子供たちの生活が、窮屈になっている。
田舎では、学校の統廃合によりスクールバスで通学をする。
不審者の脅威に曝されることがない安全と、天候気温に左右されない一見快適とも思えるスクールバスだが、車中で同乗している子供同士のコミュニケーションがいつも楽しいものであろうはずはなく、気まずくなった時には苦痛の時間となる。
うまく仲直りできたら問題ないが、そうならないときにはバスに乗りたくないのは当然で、親によって送迎する代替手段が使われている。
バスや自家用車での登下校は、子供たちが自分たちで自由に使える時間を奪い、早めに登校して、放課後校庭で少し遊んでからの下校、歩きながらのおしゃべりや道端にある発見の機会を奪った。
どちらにしても子供たちは、大人の管理下から外れた時間を持てなくなるのだ。
学校においては、かつて問題視されていた昭和の詰め込み教育など生ぬるいくらいのカリキュラムが組まれ、休み時間は削られている。
それは、小学校においても例に漏れない。
授業の一環的なレクリエーションの時間は、お膳立てされた遊びで、誰もが何かに参加しなくてはならなくて、子供たちの意思はある意味軽視されている。
だれしも時には何もしたくなくて、他の人たちの遊ぶ姿を見ているだけで満足することもある。
効率優先とすれば、休み時間は余分な時間というのだろう。
けれどその自由になる時間で、友達と遊んだり、気持ちを整えたりもできるのに、その時間が削られているのだ。
どうもこの十数年、管理しようとする傾向が強まっているように思える。
箱の中に隙間なく物を効率よく詰め込めば、がたがたと揺らしても中の物がごちゃごちゃと崩れることはない。
さらにはこの中を細かく区切ればなおのこと収まりはよく、管理しやすい。
文章を作る時、余白なし、段落もつけず改行もなし、本ならば章が変わるのを明確にするために無地のページを挟み込まないとどうなるだろう。
文字で埋め尽くされた紙面は、何がどこに書いてあるのか分かりづらく、大変読みにくい。
段落、改行など、ちょっとした余白は、話のまとまりを意識したり、読むブレスを促す。
それが、読者に作品や自分との対話する余地をもたらしてくれると同時に、思いもかけない反応を引き出す場合があり、自由度が保証される。
自由は、管理者にとって厄介極まりない。
真の生きている実感は、自分が確実に何かに関与できている手ごたえで得られるのではないだろうか。
結果がすでに決められた範疇にある中での関与では、達成感は乏しい。
ある程度自由の利く余地があってこそ、満足の度合いが高い。
唐突かもしれないけれど、芸術など文化は、人間活動での余剰といえる産物。
美しい服、精緻な装飾が施された時計、2シーターのスポーツカー、三ツ星レストランなど、健康で生産するだけの生存活動には必要でないものだ。
ある思想、体制にとって、目の敵にされ排除されたのも一理ある。
しかし、ただ生きるだけでは満足できないのが人間だ。
どこかに遊ぶ感覚がないと、人の心は機能しなくなる。
つまり、余分なものに支えられて、人は生きているのだ。
人の成長過程のまだ初期段階である子供たちから、自発的に関与できる時間を奪ってはならない。
遊びの中で、見出される個々の能力、互いのクセを認め合い、譲歩し妥協する工夫と知恵、思いやりを持ち、自分と相手を知る。
人間育成に、コストカットを適用してはならない。
ちょっと長くなり文章が荒れてしまった。
備忘録としてここに留め置こう。
田舎では、学校の統廃合によりスクールバスで通学をする。
不審者の脅威に曝されることがない安全と、天候気温に左右されない一見快適とも思えるスクールバスだが、車中で同乗している子供同士のコミュニケーションがいつも楽しいものであろうはずはなく、気まずくなった時には苦痛の時間となる。
うまく仲直りできたら問題ないが、そうならないときにはバスに乗りたくないのは当然で、親によって送迎する代替手段が使われている。
バスや自家用車での登下校は、子供たちが自分たちで自由に使える時間を奪い、早めに登校して、放課後校庭で少し遊んでからの下校、歩きながらのおしゃべりや道端にある発見の機会を奪った。
どちらにしても子供たちは、大人の管理下から外れた時間を持てなくなるのだ。
学校においては、かつて問題視されていた昭和の詰め込み教育など生ぬるいくらいのカリキュラムが組まれ、休み時間は削られている。
それは、小学校においても例に漏れない。
授業の一環的なレクリエーションの時間は、お膳立てされた遊びで、誰もが何かに参加しなくてはならなくて、子供たちの意思はある意味軽視されている。
だれしも時には何もしたくなくて、他の人たちの遊ぶ姿を見ているだけで満足することもある。
効率優先とすれば、休み時間は余分な時間というのだろう。
けれどその自由になる時間で、友達と遊んだり、気持ちを整えたりもできるのに、その時間が削られているのだ。
どうもこの十数年、管理しようとする傾向が強まっているように思える。
箱の中に隙間なく物を効率よく詰め込めば、がたがたと揺らしても中の物がごちゃごちゃと崩れることはない。
さらにはこの中を細かく区切ればなおのこと収まりはよく、管理しやすい。
文章を作る時、余白なし、段落もつけず改行もなし、本ならば章が変わるのを明確にするために無地のページを挟み込まないとどうなるだろう。
文字で埋め尽くされた紙面は、何がどこに書いてあるのか分かりづらく、大変読みにくい。
段落、改行など、ちょっとした余白は、話のまとまりを意識したり、読むブレスを促す。
それが、読者に作品や自分との対話する余地をもたらしてくれると同時に、思いもかけない反応を引き出す場合があり、自由度が保証される。
自由は、管理者にとって厄介極まりない。
真の生きている実感は、自分が確実に何かに関与できている手ごたえで得られるのではないだろうか。
結果がすでに決められた範疇にある中での関与では、達成感は乏しい。
ある程度自由の利く余地があってこそ、満足の度合いが高い。
唐突かもしれないけれど、芸術など文化は、人間活動での余剰といえる産物。
美しい服、精緻な装飾が施された時計、2シーターのスポーツカー、三ツ星レストランなど、健康で生産するだけの生存活動には必要でないものだ。
ある思想、体制にとって、目の敵にされ排除されたのも一理ある。
しかし、ただ生きるだけでは満足できないのが人間だ。
どこかに遊ぶ感覚がないと、人の心は機能しなくなる。
つまり、余分なものに支えられて、人は生きているのだ。
人の成長過程のまだ初期段階である子供たちから、自発的に関与できる時間を奪ってはならない。
遊びの中で、見出される個々の能力、互いのクセを認め合い、譲歩し妥協する工夫と知恵、思いやりを持ち、自分と相手を知る。
人間育成に、コストカットを適用してはならない。
ちょっと長くなり文章が荒れてしまった。
備忘録としてここに留め置こう。
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