想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

こころもよう

2010-08-31 08:38:39 | 

木に映したり、空に映したり、川面をのぞいたり、あるいは人に。
自分のことは自分以外のところに表れる。
単純なことを単純すぎるがゆえに、曲解し、せっかくの写しが
見えなくなることを、策に溺れるという。

自分が思い考える通りに人も思うはずだという思い込みがその
原因となる。
悪人の思考を書いたものを見ると、あるいは事件調書を読むと、
ほとんどの者が失敗するとは考えず、むしろうまくいくと思って
行動を起こしている。

冷静に考えれば起こりうると予測できることも想像できないで
やってしまうのである。これはなにも悪人に限ったことではない。
犯人は脳を支配する利己的遺伝子である。
つまり、誰にでも起こりうることだ。

コフクセイキョウ。いにしえ(古)の書にある。
深呼吸して、腹のうちを空っぽに清らかにせよと。
そうすればおのずと道は目の前にあることが見えてくると。
「虚腹清胸は道を成す象(かたち)なり」
(「旧事本紀大成経」所収、宗徳経かんつもとのおしえぶみ)

苦しい、不安、痛い、これらを超えるに、我慢してもできない
時、それは我慢という段階に私があるからである。
「私」があれば、痛いと思う私がそこにいるのだから超えようがない。
我慢と滅すは異なる段階である。
ではどうしたら滅すことができるのか?

そこで、虚腹清胸。まず深呼吸し、握りしめた手のひらを解け。
体を縛る力を抜け。さらに頭を走り続ける諸々の言葉を読むなかれ。

それができないのでどうしたいいかと尋ねているのだ、と我の強い
人は繰り返し問うてしまう。
どうしたら、どうしたら、どうしたら、と尋ねる。
頭の中から湧いてくる、どうしたらという言葉。防衛する為の利己的な
言葉である。何を守りたいのか?
守りたい我を、しかと見たうえか?

我を滅すために、いにしえの僧たちは座してひたすら経文を唱えた。
経文の音が耳から脳へと入り、その波が海の音のように単純に意味を
なさない渦となり、自らの身体を支える体幹の感覚が消えたころ、
座しているのか、浮いているのか、漂うアワとなる。

傷も傷みもそのまま消えてはいないが、「私」の執着がそこにない。
よって、痛みを覚えることもなくなる。
かゆみの研究をしている医者が、かゆみを感じなくするには原因から
遠いところを冷やせと教えるのは理にかなっている。脳とはそういう
ものであるから。

人のこころもようも、同じようなものである。
こころにもようが波打っているうちは、心というより感情の波だ。
それを止めて映すことなどできない。無常であるから。
先の先の先を読んだつもりでも、読む端から動くものなのだから。

動かぬ部分を捉え、そこに周波を合わせる、コフクセイキョウ。
これはまだ、序の段、おおまかなる方法だ。
けれど煩雑かつ魑魅魍魎の日常のなか、平穏を保ちつつ生き抜くのに
役立つことうけあいである。













コメント
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