さて、日曜日のカメの講義で脱線して広がった話だ。
茄子のみそ汁が旨くできた時、なんて美味しいんだろうって生きてる
ことをしみじみとうれしくなる時がある、茄子とみそ汁の合体が
パーフェクトの時がたまにあって、そんなときはものすごく感動する、
生きてるって感じ~って言うか‥、と、そんな調子の話をする人がいて。
とそこへ「それじゃあちっとも精神的に機能しているとはいえない」
カメが一言でバッサリ切った。
語っていた人を、あれ、珍しく語るなあと思って耳を傾けていたうさこは
唖然としたが「あ~あ」と吹き出してしまった。
語っていた人も「へ?」って驚いている。
確かに‥、カメの指摘は言われてみれば確かに‥そうだった‥。
でも言われないと気づかないで流されてた。
みそ汁が美味い、だからどうした? それがそんなに良いことか?
と突っ込んだわけだけど、意外や意外、この手の話は多いのではなかろうか。
食べ物に限らずこの類いの、ある意味手前味噌な話を滔々と語っている人は
けっこう多いが、近頃、あまり疑問にも思われなくなったのではないか。
むしろ、それこそ、キョーカーン~(byみちゃこ)して喜びと思っている
のではなかろうか。
しかしだ、喜びはぜんぶ、すべて精神的だと思っていると大間違いだ。
嬉しい=良かったーって、そう単純に思っているならバカである。
いや自分がそっと喜ぶ分にはちっともかまやしない、それこそ我が勝手だ。
けれど自分の喜びを「良い事だ」と思うのはカンチガイだ。
それはオレ様脳みそがヨシヨシとうなづいている状態である。
即物的な感情であるのに、臓腑に染み渡る旨味のあまり「生きてる喜び」
「生きてる実感」にまで価値を高められ、すばらしく美的な精神的営みのような
錯覚を抱く。はっきり言って、これを浅はかと言わずして何と言うである。
ここでは謙虚とかツツシミが足りないというのは当てはまらない。ただの
浅はか、無知の領域である。
手前都合のうれしい気持ちは物質的自己満足、脳みそ快楽であるのだが、
自分が喜んでいることは全部良いこと、アンタにも良い事、世間的にも
良い事なんて、拡大解釈しているのは図々しい。
それでは困ったちゃんのアメリカ人になっちまう。
彼らの上っ面っぷりは自国民にさえ信用されていないのだから。
かといって国を出て行くとこないから小さな声で批判してるんだけど。
では真に精神的に機能したうえでの「喜び」とは何か?
やっぱり自分抜きでないといけない。私が喜ぶ、脳が喜ぶ、である。
脳とは利己的性質なのだし、第一、脳は精神ではない。
ランナーズハイは精神的ではないのにハマってしまうと「走る喜び」が
つまり「生きる喜び」になっている人がいる。ランナーズハイのメカニズム
を考えればわかることなのだけれど、自己分析などしない人に限って
走り回る。哲学するランナーは走ることを喜びとは言わないのである。
美味くて嬉しいなら、まず親へ、他者へ、喜びを分かち合いたいという
思いは湧いてこないか?
これを自分だけで食ってていいか?と逆に思わないか?
自分以外の自分のつながりが喜びで満ちたら、最後に自分にも帰ってくる。
やっと自分が喜べ「茄子を精神的に機能させた結果」を得られるのである。
みそ汁が美味かったら美味いみそ汁を作った自分やそれを食べられる自分を
褒めたり喜んだりせずに、この世に茄子があること、茄子のあるこの世に
今自分が存在できて味わうことができるのは誰のおかげかを思うといいんだな。
当然のようにみそ汁を食ってる場合じゃないんだなあ。
「私を滅す」は広く深く、在り方を問われる課題。それができないと
魂を感じることは難しい。脳に振り回され、肉体の呪縛から解かれることはない。
できなければ反対側からアプローチすると見えやすい。
反対側とは、みそ汁に表われたような思考をいま一度疑うことである。
なにげない話だったが、カメの一言でおもしろく理解できたので語った人も
へへへへと納得。うさこもあらためて思い知った。
小さな喜びは、即物的なものなら日常にたくさんある。
それがたくさん溜まったら、きっと溢れてくるだろう。
ひとりでは持ちこたえられない重さになって、自己満足もしていられなく
なるんじゃないだろうか。よほどの欲タカリでないかぎり。
茄子のみそ汁が旨くできた時、なんて美味しいんだろうって生きてる
ことをしみじみとうれしくなる時がある、茄子とみそ汁の合体が
パーフェクトの時がたまにあって、そんなときはものすごく感動する、
生きてるって感じ~って言うか‥、と、そんな調子の話をする人がいて。
とそこへ「それじゃあちっとも精神的に機能しているとはいえない」
カメが一言でバッサリ切った。
語っていた人を、あれ、珍しく語るなあと思って耳を傾けていたうさこは
唖然としたが「あ~あ」と吹き出してしまった。
語っていた人も「へ?」って驚いている。
確かに‥、カメの指摘は言われてみれば確かに‥そうだった‥。
でも言われないと気づかないで流されてた。
みそ汁が美味い、だからどうした? それがそんなに良いことか?
と突っ込んだわけだけど、意外や意外、この手の話は多いのではなかろうか。
食べ物に限らずこの類いの、ある意味手前味噌な話を滔々と語っている人は
けっこう多いが、近頃、あまり疑問にも思われなくなったのではないか。
むしろ、それこそ、キョーカーン~(byみちゃこ)して喜びと思っている
のではなかろうか。
しかしだ、喜びはぜんぶ、すべて精神的だと思っていると大間違いだ。
嬉しい=良かったーって、そう単純に思っているならバカである。
いや自分がそっと喜ぶ分にはちっともかまやしない、それこそ我が勝手だ。
けれど自分の喜びを「良い事だ」と思うのはカンチガイだ。
それはオレ様脳みそがヨシヨシとうなづいている状態である。
即物的な感情であるのに、臓腑に染み渡る旨味のあまり「生きてる喜び」
「生きてる実感」にまで価値を高められ、すばらしく美的な精神的営みのような
錯覚を抱く。はっきり言って、これを浅はかと言わずして何と言うである。
ここでは謙虚とかツツシミが足りないというのは当てはまらない。ただの
浅はか、無知の領域である。
手前都合のうれしい気持ちは物質的自己満足、脳みそ快楽であるのだが、
自分が喜んでいることは全部良いこと、アンタにも良い事、世間的にも
良い事なんて、拡大解釈しているのは図々しい。
それでは困ったちゃんのアメリカ人になっちまう。
彼らの上っ面っぷりは自国民にさえ信用されていないのだから。
かといって国を出て行くとこないから小さな声で批判してるんだけど。
では真に精神的に機能したうえでの「喜び」とは何か?
やっぱり自分抜きでないといけない。私が喜ぶ、脳が喜ぶ、である。
脳とは利己的性質なのだし、第一、脳は精神ではない。
ランナーズハイは精神的ではないのにハマってしまうと「走る喜び」が
つまり「生きる喜び」になっている人がいる。ランナーズハイのメカニズム
を考えればわかることなのだけれど、自己分析などしない人に限って
走り回る。哲学するランナーは走ることを喜びとは言わないのである。
美味くて嬉しいなら、まず親へ、他者へ、喜びを分かち合いたいという
思いは湧いてこないか?
これを自分だけで食ってていいか?と逆に思わないか?
自分以外の自分のつながりが喜びで満ちたら、最後に自分にも帰ってくる。
やっと自分が喜べ「茄子を精神的に機能させた結果」を得られるのである。
みそ汁が美味かったら美味いみそ汁を作った自分やそれを食べられる自分を
褒めたり喜んだりせずに、この世に茄子があること、茄子のあるこの世に
今自分が存在できて味わうことができるのは誰のおかげかを思うといいんだな。
当然のようにみそ汁を食ってる場合じゃないんだなあ。
「私を滅す」は広く深く、在り方を問われる課題。それができないと
魂を感じることは難しい。脳に振り回され、肉体の呪縛から解かれることはない。
できなければ反対側からアプローチすると見えやすい。
反対側とは、みそ汁に表われたような思考をいま一度疑うことである。
なにげない話だったが、カメの一言でおもしろく理解できたので語った人も
へへへへと納得。うさこもあらためて思い知った。
小さな喜びは、即物的なものなら日常にたくさんある。
それがたくさん溜まったら、きっと溢れてくるだろう。
ひとりでは持ちこたえられない重さになって、自己満足もしていられなく
なるんじゃないだろうか。よほどの欲タカリでないかぎり。