銀の馬車道ウォークでは、街中、芳しい金木犀の香りに包まれましたが、我が家の金木犀には未だ花芽を確認することができません。気温の違いなんでしょうか。虫の音が聞こえる秋の夜長、生野銀山お土産の「鉱石」を眺めながら、気長に待つことにいたしましょう。 話はがらりと変わりますが、先日、広島で、今年4月に着任された某女史を私の部屋にお呼びして、この半年間のご様子を伺いました。なんとか踏ん張ってくれているようですが、いろいろ話を聞いていると、前の職場とは異なる雰囲気(文化)に戸惑いの色もちらほら。終始にこやかな素敵な笑顔が救いでした。
そんなある日、今度は大阪で、経済団体主催のフォーラムで、元ラグビー日本代表の林敏之さんの講演を聞きました。こちらは笑顔というよりも、熱血漢。50代にしてなお全身に充満する情熱。競合チームに勝利したときの感動。考えてみると、最近、素直に身体全身で感動することが少なくなっているようにも思えます。ご用心、ご用心。
先週ご紹介した高橋昌一郎著「小林秀雄の哲学」を読み終えて、これまでアトランダムに斜め読みしてきた小林秀雄の世界が、なんとなくぼんやりと見えてきたような気がしています。その本の中で、何度か引用されていたのが、高見沢潤子著「兄 小林秀雄との対話~人生について~」(講談社)です。 実はこの本、2年前の2011年6月19日付のブログで触れていますが、富山市に出張した際、今井古書堂さんで購入しています。ぱらぱらとめくって、その後書棚で眠っていました。著者曰く、「兄のむずかしい数々の作品の意味を、やさしく、(読者に)わからせてあげたい」という思いから、兄との対話を通じてその記録を綴ったのだそうです。本腰で読み始めてみると、これがなかなか面白い。
「大和ごころについて」「美について」「人生とはなにか~生きる意味」「人間としての兄」の四部構成になっていて、ちょうど今、第三部に入ったところですが、何よりも、兄妹との間で、こんなにも深い対話ができていることに、ある種の驚きがありました。羨ましくも思いました。
妹が「もうすこし、やさしく書いてもらえないか」と言うと、兄は「書けないね。やさしくしようとすれば、ちがったことを書いてしまうんだ。苦心に苦心して、くふうをこらして、選んだことばは一つしかないのだ」と。そして、デカルトを例に「最初は、わかっても、わからなくても、しんぼうして終わりまで読み通すこと、それでぼんやり、どんなことが書かれているかがわかったら、こんどはもう一度、はじめから読みなおし、わからないところに棒をひきながら読む。そのつぎは棒のひいてあるところを考えながら、念を入れて読みなおす。そしてもう一度、とにかく、四度はよまなくちゃわからない」と。私には真似のできないことですが、それほどまでに真剣に時代を見つめていた小林秀雄の人となりを思いました。
「美について」の中に、こんなくだりがあります。「美とは感じるものだ」「感受性がだいじなんだ。子どもにもセンシビリティ(感受性)とエモーション(情緒)を育てなくちゃなんにもならんよ」「ゴッホの絵だとか、モーツアルトの音楽に、理屈なしにね。頭で考えないで、ごくすなおに感動するんだ」。
妙に知識だけが増えてきて、人間本来の持つべき大事なことが軽んじられる昨今、重たい提言と受け止めました。 さて、10月最初の週末を迎えましたが、明日、明後日と、亡き兄の法要のため、田舎にとんぼ返りです。残念ながら私には、時代の求めるテーマについて兄姉らと真剣に深く語り合うなんてことはありませんでした。1年ぶりに再会する姉たちには、いつまでたっても「○○ちゃん」と子ども扱いにされては、夢のまた夢なんでしょうよ。きっと。
明日は、「兄 小林秀雄との対話」をバッグに入れてお出かけです。久しぶりに山懐にひっそりと佇む温泉宿に一泊し、翌日早朝にお姉さん方がお待ちかねの実家に移動する予定です。