いよいよリトアニアに行く日、湖水地方からリスアニアの国境までは200km近く。キャンプサイトは国境から一番近くを選んだ。
けしや菜の花畑、麦畑などの平野を行くと野原でえさを漁っているコウノトリを良く見かける。この冬はポルトガル、スペインでコウノトリばかり見ていたが、こんな寒い国までいるとは知らなかった。彼らは3月ごろにアフリカから北上し、北ヨーロッパで巣造りし雛を育て秋にはアフリカへ帰ってゆくという。
ポーランドの畑地からリスアニアのいたるところでほとんど毎日くらいに見かけた。
NHKのテレビ番組を見ていたら、豊岡市では30年前に絶滅した日本コウノトリを自然農法に変える事により、コウノトリが繁殖し始めたという。農薬使用を止めたことで,コウノトリの餌のかえるや虫が増え始めたそうだ。
そう思ってみるとポーランドやリトアニア、ポルトガル、スペインなど自然がスポイルされていなくて、コウノトリが雛を育てられる土壌があるのだろう。
ロンリープラネットのリトアニアの紹介記事を読んでいたら、コウノトリが自宅の周囲に巣を作ると幸せがやってくるとの言い伝えがあるそうで、3月25日はストーク・デイというお祭りがある。
リトアニアがロシアから独立したのは1990年3月11日、これがきっかけでロシアの共産圏が解体した。長年のロシアの統治下で経済停滞を余儀なくされ今もロシアに賠償金を要求している。首都ヴィリニュスや都市と農村部での経済格差が大きく農村部の34%は貧困にあえいでいるという。
2004年11月にEUに加盟し、ヴィザ無しで自由に旅行できるようになった。ポーランドからリトアニアの国境も誰もいなくて、なんだか拍子抜けした感じだった。
この夜はシュライチ(Silaiciai)という国境近くの村はずれのポルサービェテ・リゾート(Poilsiaviete Resort)に併設されたキャンプサイトで一泊した。私たちのほかには赤ちゃんを連れた若いドイツ人夫婦がキャンプしていた。
この国の貨幣リトアニア・リタ(ス)を持っていないがといったらユーロでいいとのことで一泊15ユーロを払った。
松林の中のカラフルなシャレーが並び、この国もヨーロッパに遅れを取っていないと感じたものだが・・・
サイトの奥は湖が広がり子供の遊び場があり、湖では泳げるようだった。夕方20人くらい親子連れの土地の人たちが湖へ遊びに来た。彼らの声以外は小鳥のさえずりしか聞こえない林の中だった。
ヨーロッパの北部は6月が真夏、ポーランドの湖水地方で今年初めての蚊の攻撃を受けそれ以来、毎夕には蚊取り線香が離せない。ここのサイトでは日中は小さなブヨが網戸を通って入ってくるから、日中から蚊取り線香をつけていた。それにしても毎日暑くて、夜も網戸だけでシーツもかけないで寝ている。
日本は30度を越えているのをニュースで知り、今年の夏は日本人には酷熱地獄になるのかと気の毒に思った。
水辺の一箇所に白い蝶の群れているところが在った。きっとこの土には彼らが必要としているミネラルが在るに違いない。
リトアニアの首都ヴィリニュスのキャンプサイトは町外れのエキスポ展示会場の隣にあった。そして着いた日にはこの会場で国際会議が行われていてその警備の厳しいこと、会場周囲をマシンガンやハンドガンを持った警察官が取り巻いていて、キャンプサイトへ入るのも大変だった。
それにまだこの国の貨幣リトアニアン・リタスも持っていない。まずはキャッシュマシーンでお金を下ろそうと教えられたガレージへ行ったが、そのマシーンがカードをうけ入れてくれない。この日は湿度の高い暑い日で、二人で2kmほども坂道を登り町外れのうらぶれたショッピングセンターにキャシュマシーンを見つけた。
この辺りは国営のアパートらしくグレイの全然美しさの無い、箱を積み上げたようなアパート群が並んでいた。
翌朝旧市街へ行くトローリーバスに乗るためにバス停に行ったのに、字が読めないばかりか会話も出来ないから、まったく反対方向へ行ってしまい、心細い思いをした。若い人たちは英語が出来て、二人の女性に教えられバスを乗り継いでやっと旧市街へ着いた。
ヴィリニュスは北のジョルーサレムと呼ばれているくらい、ユダヤ人の多いところで、第二次戦争時、日本の大使館員 杉原千畝(ちうね)氏が6000人のユダヤ人に通過ビザを発給し助けた話はこの地で起こったことだと初めて知った。この杉原氏は戦後ロシアから帰国後外務省から強制退職に追い込まれた。こういうこともインターネットを見て初めて彼の生涯を知った。3月の地震津波の被害に世界中から義捐金が集まったが、その中に杉原氏のおかげで助かったユダヤ人のアメリカグループからも贈られてきたという。
ヴィリニュスは13世紀から開けた町で15世紀には中世都市として発展した。教会の多い町だがローマカソリックのみならず、ロシア正教もユダヤシナゴーグもある多宗教の町として発展した。
今日は土曜日、あちこちのキリスト教会では結婚式が行われ、幸せなカップルをたくさん見かけた。
上の写真はセント・アン教会で後期ゴシック建築のマスターピースといわれ、ナポレオンが特に気に入って、手の中に入れてパリに持ち帰りたいと言ったそうな。
下はロシア正教の教会で、デコレーションはギリシャ正教に似ている。ローマカソリックとは雰囲気がまったくちがう。
町の中心のお土産屋さん、この国は琥珀が有名で、たくさん屋台や宝石店などで琥珀の装身具を見た。帰りに買ってゆこう。
ここはタウンホール、まだ新しいようで、ドイツやフランス、ポーランドのタウンホールのように町一番の派手派手なデコレーションがない。
下は首相官邸、ここは16世紀に貴族の館として作られ、時代時代にナポレオンやロシアの皇帝、フランスのルイ18世等が住んだことが在るという。
下のケーキーのデコレーションのような教会はセント・カシミアー教会でリスアニアの初めてのバロック教会、中では結婚式の真っ最中だった。
下のオーソドックス・チャーチは団体客が押しかけて、フラシュをつけてジャンジャカ写真をとっていて、なんだか神様に悪いような気になりすぐ出てきた。でも内装はすばらしい。
この町で一番最後に入ったセント・テレサ教会は薄暗い中で、パイプオルガンが鳴り響き、すばらしいコーラスグループが宗教曲の練習をしていた。パイプオルガンもすばらしかったが男女数人で歌われる宗教曲は涙が湧き出てくるほどにすごい感銘を受け、20分ほども聞きほれていた。教会は本当に音響効果が良い、きれいなソプラノや男らしいバリトンの声、たぶん6人くらいで歌っているらしいがパイプオルガンの暗がりではっきりみえなかった。
宗教心のまったく無い私だが、こんなときの宗教音楽には心奪われる。
ヴィリニュスの日中は暑かったのに、その夕方から降りだした雨で気温は一度に10度くらいは下がってしまった。翌朝も小雨降る中を北へ向かった。
道路はほとんどがまっすぐで、まるでローマ人が作ったみたい。しかし舗装がはげていたりメインテナンスが行き届いていないせいでとってもスムーズには走れない。
道端に時々現れる農家は数軒がかたまっていて灰色に見える。これは後ほど判った事だがこの辺りの農家は母屋を中心に納屋や牛馬の小屋、それに牛馬の飼料小屋などがぐるりと取り囲んでいて小さな集落を作り村のように見える、これで一家族なのだろう。始めに農村の多くが貧困にあるとロンリープラネットを読んだせいで先入観が出来てしまった。
北東リトアニアはこの写真でわかるように湖水地帯で、ヴィリニュスから200km余りで目的のキャンプサイトに到着した。サイトの女主人の老婦人は英語が全く出来なくて、片言のドイツ語で話しかけてくる。身振り手振りで、洗濯機を使いたいと頼み5リタスを払ったが、午後遅く洗濯物を持っていったら誰もいない。
諦めてオフィスの近くに洗濯物を置いて近くを散歩したり写真をとったりして,帰って見たら女主人が洗濯機に入れて洗い始めていた。ところがこの辺りの洗濯機は3時間もかかる。(ワルシャワのサイトでも3時間かかった)洗濯物が終わったのが夜の9時過ぎだった。3時間も回り続けた洗濯物は本当にきれいだけれど、あせりの私には向かない。
ヨーロッパの湖水地方は山が無くて林の中に広がる大小の湖はどこを見ても全く同じに見える。空中写真ならばどんなに素敵かもしれないが、林の中から写す写真はあまりすばらしいと思わないし、写すものがない。
キャンプサイトの一角に木彫りのイスやブランコなどが在り、このサイトの息子が彫ったものらしい。彼らの本宅の庭にも同じようなものが在った。それに背の高い赤松が多いからこの木材でログハウスなどを作るのであろう。皮をむいた丸太がきれいに並んで乾燥のプロセスらしかった。この地域は冬は長く寒いらしい。まだ冬には数ヶ月も在るのにストーヴの薪が積み上げられてあった。
サイトの庭から湖へ降りてゆくと飲み水との表示が在り、きれいな水が地中から流れ出ている。辺りの人たちがポリタンクなどを持って水を持ち帰るのを見て、私たちもポリタンクいっぱいに入れた。この水は非常に冷たくて翌朝も冷蔵庫から出したくらいに冷えていた。
このザラセイ(Zarasei)のキャンプサイトは私たちだけだったので、静かで朝は誰もいない。老婦人もおきてこないし、挨拶もしないでサイトを去った。サイトから1kmも行かないうちにここは相当大きな町だということがわかり驚いた。立派なオフィスブロックやきれいに手入れされた公園などがメイン道路に沿って建ち並んでいる。
この町を過ぎて数キロでラトヴィアに入国した。こんなに国境に近い町だとは思っていなかったから、あらためて驚いた。
ラトヴィアへ入国するも国境には誰もいず、道路は2車線でまっすぐだが、目に見えて状態は悪くなった。これが国と国を結ぶ国道かと亭主はぼやく。
乗用車だと揺れが少ないがキャンパーの中の家具や什器すべてが揺れに揺れがたがたひどい音を立てるからとっても早くは走れない。
今夜の宿泊地レゼクネ(Rezekne)は町の中心地から10Kmほど離れているから入国して一番近いダウガヴィルス(Daugavpils)の町でこの国の貨幣ラッツをおろすことに決めた。下のグレイの建物はダウガヴィルスの町の入り口の刑務所、だからなおのこときれいじゃないが・・・・。
それほど大きな町ではなく、道も碁盤の目のようになっているから、銀行かキャシュマシーンを探すのはそれほどたいしたことは無いとたかをくくって行ったが、それが大間違い。町のにぎやかな通りまで行かないと、キャシュマシーンは見当たらない。にぎやかな通りでも2車線でおまけにあちこちで道路工事、通行止め。さすがのミセス・ナヴィすら狂ってしまった。
亭主も半分おかしくなり早くこの町を出ようとあせりまくっている。やっと見つけたキャシュマシーンで100ラッツを下ろしたがこれがいくらになるか見当もつかない。
狭い道をぐるぐる回りやっと町を取り囲むリングロードにたどり着いたが、この時点でミセス・ナヴィが狂っていることには気がつかなかった。リングロードを反対方向に指示されおかしいと思いながらも行くとずいぶん遠回りの末、松林の中の一車線の舗装されていない道を指示したり国道を走っているのに、わき道を指示したりして、初めて狂っているのが判った。
今夜のキャンプサイトも湖のほとり、この地域もリスアニアと同じく湖水地帯でこれらの湖水の東側がロシアとの国境になっている。そして湖水地帯には蚊がはびこる。
この菜の花畑は菜種油を採るのだろう。ここラトビアからエストニアにかけて一面黄色の海みたいだった。ほかには麦畑とジャガイモ畑。ラトビアのほうが酪農が盛んだった。
ラトヴィアはソビエト時代、重工業が盛んでロシアの列車は95%がメイド・イン・ラトヴィアだったという。ところが1991年に独立して以来、これらの重工業は見捨てられ廃棄され、バルティック3国の中で一番経済的に苦しいのがこの国だという。首都リガの周辺は国土も整備されているが、地方までは行きとどかない。
これらのことを知ったのはエストニアへ行った後で、ただ一日通っただけでも感じはわかるものだ。
レゼクネ(Rezekne)のキャンプサイトはログハウスが並ぶホリディ・リゾートでこの日も私たちのキャンパー一台だけだった。Wifi使用が只だったがキャンパーの中からはインターネットがつながらず、オフィスのソファーに座ってブログを書き送った。
翌朝ミセス・ナヴィがロシアの国境を行く指示を出さないよう、地図をしっかり調べてキャンプサイトを出発した。エストニアの南の町ヴォル(Voru)まで205Km、この国は道路事情が悪くとも道路を走っている車が非常に少ないから道路工事が行われていても長く待たされることがない。
ところが途中の国道が真新しい舗装道路で大喜びで飛ばしていたら、30kmほど行ったところで工事中、それ以降は未舗装の洗濯板状の石ころ道が続き、これほどひどい道はアイスランド以来だと亭主の嘆くこと。村や町に入ると舗装になっているからこの国も後数年すれば国道が全部舗装されるかもしれない。
後20kmくらいでエストニアに着くころに、ミセス・ナヴィに又やられた。近道の指示で曲がったところが森の中の未舗装の道、20kmも走ったが車一台にも会わず、農家3軒ときれいな住宅一軒を見かけたきり、村さえ通らなかった。
予定より一時間半も遅れてラトヴィアの首都リガからロシアへ一直線に伸びているハイウエーにたどり着いた。
このハイウエーを横切り北へ向かってすぐに二人の警察官に止められた。亭主はスピード違反をしたかとドキッとしたというが、ここがエストニアの国境だとわかりパスポートを見せてOKが出た。こんな田舎道でも国境検閲があるのならもっと立派な国道で国境サインもしっかり見たかった。
エストニアに入った途端道路がスムーズ、時々見かける農家もきれいで、豊かさを感じる。道路がきれいだと気分も良くなり,快調にキャンパーを飛ばしてヴォルの町に着いた。
キャンプサイトへ行く前にこの国の通貨エストニアン・クローナをおろそうと町の中心へ向かったら、すぐ大きなスーパーを見つけた。
キャシュマシーンで100ポンド分のエストニアン・クローナは1700クローナでカードを入れたら、最高100しか引き出せない。”何だ これは???”でてきた100のお金はユーロだった。まだピンと来なくてほかのキャシュマシーンを試してみたがそこでも20ユーロ引きおろした。これでこの国がユーロを使っていることを知り、スーパーでショッピングの上確認、キャンプサイトの受付嬢に聞くと今年1月1日からユーロが導入されたという。
ユーロはドイツで引きおろして十分あるのにと思ったが、これでポンド、ユーロ、ズロッティ、リタス、ラッツの5種類の通貨を持つことになった。
この夜のキャンプサイトはホテルの駐車場で、電気と水道はキャンパーに入れられるが、トイレとシャワーはホテルのを使うことになった。
高い赤松に囲まれた駐車場で小鳥が飛びまわっていた。ホテルの近くの湖はこの町の水浴場で飛び込み台からティーンの男の子が二人飛び込みを繰り返していた。
この夜初めてホテルのレストランで夕食を食べた。英国の半分の値段でずいぶんご馳走だった。
ヴォルの北80Kmにあるタルトゥはエストニア第一の大学都市であり、午前中にキャンプサイトに落ち着いたから、午後早くのバスで旧市街の中心へ行くことにした。
キャンプサイトは町から7km離れた郊外のBBとキャンプ場をかねている個人経営のもの。トイレが男女1箇所ずつ、シャワーは一人2ユーロだという。今までこれほど高いシャワー料金は聴いたことも無い。
旧市街の中心地は広場の正面に塔を持ったピンクの市庁舎で、ここに観光案内所も併設していた。日本語の観光案内書もありエストニアがいかに観光に力を入れているかが良くわかる。
市庁舎の前に立つ若い男女の像(傘の下でキスしている)はこの町が大学都市で若い学生が多いことからつくられた。
14世紀に造られたセント・ジョン教会は、ソヴィエト時代には廃墟になっていたが、最近改築されオープンしたものだか中も外も赤レンガがむき出しで、私の目から見ると、まだ廃墟に等しい。中では手編みの手袋の展示会をしていて、この国には難しい模様の入ったミトンが結婚衣装の一部として又重要な品として使われることを知った。花嫁は結婚前に自分と花婿のミトンのみならず,姑や小姑、花婿の親戚縁者も入れて50枚ほども編む。これが贈り物として使われるがこれから住む家の前につるしたり、牛の角にまでミトンをかぶせる。大変難しい模様が多く、昔のお嫁さんは大変だったろうな。
今ではこの込み入った模様のミトンや手袋はお土産屋さんで売られている。
タルトゥ大学は1632年にスエーデンの国王によって建造されたもので、スエーデンのウプサラ大学(ストックホルムの北方)をモデルとしている。
この大学は医学や科学,化学に力をいれ、ノーベル賞受賞者も出している。
大学の隣のこの建物はとってもおかしい。窓から手を振っている人たちは、写真で窓に人物大の写真が貼り付けてある。
この裏山には天使の橋と悪魔の橋と呼ばれているものがあり天使の橋の下を通るとき黙って願い事をするのが慣わし。私も願い事をしたがこれは内緒。
この大学の裏山にある大聖堂の廃墟が大学博物館になっていて、一回りしてみた。この機械は昔の腎臓透析に使われたものだという。
日本語の案内書にはタルトゥでは民族博物館と植物園がお勧めと書いてあるから博物館へ行ってみたが、20分もかからず一回りしてしまった。昔の民族衣装を着たマネキンの列や木をくりぬいて作ったビールのカップなどが面白かった。
植物園は探さずにたどり着いたので、中に入ってみたけれど、ロンドンのキュウーガーデンを見た目には何も驚くものが無い。庭の大きな柳の木が落雷で中が焼けそれでも元気に葉が生い茂っていた。
川淵に自由の男神の像があり、1918年から1920年の独立戦争でたおれた戦没者を祭ったもの。ソヴィエトがこの国を占拠しているときに破壊されたがその後再建された
野菜や食肉マーケットの前のこの大きな豚の像にはあっけにとられた。一体なんで???
暑い午後を歩き回って夕方キャンプサイトへたどり着くと、バス一台分のハンガリー旅行者がやってきて、緑の芝生一面にテントを広げた。たった2つのトイレを50数人が一晩中使ったのに、翌朝又20人くらいの若者団体がキャンプにやってきた。急いでこのサイトを出払ったから後はシラナーイ。
ナルヴァはエストニアの最北東の町でロシアとナルヴァ河をはさんで国境を成す。両河淵に城砦がありいかにも過去からこの国境線で争っていたかがうかがい知れる。
タルトゥからナルヴァまで185km道路は広く、晴天の下キャンパーは快調に走る。ロシアとの国境であるペイプシ湖畔は松林と白樺林で湖が見えない。途中から東に向かうと道路標識にタリン(エストニアの首都)200Km、セント・ピータースバーグ160kmとあり、ロシアに近くなるのだと実感した。
ナルヴァ近くになるとロシアとエストニアのトラックが何十台、何百台も道端に駐車していてその長さ数キロになる。どうしてハイウエーの道端に止まっているのかは判らない。
ナルヴァの人口は80パーセントがロシア人でほとんどロシアの町のようだというが、町を一回りしたわけではなく、直接国境線のナルヴァ城を目指した。
国境管理所前の駐車場にうまく駐車できナルヴァ城の壁からロシアを写し、城の塔へ登ってロシアが見たい。城めぐりと塔の中腹の見晴台からロシアの城砦の中や橋の向こう側ロシアに向かってまっすぐ伸びる道路などが良く見えた。
エストニアで入国を待つロシアの団体客。
エストニアサイドの川淵には砂地の水浴場が在りたくさんの人たちが暑い夏の日を楽しんでいる。
城内に飾られた写真では過去に描かれた国境橋の様子が良く描かれていた。
EUの旗とともに立っている青、黒、白の横じまの旗はエストニアの国旗、対岸の城砦にロシアの国旗が立っているのが見える。
ナルヴァの町にはロシア正教の大きなドームが見える。
城内の中庭では木工、鉄鋼、薬局,縫製などのデモンストレーションが行われていて、このエストニアの金髪美人の写真を頼んで撮らせてもらった。
ヨーロッパ最北のコウノトリの親子が道端の電柱の上に巣を作っていた。又ハイウエーの道端で蛇を咥えて立っているいるコウノトリを見かけた。考えてみればコウノトリは湖や海で魚を食べることが無く、野原や森でかえるや蛇、トカゲなどを食べているらしい。
ナルヴァへ着く前の大きな町のスーパーのデリカテッセンで生昆布の千切りを買った。この国の人たちも食べるとは知らなかった。500グラムという言葉が通じず大変困った。
旧市街の南東の門から入ってすぐ通りの向こうに高い尖塔が見える。ここがこの町の中心の市庁舎の塔でこの町で道に迷ったとしてもすぐに目に付く。
通りの出店の売り子は皆中世の服装をしていて、急にタイムスリップしたような気持ちになる。それにしてはヨーロッパ諸国からの観光客が多すぎるけど。
この市庁舎の広場には日曜日だったからかそれとも毎日なのか,辺り一体に出店が並び、お土産にが事欠かない。エストニアの名産品はリンシードを採った後の茎(フラックス)から作られる麻布でテーブルクロスや、ナプキン、セーター、ジャケットなどが売られていた。
又手作業で造られたもの、木工品や、手編みのセーター、手袋などがいたるところに見られる。
観光案内所の近くには鉄工作業、や手縒りのウール、ウールの織物などの実演を行っていて、まるで町全体が生き生きしているように感じた。
狭い中世の石畳の坂道を上ってゆくとデンマーク王の庭に出る。高い城壁と壁の上に回廊がめぐらされている。石門をくぐると目の前に大きなロシア正教のアレクサンドラ・ネフスキー大聖堂がそびえている。あいにく外側は部分的に修理中で完全な姿は見られない。又内部は写真禁止で、写せなかったが高いドームがすばらしかった。
この大聖堂の向かいの広場にエストニア国会議事堂がひっそり立っている。大変きれいな建物だが日曜日のため閉まっていた。
この辺りは高台にあるため3方の展望台から、タリンの町が見渡せる。赤い屋根と連なる塔がすばらしい。
この高台を降りて、城壁の外側に作られたセオリーガーデンを見て歩いた。花や植物をアレンジして自分たちの意見を表しているというが、小難しいことは抜きにしてきれいな花壇を楽しんだ。中の説明文にバルト海は世界で一番汚染された海だという。地図で見るとノルウエー、スエーデンー、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトヴィア、ポーランド、ドイツそしてデンマークに囲まれたバルト海は外海への出口が非常に狭い。こんなことはここに来て見なければ決して判らないものだ。
セント・オラヴィ教会の尖塔は123.7メータで、高さ60メータの展望台まで258段の螺旋階段を上ってゆくとすばらしい展望が開ける。旧市街の高台や市庁舎の尖塔、など四方が見渡せる。
1994年9月27日、エストニアのフェリー客船が首都タリンからスウェーデンのストックホルムに向けて航行していた。出航から6時間後、フェリーはバルティック海の底へ沈み、数分のうちに乗客乗員852名が死亡した。この事故は第2次世界大戦後にヨーロッパで起きた、最悪の海難事故となった。
セント・オラヴィ教会内部ではミサの真っ最中、そこで目に付いたのが各座席に設置されたテレビで祭壇の説教師が見えること柱の多い教会だから、なんとよく出来ているかと感心した。エストニアは、携帯電話の復及率が120パーセント、インターネットは国内隅々まで行き渡り、世界で初めてインターネットでの選挙投票が行われたという。そしてスカイプもこの国で開発された。
ナルヴァから10km西よりのホテルの庭でキャンプした後、首都タリンへ向かい、途中の海岸線の大きなキャンプサイトでも一泊。ここの海は遠浅でずいぶん沖まで歩いて行ってる人がまだひざ上くらいだった。毎日暑く日中は窓を全部開けて風を通しているが、夕方には蚊に襲われるから、網戸にして蚊取り線香をつけて蚊の攻撃に対処している。
このキャンプサイトの近くで田舎道を走っているときに大きな鳥を見つけ、亭主にキャンパーをバックしてもらってこの写真を撮った。この辺りには非常にまれな黒いコウノトリがいるというから、ラッキーと思ったがこれは明らかに鶴の一種に違いない。今までこんなに大きな野生の鳥を見たことが無い。
この道路標識はスエーデンのストックホルムまで400km、まるで道路を走ってまっすぐ行けるみたいと亭主は大笑いした。タリンまでのハイウエーの途中に時々標識が出ているがこれはEUが出資してこの道路を造ったと書かれて在った。いかにもEUのおかげと宣伝しているところがいい。
タリンのキャンプサイトは町から10km離れた小さな港にあり、施設も電気と水、トイレだけはあるが、シャワーは近くのスポーツ施設で一人3ユーロだという。とにかく安いだけがとりえのサイトでキャンパーがびっしり詰っていた。
ちょうどお昼ごろに着いたから午後も早い時間にバスに乗ってケドリオルグ・パークへ行った。午前中は30度近くに気温が上がったのに、お昼ごろから海からの霧が流れるように広がりすっかり涼しくなった。
ケドリオルグ宮殿は18世紀初期にロシア皇帝によって建てられたものでキャサリン妃の名前を採ったもの(エストニア語でキャサリンの谷)という。この宮殿は現在博物館になっており一回りしてみたが、古い宗教画やアイコンが多く、大して面白くは無い。
この宮殿の裏庭がすばらしく、人々が散歩に来ていたが、一組の新婚カップルに皆の目がくぎづけ。このミニスカートのウエディングドレスはやっぱり問題だ。白は膨張色、足が太く見える。
宮殿の後ろすぐに首相官邸があり正面に兵士二人が直立不動で守っていた。なかなか立派な官邸だった。
このパークで一番すばらしいものはなんと言ってもクーム美術館、モダンな7階建ての建築物でまだ新しく見える。2006年に開館し2008年にはヨーロッパのMuseum of the yearに選ばれたという。
この美術館はエストニア最大のエストニア美術品を収集しており、私の好きな1850年から1900年初期ごろまでの作品群にはどんどん写真を写してきた。
中でもKonrad Magi(1878-1925)のカラフルな絵がとっても気に入った。
又eduard Ole(1898-1995)のPassengers(乗客)という絵が雰囲気が出ていておもしろい。
この国はスエーデンやフィンランドの影響を受けていて、以前北欧の美術館を周ったときに似たような絵があったのを思い出した。
タリンの周辺には味のある古い木造家屋が多く、この公園の周辺にも素敵な家が並んでいた。
タリンの町から帰ってきたその夕方も暑くて、夕日は10時過ぎにバルト海に沈んだ。でも空は明るく、11時に近くのビルの向こうから10分ほど花火が立て続けて上がったが、暗さが足りなくまるで気が抜けたビールのようなもの。12時過ぎると西の海だけが明るいがあたりはやっと夕闇がしのびよってくる。
タリンの緯度はスコットランドとシェトランド島の間くらいだから、白夜には程遠いものの暗夜は2-3時間しかない。
この夜キャンプ場に変わったキャンパーが駐車していた。あの上のテントで寝ている人はよっぽどの心臓の持ち主だと思う。
キャンパーの外にロンドンから持ってきたおかきのくずを撒いたのですずめがたくさん来て、太った子供に食べさせていた。どこの親も子育ては大変だ。
太ったといえば、ここエストニアの女性も太っている人が多いのに気がついた。若い女性はやはり足が長くスマートでまるでユニフォームのようにタンクトップにショーツ。今年の若者の流行なのかも。ポーランドと違い中年以降の女性に肥満体が多い。
翌朝タリンの市内を通り抜けて西海岸を目指す。途中の野原にコウノトリのグループが餌を探していて、キャンパーをスローダウンしてもらったからやっとこの写真が撮れた。
デジカメは立ち上がるまでに時間がかかるから高速で走っているときにはよほどラッキーでないと写真は撮れない。この日はハイウエーを横切って歩いていったコウノトリを見つけたが、シャッターチャンスを逃した。
この日のキャンプサイトはハープサル(Haapsalu)の郊外、旧市街の城砦跡まで1.5kmほどだった。午後町の探索に行き、城壁や城砦跡を歩き回り、岬の真ん中の湖を一回りしてみた。
ティーンの男の子たちが湖で泳いでいた。
そしてなぜか湖の側にきれいに積まれた薪の山、この積み方はここエストニアだけしか見たことが無い。
この町は過去にはロシアの夏のリゾート地としてロシアからこの町まで鉄道が引かれていた。(今では撤去されている。)チャイコフスキーが家族連れでここへやってきたという。
キャンプサイトは林の中で蚊が多い。WIFIがオフイスの前の庭でしか通じないから、暑さにめげずレインコートを着込んでブログを書き送ったが、ジーンズの上から膝を刺されていた。ほんとにモー。それにしてもドイツ人は鉄の肌を持っているのかしら?3人のドイツ人男性が近くに座ってインターネットを見ていたが、蚊はどう?と聞くと、”エ、問題ないよ”との答えで私一人頭の周りに襲い掛かる蚊を追い払っていた。
林の中のキャンプサイトは蚊に悩まされるから、カーナヴィをセットし南下したが、経度の数字を間違えて、森の中の農家にたどり着いた。家には誰もいず、只怒り狂っている七面鳥がキャンパーに向かって威嚇する。
サーレマー島(ルクセンブルグと同等の面積を持つ)へ行くフェリー乗り場が10km先にあるからと行ってみたが、本当にフェリー乗り場だけで町も無い。
結局ハープサルから130km南海岸のペアヌ(Parnu)に落ち着いた。このサイトは睡蓮が花咲くペアヌ河のほとりにあり,一ヘクタールのサイトがびっしりキャンパーで詰っている。
そしてこのキャンパーの80%はフィンランドのものだった。ちょうどフィンランドの夏休み、家族連れのキャンパーが自転車も積んで、私たちのキャンパーの前後左右に駐車している。
首都のタリンではドイツ、オランダからのキャンパーが多かったのに、ほとんどなりを潜めたように見かけない。
このサイトは木がほとんど無く蚊もいないところから、ゆっくり滞在しようと初日は近くのスーパーへショッピングに行った。
キャンピングで良いのは、現地の人たちが食べるものを手にいれられるし、自分の欲しいものを調理することができる。エストニアのスーパーはRimiとSelverの2軒のチェーン店が大きく、ほとんどの町に店舗を持っている。
ドイツ系のリドルやアルディはリトアニア以来見かけていない。英国系のスーパー・テスコはポーランド以北では見かけない。
各スーパーで見つけたものに、鰊の卵の塩漬けで、卵のう毎だと数の子になるが、ここのはほぐしてキャヴィアのようになっており量り売り。それと嬉しかったのは鮭の腹の部分(脂身)を燻製にしたものでこれが安くて美味しく病み付きになってしまった。
キャンプサイトから歩いて1.5kmくらいで旧市街に着き、ウイークデイにもかかわらず、人出が多いのに驚いた。
ここはエストニア人にはホリディータウンであり、北のリヴィエラと呼ばれているそうな。白樺並木の大通りを歩いていると木陰で気持ちよく、なんと素敵な町だろう、エストニア人もフィンランド人もここに集まってくるのが判る気がした。
西の砂浜にはホリデーを楽しむ親子連れが楽しんでいるし、もう働かなくなった泥温泉の大きな建物の前に中国人団体客がバスから降りて集まっていた。この泥温泉は1927年に建築されたネオクラッシックの建物で町のシンボルだった。
タリンゲートはメインロードがタリンへの道と記されていたことによる。運河の脇の低い壁は格好の散歩道で、中央に円形劇場が作られていた。どこを歩いてもゆったりと町で、町のお土産店で図らずも麻のテーブルセンターを買ってしまった。麻のセーターを買おうと試着してみたがあまり着心地が良くなくあきらめた
街角の駐車場、料金がこんな半端な金額でおかしい。
ショッピング街の一角に立っている新聞を読んでいる像は、エストニアの独立のための布石をした主要人物で、エストニア語の週間紙を発行し、この地で教師をしていた。この像は2007年に150年のエストニア語のジャーナリズムを記念してここに置かれた。
ペアヌからラトヴィアの国境まで50kmあまり、途中でよいキャンプサイトを見つければ一泊するつもりで出発、国境に11km手前でホテルキャンピングのサインを見つけた
このホテルに着く前に、野原の真ん中にミニキャンピングというのを見つけ寄ってみたところ、真新しいトイレ、シャワーに電気の込みで10ユーロという。
あまりの安さでちょっと心配したくらいだが一泊することにし、午後200メーター先の海岸へ散歩に行った。石がごろごろした海岸に緑の海藻が波打ち際まで広がりあまりきれいな海でない。ところどころに日向ぼっこをしている人たちがいて、遠くに遠浅の水際で日向ぼっこをしている家族を見て笑ったのだが、後になってそのわけが判った。
その家族のいる辺りから林を通ってきれいなシャレーのほうに向かってゆくと急に何十匹もの虫に襲われた。皮膚につくと咬まれて痛いが毒は無いらしく後は残らない。しかし後から後から襲ってくるので必死で逃げ、小枝を振り回し防戦。
林から出るとなんでもない。この辺りの立派なシャレーはまるでフィンランドのログハウスを思わせ、お金持ちのエストニア人の別荘地らしい。メインロードを南下しているときにはほとんど村も家も見えないが、このような松林の奥に屋敷が並んでいるところもフィンランドに良く似ている。
それにしてもあのアブのような虫の気持ちの悪さ、キャンパーに帰ってからはもう外にはでるまいと思った。
夕方から降った雨で気温が下がり、今夜は毛布一枚が必要だった。翌朝もどんより曇って薄ら寒い。出発して10分ほどで国境に着いた。物々しい設備の割には誰もいなくてそのまま通り過ぎた。ラトヴィアに入った途端道路事情は悪くなり、(それでもロシア側ほどではないが)ガタゴトとスムーズではない。
道端に立っているコウノトリを見つけスローダウンしたら、飛び立ってキャンパーを飛び越え道端の草刈機の後ろに着地した。草刈機がまわっていると虫やかえるが飛び出すからそれを狙っているらしい。なんとも賢い鳥だ。
国境から130kmでラトヴィアの首都リガに着いた。郊外もこんな立派な電車が走っていて排気ガスの防止に努めている。この国は自家用車の所有率がエストニアよりずっと少ない。
12時にはリガの郊外のホテルキャンプサイトに着いた。午後2時半のバスで町へ繰り出す。バスが止まったところは旧市街の入り口近く、今までで一番きれいなロシア正教の大聖堂の前だった。中では今しも結婚式が始まろうとするところで参列者は手にカーネーションを1-2本持っている。
写真禁止だったから、早々に出てきて、旧市街へ入った。
はじめの広場には高い塔の上に自由の女神が立ち、この塔は戦没者の慰霊碑でもあるから二人の兵士が直立不動で守っていた。日曜日の午後のこの写真は兵士交代の儀式らしい。
この広場の周りはきれいな公園が広がり人々はゆったり散歩したり、結婚式を終えたばかりのカップルの記念写真を撮る場所でもあるらしい。
若者ばかりでなく年寄りもバスカーが多く街角で演奏している。又各々の教会の玄関に、必ず物乞いが立っているのはこのバルティック3国全部で見られる風景だ。
今まで多くの国を旅行しているが、英国ポンドより単位が大きい国はあまり無い。このラトヴィアは1ラッツが1ポンド27ペンス位するから、計算のややこしいこと。
ドム大聖堂への入場料は2ラッツを払い(教会ではほとんどが無料)なんだか損したような気がした。
シティホール広場にはすばらしくきれいなBlackhead Houseがあった。観光案内所が隅についていることから、これはシティホールであるらしい。(閉まっていたから判らない)
このシティホールの近くに123.25メータの尖塔を持つセント・ピータ・ルスラン教会があり72メータの高さの展望台まで上れる(事が後になって判った)。
リガは狭い石畳の中世の町並みに天をつく尖塔の教会が多い町で、アート・ヌーボーの建築物が多く北のパリと呼ばれているそうな。この日4時間、町を歩き回りほとんどを見てしまった。明日は美術館へ行きたい。
エストニアでは美術館博物館は12時からしか開かなかったから、ここラトヴィアも同じかと思って11時過ぎ、バスに乗った。
バスの中でラトヴィア人の中年男性から片言の英語で日本人かと聞かれ返事をしたところ、彼は喜んで”日本人は大変礼儀正しいすばらしい国民だ”と手放しの誉めよう。何でも公園で6人の日本人男女に出会い、感銘を受けたらしい。こんな異国で日本を誉められてとってもうれしかった。
日曜日は最初から美術館を目指していたから、この銀色のデブの像のあるところが美術館だと思い込んで入ったところ、ここは美術アカデミーだといわれた。美術館は隣の建物だという。
この美術館はラトヴィアの美術の最多収集を誇り、その他はロシアの絵画収集のみ。この美術館が良かったのは自然採光が取り入れられているため明るくて、カメラも色彩が自然に近い色で写る事だ。それに中世の無表情な宗教画が無いことがいい。
一階の右翼から見始め先ずはこのそりを引く2頭の馬の像に見ほれてしまった。すごい動きのある像で馬が今にもいななきそうだ。
この”ロシアの田舎娘”という題の絵は見てると笑いたくなる、ほんとに頬の真っ赤な娘たち。ラトヴィア人フィリップ・マラヴィンス(1869-1940)の作品。
コンスタンティン・ジュオヌス(1875-1958)の”冬の日”この時代の画家たちはラトヴィアの印象派の代表だった。
”マドンナと機関銃”というこの絵、一体何が言いたかったのだろう。
下2枚の風景画が気に入った。2枚ともウィリヘルム・プルヴィティス(1872-1945)の作品でこの人はほかにも多くの絵が飾られていたからラトヴィアの有名画家だったらしい。
ヨハン・ウオルター(1869-1932)はこの様なロマンチックな絵を多く描いており、この人もラトヴィアの印象派代表画家だった。
この像を見たときにどんな題名を頭に浮かべるかしら?私の想像と違っていたので思わず写真を撮ってしまったが、ガスタヴ・スキルタース(1874-1954)の作品で”私の小さい時”この人はこんなに悲しかったことが在ったのかしらと思った。
この”ラトヴィア・マーケット ”はジュリウス・ピメノフス(1903-1977)20世紀の画家の作品で、やっぱり19世紀とは画風が違っていている
この美術館で私も亭主も一番気に入った作品が一室全部に飾られていたが写真禁止で残念。ロシア人のニコラス・リョーリッチ(Nicolas Roerich)) (1874-1947)はロシアで20代から有名画家だったが、同時に旅行家であり思想家でもあった。彼はインドやヒマラヤに惹かれ、死ぬまでヒマラヤのふもとで過ごした。そして彼の画風は独特のヒマラヤの山々と世界の宗教が入り交ざったもので、彼の思想に共鳴する人々が多くなり独特の宗教に発展したという。
私がこの一室に入ったとき窓際で老女が若い女性からインタヴューを受けていた。2時間後にもう一度見ようと入ったらまだ二人とも同じポジションで話していた。この老女はニコラス・リョーリッチの専門学者であるらしい。
リガから北東60Kmにゴウヤ(Gauja)自然公園がある。キャンプサイトがシグルダ(Sigulda)の郊外にあり、そこを目指して国道2号線を走った。国道といっても道路わきには点々とバス停が在り、林の奥に住宅が存在しているのだと思われる。
この2号線は途中から林を挟んで2車線づつの上下線に別れ、この国道が一番良く整備されていた。
シグルダの町へ入る前の交差点でわらぶき屋根の一連の建物を見たがこれがなんとなく日本のわらぶき家屋に似ている。
シグルダのキャンプサイトは谷川のほとりで、たくさんのテントが並び若者たちや家族連れが、谷川で泳いだり日向で甲羅干しなどして楽しんでいた。
サイトの設備は大変貧弱で料金はリガより高い。この地の景勝地は歩いてゆくには遠く、キャンパーで一回りして夕方帰って来る事にした。
ツゥレイダ(Turaida)野外博物館は日曜日ともあって多くの人たちで賑わっていた。ここには13世紀のツゥレイダ城があり、42メータの高さのドンジョン塔から遠くの森や河まで見渡せる。この塔の中には800年前当時の人々が身につけていた装身具のコピーを売っている店があった。ほとんどが銀製品でブローチやネックレスだった。
この城にまつわる話に1601-1620年、ツゥレイダのばらと呼ばれた美人の悲恋物語からラトヴィアのフォークソングが生まれ、その歌をベースにした巨大な石の彫刻群が岡に散らばっていた。大変芸術的な巨石の彫刻で、これをみて一つ一つのお話がわかればもっと面白いのに・・・。
屋敷の一部に板屋根の木造家屋があった。中には乾燥した草花が下がっていて、これらは草木染に使われるとの事だった。とっても良いにおいのする小屋だった。
夕方、日帰りの旅にはちょうど良い距離をリガのキャンプサイトまで帰ってきた。この夜は私たちのキャンパー一台だけで、夜9時45分から始まった女子サッカー・ワールドカップに日本チームの声援に声をからした。夜中12時過ぎに授賞式など見終わって興奮のあまり友達にメールを送りまくった。地震・津波以来の日本の悲運でこれは真に勇気付けられるニュースだった。バンザイ!!!