rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

伊丹十三のエッセイ

2011-02-21 00:04:47 | 本たち
伊丹十三といえば、「タンポポ」「お葬式」「マルサの女」の映画監督が定着しているだろう。
しかし、エッセイストとしての伊丹十三は、今ではあまり知られていないかもしれない。

彼のエッセイに出会ったのは、パリのアパートで、代々の住人が残していった本の中に「ヨーロッパ退屈日記」があった。
孤独な異国暮らし、疲れて外出したくないとき、長い冬の夜、読書はうってつけの娯楽であり癒しだ。
そして、彼のエッセイ(エッセイという言葉が定着する記念碑的本らしい)は、そんなエトランゼにうってつけの本だった。
若い人の好奇心を煽るような、多岐に亘ったテーマを扱っている。
映画(俳優でもあるから)、ファッション、料理、音楽、語学、旅行など、彼の興味は尽きない。
本を読んだ当時、まだ何も知らない幼い頭と心を持っていた自分は、大人の一つの理想を彼の本にみた。
しっかりとしながら柔軟な考えと、洒落を愛する心、一歩引いた観察眼、博識などである。
すっかり、彼の世界に魅了されてしまった。
以来、自分の価値基準の手本となった。

この本に、「アーティショー」(英語では、アーティチョーク。朝鮮アザミのつぼみ)が採りあげられている。
>アーティショーを茹でて冷やして、オリーブオイルとレモン汁・ブラックペッパー・塩のドレッシングをつけて、  つぼみのがくを一枚一枚はがし、その根元の柔らかいところを葉でこそげとって食べ、最後に芯の柔らかくほ こほこしたところを食べる。
 味は、そら豆に近い。
これを読んだあと、少ししてから実際に食べる機会があった。
本当に美味しかったけれど、伊丹十三の追体験ができたことに、物凄く感動して、さらにアーティショーが思い出深いものになった。
ベルギーに滞在した折、せっかく自炊できるホテルに泊まっていたのにもかかわらず、アーティーショーを食べ忘れたことが、悔やまれる一つ。
日本でも手に入らないわけではないが、日常の生活圏でお目にかかったときはない。
那須のスーパーには、置いてあるのかしら・・・別荘地だし、夏ごろ、チェックしてみよう。

映画も、娯楽性を持たせながらタブーに切り込んでいく勇気ある作品だった。
突然の訃報に、驚き、その不自然さに違和感を抱いた。

映画の伊丹十三しか知らない方は、どうぞ彼のエッセイも読んでみて下さい。
粋で成熟した大人の姿が、そこにはありますよ。

ポーランド・ワルシャワ、ショパンの故郷の面影は何処に

2011-02-19 00:20:35 | 街たち
「世界ふれあい街歩き」
ピアノの詩人と冠されるフレデリック・ショパン縁の街、ポーランド・ワルシャワ。
近代ポーランドは、隣国たちにより国土を分断され、第二次世界大戦ではナチスドイツとソ連に蹂躙された悲惨な歴史がある。
ショパンは、まだ祖国が美しさを保っていたときの思い出を終生胸に抱けて、まだしも幸せだったかもしれない。
小道にかかる渡し廊下の下にある、第二次大戦のレジスタンス追悼墓碑に蝋燭を捧げていた老婦人は、「戦争でワルシャワの街は月面のクレーターのように瓦礫の廃墟と化していた」といっていた。
市民の故国を愛する血の滲むような努力で復興した王宮の前に、戦火にあった王宮の写真が掲示してあったが、本当に何一つ立つ姿がない荒涼とした有様だった。
戦争は、長い年月をかけて築き上げた歴史や文化を一瞬で無にしてしまう。
圧倒的な他者を否定する力だ。
映画「戦場のピアニスト」でも、その光景が描き出されていた。
ショパンのピアノ曲の調べと共に。
大戦後、共産圏に組み入れられたワルシャワの街並みは、共産圏特有の幅の広い道路(軍事目的と反体制行動を監視しやすいように)が街を貫き、固有色を排除した巨大な建物が設置され、まるで人間プラントといった景観。
今では、共和制で人々も自由に暮らしているように見受けられる。
ただ、少し気になることがあった。
「ジャウカ」というワルシャワの中にある「家庭菜園システム」で、市民が土地を借り受け農作業をしながら憩う場所(社会主義時代は慢性の食糧不足を補う食糧自給に役立った)を紹介していた。
あるジャウカの持ち主のおじいさんが、「近年EUに加盟したことで資本主義経済が活発になって、ジャウカが減少傾向にあり、憂慮すべきことだ」と嘆いていた。
土地を借りて自ら大地の恵みを得るよりも、お金で買って済ませることを選ぶ人が増えたのか、それとも、より効率的な土地運用を資本主義経済が追い立てているのか、どちらも有りそうだし、何か殺伐とした空気が立ち込めているようだ。
それでも、ポーランドでは、コウノトリを市民の意思で保護しているというではないか。
伝統として誇りを持って行っているコウノトリ保護活動、伝統文化を愛する風土がいつまでも続くことを願う。
ショパンが、故国を思い作曲した数々のポロネーズやマズルカが、ポーランドの民俗音楽をベースにしているように、自分たちの伝統文化を誇りに思いながら、未来を築いていけたなら、美しい未来が開けるかもしれない。

豊穣な色彩が預言する、ボナールの絵画

2011-02-17 23:34:14 | アート
春のやさしく香気を含んだ風のような、ピエール・ボナールの絵。
彼の絵を見ていると、色がもたらす幸福を実感する。
そこでは、形は色に侵食され、光と空気に溶け込んでいく。
生の喜びを分かち合える一体化の至福に、画面の中から呼びかける声が聞こえてくるようだ。
天国とはこのように、暖かく芳しく柔らかく光に満ちて、個も全も無く、一瞬と永遠が溶け合う、無にして全の世界なのだろうと、ボナールの絵は、囁き語りかける。

そうだ、ボナールは、美術史のジャンルで「ナビ派」に分類されている。
「ナビ派」の「ナビ」とは、ヘブライ語で預言者の意味。
まさしく、ボナールは、色彩という言語を使って預言を語る使者なのだ。
最上の幸福とは、命あるものが孤独ではなく、慈愛と友愛に満ちた寛容の世界で、全ての恐れ(孤独・排斥・無理解・否定・滅亡)がない安心を得られることだろう。

彼は、あえて宗教画を描いたことは無い。
画題は、日常のありふれた光景だ。
愛妻と、共に暮らす犬や猫、身近な親しい人、自分の住居、庭の風景など。
しかし、彼の絵は、深い慈しみの目でもってそれらを画面に描き出すときに、色が発する垣根の無い言葉を感じ、描く対象を愛の世界に定着しようとしたのではないだろうか。
こうして、色の言葉を持って福音を説いたのだろうと想像する。

ボナールの絵は、寒く厳しい冬から、暖かい光で包まれた命が萌え出る春の幸せを、観るものに届けてくれる。
さらに、その先に現れる天国を内包して。



怒ると、心も体も調子が悪い

2011-02-16 22:43:33 | つぶやき&ぼやき
夕食後、中くらいの人たちがDVDを見始まった。
「9<ナイン>-9番目の奇妙な人形」。
複雑過ぎないストーリーと緻密なCGアニメーションで、面白そうに観ていた。
あと残すところ10分くらいのとき、毎度の入浴時間となった。
そこで、一時停止をして、交互に素早く入浴を済まし、二人そろって続きを観れば丸く収まるのが、その機転と思いやりができない。
いつものことだが、自分の主張だけを押し通し、待つことができなくて、喧嘩となる。
そこで、歩み寄らない双方をなだめ、妥協案を言って収めることをする。
今回も、そういってみたが、なんともふてくされた様子を見ているうちに、こちらの怒りがわいてきた。
今日は、思い切り爆発しようと、DVD鑑賞の打ち切りを言い渡し、説教をした。
しかし、これはとても疲れる。
説教するほうのダメージが、なんと大きいことか。
体と心に、思い切り毒素が回るようだ。
注意だけして、後は流すほうがよっぽど楽だ。
でも、それでは何も変わらない。
間違いを犯して、自分で気付き修正できることは高が知れている。
第三者の指摘を受けて、自分を見つめ直さないといけないことが多いのだ。
全くの第三者が忠告してくれることは、残念ながらそう多くない。
だから、特に子供のうちは、親として子供に公平な眼で忠告をなさなければいけない。
例え、怒ることが、心と体に不快な負担を与えるにしても。

終わらない悪夢、テリー・ギリアムの世界

2011-02-16 00:30:16 | 映画
テリー・ギリアム監督の「Dr.パルナサスの鏡」を観た。
彼の映画の特徴は、凝った映像と不条理な世界感にある。
これで、テリー・ギリアムの作品は、「12モンキーズ」「ブラザーズ・グリム」「未来世紀ブラジル」に続き4作目。
わざわざテリー・ギリアムだからと選んだわけではなく、レンタルDVDの表ケースに印刷されている絵とあらすじで判断すると、彼の作品に当たるのだ。
彼の作品は、観て楽しいとか幸せになるものでは決してない。
終わりのない悪夢、不条理に支配されている世界を凝りに凝った映像美で描いている。
そして、観たあとは、心の芯に抜けない棘が刺さった状態になり、時折ふっと棘の存在を思い出し、鈍い痛みを感じることになる。
特に、「未来世紀ブラジル」。
大いなる悪意のある意思に管理・統制された世界で、その意思の存在に気付いて抵抗もしくは脱出を試みる非力な人間の苦悩と挫折・敗北する姿を描いた作品。
観て3ヶ月くらい経つけれど、この棘の存在は薄れる気配はない。
それどころか、「未来世紀ブラジル」と眼に見えないダクトで繫がれていて、さらにダクトが太く数も増えていくような、奇妙な感覚に襲われる。
今回の「Dr.パルナサスの鏡」を観たことによって、自分と異世界と繫ぐものが、ダクトの他に鏡も加わったようだ。
それが、自分をどこへ連れて行こうとしているのか、そこは明るく希望に満ちる常世の春なのか、はたまた、高い塀に囲まれた出口のない迷宮なのか。
テリー・ギリアムを水先案内人にするならば、今眼には素晴しく美しくとも、美しさで覆われた世界の隣、行き着くところはメビウスの輪の終着点のない混乱と絶望の世界が待ち受けているのだろう。
いったい、どんな世界が望みなのか、深く考えるために、心と世界を凝視すると、はたして、その有様をしっかりと受け止められるのか、まことに心もとない限りである。