想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

己を知る犬、用心してます

2010-08-08 17:39:17 | Weblog
週末、またまた電話不通になってしまい修理に時間が
かかった。金曜日から土曜日にかけて、ネット使えず。
原因は交換所の不具合だそうで、雷が鳴るたびにどこかで
故障してる山ん中である。

ブログ更新はケータイがあるじゃないのと言われても
ケータイでパツパツと打つ根気がないのである。
ゴールドフィンガー10本指なら眼をつぶってもすばやく
打てるが、ケータイは両手を使っても効率が悪い。
電車の中で隣の若い女人がつり革につかまったまま、
ネイルした指先で器用に打ちまくっているのを見ても、
別人種だと思うだけである。

昨日今日と気持ちよい風が吹き空は青い。
山暮らし冥利につきるいいお天気に恵まれた。
外にいる時間が長かったけどやっとこさ更新する気になった。

実はベイビーが三日前から5,6才も老けたみたいに体力が
衰え、ひやひやしていたが…。

庭に出したテーブルでご飯を食べているのにひっついて
まわり、とうとう「なんだかちょうしわりーのー」という
顔になった。発汗が間に合わずぜえぜえ言う。
かなりうろたえたが、カメの指示で脚を水で濡らし冷水で
濡らした背中にタオルをかけてもらって一息ついた。

なんだかなー。
犬もおのれを知るです。
この後はじっとしてました。



「水不洗水」水は水を洗わず。己自身のことを知る、
己自身に触れることは難しいということだけど、
道を求める人ならば、まず己に向き合うことから始めて
いるはずだ。人まね後追いばかりしていると、自分が
見えなくなるけれど、真似ることから始めるのが悪い
わけではない。真似る相手による。

正しいお手本を真似るならば、いずれ己に気づくときが
くるし、そこを通らなければ先はない。
水は水を洗わずという、一方で水の性質とは他も自もない
のである。そのことに気づくと、考えは一歩先へ進む。
「己を知る」は序の口なんである。



禅語は独立していず前後の言葉があるので一行を鵜呑み
にすると浅い解釈になったりする。
とかく現代語訳でやさしい解説を求める傾向があるけど、
できるだけ発刊年数の古いものから選んだほうがハズレ
がない。
けれど、それをまた解説してもらわんとわからんという人
のためにどんどん安易にしていく傾向は止まらないだろう。
言葉の意味はそうやって失われていく。

言葉は書かれた背景をイメージするところから理解へつながる。
言葉を読んで字のごとくサラサラと読んでも心へは届かない。
読み、考え、行動する、これセットで納得なんだなあ。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞑想する森

2010-08-05 13:37:09 | Weblog
森林浴なら、ありふれている。

森に入ったら、森に融けいることだ。
そのために、何をするかというと、忘れることから始める。

つま先から放出した煩悩が、地面に吸い込まれていく。



握ったままの手を解いて、指の間から、爪と皮膚の隙間から
憎らしさと愛しさを両方とも振り落とす。

放たれたものたちは、壁のない森の空間へと散ってゆく。
森は、森そのものが瞑想している。
人間の思いから生ずる邪悪を受けつけず、透明というバリアを張って
開くことで閉じている世界だ。

そういえば、おもしろい話をカメがしてくれた。
「幽霊は壁を通り抜けて向こうへ行くことはできないんだよ、
心霊写真のほとんどは電磁波を捉えたものだね、モヤモヤの正体は
それだよ。で、だとすれば幽霊は重い。
ニュートリノより粗くて重いんだね。
ニュートリノならば、楽々と壁をつきぬけ、大地を突き抜けて地球の
裏側へと貫いていくし、第一撮影できないんだ。衝突の痕跡で検証
するしかないんだ。幽霊の話も科学的にみると面白いことがわかるな。」

そうか、だとすれば情念の塊である幽霊は、雑である。
細やかではないという印象。グジグジと忘れられず固まっていて
執念深い。水を含んだ綿のイメージだ。

瞑想する森には、幽霊はいられない。
だから、ここは清々しい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食べられたバラ‥

2010-08-04 09:32:05 | Weblog

食べるバラといえば、うちでも白バラでジャムを作ったりしたのですが
ほんの少ししかできません。
その少しをいただくのは至福の時ではありますが。手入れして、育てて、
待って、待って、咲いた、花を見て、さあジャムにしよう! って経過は
一年がかりなので、ひと匙の美味しさはたまりません。実際ほんとに美味。
今年はバラ不作で、ジャムどころではなかった。

たくさん食べたかったら(ってバラをたくさん食べるってありえないけど)
バラの花びらで作ったジャム1瓶¥1050円、同じくバラシロップ300ml
¥2100。南信州のマーベラスローズで売ってます。
で、この紅バラ、スカーレットは黄金虫君がタダ食いして荒らしました。

今年はそろそろ開花だなあと楽しみにしていた数日後、留守にして戻ると
花びらはほとんどが虫食いでした。
盛大な饗宴の真っ最中で、もうあきれるばかり。
バラはみんなうつむいて咲いています。どうにか花びらを守ったものも
こころなしか活気がありません。

開花1週間前のニーム撒きが徹底されていなかったのだと反省しました。
付着したままの虫の卵を見落としたのです。
去年も一昨年もとてもきれいに咲いてくれたので、ちょっと油断して
忙しいのを理由に薬撒きを頼んでしまったのです。
それで美しいバラを見ようなんて、虫がよすぎるというもので。
ダジャレにもなんない、ほんとにがっかりしました。

数少ない花を撮ったけど、残念さが全体に漂っていて、バラに
申し訳ない、ほんとにゴメンナサイです。



彼は日に日に足が衰えていくのを感じます。老いをみせてもらって
自分の将来もこうなのだろうなと、教えてもらっています。
一秒一時を、今、今、今、と存在している。
悔いなきように‥、なんてこともこの方は思ってないでしょうね。
ただ、あるべきように、ですね。
ヒト様はこれが一番難しいところで‥。
「あるべきやうわ」(明恵上人)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茄子味噌汁顛末

2010-08-03 09:01:22 | Weblog
さて、日曜日のカメの講義で脱線して広がった話だ。
茄子のみそ汁が旨くできた時、なんて美味しいんだろうって生きてる
ことをしみじみとうれしくなる時がある、茄子とみそ汁の合体が
パーフェクトの時がたまにあって、そんなときはものすごく感動する、
生きてるって感じ~って言うか‥、と、そんな調子の話をする人がいて。

とそこへ「それじゃあちっとも精神的に機能しているとはいえない」
カメが一言でバッサリ切った。
語っていた人を、あれ、珍しく語るなあと思って耳を傾けていたうさこは
唖然としたが「あ~あ」と吹き出してしまった。
語っていた人も「へ?」って驚いている。
確かに‥、カメの指摘は言われてみれば確かに‥そうだった‥。
でも言われないと気づかないで流されてた。

みそ汁が美味い、だからどうした? それがそんなに良いことか?
と突っ込んだわけだけど、意外や意外、この手の話は多いのではなかろうか。
食べ物に限らずこの類いの、ある意味手前味噌な話を滔々と語っている人は
けっこう多いが、近頃、あまり疑問にも思われなくなったのではないか。
むしろ、それこそ、キョーカーン~(byみちゃこ)して喜びと思っている
のではなかろうか。

しかしだ、喜びはぜんぶ、すべて精神的だと思っていると大間違いだ。
嬉しい=良かったーって、そう単純に思っているならバカである。
いや自分がそっと喜ぶ分にはちっともかまやしない、それこそ我が勝手だ。
けれど自分の喜びを「良い事だ」と思うのはカンチガイだ。
それはオレ様脳みそがヨシヨシとうなづいている状態である。

即物的な感情であるのに、臓腑に染み渡る旨味のあまり「生きてる喜び」
「生きてる実感」にまで価値を高められ、すばらしく美的な精神的営みのような
錯覚を抱く。はっきり言って、これを浅はかと言わずして何と言うである。
ここでは謙虚とかツツシミが足りないというのは当てはまらない。ただの
浅はか、無知の領域である。

手前都合のうれしい気持ちは物質的自己満足、脳みそ快楽であるのだが、
自分が喜んでいることは全部良いこと、アンタにも良い事、世間的にも
良い事なんて、拡大解釈しているのは図々しい。
それでは困ったちゃんのアメリカ人になっちまう。
彼らの上っ面っぷりは自国民にさえ信用されていないのだから。
かといって国を出て行くとこないから小さな声で批判してるんだけど。

では真に精神的に機能したうえでの「喜び」とは何か?
やっぱり自分抜きでないといけない。私が喜ぶ、脳が喜ぶ、である。
脳とは利己的性質なのだし、第一、脳は精神ではない。
ランナーズハイは精神的ではないのにハマってしまうと「走る喜び」が
つまり「生きる喜び」になっている人がいる。ランナーズハイのメカニズム
を考えればわかることなのだけれど、自己分析などしない人に限って
走り回る。哲学するランナーは走ることを喜びとは言わないのである。

美味くて嬉しいなら、まず親へ、他者へ、喜びを分かち合いたいという
思いは湧いてこないか?
これを自分だけで食ってていいか?と逆に思わないか? 
自分以外の自分のつながりが喜びで満ちたら、最後に自分にも帰ってくる。
やっと自分が喜べ「茄子を精神的に機能させた結果」を得られるのである。



みそ汁が美味かったら美味いみそ汁を作った自分やそれを食べられる自分を
褒めたり喜んだりせずに、この世に茄子があること、茄子のあるこの世に
今自分が存在できて味わうことができるのは誰のおかげかを思うといいんだな。
当然のようにみそ汁を食ってる場合じゃないんだなあ。

「私を滅す」は広く深く、在り方を問われる課題。それができないと
魂を感じることは難しい。脳に振り回され、肉体の呪縛から解かれることはない。
できなければ反対側からアプローチすると見えやすい。
反対側とは、みそ汁に表われたような思考をいま一度疑うことである。
なにげない話だったが、カメの一言でおもしろく理解できたので語った人も
へへへへと納得。うさこもあらためて思い知った。

小さな喜びは、即物的なものなら日常にたくさんある。
それがたくさん溜まったら、きっと溢れてくるだろう。
ひとりでは持ちこたえられない重さになって、自己満足もしていられなく
なるんじゃないだろうか。よほどの欲タカリでないかぎり。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜はダメよ

2010-08-02 11:16:11 | Weblog
金融危機で大騒動のギリシア、ギリシアといえば‥。
メリナ・メルクーリの歌う「日曜はだめよ」を唐突に聴きたくなる。
いい映画だよなあ、でもこの歌あっての映画。
台詞も良かった。俄かギリシア通の賢そうなアメリカ人が娼婦イリヤを
教育しようとするが、屈服従属しないイリヤ。そのやり取りが痛快だ。
どっちがバカかって? その見方で価値観が問われる映画であるから
最後まで見ないとわからないんである。

半世紀過ぎた今日、映画で描かれたアメリカ人像はそこここにいそうで
成金アメリカ人の困ったちゃんぶりはあいかわらずである。
いつでも上っ面の正義感で他所様ンちで勝手をして、威張っている。
先見の明の作品であるなあ。10センチの正しさを数万キロの正しさの
中で振りかざす人(カメ曰く)

歌いながらでかける用意をする。
この歌は踊りながら口ずさむと調子が出る。
それを寝たまま見送ろうとしているので、鼻水が‥、落ちてますよ。
行動パターンを知りすぎて先読みするので、まだ寝ていても
置いていかれる心配はないと思って楽に構えている。

玄関で靴を履き終える頃、やおら立ち上がり、こつ然と目の前に
立ちはだかり、一緒に行くぜーオーラを放ち始めるのである。
君は灼熱地獄へそんなに行きたいか?



行きたい! 一緒に行きたい!
でも日曜はダメよ。カメの講義の日だからダメよ、今日は大事な日だから。
で、君は留守番のほうがいいよ。らくちんで寝ててくれ。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする