とくおかレディースクリニック~ブログ~

日々、徒然なるままに、書き込んで参ります。
どうか宜しくお付き合い下さい。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」

2006年05月21日 | Weblog
昨日、とあるテレビ番組にて、芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」を取り上げておりました。

「蜘蛛の糸」は、子供の頃に読んだ作品でした。
その時には、”極楽”というところは金色の光が差し込んで水晶のように白く輝くとても良いところで、”地獄”というところは真っ暗でとても悲惨なところなのだなぁとしみじみ感じたものでした。
血の池地獄ですとか針地獄ですとか・・・死んでこんな思いをするのなら、生きている時に悪い事をしなければ良かったと思ってやまないような状況です。
だから、悪い事をしてはいけないのだ!神はどこからでも見ている!お釈迦様もどこからでも見ている!と思ったものでした。
大分県で’地獄巡り’をした時にも、ふと思い出したりしたものでした。

忘れかけていると思い、夜中に「蜘蛛の糸」を読み直してみました。
短い作品なのですぐに読み終わります。

『或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになつていらつしゃいました。
池の中に咲いてゐる蓮の花は、みんな玉のようにまつ白で、そのまん中にある金色の芯からは、何とも云えない良い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度朝なのでございませう。・・・・・』
というとても流暢なスベリのお話です。

お釈迦様が、極悪人のカンダタにご慈悲をお与えになり、極楽から地獄へ向かって”蜘蛛の糸”をおろしてあげたのです。
人を殺したり盗みをしたりという極悪人ながら、足元にいた蜘蛛を踏み殺さずに助けてあげたからです。
お釈迦様がお下しになられた”蜘蛛の糸”にすがりついて地獄を抜け出そうと一生懸命に登り始めたカンダタです。
途中で疲れてしまいひと休みしたところで下を見たら、その”蜘蛛の糸”の下の方には数限りない罪人達が何百・何千とうようよ這い上がってくるのが目に入りました。
自分ひとりでさえ切れてしまいそうな細い”蜘蛛の糸”ですから、沢山の罪人が続いてきたら簡単に切れてしまうと考えたカンダタは「こら罪人ども、ついてくるな。下りろ。」と叫びました。
その途端に”蜘蛛の糸”は、カンダタが捕まっているところから 〔ぷつり〕 と音をたてて切れてしまいました。
そして、カンダタは独楽のようにくるくる回りながら、元いた地獄へと真っ逆さまに落ちていきました。

怖い話です。ご慈悲ほど怖いものはないと思ってしまうくらいです。
ですが、何が言いたいかというと、自分だけ良い思いをしようというカンダタのエゴイズムを律しているという話です。

『御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立つて、この一部始終をぢつと見ていらつしゃいましたが、やがてかん陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまひますと、悲しさうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。
自分ばかり地獄からぬけ出さうとする、かん陀多の無慈悲な心が、さうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまつたのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございませう。・・・・・』

現実はとても厳しいものですね。
そして、お釈迦様の目はとても厳しいものです。
優しい人を怒らせるというのが、実は一番怖いというお話なのかもしれません。

なのに、どうしてここ最近は、子供を対象にした殺人事件が繰り返し起こるのでしょうか?
恨みつらみの果ての殺人ですとか、裏切られ続けた果ての殺人ですとか、親の敵の果ての殺人ですとか、なんらかの理由があるのならまだしも(それでも、命を奪ってはいけない事です。それこそ犯人は、血の池地獄や針地獄で苦しみ続けて欲しいと思います。)・・・、何の罪もない弱い子供を対象にするのは絶対に許されてはいけません。
日本の警察は、必ず犯人を見つけ出すべきです。
ですから、人は真っ正直にきちんと生きていくべきです。
命を大切にするという、ごくごく当たり前の基本中の基本を守って生きるべきです。

皆様も、ストレスがたまったら、古き良き時代の名作を読み直してみると良いかもしれません。
結構、面白いものです。
ーby事務長ー
コメント
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