りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

旧友再会。

2019-12-01 | Weblog
 
久しぶりに、重松清の小説を手にした。

「旧友再会」。

いかにも重松清らしいタイトル。

「流星ワゴン」「カシオペアの丘で」「送り火」・・・etc.
思えば、重松清の作品は、登場人物たちと近い年齢、似た境遇の「ちょうど良いタイミング」に読めたことで、今でも印象に残っている作品が多い。

今回久しぶりに読んだこの本も、まさにそんな「ちょうど良いタイミング」の本だった。

地方都市で暮らす、家庭持ちの50代。
もう若いとは言えない自分。
そして、想像以上のスピードで老いてゆく両親。
仕事、家庭、介護、友人、そしてすでに半ばを過ぎたであろう自身の道程・・・etc.

・・・そうか、オレもこういった物語に琴線が触れるようになったか(笑)

実際、ここ数年、同世代の友人と会うと、老いた親の一人暮らしのことや介護の話が話題になることが珍しくなくなってきた。
ワタシ自身、昨年父を亡くして以降、実家で母が一人暮らしになってしまっている。
幸い、実家とワタシの家は同じ町内なので、父が亡くなった昨年の6月以降は、仕事帰りに寄って、仏壇に線香を手向けて、母が煎れたお茶を啜りながらその日に起こった出来事を聞いてあげる・・・という行動が一連のルーティン・ワークになってしまった。
しかしその一方で、生まれた所を遠く離れて、そう簡単に帰って来られない友人の中には、故郷で老いてゆく両親のことが気が気でならないというヤツもチラホラいる。

当たり前だが、そんなことは10年前20年前には考えることがなかった。
30代40代は、妻や子どもといった自身が作った家族への比重が大きかったが、50代は、自分の人生がはじまった最初の家族への比重が再び大きくなる世代なのかもしれない。

「50にして天命を知る」という言葉があるけれど、何を何を(^_^;)
不惑の40代を越えたというのに、未だに迷いっぱなしの毎日だ(笑)

ただ、昔と比べてちょっと変わったかなぁ、と思うのは、単純に喜怒哀楽を出さなくてなったということか。

20代30代の頃は、身体の中に発火装置でもあるんじゃないかと思うほど、自身や周囲に起こった出来事に対して、敏感に反応していた。
それがここ数年は、あまり瞬時に反応しなくなった気がする。
良い事が起ころうが悪い事が起ころうが、「まぁ、そんなもんだろ」という解釈で収まるようになったという感じで。

引き出しがある程度増えて刺激に鈍くなったとか、好奇心が薄れてきたとか、色々な解釈が出来るのだろうけど、これにしたってそれが諦観なのか達観なのかも分かりやしない(笑)

この本の中には、そんな50代の男が何人も登場する。

これを読んで救われたとか、元気をもらったとか、そういう類いの感想はなかったけど、登場人物たちと同世代としては、「やっぱり、そんなもんなんだな」と思えたことが収穫かもしれない。

話は変わるが、先日、小学校時代の同級生の女性から転職する話を聞いた。
長い間、医療事務の仕事をしていたのだが、奮起一発して食パン専門のパン屋を始めるそうだ。

この歳で人生の方向転換をするのは、よほどの勇気と度胸がないと出来ることではないと思う。
あまり良い例えではないが、ロープの強度や長さを確認しないでバンジージャンプに挑むようなものだ。

しかし、彼女は小学生時代、勉強もスポーツも、ワタシなんか到底敵わなかった人だ。
ワタシが知る限り、大人になってからも、良い事も悪い事も数多の経験を積んで来た。
そんな人が決断したのだから、これから挑むバンジージャンプも、ロープの強度も長さもしっかり確認して翔んでゆくと思うし、そしてそれと同時に、きっと彼女の中には「まぁ、そんなもんだろ」という概念は、まだ存在していないのだろうとも思った。

そんな彼女が、ちょっと羨ましく感じる自分もいた。

あえて言うなら、それがまだ、ワタシとっては救いなのかも知れないな(笑)
コメント (2)
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