お正月にいただいたお休みで、風邪ぎみであったこともありますが、思い切りだらだらな生活をしてみて、60年生きて少しは成長したかなぁ~とひそかに誇っていた自信も、見事に見失いました。
寂しいとかそういうことではなくて、独りってこういうこと?と新たな、そして自分に対してとても情けない発見が多々ありました。
妻という役割が今まで「ちゃんとした、努力家の私」のかなりの部分を支えてくれていたのだと気づきます。
当店のホームーページで恒例になりました「今月の言葉」
1月は熊谷守一の言葉を選ばせていただきました。
公開させていただく前日までは
「こうして正月を迎えてみると、生きていたいと思いますね。
わたしってしみったれだから幾つになっても命は惜しいです。命が惜しくなくなったら見事だけれども、残念だが惜しい。」
という言葉を選ばせていただいていたのですが、何かピン!とこず、直前に変更してしまいました。
なぜピン!とこなかったかはよくわかりません。
ただ、今日になって削除した守一の言葉には続きがあることがわかりました。
「長く生きていたいです。どういうわけなんですかね。生きていたってたいしたこと無いでしょう。ここに座ってこうしているだけですから」
それを知って、なんだかとてもホッとしました。
これならピン!とくると思えました。
守一は「自分は何もしなかったから長生きが出来た」と書いていますね。
そして、それが自分の分際だと言っています。
守一の言葉に触れていると、おもむろにこの下村観山のお軸を出してみたくなりました。
作品を開かなくても持っているだけで幸せ!そう思えてきた作品です。
この作品を守一風に言うと「見事な作品」「残念でない作品」ということになると思うのですね。
下村観山寄りに生きていきたいと思ってきて、今ふと立ち止まらざるを得ない状況、時間を持ってみますと、もちろん、観山の作品の美しさにはうっとりといたしますが、これからは少し守一寄り?例えば富田渓仙よりも富岡鉄斎寄り?に自分が進んでいくのではないかというような予感を感じています。
絵画に自分の分際を教えてもらうという事もあると思うのです。
ただ、どのような方向に向かうにしても、きっと動けるようになるまで動かない。頑固な私には変わりありません。
昨日、今日と早速お客様がご連絡をくださったり、ご来店くださり、私はそうだらだら過ごさずに済んでいます。年末年始をだらだら過ごせたことに感謝して、そこにも気づきがあったことを大いに喜んで、これからは短い冬の一日一日を大切に過ごしたいと思っています。