コッペリア・13
颯太は何年かぶりで、トーストとコーヒーと卵の焼ける匂いで目覚めた。
屋内での女の子としての立ち居振る舞いは一通り教えた。
とりあえず大家と不動産屋以外の人間が来ても人間だと思ってくれそうだ。
栞はテレビが好きだ。多分人間の生活が分かるからだろう。テレビドラマなどで疑問が出るとネットで検索している。昨日はテレビドラマで朝食シーンに感動していた。
「栞、あれやってみたい!」
で、トーストとコーヒーと卵の焼ける匂いになったわけである。
ちなみに、関西訛はテレビを見だすと、三時間で標準語に上書きされた。
「お……意外にいけるぞ!」
「意外は余計よ」
AKPの萌絵そっくりな口ごたえが返ってくる。不満で言っているのではなく、テレビやネット動画で見たパターンをやっていることは颯太にも分かった。
「ほんとはお味噌汁とか作りたかったんだけど、オニイのとこ材料がないんだもん」
「いやいや、これで十分。この目玉焼きなんか、ころあいに半熟だ」
「栞も半熟。まだまだ勉強しなくっちゃ。四月からは学校とかいくんでしょ?」
「そうだ、栞は二年からの編入だから、一年生の学力なくっちゃな……」
というわけで、勉強を兼ねて、前任校のA高校に栞を連れていくことにした。
街を歩いている分には問題は無かった。信号の見方や、ながらスマホの避け方も、テレビで学習しているので普通にできる。ただ最初に学習したのが、AKPの矢藤萌絵だったので、立ち居振る舞いどころか風貌まで似てきた。
「栞、これしとけ」
颯太は花粉よけのマスクを渡した。できたら眼鏡もかけさしてやりたかったが、怪しくなるのでよした。
「あれ、いいね……」
栞は親子三人で乗っているママチャリを見て立ち止まった。
テレビには出てこなかったのだろう。考えてみれば栞は、同姓同名のアパートの前住者立風颯太が、堕ろされた妹を思って注文していたドールだ。栞の感性の根幹には家族、特に親子関係への憧憬があるのかもしれない。
「あれは外人さんが見ても感動するらしいよ。ユーモラスでたくましい親子愛を感じるらしい」
ママチャリの後ろに乗っていた男の子が栞に手を振った。栞は思わずマスクを外して手を振り返した。
「あ、萌絵ちゃんだ!」
子どもの声に、通行人の視線が集まる。颯太は手際よく栞のマスクをもどして横断歩道を渡った。
券売機の前で栞が立ちすくんだ。切符の買い方が分からないのだ。
「ここで路線を選ぶ。タッチするだけでいい。金額が出るから……そうタッチして、チケットを取る。で、お釣りを取る。分かった?」
「うん、でもなんだかカードで改札通っている人が多い。テレビで、あれしか見たことないよ」
「ああ、スイカか……栞は、もうじき定期券買うから、それまで切符で辛抱しろ」
栞は珍しそうに外の景色を鑑賞している。放っておけば窓に向かって子供のように座りかねないほどの熱中ぶりだ。
「そんなにおもしろいか?」
「うん、完全な3Dだし、グーグルの地図と照合すると感動もの!」
栞の頭の中には地図や航空写真として、関東全域の様子は理解できているが、実際の景色を見ることで、劇的に実体化している様子だった。この初心な感性が颯太にはむずがゆく感じられた。
A高校に着くと、颯太は、当たり前のように妹と紹介しておいた。年度末の会議や入試の準備などで、二人に特段の関心を示す者は少なかった。学校の同僚同士や生徒への感覚は、病院の医師や看護婦が患者を見る目に近い。栞ぐらいの年頃の少女は道端の石ころほどにしか見えない。むろんAKPが好きな教職員もいたが、電車の中で髪の毛を萌絵とは正反対のひっつめにしておいたのも幸いし、特段の興味を持つものはいなかった。
教科書は、どこの教科も年度末の整理のため、嫌になるほどの見本本を廃棄のために廊下に積んでいた。ほんの十分ほどで一年用の教科書と副読本が集まった。
あまりにあっけないので、栞のために校内見学をやった。A校も神楽坂も同じ都立高校、基本的な設備は同じである。
「学校、死んでる……」
「そりゃ、今は生徒が登校しない時期だからな」
よく見ると、部活などで来ている生徒もいるが、栞の印象は違うようだ。そういう感性は面白そうだったが、颯太も任期切れの講師。あまり居心地はよくない。さっさと、学校を出た。
帰りの電車、二つ目の乗り換えで意外な人物を見かけた。
神楽坂高校に初めて言った時、帰りに校門で見かけた子だ。向こうも憶えていたようで、微かに驚いたような表情をした。
「あの子の心、壊れかけてる……」
栞が、ポツリと言った……。