映画を見ながら、身も心も身体もとんでもなく苦しくなった。この映画が描く世界があまりに息苦しくて耐えられない。それはこの映画がつまらない、ということでは断じてない。この映画が素晴らしいことは断言する。これは今年一番の傑作であろう。(まだ、2月なのだけど)
凄い映画だ。だけど、作品の完成度と僕の抱いた気分は別問題だ。映画が凄いから、こんなにも苦しいのだ。ここに描かれる「世界」はあまりに苦しい。地方で暮らす人たちが主人公だ。炭焼の仕事をしている男(稲垣吾郎)と、彼の2人の友人たちとの物語だ。もちろん、彼の家族も描かれる。妻と中学生の息子の3人暮らし。生活は苦しい。炭焼きという仕事の過酷さ、それに見合う収入はない。それどころか、炭の需要は減る一方だ。なんとかして経営を破綻させないように、努力しているけど、なかなかうまくはいかない。
この村を出て、自衛隊に入っていた友(長谷川博巳)が帰ってくるところから話は始まる。心を閉ざす彼に何があったのか、を巡るお話なのだが、それはあくまでサイドストーリーでしかない。主人公の稲垣と彼の家族、仕事を巡るお話のほうがメインだ。稲垣と同じようにこの町に残った渋川清彦との3人の幼なじみの友情物語でもある。
だが、映画はそんな簡単な図式をたどらない。日常のスケッチとして淡々としたタッチで彼らの日々が綴られていく。大きな事件はない。あまりにさりげなくて、こんな感じのままで2時間は終わるのか、と心配になるほどだ。だけど、それがとても面白い。もちろんその面白さは映画として、のそれである。
何もないことが息苦しく、何もないと言いつつも、実はどんどん彼らは追いつめられていく。この閉塞感が最初に書いた「心も身体も苦しくなった。」である。そして、終盤いきなり事件が起きる。事件とはいっても、生きていたら十分に起こりうることだ。それがあまりにいきなりだから、驚く。冒頭の描写が伏線だったのか、と気づくがそこにはそれ以上の意味はない。こんな悲しいことも生きていれば十分にあり得る。ただ、それだけ。
主人公の死が問題なのではない。39歳の3人の男たちが、再会し、昔の思い出にふける。だけど、それは未来につながらない。人生の半分が過ぎていこうとしているとき、人は何を想い、何を望むのか。人生の後半戦はつらくて苦しい。若かったころのようにはいかない。心と体が衰えてくる。そして何より、そのふたつが融合したものでもある「気力」がなくなる。それは大きい。今の自分の無気力が今更ながら、浮き彫りにされる。この映画を見ながら僕がこんなにもしんどかったのはそこなのだ。彼らを見ながら、自分の今ばかりが思い起こされる。だから、映画に集中できない。そのすべてのシーンが今の自分に突き刺さってくるのだ。(僕は、彼らより20歳も年上だけど、同じように壁にぶつかってうまく歩けないから彼らの痛みが他人ごとではない。)
半世界、で生きる。この世界を受け入れることはできない。ここではない、どこか、でもない。ここには半分の世界しかない。その事実を受け入れる。ここでしか生きられない。ここが自分の場所だからだ。だけど、ここに満足することもできない。不満があるのではない。でも、これではない、「何か」がある。もう半分の世界が理想の世界だ、なんていうわけではない。だが、こことは違う。不満を抱え生きるというのではない。世界は不完全なものだ、なんていうわけでもない。ただ、何かが違う。その違和感の正体はわからない。人はこの息苦しさと向き合い生きていくのか。