今朝は早起きをして愛犬ゴンタと観月公園にお散歩にでかけました。ちょうど生駒の山から朝日が顔をのぞかせる、そんな時間でしたが、小鳥たちはもっと早起きでした。ネズミモチの樹には、何羽かのメジロが愛嬌のある表情をして朝のお食事中でした。天気予報では今日は3月下旬の暖かさだとか。ゴンタは草をかき分け、落葉をかき分け、嬉しそうに歩いていました。
ところで2月1日は、私の母の命日でした。あれから、30年以上も経ってしまいましたが、先日、母と仲の良かった出雲の叔母が亡くなりました。父の末の妹にあたります。私も小さい頃から可愛がっていただき、母が他界した後もいろいろな場面で励ましの言葉をいただきました。気がついたら、父の兄弟姉妹で今も元気なのは松江の伯父1人になってしまいました。手の平に乗せた白砂が指の間からさらさらとこぼれていくような、私の古き良き時代の思い出が何事もなかったように手許から離れていくような、そんな淋しさがあります。
さてさて、先週もめまぐるしく1週間が過ぎて行きました。後ろを振り返る余裕なんてどこにもありません。とにかく、これが終わったら、あちら。あちらが終わったら、こちら。家に帰って、やっと落ち着いて、本をもってベッドに横たわるのですが、気がつけば朝。休日と違って平日は目覚まし代わりのラジオの音で飛び起きる。洗面、髭剃り、整髪、食事(といっても立ったままで野菜ジュースを飲むだけ)、そして愛犬ゴンタに朝のご挨拶をして玄関口に。この間およそ15分の早業です。6時45分には自宅を出ます。
私にとって本当の朝は、実は通勤電車を降りた駅近くの喫茶店で始まります。新聞3紙に目を通します。超整理手帳を取り出して1日のスケジュールを確認します。この間、およそ30分。バスに乗って職場に到着するのが午前8時15分。ここ数年、こうして心身をならしながらエンジン全開、となるのでした。
それでも、ふっと立ち止まる時があります。都会の朝の、何気ない風景のなかに、遠い昔の風景を思い浮かべることがあります。そう、朝靄につつまれた都会の風景に出会ったとき、雨に濡れて疲れ切った都会の風景に出会ったとき、街の中を流れる小さな川面に鴨の一家の姿を見つけたとき、神社の大きな樹の下で寒そうに私を見つめる子猫に出会ったとき...「お~い、大丈夫か?お母さんはどこ?」と心の中で話しかけたとき。そんな朝は、これでいいんだろうか、こんな生活をしていていいんだろうか、なんて思いながら、かと言って何ができるわけでもなく足早に通り過ぎる、そんな日々。
昨日、天満橋行きのバスに乗っていて、ぼんやりと車窓を眺めていたら、対向車線を走るバスの行先案内板の「焼野」と言う文字が飛び込んできました。その瞬間に目の前に広い原っぱに漂う何とも言えない煙の臭いが私を包みこみました。もちろん幻想に過ぎません。交通渋滞で止まったままのバスの中で、視界から都会の喧騒(風景)が消え、夕暮れの原っぱが頭の中をよぎる。妙な経験をしました。
このところ少しお疲れのようです。すべてが自分の判断で動いていくことの躊躇、恐怖心のようなものが、私の心を弱気にさせます。現実逃避を誘います。
いやいや、日曜日ぐらいは目いっぱい楽しいことを考えよう。仕事のことなんて忘れよう。そんな強がりを言う。いやですねぇ。なんだか病的になってきましたよ。いやいや、病気なんかではありません。甘えなんでしょうよ。きっと。誰かに甘えたい。ひょっとしたら母に甘えたい。そんな幼稚な妄想が忘れた頃にふっと浮かんでは消えていく。還暦を過ぎたいい大人が、こんな体たらくでは駄目ですねえ。
今日は、グレン・グールドのCD「images」を聴きながらのブログ更新でした。きょうはこれから家内と一緒に近くの図書館にでかけます。そして午後は、彼の著作集を楽しむことにいたしましょう。