心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

62歳の夏

2012-08-12 10:23:53 | 古本フェア

 きのうの雨のせいでしょうか。きょうは爽やかな朝の風に目覚めました。元気いっぱいの夏蝉も、私をほってはおきません。「はやく起きろ、はやく起きろ」と聞こえるのは気のせいでしょうか。

 さて、お盆を前にお休みに入ると、さっそく長女の孫君がリュックを背負って一人でやってきました。リュックの中には、工作道具一式と絵本、それに着替えと歯磨きセットです。私の出張の身支度とあまり変わらないので笑ってしまいましたが、ふだん老夫婦(?)で静かに暮らしている我が家のこと、急に賑やかになって愛犬ゴンタも昼寝の邪魔をされて不機嫌でした。
 初日は孫君お気に入りの近くの温泉に出かけました。温泉と言っても街外れの地下1200mから沸いた天然温泉を元湯に営業しているスパ施設で、我が家から車で10分ほどのところ。露天風呂から炭酸泉、岩盤浴、サウナなど数えきれないお風呂があります。水泳教室に通っている孫君にとってはお遊び空間なんでしょう。その間、私はサウナで疲れを癒します。かの舘野泉さんは、フィンランドの湖畔の別荘でサウナに入ったあと湖でひと泳ぎするのだという言いますが、私にはそんな贅沢はできません。

 そして翌日、きのうの土曜日は、京都・下鴨神社糺の森で開かれている京都古書研究会主催の「下鴨納涼古本まつり」に孫君を連れて行きました。お天気が心配でしたが、初日ということもあって大勢のお客さんで賑わっていました。とりあえず、孫君はお祖母ちゃんに預けて、私は店舗を1軒1軒見て回りました。といっても、そうそう自由も利かないので、児童書コーナーで合流するのですが、とたんにゴロゴロと雷鳴が轟き始めると、大粒の雨がぽつり、またぽつり。急いでテントの中に避難しました。その後、30分ほどの間、雨が降り続きましたが、小雨になるとどこからともなくお客が集まってきます。お店も、ビニールをうまく利用して少々の雨が降っても一応の営業はできるようになっています。よくご存知の方は小雨ぐらいでは帰らない。さすが京都人と納得したものです。そんなドタバタの中でも、私はT・E・ロレンス著「知恵の七柱」(全3巻)、山口昌男著「知の遠近法」なんぞを手にしてお帰りでした。もちろん孫君も何冊かの児童絵本を手にして。
 
 帰途、孫君の手を取って鬱蒼とした神木の下を歩きながら、ふと思い出したことがありました。その昔、下鴨神社の禰宜(ねぎ)を務めた鴨長継の子、「方丈記」を著した鴨長明のことです。私は3年前の夏、なぜか方丈記を読んだことがあります。このブログでも2009年8月16日付「暑い夏に方丈記を読む」で紹介しました。
 いわく「59歳を迎えた今夏、一冊の本を読んでいます。大阪・梅田の旭屋書店で時間待ちをしていたときに手にした「方丈記」です。・・・・・でも何故いま「方丈記」なのかって?」。1900年、南方熊楠が英国から帰国後、菌類などの生物採集と論文執筆の傍ら「方丈記」の翻訳に取り組んだことを紹介し、「ロンドンという世界都市から一転して熊野の山奥に独りで暮らすことになった熊楠が、いったい何を思い、何を考えたのか。なぜ「方丈記」なのか」と自問します。そこには、リタイアを数年後に控えた我が身を思う迷いがあったのかもしれません。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

 「方丈記」はまさに無常観を象徴する書き出しで始まります。貴族から武士の時代に変わろうという激変の時代に、京の都は大火、辻風、飢餓、大地震に見舞われます。ものの儚さ、ものの哀れ。天変地変に逃げ惑う人々の姿を冷徹なまでに見つめ記していった長明。私たちは、3・11というとてつもなく大きな自然の暴力に遭遇し、人の無力感さえ思いました。しかし、長明は挫けることなく、冷徹な目で時代を見つめ、人間存在の本質に迫ろうとしています。62歳を迎えたこの夏、改めて方丈記を再読、熟読吟味する気を強くします。

 このブログでは毎年この時期に「○○歳の夏」と題するエッセイを綴ってきました。久しぶりに過去のそれを再読してみると。
 去年(2011年)は、九州旅行中に読み耽った多田富雄先生の著書に触れながら、「いのちの尊厳」を「機能回復」と「人間存在」の両面から見つめました。還暦を迎えた2010年には、宇治・平等院を訪れたことに触れながら、同時代に西洋で興った十字軍の歴史から宗教と倫理観、そしてヴェーバーの世界へと言葉をつなぎました。還暦まであと1年に迫った2009年、方丈記を読み、鴨長明の時代を見つめる視点に注目しましたが、その前年の2008年には、徳島で見学した阿波踊りから「守破離」「型」について考えました。
 職場で大きな変化があった2007年には、思い立って伊吹山に登って山頂から下界を眺めたためでしょうか、雑誌「現代思想」の創刊号巻頭言を引き合いに大きな時代認識と自らの生い立ちを振り返っています。長男君の結婚を控えた2006年の夏には、かつて子どもたちとよく出かけた湖北の山小屋で静養し、仕事一筋の生き方にいったん距離を置こうとしている心の動きが垣間見えます。2005年には、北海道・知床という非日常的な風景に身をおいて、一人の人間としての生き方を考えようとしました。この数年は、子供たちが我が家を巣立っていく時期と重なります......。あれから7年、いまは孫君が我が家を走り回っています。湖北の山小屋も、そろそろ始末するか、それとも建て直すか。人生の最終章に向けて小さな一歩を踏み出そうとしています。

 いずれも脈絡のない記述に終始していますが、振り返ってみると、自らの生き様を時代の大きな流れの中で捉え直すのに四苦八苦している様子が見てとれます。と言えば恰好よく見えますが、あまり成長がないというべきか、同じところで行ったり来たりしている自分自身を思います。これが、今夏62歳を迎える私の幼稚性なのでしょう。きっと。
 きょうは、舘野泉さんのCDから「北の調べ~フィンランド・ピアノ名曲集」を聴きながらのブログ更新でした。今週末から来週頭にかけて広島出張となります。また翌週の土日を挟んで小旅行にでかけますので、今月のブログ更新は不定期になりそうです。

コメント