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映画・演劇のレビュー

エイチエムピー・シアターカンパニー『最後の炎』

2011-10-24 19:39:42 | 演劇
 笠井さんが同時代の海外戯曲シリーズの第1作としてデーア・ローアのこの戯曲を取り上げる。(もちろん僕は読んでないからどんな本なのかまるで知らない)台本自体のスタイルなのだそうだが、語り手は「私」ではなく、「私たち」である。「集団と個人の境を行き来する」しかも、「詩的な韻文」や「内省的なモノローグ」が突然挿入されたりもする。(当日パンフの翻訳者である新野守広さんの文章による)このスタイルは観客を戸惑わせる。ストーリー自体も一筋縄ではいかない。加害者と被害者による普通の善悪2分法は意味をなさない。彼らの行為の唐突さも戸惑わせる。内に抱える苦しみをストレートに他者にぶつけることはない。どんどん鬱屈してくる。8歳の少年の死という悲劇を中心にして、作られてあったはずの芝居がもっと大きな人間全体が抱える痛みへと昇華されていく。もちろん、少年の死という事実をおざなりにしてしまうことにはならない。彼らの痛みはすべてそこを起点にしてあることは明白だからだ。 

 それにしても、これは重くて暗い芝居である。しかも、傷口に塩をなすりつけるようだ。これでもか、これでもか、とやってくれる。先にも書いたがこれは事故により8歳の息子を失った夫婦、加害者の男、そして彼らを巡る人々を描く群像劇だ。

 突然の出来事による衝撃と、その傷み。事故をきっかけにして、平和に見えた家庭は崩壊していく。実はもともと危ういところでなんとか成り立っていた。彼らの関係が息子の喪失によって、隠れていたものまで、あからさまになっていく。

 我々の生活というものは、とても微妙なバランスのもと、ギリギリで成り立っていたことがわかる。事故はきっかけでしかない。話はこの家族だけの問題にとどまらない。不倫、介護、薬物中毒、エトセトラ。噴出してくるそこにもともとあったものの数々。そして、こんなにも簡単に家族は壊れていく。

 主人公の夫婦を演じる武田暁さんと西田政彦さんがすばらしい。彼らが醸し出す緊張感に周囲の役者たちがついていけないので、全体のバランスが少し崩れているのが、惜しい。

 普通の芝居の作り方をしない。セリフとト書きが混在し、それによって、自分たちの行為をいつの間にか客観視する。その分、話にのめりこめない。わざとそうなるように作る。お話として見せるのではなく、この出来事に距離を置いて向き合うことを強要する。だから、これは単純な可哀想な夫婦の話ではない。だが、これは彼らを含むこの出来事に関わったすべての人々の再生に向けてのドラマとなる。


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