニデが嫌いなわけではない、ただちょっとこのコンビには飽きてきた。彼から離れたバートンが見たかったのだ)
地味な作品だが、インパクトがあるのは、題材とした絵画自体の魅力だろう。マーガレットの描く異様に目が大きい少女の絵。すべてはそこから始まる。ポスターもそうだし、この映画のメインビジュアルはすべて、そこに尽きる。だから最初はファンタジーかと思った。でも、とんでもない。僕が知らなかっただけで有名な画家の話だった。でも、彼女の伝記映画ではない。名画に隠された秘密を描くミステリでもない。
1958年、いつものように(というか、それは『シザーハンズ』と同じように、なのだが)サバービアが舞台になる。広々とした住宅地。何もない。そこから、彼女は娘を連れて出ていく。当時専業主婦だった女性の離婚はめったになかったことらしい。当然だろう。だが、彼女は飛び出した。夫の暴力や非人間的な扱いに恐怖を感じたらしい。サンフランシスコに向かう。娘と二人、再出発する。そこで、ひとりの男と出会い恋に落ちる。彼女と同じように絵を描く男だ。今度こそ、幸せになる、と思った。だが、そうはいかない。というか、この男こそが問題なのだ。
映画を見ながら、どうしてもっと早く本当のことを言わなかったのか、と思った。夫が怖いからか。成功は彼女の才能ではなく、彼の売り込みの力だと思ったのか。教会で自分は嘘をついていると告解するが、神父は夫を信じなさいと、言う。だから、か。彼女の描くビッグアイズは彼が描いた絵として、評判になる。彼は時代の寵児となる。
だが、64年のパリ万博のために描いた大作が評論家に酷評され、会場から撤去される。ほんとうにそこまで酷い作品なのか。彼女の描いた絵は芸術ではなく、ただの商品でしかなかったのか。ポスターが飛ぶように売れたのは、イラストとしての評価でしかなかった、ということなのか。
芸術ではなく、ただの商品としての価値しかないとしても、それは大衆に支持されたことには変わりない。彼女の夫は口がうまく、手広く商売をすることに長けた男で、彼の手腕によって人気が出たこともひとつの事実だ。だが、あの絵の圧倒的なインパクトはそういう戦略の産物ではない。作品自体の力である。
本物と偽物。事実と嘘。そのあわいで作品は作品自体の力を超えて独り歩きしていく。もうその時点でそれは優れた作品であり本物なのだ。だが、世間の認知と、評価は、必ずしも作品自身の力と比例しない。優れた作品が歴史に残るわけではない。世の中には埋もれてしまった傑作はごまんとある。彼女の作品が埋もれなかったのはなぜか。
夫との関係を単純に詐欺師と、それに利用された芸術家、というふうには描き出さない。そこにはなんだかよくわからないものがある。この映画はあえてそこを曖昧なままにする。裁判でふたりに絵を描かせて真実を暴露するという下りがあるが、そこでばかばかしくも夫は仮病を使う。そんなバカな演技を受け入れる裁判も、バカバカしい。だが、その部分をただ、あほな男の浅はかな行為として断罪しない。
映画は彼女の絵の芸術的価値を見出すのではない。彼女の生きざまを描くのでもない。ある時代の中で(50年代の終わりから70年代へと至る時間)女性が自分に目覚めていく姿を、彼女に象徴させて描きだすのだ。
この映画が素晴らしいのは、そんなふうに、どんなふうにも理解できるというところにある。一元的な解釈ではなく、あらゆる可能性を秘めたまま、でも、まずは単純にお話自身を追うことも出来る。思いもしない方向へとどんどん誘われていく。すごい傑作である。
地味な作品だが、インパクトがあるのは、題材とした絵画自体の魅力だろう。マーガレットの描く異様に目が大きい少女の絵。すべてはそこから始まる。ポスターもそうだし、この映画のメインビジュアルはすべて、そこに尽きる。だから最初はファンタジーかと思った。でも、とんでもない。僕が知らなかっただけで有名な画家の話だった。でも、彼女の伝記映画ではない。名画に隠された秘密を描くミステリでもない。
1958年、いつものように(というか、それは『シザーハンズ』と同じように、なのだが)サバービアが舞台になる。広々とした住宅地。何もない。そこから、彼女は娘を連れて出ていく。当時専業主婦だった女性の離婚はめったになかったことらしい。当然だろう。だが、彼女は飛び出した。夫の暴力や非人間的な扱いに恐怖を感じたらしい。サンフランシスコに向かう。娘と二人、再出発する。そこで、ひとりの男と出会い恋に落ちる。彼女と同じように絵を描く男だ。今度こそ、幸せになる、と思った。だが、そうはいかない。というか、この男こそが問題なのだ。
映画を見ながら、どうしてもっと早く本当のことを言わなかったのか、と思った。夫が怖いからか。成功は彼女の才能ではなく、彼の売り込みの力だと思ったのか。教会で自分は嘘をついていると告解するが、神父は夫を信じなさいと、言う。だから、か。彼女の描くビッグアイズは彼が描いた絵として、評判になる。彼は時代の寵児となる。
だが、64年のパリ万博のために描いた大作が評論家に酷評され、会場から撤去される。ほんとうにそこまで酷い作品なのか。彼女の描いた絵は芸術ではなく、ただの商品でしかなかったのか。ポスターが飛ぶように売れたのは、イラストとしての評価でしかなかった、ということなのか。
芸術ではなく、ただの商品としての価値しかないとしても、それは大衆に支持されたことには変わりない。彼女の夫は口がうまく、手広く商売をすることに長けた男で、彼の手腕によって人気が出たこともひとつの事実だ。だが、あの絵の圧倒的なインパクトはそういう戦略の産物ではない。作品自体の力である。
本物と偽物。事実と嘘。そのあわいで作品は作品自体の力を超えて独り歩きしていく。もうその時点でそれは優れた作品であり本物なのだ。だが、世間の認知と、評価は、必ずしも作品自身の力と比例しない。優れた作品が歴史に残るわけではない。世の中には埋もれてしまった傑作はごまんとある。彼女の作品が埋もれなかったのはなぜか。
夫との関係を単純に詐欺師と、それに利用された芸術家、というふうには描き出さない。そこにはなんだかよくわからないものがある。この映画はあえてそこを曖昧なままにする。裁判でふたりに絵を描かせて真実を暴露するという下りがあるが、そこでばかばかしくも夫は仮病を使う。そんなバカな演技を受け入れる裁判も、バカバカしい。だが、その部分をただ、あほな男の浅はかな行為として断罪しない。
映画は彼女の絵の芸術的価値を見出すのではない。彼女の生きざまを描くのでもない。ある時代の中で(50年代の終わりから70年代へと至る時間)女性が自分に目覚めていく姿を、彼女に象徴させて描きだすのだ。
この映画が素晴らしいのは、そんなふうに、どんなふうにも理解できるというところにある。一元的な解釈ではなく、あらゆる可能性を秘めたまま、でも、まずは単純にお話自身を追うことも出来る。思いもしない方向へとどんどん誘われていく。すごい傑作である。