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映画・演劇のレビュー

松永大司『トイレのピエタ』

2016-02-08 21:02:30 | その他

 

映画を見た後、すぐに原作小説を読むなんていう行為は本当に久しぶりのことだ。昔高校生だった頃なら、よくした。でも、大人になってからは、そんな子供っぽいことはしない。そこまで思い入れしなくなったのかもしれない。それに、映画になるような小説は、映画化される前に先に読んでいる場合がほとんどだし。

 

しかも、今回は原作というよりもノベライズかもしれない。(だが、ノベライズのような安易さはない)監督である松永大司が映画の公開前に出版した。彼は小説家ではない。映画監督だ。だが、監督としてはまだ新人でこの映画が初の劇場用劇映画だ。だからこれは作家としても監督としてもデビューとなる作品なのだ。だが、そんな小説を読みながら、とても刺激的な気分にさせられる。映画を忠実になぞるのだが、映画の中では、描かれなかった彼らの気持ちがさりげなく書かれてある。それは映画だけでは気付かなかった想いだ。こんな気持ちだったのか、とわかる。それがとても新鮮だった。だが、それがイコール映画より小説のほうが丁寧に描かれる、ということではない。それにしても、実に忠実に描かれる。映画がそのまま小説になっている。脚色ではなく、台本のような小説だ。なのに、それが嫌ではない。両者は補完関係にある。映画だけでは、わからないことが描かれると同時に小説では見えなかったものが映像には切り取られる。

 

あいまいなものが、映画ではそのままになり、小説では明確になる。だが、映画の余白は小説以上に能弁で饒舌だ。空白だらけの映画が小説を通して埋められる。しかし、僕たちはあの映画の圧倒的な空虚さを愛する。説明なんかいらないな、と思う。野田洋次郎の茫洋とした表情と、杉咲花の感情を剥き出しにした表情。それがあの映画世界を形作る。小説はそれを解説する。

 

だが、この小説を読みながら、決して軽くはないな、と思う。それぞれの内面のモノローグはあの映画だけでは伝えきれていないものをきちんと語る。独立した小説としても、これはちゃんと成立している。しかし、やはりこれはあの映画に付随するものでしかない。そんなこんなを考えながら読む。楽しい。

 

小説ではどうなっているのだろうか、気になる。さらには、もう一度小説であの映画を味わいたい。そんな子供のような無邪気さ。そうさせる何物かがここにはある。


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