6月24日、午前6時20分。
父が、永眠した。
早春頃から急速に体調が崩れ、医師からも、「もうさほど時間は残されていない」と事前に告げられていた。
緩やかな下降線をたどりながらも自宅での介護を続けていたのだが、先週の土曜日に容態が急変し、日曜日の朝、眠るように静かに旅立っていった。
享年79歳というのが、人生の幕を閉めるには早いのか遅いのか、ワタシには分からない。
しかし、49歳で胃癌を患い、その時でさえもう長くないと思われていたのに、それから30年も生き続け、その間に、息子2人の成人と結婚を見届け、自身も還暦を迎え、5人の孫に恵まれ、今年の5月には結婚50年、いわゆる金婚式を祝えた。
もう、十分だろう。
これ以上を望めば、神様に怒られてしまう。
昨日、葬儀は滞りなく終わり、夕刻、小さな箱になった父と一緒に実家に帰った。
今日は、母と各所へ挨拶まわり。
目上の方からは、行くところ行くところで「お母さんを寂しくないようにしてあげて」という言葉をかけていただいた。
もちろん。
妻や子ども達には申し訳ないけど、これからしばらく落ち着くまでは、「夫」や「二児の父」という立場よりも「父の子」「母の子」の立場を優先して動く日々が続きそうだ。
それにしても、いい経験をさせてもらえた。
それは、「故人の長男」として初めて体験した葬儀だけでなく、その前の日々・・・つまり、実家で日に日に衰弱してゆく父と過ごしたこの1ヶ月の日々も含めて。
父が弱く小さくなってゆけばゆくほど、ワタシも40代から少しずつ時間が逆戻り、子どもの頃に戻ってゆくような気がした。
その証拠かどうかは分からないけど、20歳を過ぎた頃からはワタシは両親のことを「オヤジ」「お袋」と呼ぶようになっていたのに、今年に入ってからいつ頃からか、2人のことを子どもの頃と同じように「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになっていた。
もうイキがって反抗する年でもないし、久しぶりに口にしたその呼称も、ちょっとくすぐったくて照れがないわけではないが、悪くもない気がしている。
さて、明日からも手続きやら支払いやら何やらで、慌ただしい日々がもうしばらくは続きそうだ。
週はじめから休んでいる仕事も溜まっている。
ワタシも、日常のシフトにギアチェンジしなければ。
ここから先は、独り言・・・
父の容態が悪化するに連れて、ワタシの中でひとつの光景が何度も何度も繰り返し蘇るようになった。
それはもう、40年以上昔の出来事だ。
ワタシの実家の前には、かつて小学校があった。
古い木造校舎の、小さな小学校だった。
その小学校の運動場で、ワタシは父と母に手を繋がれて遊んでいた。
その光景の中に、4歳違いの弟の姿は見えない。
だから、おそらくそれは、ワタシが3歳・・・もしかしたら、弟が母の身体に宿る前の2歳の頃の記憶なのかも知れない。
(今回のブログに添付した、上部の写真の頃だろうと思う)
春だった。
日差しが眩しい青天の日だった。
ワタシと父と母は手を繋いで走ったり、追いかけっこをしたりして遊んでいた
ワタシは、笑っていた。
父も、笑っていた。
母も、笑っていた。
ワタシは、嬉しかった。
心の底から、嬉しかった。
その感情の記憶が、今でも強烈に心に焼き付いている。
物心がつく前から両親が共働きで祖父母に育てられていたワタシにとって、父と母は別々に存在する人だった。
そんな2人が、同じ場所、同じ時に、自分と一緒に遊んでくれていることが、信じられないほど嬉しかったのだろう。
大袈裟かも知れないが、この出来事が、ワタシが「幸せ」というものを感じた生まれて最初の出来事だったのかも知れない。
だからこそ、50歳近くになった今でも、記憶の奥底に残っているのだろう。
記憶の中の父と母は、若く、元気で、大きくて、そして何よりも、優しかった。
これからも、ワタシが父のことを思い返す時、きっと、この古くてささやかな記憶を思い出すことになるのだろう。
お父さん、ありがとう。
さようなら。
父が、永眠した。
早春頃から急速に体調が崩れ、医師からも、「もうさほど時間は残されていない」と事前に告げられていた。
緩やかな下降線をたどりながらも自宅での介護を続けていたのだが、先週の土曜日に容態が急変し、日曜日の朝、眠るように静かに旅立っていった。
享年79歳というのが、人生の幕を閉めるには早いのか遅いのか、ワタシには分からない。
しかし、49歳で胃癌を患い、その時でさえもう長くないと思われていたのに、それから30年も生き続け、その間に、息子2人の成人と結婚を見届け、自身も還暦を迎え、5人の孫に恵まれ、今年の5月には結婚50年、いわゆる金婚式を祝えた。
もう、十分だろう。
これ以上を望めば、神様に怒られてしまう。
昨日、葬儀は滞りなく終わり、夕刻、小さな箱になった父と一緒に実家に帰った。
今日は、母と各所へ挨拶まわり。
目上の方からは、行くところ行くところで「お母さんを寂しくないようにしてあげて」という言葉をかけていただいた。
もちろん。
妻や子ども達には申し訳ないけど、これからしばらく落ち着くまでは、「夫」や「二児の父」という立場よりも「父の子」「母の子」の立場を優先して動く日々が続きそうだ。
それにしても、いい経験をさせてもらえた。
それは、「故人の長男」として初めて体験した葬儀だけでなく、その前の日々・・・つまり、実家で日に日に衰弱してゆく父と過ごしたこの1ヶ月の日々も含めて。
父が弱く小さくなってゆけばゆくほど、ワタシも40代から少しずつ時間が逆戻り、子どもの頃に戻ってゆくような気がした。
その証拠かどうかは分からないけど、20歳を過ぎた頃からはワタシは両親のことを「オヤジ」「お袋」と呼ぶようになっていたのに、今年に入ってからいつ頃からか、2人のことを子どもの頃と同じように「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになっていた。
もうイキがって反抗する年でもないし、久しぶりに口にしたその呼称も、ちょっとくすぐったくて照れがないわけではないが、悪くもない気がしている。
さて、明日からも手続きやら支払いやら何やらで、慌ただしい日々がもうしばらくは続きそうだ。
週はじめから休んでいる仕事も溜まっている。
ワタシも、日常のシフトにギアチェンジしなければ。
ここから先は、独り言・・・
父の容態が悪化するに連れて、ワタシの中でひとつの光景が何度も何度も繰り返し蘇るようになった。
それはもう、40年以上昔の出来事だ。
ワタシの実家の前には、かつて小学校があった。
古い木造校舎の、小さな小学校だった。
その小学校の運動場で、ワタシは父と母に手を繋がれて遊んでいた。
その光景の中に、4歳違いの弟の姿は見えない。
だから、おそらくそれは、ワタシが3歳・・・もしかしたら、弟が母の身体に宿る前の2歳の頃の記憶なのかも知れない。
(今回のブログに添付した、上部の写真の頃だろうと思う)
春だった。
日差しが眩しい青天の日だった。
ワタシと父と母は手を繋いで走ったり、追いかけっこをしたりして遊んでいた
ワタシは、笑っていた。
父も、笑っていた。
母も、笑っていた。
ワタシは、嬉しかった。
心の底から、嬉しかった。
その感情の記憶が、今でも強烈に心に焼き付いている。
物心がつく前から両親が共働きで祖父母に育てられていたワタシにとって、父と母は別々に存在する人だった。
そんな2人が、同じ場所、同じ時に、自分と一緒に遊んでくれていることが、信じられないほど嬉しかったのだろう。
大袈裟かも知れないが、この出来事が、ワタシが「幸せ」というものを感じた生まれて最初の出来事だったのかも知れない。
だからこそ、50歳近くになった今でも、記憶の奥底に残っているのだろう。
記憶の中の父と母は、若く、元気で、大きくて、そして何よりも、優しかった。
これからも、ワタシが父のことを思い返す時、きっと、この古くてささやかな記憶を思い出すことになるのだろう。
お父さん、ありがとう。
さようなら。