久しぶりに「日本の七十二候」を開くと、第五十二候 霜降 初候 「霜始降」とあります。霜が初めて降りる意味だそうです。厳しくも美しい晩秋の初霜でしょうか。都会にいるとそんな感覚はありませんが、先週兄の三回忌で田舎に帰ったとき、早朝の気温が3度と聞いて納得した次第です。 いつものように途中で姉夫婦らと温泉宿に立ち寄りました。肌にまとわりつく透明な泉質(単純アルカリ泉)が、私たち夫婦のお気に入りです。夕食前のひととき宿の周囲を散策していると、八重の秋明菊を見つけました。野生?いやいや、これは人為的に移植したんでしょうよ。おそらく。床の間にも添えてありました。
話はがらりと変わりますが、おととい仕事帰りに駅前のヨドバシカメラに寄って、PCオーディオ用のUSBケーブルを買って帰りました。パソコンとDAC(デジタルをアナログに変換するコンバーター)を繫ぐものです。70センチほどの電線が5700円。高いと思いましたが、陳列棚には数万円もするものもありました。帰宅して、DAC付属のケーブルと取り換えて驚きました。がさつきが気になっていた音が、なんと汚れのない素直な音に変わりました。この音であのお値段なら文句は言えません。
家内から思い切って買い換えたらというお話しもいただきますが、今ある装置に少しずつ手を加えながら音の変化を楽しむのも良いものです。ちょうど今、ラザール・ベルマンのLP「カーネギーホール・コンサート」(2枚組)を聴きながらデジタル音源に変換中です。
さて、きのうは京都国立博物館で開催中の「国宝鳥獣戯画と高山寺」展に行ってきました。京都国立博物館を訪れたのは、そう、2001年の特別展覧会「ヒューマン・イメージ」以来です。朝10時に家を出ると11時15分過ぎに到着しました。が、構内に入って驚きました。土曜日ということもあって長蛇の列です。最後尾のプラカードの所に並ぶと90分待ちのアナウンス。う~ん。でも、辛抱しました。その間、塩野七生さんの「ローマ人の物語」(35巻)を読み終えました。ディオクレティアヌス帝が退位した西暦300年当時のローマ帝国の世界にのめり込んでいました。
長い長い行列を終えて、やっと館内に入れたのは午後1時前でした。途端にローマ帝国の「石」の世界から、中世日本の「紙」の世界に場面が変わります。平安、鎌倉時代の1200年の頃の、紙に書かれた文字が目の前に広がります。文書の意味は判りませんが、現代科学の粋を集めて施された保存技術によって、紙と墨の文化が一千年後の今に浮かび上がってきます。
ふと思いました。現代の「心」は一千年後にはどういう形で残るのだろうかと。紙に文字を書く習慣が廃れ、文書の大半がデジタル媒体としてPCの中に蓄積されていく。目の前の「形」が数字の羅列に置き換えられ、「形」から「心」を読み解くことが難しくなった。停電によって一瞬のうちにパソコンのデータが消去されてしまうことだってある。
モノとしての文字と情報としての文字。ディオクレティアヌス帝が2千年前に発令した価格統制勅令は石板に刻まれて、今日に伝えています。2千年という時間軸を思うと、現代のパソコンなんてどうなっているかさえ判らない.....。そんなことを考えていると眠れなくなってしまいます。 そして、なによりも驚いたのは、平安、鎌倉時代の人々の「遊び心」でした。鳥獣戯画、正確には鳥獣人物戯画というのだそうです。動物たちの生き生きとした姿。兎組と蛙組が争う賭弓の儀式、蛙の田楽踊り、兎と蛙の相撲、........。こういう滑稽さ、明るさ、心の豊かさ。そして当時の人々の屈託のなさ。暗闇に浮かぶ墨絵の世界から、当時の人々の生き生きした姿、心が浮かび上がってきました。
大きな課題をいただいて博物館を跡にしました。ちょうどこの日に発売された「芸術新潮」今号の特集は「大人の修学旅行は、京都国立博物館で。」でした。