みなさまはどのようなご感想をお持ちになられたでしょうか?
明治、大正時代の芸術において、詩という文学と絵画という美術は大変な接近を果たしました。
それまで、物語、漢詩、俳句、和歌などのジャンルしか持たなかった日本の文学界は西洋化とともに詩に出会い、多くの表現を生み出しました。そして、その表現はそれまでの日本の画壇が大切にしてきた題材や構図などの古典主義的な型を破ろうとする若い画家たちの内面を大いに刺激したのです。
青木繁、竹久夢二、長谷川利行、古賀春江、村山槐多、三岸好太郎、長谷川潾二郎、山口薫。。。
近代的な自我の自覚と世界のシュルレアリスムという流れの中で、日本において一挙に詩と美術の動向が交差する稀な時代が続き、それは、私どもの大好きな「近代日本絵画」の一つの大きな個性となりました。
どこか青臭く、大変繊細な心。つまり、過剰な自意識と感傷的な敗北感。
日本の詩人も、画家も共にこうした内面を抱えながら、近代人としての芸術のあり方を模索したのです。
さて、そこで詩と絵との境界線をどこに見るか?
詩人の描く絵と画家の描く絵。画家の発する言葉と詩人の発する言葉。
その違いは、やはり単純に視覚的であるかそうでないか?という分類に頼ることができるように思います。
詩人の描く絵は、確かに上手ではあるけれど、絵、単体としては芸術として独立しきれていないように感じられるのです。
又画家が詩に表現する言葉は、それ以上の新しい世界を生まず、やはりこちらも芸術としての独立を果たしていません。
簡単に言えば、松本竣介と山口薫は詩より圧倒的に絵の方がよく、
宮沢賢治とまどみちおは絵より、圧倒的に詩の方が良いということです。
また詩と絵画というテーマに最も似合うと思われる村山槐多は、大変青臭く、、
詩と絵が発するエネルギーを同等の様に感じさせながら、それでもやはり私達は彼の絵に軍配をあげ、そこに、確かな骨格、人間の存在を認めているように思います。
接近はしても、永遠に交わることのない芸術。だからこそ、その二つの芸術が接近するとき、ある微妙な「ニュアンス」が生まれる。
特に西洋化という大波を一挙に引き受けた日本において、そのニュアンスは全く「日本的であった」と言えるように思えてなりません。近代日本において、絵は詩に日本人らしい内省的な色を与え、詩は絵に日本的な時間を与えたと言えるような気がします。
そして、徐々に日本近代芸術は
絵の中に感じる詩は、絵画の中だけにある詩であり、
詩の中に見る絵は、詩の中だけに再現される絵である
というを認識を結実させていったのではないでしょうか?
絵画の中に感じる詩は、文学の詩を読むときに感じる感動とは別物であって、
心の違う場所、体の違う場所に沈んでいきます。
絵画の絵画性・・
絵画の詩=抒情性はやはり、絵画を描く画家たちの手によって、画面に深く刻まれていくものだろうと思います。
具象と抽象の境界を超えて、それは変わらないものだと思っていましたが、どうやら少しその抒情性が危ういことになってきているような気もします。
詩や言葉に頼らず、絵画の絵画性をとことん追求した古径や華岳、梅原や金山の作品たちは果たしてこれからどのように評価されていくのでしょうか?期待と諦めを持って、日本の絵画のこれからをみつめていきたいと思っています。
最後に大好きな詩人、まどみちおの詩をここに掲載させていただきます。
「くまさん」
はるがきて めがさめて
くまさん ぼんやり かんがえた
さいているのは たんぽぽだが
ええと ぼくは
だれだっけ だれだっけ
はるがきて めがさめて
くまさん ぼんやり かわに きた
みずに うつった いいかお みて
そうだ ぼくは くまだった
よかったな
くまさん ぼんやり かんがえた
さいているのは たんぽぽだが
ええと ぼくは
だれだっけ だれだっけ
はるがきて めがさめて
くまさん ぼんやり かわに きた
みずに うつった いいかお みて
そうだ ぼくは くまだった
よかったな
近代日本絵画をわたくしの身の丈で味わえる時代に生まれてよかった。
この時代の美術品を共に愛してくださるお仲間に出会えてよかった。
素直にそう思えます。
この前、メナード美術館に行って色々良い作品を拝見できたのですが、ふとこれらの美術品は近代のそれであって現代ではないのだということに気づきました。
そこで少し考えてみました。現代芸術と近代芸術の差(違い)とは何か?
何事にも例外があるにせよ、やはりコンセプチュアルという言葉は現代アートとは切り離せないでしょう。つまり社会(テーマは環境やジェンダーなど多岐に渡りますが)に対するメッセージ性がないと相手にされないという時代性。そして目新しさ。新鮮さ。そしてその切り口を第一に評価する資本は、そうしたものを強欲に飲み込んでいきます。
今ではそこにデジタルテクノロジーが介入してきているので、一部絵とか彫刻の範囲を超越してきていますが、それが現状です。
つまり現在芸術と認知されていないものが、周回遅れで将来芸術と認知される、そんなことがいくらでも起きうるということです。
コンセプチュアルアートの生みの親は、マルセル・デュシャンと言われています。
なるほど彼は早々に絵を描くことを放棄して、小便器にサインを入れて芸術品として出品することを「思いつき」ました。そしてそれから100年以上が経っています。
そして現代評価されているものは、あの手この手で姿かたちを変えながら、しかしこの流れの上にあるものが多いように思います。
つまり現代アートと言われるものはこれをずっと引きずっているわけです。
一方近代アートは、こちらのブログでも紹介された通り
【近代的な自我の自覚と世界のシュルレアリスムという流れの中で、日本において一挙に詩と美術の動向が交差する稀な時代が続き、それは、私どもの大好きな「近代日本絵画」の一つの大きな個性となりました。
どこか青臭く、大変繊細な心。つまり、過剰な自意識と感傷的な敗北感。】
つまり自我やエゴに重きを置く芸術です。確かにコンセプトは必要ありません。
メナード美術館には、マネやセザンヌなど印象派の錚々たる顔ぶれの作品があり、日本画では大観や靫彦、洋画では梅原や安井、坂本などが見れます。
個人的にはそうしたものを見て満足できます。「良いものを見れたと。」
例えば裸婦が数点あります。
岡田三郎助、小出楢重、梅原龍三郎のそれは当然個性が違います。各作家の対象を捉える眼差しの違いがその差となって現れてきます。
なぜ裸婦を描くか?裸婦や風景、静物を描くという行為はアカデミズムの賜物であって、コンセプトではありません。どのような裸婦を描くかが問題になるわけです。観る側はその中の何かに反応する。これがシンパシーで、好き嫌いの元になるわけです。例えば梅原が好きならば、梅原の持つ何かしらに共感していることになる。その反対も然りなわけです。
詩は、個の内面からしか生まれません。
一方コンセプトは頭でひねり出すものです。そのうち人工知能のほうが、優れたコンセプトを生み出すかもしれません。
佐橋さんの指摘する、叙情性の危うさはこうしたところから来ているのかもしれません。
日本近代芸術における詩と絵画の関連性、その認識に関する記述に大きく共感しました。
最後に絵画の絵画性を追求した作家たちの将来の評価に関する懸念ですが、これは確かに難しい問題です。
ただノスタルジーを求める人は一定数いるはずです。そこに共感がある限り、何かしらの形で作品は残るのではないでしょうか。
素敵な作品をこれからも紹介し続けてください。応援しております。
長文、駄文失礼いたしました。
コメントをありがとうございます😊
この春、コロナ問題について書かせて頂いた時もそうでしたが、記事を書かせて頂いた後に自己嫌悪というか何とも不安定になる気持ちを、今回もKさんのコメントに救って頂きました。