コッペリア・36
「瀬楽、面会人だぞ」
先輩のバーテンダーに言われて、瀬楽はグラスを拭く手をタオルで拭い、厨房を出ようとした。
「ああ、裏の通用口。開店すぐだから手短にな」
「どうも、すみません」
男としては華奢な瀬楽だったので、ビールケースや什器が散在する狭い廊下を器用にすり抜けて通用口に向かった。
「……なんだ、真央じゃないか」
「ちょっと、話しいいかな?」
「開店前だ、手短にな」
真央が、ちょっとたじろいだような顔をした。瀬楽は優しく言いなおした。
「アパートの権敷やら、最低の家財は買わなきゃな。真央とオレのためなんだ。だから手短に」
「あ……実は、その話なんだけど」
瀬楽は嫌な予感がした。
元々勘と言うか気配りの利くたちで、最初の一言を聞いただけで、たいてい人の本音はわかってしまう。
しかし、次の展開は瀬楽の予想を超えていた。
路地の向こうから、瀬楽とはまったく正反対の体育会系の男がやってきた。
「俊一、あなたはあとで……」
「いや、やっぱ、これは、オレから話しておくのが筋だ」
この二言で、瀬楽は真央の心が離れ、雄太という体育会系に移ったことを理解した。
「真央を自分に譲ってほしい」
俊一という男は、話しの核心だけを言って、あとは、ただ頭を下げた。真央は、いつに変わらぬお喋りで、する必要もない俊一の話を補足した。
「幸せに……」
主語も目的語もない一言を言うのが精一杯だった。半年かけて作った生き甲斐と人生の目標は一分足らずで崩れてしまった。
いつものように、バイトの仕事はこなした。だれも瀬楽に起こった人生の大問題に気づく者はいなかった。
ただ、看板近くにやってきたローゼンのママだけは気づいた。
「瀬楽ちゃん、看板になったら、うちのお店においでよ。このままだと、あんたダメになっちゃうよ」
具体性はないがママの言葉は核心をついていた。瀬楽は真央との生活のためだけに大学も辞め、バイト一筋にやってきたのだ。
ママの言う通り、このままではワンルームのアパートまでも帰れないかもしれない。
「これが……ボク?」
ローゼンのママは、店のメイクルームで、瀬楽を着替えさせメイクをしてくれた。
鏡の中には、清楚なボブの女の子がいた。
「よし、思ったより上出来。あたしに付いてきて」
ママは、まだ開いているメイデンに連れていった。
メイデンはママが、その道の極みを作るために半ば趣味でやっているニューハーフの店である。顧客は会員制で少ないが、真っ当で目の肥えた客とスタッフが揃っている。
ママは、臆面も無く「あたしの娘。やだ、余計なことは聞かないでね」と、店の一角に座らせておいた。娘であることは誰も信じなかったが、素人の本物の女の子であると思われた。
「どう、しばらく別の人間になって、クールダウンしてみない」
瀬楽がセラになった瞬間であった。