ブログの更新が遅くなりました。
おかげさまで展覧会も、今日と明日、残すところ2日となりました。
当店としては予想外に多くのお客様にご来店をいただき、大変光栄に思っておりますが、「一昨日のご来店のお客様を、できることならその前日と昨日に分けてお迎えしたかった」と思えるようなことが多々あり、せっかくご予約をいただきご来店いただきましたお客様とゆっくりお話しさせていただくこともできず、そのままほかのお客様にお席をお譲りいただくことになってしまうこともありました。展覧会中とはいえ大変申し訳なく、お心づかい、ご協力をいただきましたお客様にあらためてお詫びとお礼を申し上げます。
ひとりで多くのお客様をお迎えした一日は、勿論ほかのことは何もせずお台所を片付けて店を後にするのがやっとですが、ご来客0という一日は、かといって私自身はどうやら臨戦態勢にはいっているようなので、事務仕事などには手をつけられず、画廊の中をうろうろと歩きまわるか、画集をぺらぺらとめくるしかすることはありません。
けれど、そうした時間は案外私には大切で、一種の「晴れの舞台」である展覧会を終えたあとに引き戻される現実生活、種々の問題に自分を向かわせる準備を整えるよい機会となります。
先日の記事で山口薫はあまり林檎を描いていないのではないか?と書かせていただきました。
けれど、柿ほどではないようですが、林檎を描いた作品も画集に多くみつけることができました。
しかも、とてもいい。
いまは色々な果物が出回り、しかも南国系の果物が多くなっていますので林檎は種類は増えても、全体の消費量は減っているのではないかと思います。
私は佐橋の病気を通し、食養について少し勉強をさせていただいたので林檎をとても身近な食材として意識しています。
西洋でも林檎は医者いらずといわれていますね。
秋、その目をもって、山積みされた旬の林檎を見ていると、ほかの果物に比べ実に色々な形があるのに驚きます。
そして、和林檎など、その形は素朴でとても神々しいと感じることがあります。
今回画集を開き驚いたのは、薫の描く林檎は、色、形すべてが違い、リズムも違い、「私以上に林檎を見ている」「なんて美しいのだろう」ということでした。
ものの哀れということを考えて仕方ない
これは東洋人であるためであろうか
なぐさめあうこと
今、心の中にあたたかいものがあればそれでよい 僕
薫の底の底の力。
一日たりとも、一瞬たりとも佐橋との別れのこの深い悲しみを無駄にしたくない。そう思い、今までを過ごして参りました。そしてあらためて薫の日本人としての心を今少し垣間見ることができているような気がします。
土壁の床の間に飾らせていただいた薫の柿もいままでにない落ち着きと美しさを放ってくれています。それにお気づきくださるお客様もいらっしゃいます。
再度、佐橋美術店の作品に出会っていただく、佐橋に出会っていただく、そして佐橋とのお別れをしていただく・・そういう展覧会にしたいと思い、「最後の無眼界展」とさせていただいています。
ご都合よろしければ、ぜひお立ち寄りいただきますようお願いいたします。
音楽には静寂が必要。静寂がなければ音楽も生まれないということを仰っていて、何か共通した感覚があるのかと思いました。
そういえば、楽譜には休符というものがありますが、これは「休み」ではなく、音の無い美しい瞬間と捉えることもできますね。
静寂、間、余白、いろいろな言葉に言い換えられそうな感覚、美意識が特に東洋の思想、芸術には感じられますね。薫の言葉にいくつかのヒントをもらっています。またご紹介させていただけたらと思います。