小高知子さんと関角直子さんによるユニット。無理しないのがいい。もちろんそれは手を抜いているのとは、まるで違う。手垢のついた言葉にすると、「等身大の」なんて言い草になるのだが、そういう力の抜け方が、こういう芝居には大切なのだ。どうしても、これはくさい芝居になる。こういう素材を扱うと、鼻につくことが多い。しかも、若い子がすると、独りよがりなものに為りがちだ。自己陶酔なんかされると、恥ずかしくて見てられません。だいたい、自分探しなんてのは、今時はやらない。
でも、自分ってなんだろうと考えることには流行り廃りなんか関係しない。ただ、それはただの自己満足と紙一重なので気をつけるべきなのだ。気をつけるのべきなのは、その点なのである。小高さんはその辺をちゃんと理解している。
書けなくなった作家が主人公。からっぽの脳みそを叩いて、でも、絞り滓すら出てこない。何人もの編集者が彼女の原稿を待つ。それがプレッシャーになって、余計に行き詰まる。彼女が書きたかったものって何だったのか。
先にも書いたが、このあまりのお膳立てに、ちょっと腰が引けるのはやはり事実だろう。だが、作、主演の小高さんは恥ずかしがることなく、このシチュエーションを堂々と見せる。それを周囲のスタッフが支える。演出の条あけみさんも、彼女の内面に巣食うもうひとりの人格と、現実世界の編集者を演じる関角さんも、とても優しく彼女を見守る。だから、彼女はこんなにも、自由に演じることができたのだ。
何もない舞台で、(舞台美術は箱馬だけ)たったふたりの演者は、お互いと向き合う。ここには、才能のない自分にうんざりしながらも、でも、自分には書きたいものが(やりたいことが)あり、きっと自分なら出来ると自惚れながらも、不安でたまらない、そんな女の子の正直な気持ちがちゃんと出ている。だから、見ていて微笑ましいし、清々しい。彼女は特別な存在であり、でも、どこにでもいる普通の子だ。そこには矛盾はない。だから、これは最初に言ったようにちゃんと「等身大の」芝居なのである。
でも、自分ってなんだろうと考えることには流行り廃りなんか関係しない。ただ、それはただの自己満足と紙一重なので気をつけるべきなのだ。気をつけるのべきなのは、その点なのである。小高さんはその辺をちゃんと理解している。
書けなくなった作家が主人公。からっぽの脳みそを叩いて、でも、絞り滓すら出てこない。何人もの編集者が彼女の原稿を待つ。それがプレッシャーになって、余計に行き詰まる。彼女が書きたかったものって何だったのか。
先にも書いたが、このあまりのお膳立てに、ちょっと腰が引けるのはやはり事実だろう。だが、作、主演の小高さんは恥ずかしがることなく、このシチュエーションを堂々と見せる。それを周囲のスタッフが支える。演出の条あけみさんも、彼女の内面に巣食うもうひとりの人格と、現実世界の編集者を演じる関角さんも、とても優しく彼女を見守る。だから、彼女はこんなにも、自由に演じることができたのだ。
何もない舞台で、(舞台美術は箱馬だけ)たったふたりの演者は、お互いと向き合う。ここには、才能のない自分にうんざりしながらも、でも、自分には書きたいものが(やりたいことが)あり、きっと自分なら出来ると自惚れながらも、不安でたまらない、そんな女の子の正直な気持ちがちゃんと出ている。だから、見ていて微笑ましいし、清々しい。彼女は特別な存在であり、でも、どこにでもいる普通の子だ。そこには矛盾はない。だから、これは最初に言ったようにちゃんと「等身大の」芝居なのである。