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古木の迫力を描ききる、狩野永徳:檜図屏風

2011-09-14 10:36:24 | アート


先月、尾瀬に行き、湿原までの山道を歩いていたときのこと。
道の傍らに、苔むした檜の古木が、威風堂々と立っていた。
崖の際にあるものは、外側に向かって迫り出し、その重い体を支える為に根は地面から盛り上がってうねりながら岩に絡みつくもの、あるいは地中深く差し込んでいくものありで、過酷な条件を生き抜こうとする生命力の強さに、畏敬の念を抱いた。
そして、檜のそのような姿に、狩野永徳の"檜図屏風"が重なり見えた。
永徳の檜は、決して誇張などではない。
今より遥か、人の手の入らない山には、尾瀬の檜を上回る檜の長老が息づいていたに違いないだろう。
木の根元は、風雪を耐え抜き虚の出来るものもある。
様々な苔が樹皮を覆い、枝の先に青々と繁るはずの葉には、老いの陰が見え始め、疎らになってもくる。

地上に生きる生物の中で、"木"は、何千年の年月を生きながらえることの出来る唯一といっていい命。
虫食いや、落雷、洪水、土砂災害、はたまた人によって切られるという諸々の災厄を乗り越えて、何百年何千年生き抜いた木を、何処の民族を問わず神聖視するのは、シンプルな理由に他ならない。
「幸運と生命力」
だから、思い上がった人間が、欲に駆られ、または不都合といって、長く生き抜いてきた木を勝手に切らないためにも、「幸運と生命力」を与ろうといわゆる"御神木"といった体裁をつくって恭しく祭り、木を守る。
"御神木"の神通力が聞かなくなってきた、現代においては、"保存樹"という名目で、木を守ろうとしている。
しかし、"保存樹"の効果は薄いようだ。
かつて住んでいた、そこそこ歴史のある街では、"保存樹"が、無残にも切り倒され跡形もなくなっているのを、何箇所も目にした。
友人の話によると、ある保存樹は、「"保存樹"の落ち葉によって、近隣の住民が迷惑を蒙っているから伐採されたらしい。」とのこと。
いくら忙しい世の中とはいえ、これはお粗末な、心の貧しい話ではないか?

おそらく、経済と時間に小突き回されて暮らしている現代人は、身の回り1メートルの視界しか持ち合わせていないのだろう。
たとえ、隣に1000年の時を生きてきた古木があったとして、視界1メートルでは、木の全容は捉えられない。
わからなければ、それについての感想も何も持たないから、一面的な損得でしか判断できない。
せめて、半径10メートルの視界を持って欲しい。
隣にある木の様子が、少しは分かるだろうから。
理想ならば、何処までも見渡せる視界を。

多分、永徳の檜図屏風の視界にすると、半径10メートルもあれば十分なほどで、檜の古木をとらえている思われる。
それで充分、木と自然に畏敬の念を抱けるはずなのだが。

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